2023-08-04 30:11

#6-3「限りなく囚われに近い自由」と「限りなく透明に近い自分」

正解を求めてしまう人々について考える(その3)です。


【今回の内容】

認知リソースを節約する人類/自分が囚われていることは認知できない/囚われないことに囚われる人/自分を定義すれば囚われない?/世界の定義と自分の定義はコインの裏表/仏陀「自分なんてない」/複数のスポットライトで自分を照らす/予定調和に囚われている/探索と利用のトレードオフ/人類は没頭したい/暇と退屈の倫理学/限りなく(正解)に近いラジオ


■暇と退屈の倫理学

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【パーソナリティ】

とよだ:富士通で働くビジネス哲学芸人。

ショーン:シリコンバレーのテック企業で働くデータの魔術師。


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※このラジオは、個人の見解に基づくものであり、所属組織を代表するものではございません。


#白米FM #哲学 #正解 #囚われ #仏教

サマリー

彼は自分の考えや生き方に囚われることの問題や、認知リソースを節約することによる弊害、自分を定義することの難しさについて考えています。彼は人間の自己の定義についても考えており、髪の毛を自分とするかどうかを含めて、自我の存在を定義する難しさを探求しています。ここ数年の間にWeb 2.0が登場し、ブログやSNSが人々の情報交換や交流の場となり、ネットコミュニティが盛り上がっています。このため、技術ブログを通じたマーケティングの有効性が高まっていく様子を彼は見ています。

自分を超える考え方
そうね。じゃあ、正解の話に戻ると、自分たちの考え方としては、でも、そこでね、一致しちゃったからちょっとつまんないというか、
あれ、それだけでいいんだっけ?みたいなのはあるけどね。その、他にも自分たちのこの枠を超えられないのかな?とか、あえて。
その、正しいものがあると思うんじゃなくて、正しくすると。
で、この考え方をすることによる弊害。
あー、そうね。
もしくは、なんでそれを採用しないのかと。もしこれが本当にみんなにとっていい考え方、生き方だとしたら、
まあ、自然とね、それが広まるかもしれないんだけど、そうならないのには何か理由があるのか。
まあ、やっぱり、さっき言ってたその認知リソースを節約してるんだろうなぁと思うんだけど。
認知リソースを節約。
なんかそこから抜け出したいんだよなぁ、僕は。
なんかその認知リソースをさ、節約するのは、例えば食料があんまり取れない時代とかさ、
いつ外敵に襲われるかもわからない時代とかだったらさ、それはとても大事な本能の仕組みだったかもしれんけど、
なんか、もうそういう感じではないからさ、
ちゃんとその自分に与えられているこの脳みそをさ、フル回転させて、
何だろう、より良い方向?認知リソースとかなんかそんなことを考えるんじゃなくて。
もっとリソースたっぷりあると。 そうそう、たっぷりも使って、フル回転させて、より良い方向に行くっていう方に、
人間は進化した方がいいなぁと僕は思ってるんだが、
それを全員に求めるのはまあ難しいなぁ。 そうね。
でもそういうのが考えられる人はやっぱ考えればいいんじゃないかな、それもさ、多様性っていうかさ、ハズレ値でさ。
そうだよね。ある意味これもなんかね、僕らが思う正解を誰かに押し付けてるかもしれないよね。
あーそうだねそうだね。 僕はそれが正解っていうか良いと思っているが、
もしかしたらね、歴史はそうは判断しないかもしれないよね。
もう、何だろう、相手を、認知リソースを節約して相手をなんかとりあえず叩くみたいな方がもしかしたら
正解というかその生き残る種として、生き残る方向としては正しく働く可能性も考えられるね。
だしやっぱりね、個人的にすごく毎日ストレスがあったりとかさ、生きるのに必死な状況の人だとかまあいたりすると、
とかそのね、DVを受けていてもう本当にこう、毎日生きるのを見るのに必死みたいな、現代社会でも。
そういう人にとっては、認知的リソースなんて避けないみたいなのが、なんかあるんじゃないかなとかね、ちょっと想像してしまって。
まあそこもやっぱケースバイケースなんだなぁ。
とかね、やっぱ子育てとか、
まあでも実はさ、今言ってて思ったのが、そのDVみたいに環境でどうしてもそうなっちゃってるのはしょうがないとしても、
えっと、
認知リソースを節約する弊害
1個もしかしたら救いがあるかもしれないと思ったのがさ、
例えば受験戦争みたいな、その囚われてるが故に認知リソースが少なくなっている場合ってさ、悪循環とかのケースってあり得るのかなと思ったんだよね。
みんなが、その子供を必死に良い幼稚園とか小学校、中学校に入れなきゃと思っている。
だからストレスがあって、さらにこう、認知リソースなんて割いてられない、忙しいみたいな習い事を入れさせたりとか、子供の勉強ミッションに見てやることが増えてとか、
だからそういう、もし悪循環に陥ってるとしたら、
1回その、立ち止まってみるみたいなことによって、
うん、認知リソースより、でもどうなんだろう、鶏と卵じゃないけど、どっからそれを始めればいいのかっていう感じかな。
囚われてる人って自分が囚われることを認知できないんだよね。
なるほど。
それどうやんだろうね。やっぱ哲学的思索を重ねていくしか、そこから抜け出ないんじゃないかなって思ったな。
なるほど。なんか囚われてるかどうかってどうやったらでもわかるんだろう。
それだから自分はわかんなくて、客観的に見て判断するしかないんじゃないかな、客観的に。
外側の誰かが、この人はこれに囚われてるなって、自分ではわかんないと思うんだよね。
そうだよね。
俺だってたぶん何らかに囚われてるはずなんだよ。
そうだよね。
でも自分でもわかんないもん。
そうだよね。うん。うん、なるほど。
なんか俺がこれに囚われてるんじゃないかみたいなのって、なんか思うとかある?
今の質問、一瞬、俺が正解に囚われてるんじゃないかって聞こえて、一瞬、なんか囚われてるかなーって思うってことね。
うんうんうんうん。
どうだろう。
パッと思いつかないんで、なんか割と自由に生きてるような感じはするけど、
うん。
その、周り、いや、だからたぶんその正解を求めない、どうだろうな。
なんかこじつけない感じもするけど、もし周りがその正解みたいに囚われてたとしたら、
うん。
そこにはいかないぞみたいなのに、何か。
囚われてると。
囚われてると言えんのかな?なんかそこに意思を感じるけどね。
そこの、そこにアンテナが敏感な気はする。
あー、そうだねそうだね。
囚われないようにしようっていう囚われてるってこと。
でもそうすると、やっぱり人間何かしらに囚われてるっていうのはそういうことかなと思って。
自分を定義する難しさ
あー、そうだね。
でもそれはそうだと思う。囚われないようにはしたいなって思っていて、
で、なんか囚われてるっぽいなーっていう風に見える人がいると、やっぱなんか気になっちゃう。
敏感になるんだよね。
気になって。
そこにアンテナがある。
抜け出させてあげたいなーって思っちゃうのがたぶんなんか傲慢なのかもしれん。
なーって思った。
抜け出させてあげたいなーって思っちゃうことに囚われてるのかもしれん。
それはでもやっぱ、なんだろう、原体験とかあるのかな?
自分が囚われてたけど抜けれたみたいな。
あー。
あー、でもあるかもしれないね。
あるかもしれないけどちょっとパッと具体的な何かは出てこないんだけど。
自分が一体何者なのかっていうことを、まず一旦自分で定義してみる?
っていうのが、なんか囚われないことには大事なのかもしれないなーってちょっと思ったかな今。
自分を定義するっていうのは、なんか言語化してみたことがあるの?
自分を。
自分ってこういう人間だよね。
こういうことに喜びを感じて、こういうことに怒りを感じるよねっていうことが、
ちゃんと自分で理解できていれば、
なんだろうな、それに合致しないものは、
拒否できるのかな。
あー。
いやでもそれできるの結構すごい、というか難しいんじゃないかなって思うんだけどね。
僕自身そんなにできてるような気がしないんだけど。
どうだろう。
難しくない?
なんかそれがやっぱできたらやっぱり楽だと思うんだけど、
自分ってこういう人間だよねってやっぱメタ認知だよね。
メタ認知ができているかどうかだよね、自分のことを。
うんうんうんうんうん。
そうだねそうだね。
でもそれをやるために、
本を読んだり、歴史の勉強したり、海外旅行に行ったり、
なんか全部やってるような気がするんだよな。
なるほどね。
定義するためにってこと?
自分をよく知るために。
自分を定義するためなのかな。
前回その仏教の話したじゃん。
お釈迦様が言ってるのって、自分なんてものはないっていう風に言ってるのね。
自分って何かっていうと、自分を定義するためには自分以外のもの、この世のすべてを定義して、
それ以外のものっていう風にしか自分自身は定義できないっていう風に言ってるんだよ。
それ以外のもの?
自分以外のものを定義して、最後に残ってるものっていうのかな。
それではもう定義できないものが自分みたいな感じ?
多分、僕の解釈だと。
だから世界を知るっていうことと自分を知るってことは裏表っていうか、イコールなんだよね。
世界を知っていった結果、何だろう、自分が最後に残ったものが自分みたいな感じ?
その最後に残ったってどういうことなんだろう。
僕の中では、今目の前に広がってる家の中のものがあって、机とかお菓子とか窓とか家とか天井とかあって、
それと名前をつけてラベル付けしていって、残ったものっていうと何だろう、その他みたいな感じだけど、
3次元で考えないのかな。
例えば今自分の体があるじゃない?
自分の体のどこからどこまでが自分なのかって、
例えば今自分がこれ今着てる服は自分なのかっていうと、
自分が今着てる服っていうのを定義して、それじゃないものが自分になるわけじゃない?
例えばじゃあ自分の体に今ついてる垢?
自分の体の表面についてる垢はこれは自分なのかっていうと、
それも自分じゃない、これは垢なんだっていうふうに定義していくと、
さらに自分っていうのが狭まっていくじゃない?
例えば頭に生えてる髪の毛がこれ自分なのかっていうと、
これも定義すると、自分なのか自分じゃないのか。
自己の定義
それでだんだんだんだん定義していって、もう定義できないと。
髪の毛を自分なのか自分じゃないのか定義するっていうのは、
じゃあ自分だっていう判断もできるってこと?
自分なんだっていうふうに判断したら、髪の毛は自分になるのかな?
境界をどこで切るかってことかな?多分。
なんかでも何かを自分かどうか判断しようとするっていう、
その何かを囲った時点で。
何だろうな、自分かどうかを判断するっていうか、何だろうな、世界を定義するっていうのかな。
世界を定義していった先に、ちょっと難しいな、これ説明できないな。
自分、つまり自分なんてものはないってことなんだよね。
自分っていうのはこれであるっていうふうに定義できるものじゃなくて、
自分を定義するためには自分以外のものを言って、
それ以外のものっていうふうにしか自分のことは定義できないっていうふうに言ってる。
何の話だっけこれ。
自分が定義できれば、
そんな囚われないんじゃないって話。
あーそうだそうだそうだね。
でも今の話聞いてると、何かそれ以外っていう定義の仕方で、
自分が分かった感じするのかなーとか思ったんだよね。
何かその他って無限ないような気がして、
自己の存在と世界の定義
何か考えるのを放棄したというか、よく分かんないその他って言って。
あーそうだね。だからお釈迦様的には自分なんてないって言ってんだよね。
で、僕がさっき自分が分かれ、自分のことが定義できれば、
そんなのに囚われないって言ってるのは、
確かに矛盾してるよね。逆のことを言ってるよな。
そうね。定義できてる方が比べやすいというか、
そうじゃないかどうかを判断しやすくはなると思うんだけど。
お釈迦様は定義して定義して定義していった結果、自分なんてないっていう風に言っていて、
僕が今最初に言ってたのが、自分を定義すれば世界に囚われなくなるって言ってるんだけど、
それは確かに矛盾してるよな。何なんだろうこれ。
自分が定義できてないのかもしれないなって思った。今自分が。
自分のことを?
うん。だから最初に言ったことと完全に逆になっちゃったんだけど。
いやでもそれも一つの発見じゃない?
やっぱり言葉にしてみると、分かってたような気がしたけど分かってなかったことに気づくみたいなのあるじゃん。
うん。あるね。
分かったフリをするというか、分かったつもりになるのが良くないみたいな。だから一段レベルが上がったというか、サイクルなのかもしれないけど。
ちょっと今のは自分の中で整理したくなったな。考え方を。
自分についてよく知るって難しいなと思うから、僕は結構人に聞くけどね。
自分がどういう風に見えてるかみたいなのを参考意見に、自分が何が得意そうかとか、
何が苦手そうかとか。
でもあんまりやっぱり、でもそれってやっぱり一面だなっていう感じもするから、
一人の人が言ってることがなんか全てこう的を射てるかって言うと、そうとも感じないし。
だからあくまで一つのインプットとして、
一個のスポットライトとして自分にこう当てると、あ、こっちに影ができるんだみたいな。
こういろんな角度から当てて、形が自分の形ってこんな形かなっていうのを、
その写った影の、しかも斜めに写影してる感じから元の自分を復元する作業みたいな感じ。
さっきのお釈迦様が言ってるのもそれに近いかもしれないな。
一つのことにやっぱりとらわれるんじゃなくて、
複数のものを、さっきスポットライトがいろんな方向から照らしてるって言ってたじゃない。
やっぱそれが正しいような気がしていて、
正解ってやっぱりスポットライトの一つでしかない気がするんだよな。
その一つのスポットライトでも全てを判断してしまう。
自分とはこうなんだとか、社会とはこうあるべきだとか。
その一つのスポットライトじゃなくて、その逆側とか、
例えば上からとか下からとかいろんな角度からスポットライトを当てることによって、
何ていうか、より良い方向に行けるような何か気がしたな。
でも今の聞いててさ、宮台さんの本の経営者ためのリーダー論でさ、
生活社会とシステム社会って二つに分けたときの、
昔の日本はもうちょっと生活社会みたいなのがあって、
もう親戚とか家族とか近所の人とかが家に集まったりして、
いろいろ親戚のおじさんがそこら辺にいて、
気軽に変な話というか、仕事もしてないようなふらふらしたおじさんがいるから、
気軽にこの話をできて、そこにガス抜きとかができるんだけど、
今核家族化してて、みんな同じ考え方してて、逃げ場がないと。
こういう生き方もあるんだみたいなのが見えなくなってきていて、
孤独感が強まっているみたいなのが描かれてた気がするんだよね。
それに言えば近いものがあるかなと思ってて、
今の日本の社会のスポットライトのあり方が一つしかなくて、
その他の見方があるんだってことすらやっぱり気づきにくい構造になってきたりしてて、
でも本当はいっぱいあるよねみたいなのがとよだくんの言いたいことなのかなと思った。
そうだね、そうだと思う。
だからこれまた複数の軸を持とうとかさ、
そうそう、予定調和感が出てきた。
結局全部そこに終着していくんだよね。
僕らはメタ認知を収斂していっちゃうんだけど、
だからメタ認知大事だよみたいになっちゃうんだけど。
僕らはやっぱりそのバイアスが今強いよね相当。
強い強い。
だって絶対その結論に行っちゃうもんね。
なんかやっぱり違和感を持ったり問題意識を持っているところの発端がそのメタ認知できてないからっていう、
僕らも一つのね、物差しを持って物事を見ようとしているのかもしれないけど。
いやーなんだろう、なんか本当にこれでいいのかなってちょっと不安になってきたな。
そうだね。
あれにもこれが続くとね。
なんかそれをすごい否定してくれる案というか否定してくれる考えを是非募集したいな。
だからさ。
我々を否定してください。
メタ認知の功罪でも話したけどやっぱりこれをやっていると、
罪の部分っていうのはあって没頭したりとか、
本当にがむしゃらに何も考えずに無の状態で体を動かし続けるとか、
頭を動かし続けるっていうのがなくなると思うんだよね。
で、なんかこの前の会が終わった後にさ、
ちょっと自分でもう一回話してみたいっていうのが、
もう一個さ、強化学習って言って、
人工知能がさ、囲碁とかを打ったりとかする時の見つかれてるアルゴリズムとかでもさ、
似たような問題があって、
さっきの世界線の話みたいな感じで何通りかのこう、
いくつかこう打つ手があると。
で、それを何通りか考えて、
ん?ちょっと待ってね。
どうしようかな。ちょっと別の例にしようかな。
いつもね、この専門的な用語を説明しようと思うと、
まあごつくね。
なんか探索をして、
あ、ちょっと、これやめよう。
なかったことにしよう。
いや、なんだけど、言いたかったこととしては、
その没頭するのとメタ認知するって、
トレードオフだったりバランスが大事だったりするのかなと思ってて、
前回はなんか実は8割ぐらいとか7割ぐらいメタ認知じゃないかなと思ったみたいなこと言ったけど、
それもそれで違うような気がしてきて、
自分はそんなにメタ認知できてないというか、
そんなに時間を割いてないような気がしてきたんだよね。
だから実は10%ぐらい。
うん、そうかも。
で、何が言いたかったかというと、
なんか世界線とか可能性を探す、探索する割合と、
これだって決めて、まっすぐに進む時間って、
永遠にあり得る可能性を探し続けることもできるし、
1個って決めて、それに突き進めることもできるじゃん、極端にあれば。
で、我々はその間を多分取ってて、ちょっと立ち止まっては選択肢を探してみて、
で、もう一回また選択肢を知ってって。
これ何が言いたかったんだっけ?
わかんない。
あ、そうそう。だから、メタ認知が大事だとは思うんだけど、
その割合は別にそんなに多くしなくても、
ある程度あればいいんじゃないかなっていうのを思った。
いやでもやっぱ没頭してる方がさ、
なんか幸せな気がするんだよね。
あのー、何?
さっきのインターネットで叩いちゃう人っていうのも、
多分没頭してるんだよね。
おお、そうなんだ。そういうこと?
いや、わかんないけど。反射的にさ、
逆かなと思ったんだ、一瞬。今言う瞬間まで、とよだくんが。
いや、没頭できてないから、なんか探してんのかなと思って、そういう叩ける。
没頭の探求
あ、そういうこと?そういうことか。あ、そっか。あ、そっちだね。
没頭を普段してないから、そういう、なんか没頭。
でもある意味、没頭できることを探してて、
それに没頭しようとしたのかな?
あ、そうだそうだそうだね。
本当に何かに没頭してる人は多分そんなことやらないんだよね。
そうそうそうそう。だと思う。
で、なんか没頭したいなって探していて、
で、なんか自分にビビッと反応してしまう投稿があって、
で、それに反論というか、
それに一言申したくなるっていうことに、
没頭?一時的に没頭して、で、書き込みして、で、満足して、
で、また次の没頭を探しに行くみたいな。
あー、そうか。その繰り返しなんだ。
だから本当に没頭できるものを探したいね。
退屈と暇の倫理学
でもさ、それまたちょっと今、今回終わりに近づいてきてると思うんだけど、時間的には。
ちょうどこの前進めてくれた退屈の、暇と退屈?
ヨカの倫理学。
暇と退屈の倫理学ね。國分功一郎さんの。
完全に同じテーマというか、
没頭できるか退屈と感じるか暇と感じるかみたいな話とも完全につながってくるよね、これ。
そうだね。
世の中、退屈だから、その退屈を紛らわす気晴らし?
として、
インターネットで人を叩くっていう。
有名人とかYouTuberに絡んで誹謗中傷するとか。
あー、それはでも。
なんかもっといい気晴らし考えようよ。
でも、僕らもさ、彼らがどういう背景を持ってるかって全然知らないから、正直ね、分かんないけどね。
その人たちも本当になんだろう、さっきの自分を正当化したいからなのか、
暇が本当にありすぎるからなのか、もしくは忙しすぎてストレスがすごいあるんだけど、
それを吐くためなのかとか、
結構知らないっていうか、本当にどういう人が後ろで何言ってるか、分かんないなーって思うけどね。
いやー、分かんねーな。
ちょっと、難しかったね、これで。
なんかだいぶ発散というか。
した。
雑談とか結論を求めてない一つの典型な感じはしたけど、
いろんなとこにあちこち行って。
正解、ちょっと正解っていうところからは離れた気がするね。
なんかもともとでも話したいことは話せた?
まあそうだね、話したいことは話したんだけど、
なんかこう、いいとこに着地した感はあんまないね。
まあでもそれが正解を求めていたのかもしれないね。
ああそうだね。
いいとこに着地させようっていう正解を求めていた。
だからいいんじゃないかな、求めなくて。
これでいいんじゃない?
そういうふうに、あれだよね。
起こったことを良いとするっていう方針だよね、今。
そうそうそうそう。
良い選択。
良いトークをするんじゃなくて、トークしたことを良いというふうにね。
良かったことにすると。
良かったことにするっていうポイントが大事だから。
良かったと思うよね。
良かったことにしよう。
なぜ正解を求めてしまうのかっていう問いで、
自分たちが正解を求めていたことをメタ認知して、
正解に縛られなくていいんだっていうことに到達したって、
これすごくない?このメタ的な構造。
正しく、正しいというか良かったことにできた。
これがメタ認知の力ですね。
またメタ認知推しになっちゃったんだけど。
我々のこの考えを打ち砕いてくれる考えみたいなのがすごい今欲しいんだよね。
そうだね。やっぱりかなり偏ってる気がする。
偏ってるよ。だから、別の何か入れたいね。
別の血っていうか、別の考えっていうか。
なんかエコーチェンバーって言うけど、この2人の間でやっぱり強化しちゃってる。
してるしてるしてる。エコーチェンバー状態ですね。
そこがちょっと次回の課題かな。
そうだね。
今回はこれで良かったんじゃないですかね。
今日はそんなところで。
ありがとうございました。
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