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グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは、ただいま9月12日月曜日の2時9分ですね。
今週末もなかなか盛りだくさんでして、昨日の土曜日は加藤さつき君と一緒にやるデッサン教室ですね。
これも3回目になりまして、2回3回と続けて受講されたことがいらっしゃるということで。
最初の1回目と2回目は、さつきが石膏像を持ってきましてね。
ラボルトというのと、あと2回目はブルータスもありましたね。
彼が曰く、これは顔ではありませんと。
多面体を持ってきてね、この多面体と同じ形なんですと。
これがその顔と思わずにね、この多面体のようにどういう構造になっているかをよくありのままに見て、そこを影と光で表現してくださいというね、そういうレクチャーを受けてから書き始めるんですけども。
3回目ということでね、その1回目2回目で石膏像を2回デッサンした方は、ぜひ肖像画に挑んでくださいって言ってね。
人数分の鏡を買ってきてくれまして、どちらを書いてもいいですよみたいなね、ちょっとチャレンジをしてくるわけですよ。
僕はなんとなくだけど、もう1回石膏像をやりたいなという感じがしてたんだけども。
というのもね、割と僕はね、どちらかというと基礎を着実にね、確実に身につけてから先に行きたいタイプなんですよ。
ロールプレイングゲームでも無茶はしないというね、経験値をじっくり上げて確実に勝てるっていう状態になって、やっぱりビビリなんですよね。
そういうところがありまして、俺またちょっと肖像が早いんじゃないかなみたいな、全然根拠はないんだけど。
ドキドキしたんですが、まあ末月がね、せっかく鏡を持ってきてくれたんで、よしじゃあ自分の顔行こうと書いてみたんですけどね。
やっぱ最初はね、面白いことに自分を盛ろうとするんですね。
なんかいい角度を、写真を撮ってもらうみたいに鏡で探しながらね、よしよしこの角度で行こうとか言ってね。
なるべくハンサムに描こうとする。
途中まで描いてみたんだけど、やっぱなんか僕の顔が出てこないんですよね。
で、あ、いかんいかんと。これはまた心象を作り出しているなと。
自分の顔に目を伏せてね、見ないようにして、もっといい顔を頭の中で作り出してそれを描こうとしてるんだろうみたいなことをね、何となく振り返ってみてですね。
よっしゃ現実をありのままに見るんだよねって言って僕の顔をじっくりと見たんですね。
もうその時解像度が多分100倍ぐらい、もっとかな1000倍ぐらいな感じで僕の顔をじっくりと見るとですね、まず左の目が右よりも下についてるんですね。
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漫画じゃないですけど、福原絵のようにちょっとずれてるんですよね。
それもちょっとというよりももう見れば確実にずれてるなっていうのがわかるぐらいずれてる。
ほら描かなダメよねこれはって言って、左目を少し下に描き、右目を少し上に描くと。
しかもあんま大きくないんですよね。
最初僕が描いてた目は結構大きかったんだけど、そんなこうつぶらな目はしていないんですよね。
一目瞼で結構細い目なんですよ。
ああ嫌だなとか思いながらこう描く。
鼻も少し曲がってるんですよね僕ね。
これはね、小学生の時に足だけでこうぶら下がってぐるぐるぐるぐる回転するっていう技を練習してた時に、
つるっと滑らして鼻から地面に激突したことがあるんですね。
ガンっつってね。
鼻の上を、僕はちょっと鼻が結構高い方でして、しかも出っ張ってるんですよね。
これはわし鼻って言うんだけど、ここの突起のところをずっこりすり向いてね。
しかも強打したんで、鼻血とかもガーって出て。
でなんか僕は自分で鼻が曲がったんじゃないかと思ってしまったんですね。
で鏡で見たら本当に曲がってたんですよ。
でもそれは前から曲がってたのか、この鉄棒で曲がったのかはよくわかんないですね。
前の鼻をよく見てなかったから。
でもなんか小学生ってそういう時、ちょっとナルシストになる時あるじゃないですか。
鼻が曲がってしまったんだよみたいなことをみんなに言いふらしてたら、
当時太陽に吠えろっていうね、石原雄二郎さんとか松田裕作さん、
証券とかが出ていたね。
もう本当に驚くほどの視聴率取りまくる番組がありまして、刑事ドラマね。
そこの警察署が七曲り署っていう警察署だったんですよ。
でそれが流行ってたんで、僕はしばらくの間鼻曲り署と呼ばれてね。
僕を見るたびにみんなが、はいこちら鼻曲り署って言ってバカにしたんですけど、
その曲がった鼻をこう書くというね。
ここでちょっとこっちにずれてるんだなみたいなね。
口も左が上に上がって斜めについてるんですよ。
そういうのをしくいちしくいち書いてね。
書いてる時はこんな顔なんだ、ずれてるなとか歪んでるなとか思って書いてたんですけど、
だんだん自分の顔が浮かび上がってきたんですね。
ちょっとびっくりしたよ自分でも。
スタッフの矢部聖子さんをちょっと見てみてって言ったらね、大笑いしましてね。
ゾンがいるとか言ってね。
似たんですよ。バッチリ似たんですよね。
似るって言うのも変だけど、僕を書いてるわけだからね。
なんか僕の顔が髪からボワッと浮かび上がってきて、
それを見る時は、そのバッと浮かび上がって見る時はさっきのディテールを見てなくて、
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全体をバッと見るわけですよね。
そしたらね、細かく書いてた時のコンプレックス的な嫌な気持ちがサッと消えてね、
いいじゃんとか思ったんですよね。
僕の顔がいいじゃんってよりは、この作品がね。
こうやって書くとなんとか形になるんだなみたいなね。
前回全ての人が特別みたいなことを喋ってたんですけど、
まあまあ俺の顔もその意味では特別だよねみたいな。
悪い感じじゃなかったですね。
やっぱりこうよく見てありのままを書くと、
なんだろうね、そう、やっぱりこう僕らは物事を細かく分析してみてる節があるんですよ。
自分についてね。この部分はこうだとかね。
ここがなんかイマイチだとかね。
顔もそうなんですよね。細かく細かく見るとなんか目がずれてるぞとかね、なるんだけど、
それをふわっと分析せずに、細かくせずに全体をバカッと見る時に、
初めてなんか、あ、俺はこれでいいのかなみたいな。
そんな感じに思えるっていうね。
そこまでの体験をこのデッサンの中で似顔絵じゃないな。
似顔絵って言っちゃいけない。肖像画を描きながら味わえた。
さつきに感謝ですね。
そして一夜明けて今日は昼にオンラインコミュニティのグループセッション。
これは相談会みたいなもんですね。月に一度やってるんですよ。
ただもう皆さん結構長い方が多いのでね。
3年、2年、1年とかね。そういう方が結構いらっしゃるので、
相談会といってもね、あまりこう悩みはパンパンパンパン出てくるわけじゃなくて、
なんかみんな聞きに来てるって感じなんですね。
他の方がどんな相談するのかなって。
そうすると誰も喋らない。あれ?あれ?みたいな感じで。
そうするとだいたいね、人のいい方がですね。
ちょっとその沈黙耐えきれないぞって言うんで、相談を粘出してくれるみたいなね。
そんなノリも少しあったりするんですが、楽しくそれをやってきて。
で、間に例のエフタさんとの執筆講座の赤い絵を挟んで、
夜に同じ執筆講座の相談会というのをね。
これはちょうど初めて10日ちょい経ったんで、3分の1ぐらいが終わりましたんでね。
1ヶ月ですから。
この間にまだ原稿を投稿されてない方に向けてね。
なんか書きにくいことがありますか?
筆が止まるなんか理由があれば相談になりますよみたいなね。
これ書き上げ塾でも毎月やってることなんですけども、
これをエフタさんとズームで夜にやりましょうということでね。
今日2時間ほどやってきました。
この2つのね、グループセッションと執筆教室の相談会の中で、
はっきりとこの言葉ではなかったんですけど、
私が共通してるなと思うテーマがありまして、
これがね、傷つくというキーワードだったんですね。
傷つく。
私たちが現代社会っていうんですかね、生きる上で、
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やっぱりこの傷つくこと、そして他の人を傷つけてしまうことっていうのは、
かなり大きな恐怖というかね、不安になっているんだなというそんな感じがしまして、
今日はこの傷つくということについてお話ししてみようかなと思うんですね。
まあね、これを傷つく原因っていうのは色々あるんでね。
一概には傷つくとはこういうことだっていうのはなかなか言えないんですが、
でもなんか私はちょっと共通点があるなという感じをね、
いろんな方のお話を伺いながら感じたんだけど、
これね、最初に傷ついたのっていつだっていう感じ。
多分ちっちゃい頃なんですよ。
子供の頃、どんな経験を通して最初に傷ついたんだっていうね。
これもまあまあ本当に挙げればきりがないほど個別にあるんだけど、
僕はなんかね、それのどこがいけないのって思ってた行動についてね、
周囲の人からお前おかしいよって言われるとき、
倉園くんそれおかしいよって言われるときね、
ここに最初の僕の傷つきがあったような気がするんですよね。
なんかに似てますよね。
例えばその、まあ滅多にないですけど、
その国の法律を知らずにそこに行って、つい違法なことをしてしまうとかね。
もうちょい身近なとこでは、土地とかね、その土地地域みたいなところ。
それから会社ですね。
それからあるコミュニティ、今でいうとオンラインコミュニティもそうでしょう。
そういうところの流儀を知らないでね。
ついなんかこの人非常識じゃないって言われるようなことをしてしまうときってやつですね。
この感覚なんですよ。
これなんか多分ですね、全く悪気がないんですね。
全く悪気がなくて、何がいけなかったのってね。
おそらくこれは自分のお家とかね、その家族では悪いこととされてないんですよ、きっとね。
もしくはその自分が住んでいた地域とかね。
それがなんか引っ越してきたりとかして別のところに行くと、
全くそれは非常識だみたいな目で見られたときに、
僕は悪くないのにどうしてこんなに責められなきゃいけないの?みたいな。
この感覚がね、僕の傷つきの原点にある気がするんですね。
例えば僕は北九州に住んでいましたから、
前々回ぐらいかな、お話しした中で、
八幡製鉄所が新日鉄に買収されて、
北九州の人が何万人と千葉の機密に引っ越したって話をしたんだけど、
ドワッと来てるんで、リトル九州ができてるんですよ。
小学校も40人中37人ぐらいは九州人なんですよ。
3人が千葉の地元の人というね、なんか変な組み合わせなんだけど、
ほぼほぼ全員九州人なんですね。
地元の人からすると、いきなり全然違う感じの人が入ってきたんで、
あんまりよく思われてなくてね、
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割と九州人は嫌だみたいなことをよく言われてたりもしたんだけど、
言葉が高校入るぐらいまで、高校卒業するまでかな、
ほぼほぼ九州人と友達の中に九州人しかほぼいないんで、
僕もずっと九州弁で北九州の言葉ね、
ちょっと博多とは違うんですけどね、
竹田哲也さんとかが喋るとか、
綾川誠さんとかが喋る有名な博多弁とはちょっと違う、
もうちょっと柔らかめというかね、
北九州の言葉があるんだけど、それをずっと喋ってたんですよ。
2人称があんたなんですよ。
これも今思うとどうかと思うんですけどね、
年上とか年下とかあんまないんですよ。
あんたっていうのがあなたという意味なんですね。
君でもないね、もうあなたなんですよ。
あんたしかないっていうね。
小学校の頃まではあんま先輩後輩とかないんでね、
僕もオーケストラ入ってたんだけど、
オーケストラ5年生の時、6年生の先輩にあんたって言っても大丈夫だったんですよ。
ところが中1になってバレエ部に入ったんだけど、
バレエボール部ね、ダンスの方じゃなくて、
そこにその偶然ね、小学校の時同じオーケストラだった
笠原君だっけなとかっていう人がいたんで、
あんたって言ったんですよ。
そしたら周りの中2かな3くらいの人からものすごい怒られまして、
お前先輩にあんたってなんだよ。
いやいや、九州はあんたでいいんですけどって言うんだけど、
ものすごい怒られるんですね。
これもね、北九州の多分口癖だと思うんだけど、
すぐね、嘘って言うんですよ。嘘って。
これはマジでみたいな感じなんですよね。
本当にでもいいかもしれない。
これをね、僕ら嘘って言うんですよ。すぐ嘘、嘘って言うんですよね。
関東にこちらに引っ越してきて、いつの頃か忘れたけど、
最初に誰かにやっぱり嘘じゃないよってマジで怒られたことがありますね。
こういうやつなんですよ。悪気は全くないのに。
まるでね、僕が住んでいる世界は、
この悪気がないのに罪を犯してしまう危険がある世界なんだ、
みたいなことをそこで初めて知るんですね。
悪気さえなければ責められることはないと思って生きてきたんだけど、
そんなことはないと。
知らないということは罪になってしまうんだ、みたいなね、恐怖ですね。
なんかね、僕はこれが傷つくっていう一つの正体だと思うんですよ。
結局は罪悪感ですね、やっぱりね。
以前にお話した罪悪感はいらないっていう話にここでつながってくるんだけど、
あの時もお話ししましたが、僕らはその罪と罰の仕組みによって
行動をね、コントロールしてもらうというか、
正してもらうっていうのかな、そういう仕組みにどっぷり使ってますから、
これは家でもやっぱりあるんですよね。
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何か悪いことをすると怒られるとかっていうね。
保育園、幼稚園とかって過ごす中で、子どもたちは
その仕切りというかその仕組みをちゃんと自分たちのコミュニティにも
当てはめるようになってるわけですね。
子どもは真似しますからね。
もうしっかりと彼らの中には罪と罰という概念がある。
そしてこういう、いわゆる小さなコミュニティですよね。
学校とか幼稚園とかそういう中で、この輩が現れた時、つまりね。
悪気があるか知らないけども、その外から入ってきて
どうもここの流儀に反することをしたみたいな子どもに
何をすればいいか分かってるんですよね。
どんな罰を与えればいいか知ってるんですよ。
で、罪悪感を持つとどうなるかっていうのはね、
以前この番組でもお話ししましたが、
今日ちょっともうちょっと細かく言うとね、
以前は弱くなるみたいな多分そんな表現だったと思うんだけど、
もっと細かく言うと、2つの困ったことが起こるんですね。
1つは弱くなるに近いんだけど、立場がものすごく下になるってことです。
これはもう当然なんですね。
私はもしそのコミュニティの中で何らかの罪を犯したということは、
罪人なんですよ。
罪人の立場ね。
そして他の子どもたちは処刑人の立場なんですよ。
その僕に罰を与えていいっていうね。
これはもう自動的にそうなるんですよ。
別にその何か学校の仕組みがそうだとかルールじゃなくてね。
子どもたちが生活するそのコミュニティの中で罪を犯した人は罪人。
そうじゃない、その反対側にいる人たちですね。
何やってんだこいつっていう方は処刑人になるんですね。
罰を与える立場。
えらい差がありますよね。
家でも例えば、普通に怒られてないときって、
親と子どもってまあまあ対等なわけですよ。
普通に喋ってね。
お父さんこれやって、お母さんこれやってとか言ってね。
ダメだよそんなの。
とか言ってツッコミ入れたりとかもできる。
そういう立場ね。
これは自由な立場なんですよ。
でもひとたび何か悪いことをしたり失敗をしたりして、
何やってんだって怒られた瞬間にものすごく立場が低くなりますよね。
なんかもうギャグの一つも飛ばせなくなるっていうね。
行動をすごく制限された感じがする。
そればかりか。
多分それはその瞬間に終わることは滅多になくてね。
朝にその立場になったら夜にもこれをやっておきなさいって言われて、
嫌だよって言ったら、
何を言ってんだ朝あんたはこういうことをしたじゃないかみたいなことで、
その罪をまだ背負ってなきゃいけないみたいな時間が長く続くんですよ。
だからなんかそれに格好つけて、だから勉強しなさいみたいなことを言われて、
いつもだったら嫌だよってゲームやるんだけど、
朝なんかヘマを犯してるんで、
怒られ罰を与えてるその罪人の立場としてはそこで逆らえないみたいなね。
完全に人のコントロール下に置かれてる感じがしますよね。
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これは社会に出ても学校でも多分同じなんですよね。
やっぱりなんかやらかして罪悪感を抱いてる時って、
いつもの威勢の良い反論とかはできないですよね。
そのある一定の期間はね。
ホトボリが冷めるまでってやつなんだけど、
その間やっぱり小さくなってなきゃいけない。
どこに飲みに行こうかって言ってもなんか提案はできないみたいなね。
後ろのほうで大人しくみんなが決めたとこについていく。
いつもなら何とかがいいよとか言える立場なんだけど、
なんかその前にやらかしちゃって上司に怒られたりしてるんでシュンとなってね。
シュンとなって元気がないんじゃないんですよ。
罪人の立場に置かれてるってこういう多分意識があるんですよね。
きついですよね。これが一つ。
そしてもう一つがこっちがもっときついんだけど、
まだこの下にあるっていう方はコミュニティの中で行われることだからいいんだけど、
コミュニティの外に追放されるってことが起こるんですよね。
これも例えば学校とかでは物理的にそれはできないので、
心の中で追放するんですよ。
みんながこいつはいないことにするっていうね。
もしくはこの楽しい遊びにはこいつは参加できないと。
まあね、椅子に座ってるのはしょうがないと。
そこは僕たちは同行する権力を持ってないのでね。
でも運動場で遊ぶこのドッジボールにはお前は入れないみたいな感じになるわけね。
これもやっぱり実は家でも僕は何度も体験したことがあって、
もう最近の親はやらないかもしれないんだけど、
なんか僕は駅前の下関にちょっとしばらく住んでた時があって、
母親がお店が下関だったんで、時々下関にいたんだけど、
ダイマルってデパートがあってね、そこに行くのが大好きだったんですよ。
何しに行ったかよくわかんないんだけど、とにかくお金もないのに幼稚園の頃ですよ。
一人でダイマルによく行ってたんですよ。
当時はまあね、そういう幼稚園の子が一人で歩くみたいなのがまだ普通な昭和43年くらいかな、42年か。
やっぱり当然危ないんでね、行っちゃいけないと言われるんだけど、
僕はあんまり言うこと聞かない子でしょっちゅう行ってたんですよ。
そしたら掃除をしているおばさんが母親と知り合いでね、
ちくられてしまって、ケイ君おったよ、ダイマルに、みたいな感じでね。
したら父親がなんか激怒しまして、もう入ってくるなって言って家の外に出されるわけですね。
結構ね、冬の寒い日だったと思うんですよ。
夜になっても入れてくれないっていうね、もうその辺がちょっと今の常識では考えられないんだけども、
僕は仕方ないんでね、近くの長屋に住んでいる仲の家、それもね、母親のお店に勤めていた綾さんっていうお姉さんだったんで、
そこのお家に行ってね、もうここの子になるみたいなことを言ってたんだけど、
まあ家で、ちっちゃい家でみたいなことをしたんだけど、
これまさにこのファミリーというコミュニティから追い出されてますよね。
これが罪人団ですよ。
これ二つね。
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だから中にいるときには立場が下になる。
で、かなりの長い間、人のコントロール下に置かれてしまう。
自分の言い分とかを言えずに、ものすごく片身の狭い思いをする。これが一つ。
そして場合によっては、心の中から追放されてしまうっていうね、これが嫌なんですよ。
で、これが多分だけども、おそらくその傷つくということの根っこに大きくある気がするんですよね。
この目に合わないっていう。
これで僕らは今でも空気を読んだりね、あるコミュニティに入った場合は新しく、
そこのルールとかしきたりとかね、流儀みたいなのをしっかりと把握するまでは、
なんかちっちゃくなってあまり目立ったことはしないようにするとかね、
そういう対策をやっぱり一生懸命打ってるわけですよね。
おそらく相手を傷つけてしまうという恐怖も、実はこれと同じなんだと思うんですよ。
なんか傷つくっていう恐怖と相手を傷つける恐怖は全然違う感じがするんですよね。
どちらが受ける側か放つ側かみたいな違いがありそうなんだけど、実はこれ結果は同じなんですね。
そもそもこの傷つくということの正体が、自分には全く悪気がないのにね、
なんかルールを知らなかった、そのしきたりを知らなかったっていうだけで罪人にされてしまう。
人を傷つける恐怖というのもね、これと実は全く同じ。
これの毎段階ってことですよね。
その人を傷つけてしまったということは、まさにその悪気はないのに、
このコミュニティ、この土地のしきたりに私は反して罪人になってしまうっていう、
ちょっと時間のずれがあるだけで、2つは多分同じことを心配してる、懸念してるわけですね。
でもね、これよく考えると、そもそもこの罪と罰という概念がなければですよ、
全員にじゃなくて大丈夫、私にもしなければ、
例えばあんたって言ってね、
何言ってんだお前、千葉では、関東では、先輩のことあんたとは呼ばないんだよ、
言いかけにしろよって怒られたとした時に、
あ、やばい罪を犯した罪人になったと、僕が思わなければ、
あ、そうなんですねって言って、一言言って終わるんですよ。
おそらく僕らが思ってるほど、その先輩は何年も何年も、
あ、こいつあんたっていうやつだとか言って、根に持ってるわけじゃないんですね。
その場は多分怒られますよ、注意されますよ。
だけどそこで僕が罪人になるかどうかは、
私の中に罪と罰の概念があるかどうかで、実は決められるんですね。
これが不思議なんですよ。
どれだけみんながお前は罪だと言ってもね、
法律で決まってたら別ですよ、これはもうその、
僕の意思とは関係ないところで、罪人というレッテルが貼られるんだけども、
でも普段のこの生活、一般の生活の中で、
みんながなんかあ、こいつ罪を犯してるぞという目で見たとしても、
僕がそれを罪だと思わなければ、
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多分一瞬の一回の何て言うんですかね、いざこざとかね、
一回の知ったみたいなことで、注意みたいなことで、
スッと終わるんですよ。
で、その後僕は、おお、じゃあもうあんたっていうのやめよって思えばいいだけですからね。
もう一方の追放の方はね、結構きついかもしれませんけども、
実害がありますからね。
ただね、僕はその子供というのは、まあ残酷な部分もあって、
そしてそれをすることで、どんな結果をもたらすかを全く分かってないところもあってね、
容易にそういうことをやってしまうんだけど、さすがにね、大人になるとね、
多くの人はそんなことで、こっからこいつを追放しようとかね、
心の中からいないものにしてやろうなんて思う人はあんまりいないと、
僕は思ってるんですね。
まあレアなケースとして、会社とかでもそういう目に遭うことはゼロではないと思うんですけどもね、
まあ仮にそんな目に遭ったとしてもね、私は罪は犯してないよと、
確かに迷惑はかけたかもしれない。
私がここのグループ、ここのコミュニティ、この地域のルールを知らずにね、
やってはいけないとされていることをやってしまったのかもしれないと。
でもこれはもう私は分かったと。
二度とやらない。
だから罪人として生きる必要はないっていう風に、
僕はその心から思えれば、
それほど片身の狭い思いはせずに済むわけですね。
もちろんこれは理想ですよ。
僕らは小さい頃からこの罪と罰の仕組みの中でね、生きてきて、
そしてそれを自分が罰する方の立場にもなったことがあるし、
いろんな場面で自分自身にも他の人にも適応してきたわけです。
今も多分やってるんでしょう。
それを一長一短にね、
一切今日からもう罪と罰はなしねってできるようなものではないです。
ただ、僕は傷つくことが本当に嫌でね、
人を傷つけたくないっていう恐怖から逃れられないんだとしたら、
この方向から行ってみるのは一つの手だと思うんですよね。
本当にこの手の話はいろんな対処法があると思うんだけど、
僕はここの罪悪感に向かうのが一番いいんじゃないかって気がするんですよね。
今日も私はさっき言ったように、この正体はここにありそうな気がするんですよ。
やっぱり予期せぬ不意の罪人になるこのシチュエーションってやつはね。
ここから逃れるやっぱり最も効果的な方法は、
自分の少なくとも私のね、
私の人生の中から罪と罰という概念を基本的には取り外していくってことですね。
これで多分不自由はないはずなんです。
私自身の認識ですからね。
僕がしっかりと問題があったり失敗をしたりね、
ある意味その本当に人を傷つけてしまうこと、これは今でもあります。
この時にしっかりと対処できれば、
そんなの別に気にしなくていいんじゃないみたいなことじゃなくてね、
確かにこの人は傷ついてる、よし、私が何かをしなきゃいけないっていうことを真摯にちゃんと思えたら、
そこに罰の概念を取り入れる必要はないわけですね。
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そこにこれで私は人より下になったとか、
これで私はコミュニティから追放されるみたいな恐怖感を味わう必要はなくなるわけです。
でもこれはその一長一短にはできない。
だから普段からこちらの方向に向かうように自分をトレーニングしていくっていうかな、
それが重要だなと思っているわけです。
最初の一歩はおそらくね、前の番組でも言いましたけど、
何があっても罪悪感を持たないぞっていう自分への決意というかね、
そんなものがなくても私は行動を改められるというね、
この問題を改善できるという、ここを自分で信頼しておけば多分いらないんですよ。
これが第一歩になると思います。
これにしても多分相当長い取り組みになるでしょうね。
やらかした瞬間に、もう条件反射のように罪悪感がブワッと襲ってきますからね。
おそらくその罪悪感を持っている自分っていうのは、
必ず何らかの嫌な感情を抱いているはずなんですよね。
おそらく最初は怖いでしょうね。
なぜかというと、やっぱり未来に待っている罰を恐れますから、
ゾクッとするこの恐怖みたいなのが一つドンと現れる。
そしてその次に来るのがね、僕はね、ちょっと寂しさ悲しさだと思うんですよ。
これはね、多分だけど周りにいる人たちへの失望感ですよね。
だって僕は何にも悪いことをしようと思ってやったんじゃない?
普通に生きてたんですよ。普通にコミュニケーションしようとしてたんですよ。
それをやっぱりあなたたちは罰と見るんですねっていうこの失望感、
この悲しみ、このがっかり感、これが多分次に来るはずなんですね。
恐怖の次に微かな悲しみ、微かな失望、そして多分それが孤独を生むわけですね。
周りにいる人たちはそういう目で僕を見る人たちばかりなんだなっていうこの孤独感ですね。
これが多分一気にクッと襲ってくるような時には、今自分は罪悪感を持ったなって気づくチャンスですね。
この感覚は恐らく消えないでしょう。一生消えないと思うんですよ。
もうここまで長いこと、罪と罰と一緒に生活をしてきた僕らにしてみるとね、
僕ももうずいぶんと長いことこの取り組みを10年以上やってますけど、
やっぱり未だに何かやらかした時には一瞬だけでもこのちょっとした恐怖と悲しみ、
孤独感、寂しさ、そして失望みたいなものがずっと襲ってきますね。
でもこれを持つ必要は本当はないんですよ。
なぜならば目の前に起こっていることはこれからも改善できる可能性があるからです。
そしてそれを僕がやるという意思さえ発揮すれば、この負の感情をポッと振り払って動ける自分になって、
その改善するという選択をすることができるからですね。
これが多分第一歩、これを日々やることですね。
飽きずにやる方が僕はいいと思いますね。
罪悪感を持っていいことは本当にないと思うので。
この次ですね、今日の話はこの第二歩目が大事なんですよ。
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あるならば絶対に他の人にこの手の罰を与えるのをやめるってことです。
その前にこの手のことをやった、この手のことっていうのは悪気がないのに、
あるコミュニティ、ある土地、その会社みたいなところのしきたりとかルール、常識を知らずについやらかしてしまうこと。
これに対してできる限りも最大限寛容になることですよ。
それは仕方ないよねと。
何だったらそういう人たちに、そういう人を見つけたらね、大丈夫大丈夫と。
ここはこういうしきたりなんだけど、気にしなくていいよ。
分からなかったんだからって一声声をかけてあげられるぐらいになれば、
それをやるこの取り組みの中で、僕らは多分罪悪感から解放されていくはずなんですね。
僕がこのポッドキャストで話す話っていうのは必ず人が出てくるんですよ。
一人ではできない。一人でどんだけ罪悪感を振り払おうとしても、
現場で現れてくるのは罰を与えようとしてくる他の人たちですからね。
正確に言うと、そのように見えているという心象なんですよ。
本当にですね、僕の周りに僕が何かしたら一斉に罰を与えようという人しかいなければ、
多分僕は生きていけないと思いますよ。
幼く、小学校、幼稚園の時もそれをやったのは一握りの生徒、児童なんですよ。
でも僕らはそれを受けた時に、下になったコミュニティから推奨されるという恐れや不安の中でその景色を見ると、
39人の生徒全員がその目を僕に向けているように見えてしまうんですね。
これはしょうがない。これは大人になってもそうでしょう。
あるコミュニティで私が何かをやらかしました。
恐らくそれにうるさいことを言ってくる人は数人なんですよ。
全員で一致団結して40人で僕を叩くみたいなことは恐らく起こってないはずなんですよ。
この恐ろしい心象を作り出す根源もやっぱり罪悪感なんですね。
だからそれをできるだけ自分に適応せず。
そして他の人にも本当にやめる方がいいと思います、私はね。
そしてこれに3つ目を加えましょうかね。
例えばあるコミュニティとかある集まりの中で、私はここで傷ついてしまうかもしれないと。
そういう不安が来た時は、これはまずは予感であるはずなんですね。
まだ傷ついていない時点でこの予感を持つはずなんですよ。
これは未来の予想ですよね。
この時に必ず漠然とその不安と恐怖を抱えるのではなくて、
何が怖いのっていう問いを自分にするということですね。
そしてもしかしたら僕が今日話したようなことを自分で語るかもしれない。
そこでもっと何が起こることが怖いのっていうふうに聞いてみてほしいんですよね、具体的にね。
そうするとおそらく自分ではない別の人たちが自分に何か不都合なことをしてくるという答えが出るはずなんですよ。
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もしくはそういうことを自分がしてしまうかもしれないという答えが出るはずなんですね。
そのしてしまうは置いておきましょう。それは前段階なのでね。
そうではなくてその後、じゃあしてしまったと仮にしましょうと。
その時にどんな目に合うのが怖いんだっていうふうに問いかけるわけです。
そうすると先言いましたが、誰かがこういうことを返してくるんじゃないか、こういう目に合うんじゃないかっていう答えが自分の中から出てくる。
その時に本当にそうかってもう一度聞き直してほしいんですよ。
ここで僕らはおそらく二つの分岐点に立つことになるんですね。
一つは徹底的に疑うということです。どうなるかわからないのでね。
何の保証もないので、まずは徹底的にそういうことをしてくる人たちだろうという疑いを持って慎重に臨む。
いろんな防御策を張り巡らせながらね、疑いながらこの人たちの中にいるというこれが一つ目の選択肢です。
でも実際にはどうなるかわからないんだとすれば、信じてみるっていう選択肢も実はあるんですよ。
これはね、ものすごく選びにくい選択肢だと思います。
下手すると意図せぬ罪を犯してね、責められるかもしれないんだから、とてもじゃないけどそんな冒険は犯せないよって思うかもしれない。
でもやっても大丈夫かもしれないよっていう信頼をするという選択肢はなくはないんですよ。
じゃあ私はどうだったかというと、おそらくですね、40代前半ぐらいまでは前者しか選ばなかったと思います。
ごくごく一部の人を除いては例外はありますけどね、除いて例外はあるんだけども、大雑把に言えば基本的には徹底的に疑ってかかるという姿勢でやってきました。
そこで僕はある結果を目にしたんですね。これは本当に面白い結果なんですよ。
もしね、本来疑わなくてはいけなかった相手を信頼すると、それによって被害を被る可能性っていうのはありますよね。
わかりやすい例は詐欺ですよね。この人信じちゃいけなかったのにっていうのを信じてしまうと被害に遭う可能性がある。
でも逆もあるんですよ。本当はこの人信頼できる人だったのに、そこに疑念を持ってしまったことによる損失っていうのも実は同じように起こり得るんですね。
僕はどちらがでかいんだろうっていうのを長年に渡って経験しながら、特にこの10年はそこを冷静に見ながら生きてきたんですけども、
どう考えても信頼すべき人に疑念を抱いてしまうことによって被る損害の方がでかいんですよ。
前も言いましたけど、信頼すると言っても、例えばそいつが僕を騙そうとしてるみたいなことは大体わかるんですよ。
今回の話はそうじゃないんですよね。あるコミュニティを信頼するかどうか、僕の周りにいる人を信頼するかどうか。
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この人たちは、私が今日のテーマ、知らないということで何かやらかしてしまったその間違いに対し、ひどい罰を与える人たちなのか。
それとも、そんなの大丈夫だよって気にしなくていいよと言ってくれる人たちなんだろうかっていうね。
これを今の例に当てはめたら、候補者を、候補者、大丈夫だよって言ってくれる人たちに疑念を払っている方の損失の方が絶対にでかいと思うんですよ。
前者はおそらくですね、信頼しようと疑おうと結果は一緒なんですよ。
どれだけ気をつけていても、知らないことが起こるために僕ら何かをやらかすことになるわけ。
そしたらそれは信頼していようと信頼していまいと、多分同じ態度が返ってくるでしょう。
でも後者は違うんですよね。余計な心配をしてしまう。そして自分の行動を必要以上に制限してしまう。
ここの失うものの方が大きいと思うんですね。
だから、やばい、傷つきそうだ。どうしよう。一体何が起こるの?こういうことをされるんじゃないか。
彼らをそういう人と見ているってことだねってもう一回問うわけですね。
うんって言ったらもうしょうがない。でもそこでうーん、そうじゃない可能性もあるのかなっていう自分がムクムクっと出てきたら、たまにはそっちにかけてみるんですよ。
そして本当にね、何か自分がやらかした時にどんな仕打ちが待っているのかを一回だけ見てみる。
おお、大丈夫じゃんっていうことになったら、さらにこの信頼を持ち続ければいい。
これをね、僕はこれがどれだけ困難かはよくわかっているつもりです。
なんとなくいけそうだなっていう機会から試していくってことですね。
そしてこの信頼が発揮されれば、私は傷つく心配っていうのを同時に少なくできるんだなと。
で、どうしてもこれが難しいと思った時には、やっぱりここに罪と罰の概念がまだ残ってるんだなと思って、もう一回ですね、自分に罪悪感を抱かないっていう練習をし、
そして他の人たちのやらかしたことを罪と見ず罰を与えるっていうことを一切やめる。
ここに徹底的に慣用になってみるっていうことをまたちょっとフィールドに戻ってスライムから倒しに行くみたいな、そんなことをしながらね、よしもう一回戻ってみようと。
今回いけるかな?ちょっとじゃあ信頼してみるかな?みたいなことを繰り返していく。
僕はこれをずっと10年やり続けていってですね、やっぱりやってよかったなというふうに実感できています。
だからこんなふうに一応オススメするわけですね。大変だったと思いますが、この対処法もあるということをちょっと頭の片隅に置いておいていただければいいかなと思います。
今日はこんな感じですね。
39:01
今週末も盛りだくさんのイベントがありまして、まず金曜日は第3回目のジャージンワークですね。
ひらめきによって、そして未来の自分に託す依頼書、つまり計画ですね。
これを一切やめて、その時どんな自分が現れるのかを、ここもやっぱり信頼なんですよ。
ここは自分への信頼を100%託してですね、どんだけ自分が動けるかをチャレンジする1週間っていうね。
私としては河目のレビューで皆さんと1時間話すその瞬間が楽しいなという、そんなプログラムです。
これが16日の金曜日かな。
そして1日置いて18日日曜日に、これも早くも第3回になりますね。
毎回皆さんの素晴らしい歌歌詞を聞かせていただいてるんですが、今ここのボイストレーニングってやつですね。
一切の思考を止めて今ここにあると、これさえできればどんな人でも最高の歌が歌えるというね。
普段の生活の中で、この思考を止めて今ここにあるっていうのはね、座禅とかでもしない限りなかなか味わえないんだけど、
これがなんと歌でね、しっかりと体験できるという、とてもおすすめのプログラムです。
こちらもよろしければ、まだ空きが、ここは1枠かな、しかないんですけども、
矢部聖子さんがピアノで素敵な伴奏をつけてくれますんでね、ライブで歌えますんで、よかったら参加してみてください。
そんな感じで、今日も皆さんいい一日をお過ごしください。ありがとうございます。