幸せな人とメタ認知
そうだよね。一方でさ、世の中には、自分の正しいと思っている主義とか、これっていう考え方が、多分、その世の中とか、この社会システムにすごく合致しててさ、
うまくいく場合もあるじゃん。で、すごい登り詰めたりとか、ストレスも何も感じてない場合ってさ、メタ認知する必要はないのかなと思ったんだよね、その人にとってみれば。
そうだね。それで幸せなんだったら、メタ認知する必要ないんじゃないかなと思った。
そうそうそうそう。そうなんじゃないかなと思って。なんか資本主義の世界でも、もううまくさ、自分の持った能力と、家とかその国とか社会システムが、もうがっちりマッチしちゃって、ぐわーっと上まで登り詰めて、なんか時代の寵児になったってするじゃん。
で、まあもちろん負の側面もあるとは思うんだけど、うまくいってる限りは、その人はあえてメタ認知したりとかして、それを緩める必要はないのかなとか、それで幸せだったら、うまくいってるんだったら、そういう人はメタ認知する必要ないのかなと思った。
そうだね。幸せならそうだと思うんだが、幸せ、本当に幸せなのかっていう問いは残るかなと思っていて、周りから見ても本当にその人は幸せなのかっていうのもあるし、
その人自身も、なんだろう、自分はある一つの軸でうまくいっているから幸せだと思い込んでいるが、その外にもっと大きい幸せが待ってるかもしれないのに気づいていない可能性もあるなと思ったんだけど、でも別にそこを認知できないんだったら別にいいのかな。
そうね。明らかに認知できるのにできていないだとすると、例えば時間の問題で本当にあと1年したらすぐ気づくことだったりすると、認知できた方がいいかもしれないけど、
本当に死ぬ直前まで気づけないよねみたいな、もしくはそういう解釈をしたら確かに幸せじゃないとかそういうレベルだったらそこはもう気づかなくてもいいのかなと思うけど。
そうだね。死ぬまで気づかないんだったら別に気づかなくていいよね。
うんうんうん。
いやでもそんな人いないと思うけどな。
これってでも今の社会がいっぱいこう変わってるからかな、そう思うのは。それが変わるのが普通だと思ってるから、
いやその今まで考えてきた幸せってそんなに長続きしないでしょうとか、そんな一通り、一面取っただけで幸せかどうかなんて判断できないでしょうっていうのが今だけど、
もっと安定して固定的な時代だったら、気づかずに死ぬみたいなのは十分あり得たみたいな、もしくは人生がもっと短ければね。
あり得たかもね。
なんか今、現代から見るとさ、例えば千年前の人とかさ、スマホもないしさ、インターネットもないしさ、今のおいしい料理とかもないからさ、
多分あんま幸せじゃなさそうに見えるけど、多分当時の人は別に幸せだったんだと思うんだよね。
そうだよね、やっぱり今の世の中簡単に相対化できちゃうんだ。だから、相対化できちゃうのと時代が変化してるから、
自分たちが知ってることの外のデータポイントが簡単に入ってきちゃうってことかな。
それもあるし、何だろうね。
例えば千年前の人はさ、我々が今こういう生活してるなんて全然知らないじゃない?知らなかったじゃない?
だから別にそれを知らなくても、幸せに生きて、幸せな人は幸せに生きて死んだと思うんだよね。
そうだね。
だから、自分の枠組みで満足できるんだったら、それでいいような気もしちゃったな、今。
そうだね。その人がそうであればっていうか、それで気づかずに一生全うできるんだったらってことだよね。
それが今の社会だと、この時代においては難しいなってことだよね。
そうかそうか、そういうことね。
そういう時代だってことか。メタ認知が大事になってくるの。
だから深井さんそう言ってんのね。これからメタ認知が大事だみたいな。
そうだね。
そういうことか。
そこに今気づくっていうね。
改めて認識するね。
昔は別にそんな大事じゃなかったってことかな。
そうだね。そうだよね、きっと。
みんなが時代に合致した人じゃないけど、それぞれ適材適所、自分の役割とか決められたものがあって、
その中で周りをあまり知らずに人生を全うするみたいなケースが多かったと。
悟りとメタ認知
今さ、歴史の話をしたからちょっとついでに言うんだけどさ、
究極のメタ認知ってなんだと思う?
なんだその究極って。どういう方向に究極にしてたのかわかんないんだけど。
じゃ歴史上、究極のメタ認知を達成した人って誰だと思う?
歴史上、究極のメタ認知を達成した人。
え?なんだろうね。それってでも時間軸じゃないよね。だって歴史上だったら。
時間軸?
だって時間軸でさ、過去2000年前の人がさ、この未来までも俯瞰することなんてできないじゃん。
まあそうだね。まあでも知ってたのかもしれんけど。
精神世界上で?なんか分かんない。ブッダとかいたいの?
あ、そうそうブッダブッダ。
なんか頭の中で悟りを開いたとかいうことを。
究極のメタ認知っていうのは悟りだと思うんだよね。
で、悟りってさ、どういう状態のことを言うかわかるかな?
わかんない。
わかんない?
究極のメタ認知をした状態?
そう、究極のメタ認知をした状態を悟りだとして、その悟りって一体どういう状態なんだろうっていうのを、
僕が聞いた話によるとね、世界のすべてのものが同じ重要度で見えることが悟りらしいのよ。
人間ってさ、その自我があるじゃない?
で、自我って何かって言うと、重要度の偏りが自我らしいんだよね。
僕にとっては、例えば僕の自分の家族とかが大事ですと。
地球の反対側にいるブラジルとかに住んでる名前も知らない誰かさんより、
自分の今同じ家に住んでる家族のほうが大事ですと。
その重要度ってみんな人それぞれ違うじゃない?
それを集積したものが自我であるみたいな。
で、悟りって何かって言うと、その重要度が全部フラットになってる状態。
だから、
それってなんかガンジーが提唱してたっていうかやってたことと同じじゃない?
ガンジーが提唱してたっていうかやってたことと同じってことでいいのか?
ガンジーそんなことやってたの?
相手と自分は同じだから、
あなたにとって良くないことは私にとっても良くないし、
私にとって良くないこともあなたに良くないっていう論法で、
イギリスが攻めてくるとか支配するのをやめさせるって暴力をつかずにできたと。
一方、その平等みたいな概念を貫くがゆえに、
息子に対しても平等なわけだ。他の人と比べて。
特別扱いしないから息子はむしろ、
もっと特別扱いを期待してるわけじゃん。息子として。
でもすごく冷たく見えたと。
そのコントラストが僕の中ではかなり印象に残ってるんだけど、
なんかそれに近いのかなと。
そうかもしれない。
だからその仏教とかヒンドゥ教の多分、流れを組んでるインドのガンジーが多分そういう考え方をしていたっていうのは、
多分影響が多分あるんだろうね。
なるほどね。
でさ、この世の全てのものが同じ重要度で見えるとさ、
自分の家族と道端に落ちてる石ころが同じ重要度になるのよ。
それってあんまりよろしくないっていうか、人間じゃなくなる感じがするんだよね。
今まさに思ったのがさ、コンピューターも超悟り、メタ認知してる状態に近いのかなと思って。
だって0と1で世の中を全部見てるわけだよ。
そうだね。コンピューターもまあまあ悟ってるわけじゃないけど、
まあでもコンピューターみたいな人間ってことだよね。悟ってる人間。
だと思うんだよね。今まさにイメージしたのはそんな感じ?
そうそうそうそう。
相対化と無気力
だからメタ認知のデメリットっていうのはなんかそういうとこにもあるのかなと。
うんうんうん。いやそうだと思うんだよね。
でもメタ認知をして相対化すると、なんか自分が冷たく見えたりとかする可能性があるってこと?
うん。すべてが同じ重要度だから、なんだろう、これが正しいんだとか、これをやるべきだとか、これを守るんだっていうのがなくなるってことなんだよね。
そうだよね。
それで思い出したのがさ、やっぱりそういう意味でさ、なんかどっちかというと無気力というかどうでもいいやみたいな感じでもなるような気がしたんだよね。
だってどっちも重要じゃないとか、同じくらい重要だって言い方もできるけど、じゃああんまり僕は意見ありませんみたいな感じになったり、
なんかこう自分のアクションとか意見が世の中に与える影響みたいなのを、もうなんかいろんなものをさ無効化してるというか無意味なって言ってるようにも聞こえなくもないんだよね。
もしくは人に対してもあなたがやってることと、あなたがすごく重要視してることは意味がないと言っているようにも聞こえる。
たぶん昔そのお釈迦様がいた頃のインドは、そのたぶん相当厳しい環境だったと思うんだよね。
たぶん人とかもすぐ死ぬし、かなり苦しい世界だったと思うんだよね。
そういうところで生きていくには、なんかもう本当にそういうふうに全てを同じ重要度っていうのかな。
例えば自分の家族が死んだとしても、それに心を動かされないっていうの。
社会の要請とニーズ
その石ころ、道端の石ころを見るような感じで、見ないと、たぶんとてもじゃないとやっていけなかった。
だからそういう仏教とかそういう教えが生まれたんだろうなと。
そういう歴史的な背景とか社会情勢があったから、やっぱりそれは人にとって役に立ったわけだよね。苦しい。
あと重要なものを失うっていうのはつらいと。でもそこをちょっと中和してくれる考え方ってことだよね。
そうだね。
なるほど。じゃあそういうやっぱり社会情勢じゃないんだったら、そういう要請というかニーズは少ないのかな?
そうね。だから仏教の考え方は、たぶん今の日本にはそのままはたぶん当てはまらないというか、
それでたぶん確か苦しいこととかつらいことを軽減できるみたいな効果はたぶん期待できるんだけど、
それだけだとさっき言ったみたいに無気力になるとかさ、もうどうでもいいよみたいな。
大事なものなんかもうなんもないからもう成すがままで、諸行無常であるがままになればいいじゃんみたいなこうやけっぱちっていうかさ。
そうだよね。
なげやりな感じになりそうなんだから。だからもう一個ね、別の何か概念がそこに必要なはずなのよね。
そうだよね。そうそうそうそう。まさにだから功罪の罪の方に近いものを感じたよ今。メタ認知の。
今ちょうどさ、個人から社会の方に何か自然と目が向いていったような気がするんだけどさ。
いやまさにその、自分はさ確かにメタ認知はいいと思ってたり、それの罪の部分じゃないけどちょっと認識したような気はするんだけどさ、
それをじゃあさ、周りに対しては進めるかどうかとか、日本とか世界がメタ認知する、
もしくはもうちょっとより多くの人がメタ認知をした方がいいかどうか、みたいなちょっと輪を広げようとすると、それについてはどうだろうね。
深井さんたちはやっぱりメタ認知する人が増えた方がいいっていうスタンスで、コテンやってたりデータベースを作ってたりすると思うんだけど、
僕はそれでもやっぱメタ認知はした方がいいと思ってて、
例えばさ、自分の奥さんとさ喧嘩するときとか、喧嘩してその、論理的に考えたら自分が正しいだと思うんだけど、
その論理以外の評価軸で向こうは評価してるわけよね。
そうだよね。
例えば感情とかさ。
で、そこをメタ認知できてないと、論理的に俺が正しいんだから俺が正しいんだっていう、そういう考え方が抜け出せない気がするんだよね。
結構そういうのにぶつかるんだよね、うち。
で、俺は論理的に考えて俺が正しいからっていうふうに思っていたんだけど、そこをメタ認知をして、論理とは別の評価軸、価値、価値じゃねえや、感情っていう評価軸に気づいた。
気づくことができて、そうするとちょっと考え方が変わってくるというか。
なんか譲歩できる、余裕が出てくるというか。
本当にそうだよね。だから僕もそれはまさにさ、資本主義とか会社とかで良しとされてるような論理的なっていうのが、
例えば家族とか家庭では正しいと限らないみたいな、っていうのは一つ、このメタ認知を通して学んだことだし、本当に身近な利益だとは思うんだよね。
だからメタ認知するとやっぱり良いと僕は思ってるんだよね。そういう身近な例もそうだし、もっと大きい面でも行きやすくなるというか。
だからメタ認知はした方がいいなと思っていて、でさっきのその無気力みたいになっちゃうのは、たぶんね、それってメタ認知できてないからだと思うんだよね。
もうちょっと高次のメタ認知ができてれば、たぶん無気力にならないはず。
なるほど。どういうことだろう、そこには何があるのか。
メタ認知の功罪をちゃんと理解して、功と罪が使い分けられるようになると、功だけを採用して、罪の方は極力効果を最小化するっていうことができるはず。
もっとメタ認知すれば。
なるほどね。
と僕は思った。
なんかそれで無気力になっちゃうのはたぶん、やっぱり見えてない気がするんだよな。
何かが。
何かがね。
だってブッダみたいになれないもん。普通の人が。
ブッダみたいになれないのにブッダみたいになろうとしてるところがまず何か。
メタ認知できてない。
メタ認知できてない、そうそう。俺はブッダだみたいな。俺はもう悟ってるんだって思ってるのが、もうメタ認知できてないよねっていう。
なるほどね。
気がするかな。
でもさ、さっきの喧嘩の話に戻るんだけどさ。
相手の評価軸がさ、感情重視するっていう軸だって言ったじゃん。
でもその相手の軸がさ、こっちも感情的になって喧嘩をして言いたいことを言い合うとか、分かり合った感じがするみたいな。
っていうことに軸を置いているとするとさ、メタ認知できちゃうことによってそれが達成できないってことがあるのかなと思ったんだよね。
え、どういうことどういうこと。
いやあのね、確か残酷すぎる人間法則っていう、何だっけ、エリックパーカーだっけな。
子供との関わり方
なんかその人が書いた本で、なんかやっぱ夫婦関係がうまくいかなくなる時の傾向として、
なんかこうだんだん相手との距離が遠くなっていて、喧嘩しなくなるとかっていうのがあったりするのね。
で、その彼の言っていることとしては、人間は相手が言っていることを理解できると思い込みすぎていると。
でもことごとく実験を通して、人間は相手のことが読めないと。
嘘も見抜けないし、相手が思っていることも全く全然予想できていませんと。
とか、極悪人とかどうかを全然区別できませんと。話していることとか表情とかから。
で、じゃあ夫婦関係がうまくいくにはどうしたらいいかというと、やっぱりもう喧嘩をして、思いっきり言いたいことを言ったりとかして、
分かり合う作業を、そういうことをしようとしないとダメですよみたいなことを言ってたんだよね。
でもメタ認知しているとさ、喧嘩しないっていうこととかはない。
それはない。そこは別に独立なのかな。
メタ認知をしつつも、感情的になって喧嘩をするとか、それはできる。
え?メタ認知できていたら、感情的にぶつかる必要ないんじゃない?
そうそう。で、そうするとさっき言った、
相手が例えば感情的にぶつかることを良いとするという軸だとすると、
メタ認知を持っている人はその軸で測られたときに、この人はいつも感情的にならないみたいな。
だからメタ認知できている人は、この相手はいつも感情で来るんだなっていうことが理解できていれば、
じゃあ俺もそれに合わせるかっていうオプションが取れるんじゃないかなって思ったんだけど。
そこでオプションが取れないってことはやっぱりメタ認知できてないんじゃない?
そっか。じゃあ結局さ、何かができていないとメタ認知が足りないみたいなことで全て一蹴されるってことか。
うーん、まあ…。
包括できる。さらにその上のメタ認知があって、高次のメタ認知ができていないってことだよっていう。
ちょっと必殺技すぎるね。
うーん、なんだろうね。まあでもそうだね。
いや面白いね。まあでもそういう夫婦喧嘩とか関係にも役に立つんじゃないってことだよね。
だから他の人もぜひやれるといいんじゃないかと。
そうだね、やれるといいと思うけど。
あとは今、まあ夫婦関係でしたけどさ、子供に対してもそれは有効なのかな。
なんかさ、子供って遊ぶときに相手が本気じゃないと見抜いてくると。
やっぱこっちも同じ目線に立って一緒に遊ばないとみたいなのが、個人的には僕は思ってるんだよね。
遊ぶなら本気でこっちもやるとか。
まあまだ小さすぎてあんまりスポーツとかボードゲームとかできないけど、
あんまり手加減しすぎたりしてたらそれは見抜かれるんじゃないかなとか。
ある程度本気でやる方が向こうも乗るんじゃないかと。
これもメタ認知が足りないってことになるかもしれないけど、
メタ認知をしてると、どうだろう、その相手と同じ目線に合わせて本気でやるっていうことが、
一瞬できないのかなと思ったんだけど、でも本当の意味でメタ認知できてたら、
じゃあ相手が本気で来ることを求めてるんだとしたら、自分も本気でやるかとなるってことかな。
そうじゃないかな。
相手その子供が本気で来てほしいっていうのをちゃんと認知できてるっていうのかな。
ただそういう行動を取る。
ちょっと今子供の話が出てさ、メタ認知っていうキーワードで思い出したのがさ、
自分が子供を産んでよかったなって思うことの一つに、
自分が子供を見てさ、いろいろ愛情をかけたりさ、いろいろ手間をいろいろやってあげたりとかするじゃない。
それをするとさ、自分が子供の頃さ、親とかさ、周りの人からさ、
そういうふうにされてたんだっていうことを認知するんだよね。
あーそうだね、するね。
だからそれが一つ、子供を産んでよかったことの一つかなって思ってる。
子供を俯瞰してみることによって、自分がどう扱われてきたのかみたいなのを俯瞰してみえるみたいな。
同じ構造で。
親の心とメタ認知
そこでやっぱなんだろう、自分が子供が生まれるまで自分の親とかにあんまり感謝とか、
あんまりそういう感情が出てたことなかったんだけど、自然と湧いてくるんだよな。
こういう気持ちだったのか、うちの親もみたいな。
そうなるよね。あるある。本当にありがたいなって思うし、
めっちゃ大変だっただろうな、こういう時、ああいう時って思い返すよね。
親の心を子知らず。
親になって初めてわかるっていう。
これはメタ認知なのかな?
メタ認知だと俺は思ってるんだけどな。違うかな?
でもこのメタ認知はさ、他のメタ認知とちょっと違った気がして、
歴史を学ぶことと旅行することによって空間と時間軸を行き来するのとは違うメタ認知だし、
子供がいないと発現されないメタ認知なのかどうかっていうさ。
なるほど。
なんだろう、それをさ、本を通してある人が子供を育てる時にこうして苦労してああしていうのを読んでさ、
そういう思想になるかっていうとちょっと弱いような気がするんだよね。
無理だと思うね。
なんだろうね、この違いは。自分がコアに持っている記憶と
親の視点っていうのが重なるからできるメタ認知なのかな?
だからやっぱその頭、情報だけ頭に摂取してもさ、多分悟れないのと一緒で、
身体的なさ、その感覚がないと多分わからないメタ認知なんじゃない?わからない悟りなんじゃない?これは。
なるほどね。
じゃあやっぱりそのメタ認知をさ、するとか、
まあよりなんだろうな、このレベルを上げるためにはそういう身体的な活動っていうのも必要だよねってことだよね。
そうじゃないかな、なんか若い頃の苦労は買ってでもしろって言うけど、
なんかそういうことなんじゃないかなと思うんだよね。苦労することによって身体的に、
例えば相手の気持ちがわかるとか、相手を思いやれるとか、かな?
そうだね。
でもそれってなんか狙ってできるものなのかな?なんか無限にこう活動ってあるじゃん。
いろんな人の気持ち、いろんなシチュエーションでのこの人がこんだけ苦労したとか大変だったとかって無限にあると思うんだけど。
いやそれはもう無理だよ。
無理だよね、無限に。
限りがあるから。
だからみんなそれぞれ違うわけよね、その頭の中というか、構成されてるさ、その頭の中っていうの。
だからこういうふうに話をして、その相手が持ってる世界をちょっとでも垣間見るというか。
そうやってこう、自分は直接経験はしてないけど、ちょっとわかるみたいな。
それの繋がりなんじゃないかな。
なるほどね。じゃあ、僕らが周りの人たちにできることっていうのはこうやって、経験を語るってちょっとずつ垣間見るみたいな。
それがメタ認知を広めることに繋がってるってことなのか。
そうじゃないかなと思うけどね。
例えば僕から見えるデータポイントをこうやって語ることによって、聞いてる人が自分のデータポイントとその僕のデータポイントを比較して、
身体的な活動とメタ認知
それでなんかこう、その人には見えてなかった世界みたいなのが見える可能性があるじゃない。
それによって一個こう、世界が広がるというか。
そうだね。
で、しおくんの話もそこに入ってくるとさらに広がるみたいな。
だからいろんな人の話がそこに加わってくると、それだけ世界が広がるし、なんか豊かなる感じがするな。
そうね。なるほどね。
なんか納得しちゃったかな。
え、なんかもっとこう、あれ、罪の方さ。
うん。
罪の方ちょっとやろうよ。
もっと攻めた方がいい。
やっぱバイアスがあるよね。
ちょっといいと思ってる前提で罪を無理やり話そうとしてる感じはあるけど。
次回へ続く。