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GOODBYES MIDNIGHT RAXXAR by KURAZAMO KEIZO
こんばんは。ただいま4月5日水曜日の午前2時23分です。
今日は、あの私ですね、久しぶりにお休みをいただきまして、
どのぐらいぶりかというのはね、なんかあのこういうどのぐらい忙しいかみたいな話はちょっといやらしい感じがするので、
なんかこう忙しい日々を送ってるんですよね、みたいなことがお話ししたわけではないのでね、どのぐらいぶりかみたいなことは言わないんですけども、
休息の大切さ
まあそれなりに結構こう長い間休みがなくて、今日はね本当にこう昨晩からまず8時間以上寝ましてね、
それからもう昼もゆったりとこう過ごして、本当にこういいね、休息を取れたという、そういう1日だったんですね。
まあその忙しいと言っても、私の場合はもう自営業なんでね、自分でスケジュールを入れてますから、
もうそれは自業自得だろうっていう、ただそれだけなんですけどもね、あの月水金でこの番組をやってますよね。
それから日刊の今日のグッドバイブスというワークアウトをこのグッドバイブスファクトリーというコミュニティ向けに書いているので、
基本的には今日もですね、こうやって収録をしているし、この前には今日のグッドバイブスを1本書いてますからね。
やっぱ平日はその丸1日何もしないっていうのはかなり難しいわけです。
で土日はもう今月も全部イベントが入ってましてね、今月はなんと7本か8本入ってるんですよイベントが。
それも自分で入れてるんですけどね。
でそうすると、私が丸1日休める日というのは多分金曜日しかないんですよね。
週末の金曜日。ここだと翌日にこのポッドキャストもワークアウトもないというね。
ただ金曜日はやっぱり金曜日という曜日だけあってね、なかなかそうここを丸々開けるわけにはなかなかいかなくて。
そんなわけでこんな感じでね、この日刊でやってることとか、このポッドキャストとかはとりあえず除いて。
だから1日が今から始まるみたいなそんな感じですかね。明日が今から始まるみたいな。
この前までが今日の休日だったみたいな感じなんですけど、本当にゆったりと過ごしてね、いい休息になりました。
たまにこういうことをしないとね、全然やっぱ違いますね。
この体の軽さというかね、やっぱり1日ゆっくり何もしない、何もしないっていうのが大事なんですよ。
本当に何もしなかったですね。今日はね。覚えていないぐらい何もしない。ご飯を食べただけみたいなそんな感じかな。
で今日はですね、この最近やっぱりそういう、なんでこの休息がないかというと、ワントレのじっくり12チケットというのをね、おかげさまでたくさんの人がね、この申し込みいただいて。
やっぱり毎日毎日やっぱり少しずつこのワントレ1on1のセッションがね、必ず入るという、そんな日々になってまして。
でその中でね、なんていうのかな、こう人生がうまくいかないっていうこういうテーマがね、やっぱ最近はちょっと続いていまして。
前もねお話したようにこのワントレというのはこの時期によってね、何かこう別々の方なんだけども、
なんかお話がこうリンクしてるというかね、シンクロしてるっていうそういう経験が結構あの数多くありましてね。
で今のトレンドというか、トレンドと言っちゃ申し訳ないんですけどもね、その当事者にとってはね、とても深刻な悩みなのでね。
まあでもまあその私がそのお話をするその感じの中で共通しているなあというのが、この人生がうまくいかない時の感じっていうね。
例えば、そうですね、会社員とかだったら、その何らかの理由で働くのが辛くなった時とかね。
それから女性はやっぱりこの出産とか子育てとかあって、今までやってた仕事からこう離れなきゃならなくなった時とかね。
それからまあ僕のようなそのフリーランスとか個人事業主だったら、その事業とかビジネスがうまく回らなくなった時とかね。
あるんですよね、やっぱりね。
こういい感じでやってたんだけどね、急になんかガクンとこう、集客とかね、いろんなものが落ちていくみたいな。
でそういう時にね、まあそのそういうなんていうのかなあまり良くない状態なんであればね、今日の私のようにこうゆっくり休むという選択もあるんだけども、
なぜかそういう時に限ってね、僕らはこのすごく強烈なこの焦りとか不安に襲われて、
その休むという選択肢というのかな、このゆっくりするみたいなね、ちょっとこう人生にこうポーズをとって、ポーズというのは止めるという意味ですよね。
なんか消極死するみたいな選択はなかなかできなくて、何とかこの現状を変えなければならないみたいな、そういう感覚になると。
人生設計が崩れた感じがして焦りや不安に襲われたときの対処法
でこれおそらくこれはね、要はこの人生設計が崩れたというかね、壊れた感じなんだと思うんですよね。
そのさっきのね、なんとなくその働くのが辛くなった、この先どうなるんだろうというね、この人生設計。
それから先ほどのその女性の子育てとかっていうお話だったら、これまで築いてきたキャリアがこれからどうなっていくんだろうとかね。
いつまでこれが続くんだろうとか、それからもちろんその事業ビジネスがねうまくいかないとしたら、まさにそうですよね、お先真っ暗な感じがすると。
だから僕らは何らかのその心の中にね、この人生設計みたいなのを持っていて、これがその何らかのアクシデント、そういうものによって壊れてしまったような感じがする。
そこにものすごく焦りや不安を感じるっていうね、こういう時どうすればいいかっていう対処法、これをねちょっと今日はお話ししてみたいかなと思います。
以前にですね、この文脈という話をしたんですよね。何個か前の番組にあると思うんですが、
自分が作り出した文脈に沿って生きるのか、それともこの世界にね、もともとある、今も脈々と流れている世界の文脈に沿うのかみたいな話だったんだけど、
まず僕らはですね、基本としては、原則としては、この世界の文脈に沿って生きているってことはまずないんですよ。
だからあえてそちらを意識しましょうというお話を私はするんだけどもね、そういう提案をするんだけども、多分そうではなくて、脈々と流れている一つの大きな文脈っていうのがあってね、これが世の中の文脈なんですよ。
つまりこのくらいの年齢でこうなっているのがハッピーっていうね、これありますよね。あるあるってすぐにわかると思うんですよ。
僕らが暮らすこの世の中にこのくらいの年齢でこうなっているのがハッピーという文脈があるかどうか確実にありますよね。
この年齢までにこのようになっていれば幸せみたいな、まさにこれが人生設計なんですけどもね。
僕もやっぱりこの20代後半とか30代後半とかっていう、要はこの10の桁が変わるとき、20代終わるなとかって、もっと言うと10代終わるなってときもちょっと焦った感じはしますけどね。
僕の場合はその音楽をやってたんで、どうしてもその音楽っていうのは若い人がやるというイメージがあるから、さすがに例えば今私は60歳なんだけど、60歳でデビューするみたいな話はですね、ものすごくないんですよ。
ないというかもうありえない感じね。やっぱりこの早めに出ておかなきゃいけないとかいう世の中にね、そういうのはありますよね。
アイドルとかもそうでしょう。さすがに30代後半になってまだアイドル目指してますみたいな感じはね、なかなか持ちにくい。
そうするとこの20か30か40かっていうこの10の桁ってのはでかいんですよね、僕らにとってはね。
なぜでかいかというと、やっぱりこの世の中にその文脈があるからなんですよね、もともとね。
20代ではこうなっているべきだと、30代だったらもうこのぐらいにないとおかしいよみたいな、そういうなんていうのかな、あの型がありますよね。
この型自体がまさに文脈なんですけどね。
で、あの、なんていうかな、都合のいいというか都合の悪いことに、そこにこのアラサーとかね、アラフォーとかね、アラフィフみたいな言葉がこう乗っかるわけですよ。
アラ20ってのはないですもんね。
だからやっぱりこのサー、フォー、フィフあたりになんかこう変なカウントダウンがあるんですよ。
これがまた僕らのね、不安をものすごくこう煽ってくれるわけですね。
だからこの、たぶんね、この世の中の文脈っていうね、この世の中のなんていうのかな、コンセンサスによって作られた、こうなれば幸せみたいなこの文脈っていうのは、そのまさにこの同意感というかね、そうだよね。
っていうこのコンセンサスを固めるために、いつもいつもなんか新しい言葉がね、作り出されてる感じがしますよね。
まずアラサーとかアラフォー、アラフィフっていうのも、そのような認識を強めるために、そろそろやばいよみたいなね、20代終わるよ、大丈夫?30代終わっちゃうよ、いいの?そのままでみたいな、このコンセンサスを固めるというかね、強めるためにアラサー、アラフォー、アラフィフという言葉がたぶん生まれてるような感じがするのね。
で、他にどんな言葉があるかみたいなのも、僕の頭の中に今浮かんでるんだけど、この種の言葉は基本的にはもう人を傷つけたり不安にしたりする力を持っているので、具体的には挙げません。
もう聞くだけでね、なんかこう気分が悪くなるような言葉ばかりなんですよね。
だから、それを唱えるだけで、ちょっと不安になったり焦ったりするような言葉はね、たぶん間違いなくこのぐらいの年齢でこうなってるのがハッピーという文脈を強化するためのものと思っていいでしょうね、きっとね。
だから要は、これ挙げませんけども、組み合わせとすれば、だいたいこの年齢とか時間を表す言葉と別の単語が組み合わさってるっていうね、こういう造語。
これはやっぱりこの、聞くだけでヤバいぞと思うようなこの力を持っている、その文脈を強めるための言葉というのが日々生み出されてるわけですね。
で、私、先日ね、おーっと、面白いね、興味深い、ものすごい興味深いニュースを見たんですね。
親の役割と若者の判断
要はそれは、今4月ですよね。だから今入社式っていうのがこう、いろんな各社で行われてるわけ。
で、今年はそういうわけで、ちょっとコロナも沈まって、まずマスクがなくなりましたね、みたいな話題があったんだけども、その直後にね、ある会社ではオンラインで親御さんがその入社式に参加してみました、みたいなことがこう流れたんですよ。
Zoomにね、いるんですよ、その親御さんがバーってね。
で、僕はこれを否定したり批判したりするつもりは全くないんですね。
そういう時代になったんだなっていう、そういう感覚しかない。
まあいろんな意味でね、テクノロジーもそうだし、その参加するかしないかみたいな感覚もそうだし、こういうものは移り変わっていきますからね。
全くそれを何つーのかな、否定するつもりはないんですが、ただこの話はね、先ほどのこの文脈、ある年齢でこうなっているのがハッピーっていう、この文脈と組み合わせるとね、やっぱ面白い事実が浮かび上がってくるわけね。
つまり、もともと多分僕らの時代にもあったはずなんですよ。
このぐらいの年齢でこうなっているとハッピーみたいな文脈っていうのはね、もうこれ多分だけど相当前からあったはずなんですね。
なんとなく僕の感覚だと、そうだな、50年代ぐらいにはもうあったような感じがする。
で、ここにおけるその親の役割っていうのがあって、これは要はこのくらいの年齢でこうなっているのがハッピーの最初の10何年かな、20年ぐらいかな。
この辺りをその若子がそこから外れないようにするっていうね、この役割を親は担ってますよね。
私もそういえば若い頃、前回かなんかも言いましたけど、高校を卒業したらその大学には行かずにね、誰かすごいすごいミュージシャンの弟子になって、俺も音楽をやるんだみたいなことをね、こう言い張ってたんですね。
で、今思うとそれが本当に良かったかどうかっていうと、もしかしたらそうしなかった、今ね、現実の私、私は大学行ってますからね、その方が良かったのかもしれないなとかちょっと思うんだけども、要はこの判断する情報が足りないわけですね、子供っていうのはね。
だから間違うかどうかっていうのは微妙なんだけどね、この直感に従って動くことによってうまくいくこともあるからね。
でもまぁ往々にしてそこはもうあまり信頼しちゃいけないってことになってて、そこをまぁセーブしたりね、この導くのが親の役割ってことになってるわけだから、このある年齢まではこのくらいの年齢でこうなってるのがハッピーのその道から外れないようにするっていうのが親の役割、これはもうありますよね、ここはもう本当に無視できないというか、まさにその通りだと思うんですよ。
人生設計の変化と親の役割の延長
でこれがその少なくとも僕の時代、僕がその年の時代までは多分大学の卒業ぐらいまでだったんですよね、でこれがまさにこのニュースによると最近では入社の日まで延長されてるってことなのね、だから長くなってるわけですよ、だから良い悪いじゃなくてここまで伸びたんだなってこと、だからもう親としては大変ですよね、今までは卒業式に出ればよし私の役割終わったとね、
母さん父さんと2人でこれからのんびり過ごそうやみたいな感じだったんだけど、まだその先に就職というのがあってね、で入社式に息子娘を送り出したと、ここがその親の役割の終わりみたいなところに伸びちゃってるわけね、でよくもっと考えると実はその始まりも前倒しされてるんですよね、
要はその小っちゃい子供の頃は基本的にはその僕らの時代の頃はもうほっといてるみたいな感じ、何をしようと構わないよみたいなね、そんな感じだったんだけど、今はほら中学受験っていうのがあるじゃないですか、で僕らの頃はどうだったかっていうとおそらくその私がいた中学で、小学校か、中学受験した子供は1人もいなかったんですね、そんな時代だった、だから受験は高校からだったんですよ、
でそれがまあ中学受験とか、お受験とかになっていくと前倒されてもいるわけね、だからさっきのそのこのくらいの年齢でこうなっているのがハッピーというこの文脈のその僕らの人生に及ぼすそのなんていうのかな、力というのがね、この親の役割が長くなるということに比例してやっぱり強化されてるんだろうなっていう感じがしますね、
まあその分本当に今の親は大変なんだろうという、そんな感じしますよね、早くなってるし終わりも長くなってるってね、そこまでが私たちの責任だということになっていてね、まあ昔は良かったんでしょうね、うちの母親なんていうのは本当に楽だったんだろうなと思いますね、
高校受験して大学受験しても終わりですからね、たったその何か数年の間、だからほぼほぼどのぐらい、3年ぐらいの間かな、もうちょいや、4年ぐらいか4、5年の間そこのところをしっかり見ていれば大丈夫みたいな、そんな時代だったんですけどね、もう今は多分20年ぐらいにそれが伸びてるんでしょうね、まあつまりこの道しかないっていうね、この縛りがすごくすごく強くなっているってことですね、
まさにこの世の中の文脈というこの縛りがね、ものすごく強化されている、そんな感じがしたんですね、このニュースを見ることでね、ここからはもう僕の想像なんですけど、このようにこのねグラフが伸びてるってことは、始まりが伸び終わりが伸びってね、こういうそのなんていうかな傾向に向かっているということは、もしかしたらこのプロポーズの席とかね、
それからその会社に入った後、えっとクラザの計像、あなたを主任に任命しますみたいなこの事例が渡される時、そういう時ももしかしたらこのズームで繋いでね、親子さんも一緒にみたいなことになる可能性もなきゃはないですよね、
ちょっとプロポーズしようっていう前にね、ちょっと待ってとか言って、僕がねその相手にね、ちょっと待ってつって、ちょっとiPhoneか何かで繋いだとか言って、行くよとか言ってね、僕と結婚してくださいみたいなそんな感じになるってね、部長のこの事例を渡される時も、じゃあズーム繋いでみたいな感じでね、それからまあもしかしたらもうもっと伸びてね、この定年退職の送別会とかまでが親子さんと同伴みたいな、こういう世界もね、このありえなくは、
ないんですよね、でもここから問題なんですよ、でも僕らはね、何らかの事情でその道から外れてしまうことがあるんですよ、それがさっき言ったようなね、なんとなくちょっと働くのが辛くなったとかね、それから事業がうまくいかないとかっていうこの道から外れてしまうことがある、これが僕らにとってね、この人生がうまくいかなくなった、人生設計が壊れてしまったっていうね、そういう悩みなんだと思うんですね、
これはつまりなんだというとね、多分僕はこの人と違ってしまう不安なんじゃないかなっていう感じがするのね、元々はですね、やっぱりこのどうすれば幸せになれるかっていうね、この大命題はですね、やっぱりこの私がいつも本当のことは分からないと言っているように、どれだけ考えてもね、やっぱりこの正解というのを出すのは難しいんですね、特にこの幸せ、今どうすれば幸せかは分かるんだけども、
この人生設計のようなね、未来につながるような道筋をイメージしながら、私は今後どうなっていくのが幸せなんだろうっていうのは、まあ未来のことが分からない、そして因果関係が分からない以上、そしてしかもですよ、自分とは何か、自分が何をするのが幸せか、ここも謎に包まれているとすればね、本当にもう何十時間、何百時間考えても答えは出ないんですよ、
そうするとやっぱりこの自分の答えが、自分の出した答えがね、さっき言ったようなその直感で、俺はミュージシャンになるぜ、みたいなこの答えが間違ってたら困りますよね、何というか人一回しかない人生でとても損をするような感じがする、もし間違っていたらやり直さなきゃならないですからね、そうするとそこに何年、2年、3年、4年みたいなことを費やさなければいけない、この年数がとても僕らにとってはね、この損な感じというかね、
嫌な感じがやっぱりするんだと思うんだよね、だから仕方なくこのね、ベストはもういいやと、本当は自分のこのオーダーメイドのカスタマイズされた、私になりの幸せみたいなのがいいんだけども、ここはわからんとね、わからんと考えている暇もないし、どんどん進んでいきますからね、中学、高校、大学みたいな感じで、
そこで立ち止まっているわけにもいかないんで、もうベストは諦めるしかないと、それよりもこのね、多くの人が採用する案、これがまさにこの文脈なんですよね、このぐらいの年齢でこうなっているとハッピーだよっていうこの文脈に乗っかるのがいいんじゃないかと、つまりこれはセカンドベストのような感じね、こちらに乗るしかないなっていう、そういう感じがしているんだと思う、
道から外れた時の悩み
で、そうするとこれが唯一のどうすれば幸せになるかの答えなわけだから、ここから外れてしまう、なんだかの自分に不調が来たりね、やんごとない事情で続けられなくなったりとか、そういう時にこの道から外れてしまうわけですよ、せっかくここでいいやって決めたね、
で、そこでやっぱりこの人と違ってしまう不安、つまりせっかく得た答えから外れてしまう不安っていうね、これが襲ってくるんだろうと思う、で、そしてなぜそこでゆったりと休んだりね、休憩しできないかというと、やっぱり早く戻さなければならないっていう感じがするからですよね、だから焦ったり、恐れや不安を抱いたりするんじゃないかと、
で、これをやっぱり何とかしたいわけですね、まあ結論から言えばこの世の中の文脈というね、ここから離れればいいんだけども、ここから離れることがそもそも人と違ってしまう不安というね、ここに繋がってしまうので、なかなかこの選択ができないわけですね、でも僕はどうにかして、あ、そっかそっかここから離れていいんだっていうね、そういうこのマインドをね、持てたらいいなと思うわけです。
で、そのために2つあるかなと思っていて、1つはですね、まずこの世の中の文脈って一体なんだっていうね、この正体を知ることですよね、で、まずはさっき言った通り、これは自分が決めたことではないっていうのは結構確かなはずなんですよ、そうではなくて、自分ではなかなかその答えを見つけられないから、
えっと、この多数のね、安定、安全、もしくはそのそれなりに幸せっていうのが保証されている感じがする、このセカンドベストに乗っかっているっていうね、これがまず1つですよね、正体としては。じゃあその文脈ってどういうものだっていうと、これは僕の解釈になってしまうんだけど、まあ私もここに乗っかっていたんでね、その乗っかっていた時の感覚を思い出してみると、
まず基本はこの考えっていうのはね、未来に向かってるんですよね、えっと未来をこのハッピーにしていくっていう、こういうなんていうのかな、この力が働いているんですね、だからまあ、えっと要は、これは前の番組でもお話ししたんだけど、この現在というね、この現在の自分、現在の自分の置かれている状況、これを基本的には不足しているものと見るんですね、だからまあデフォルト不足なんですよ、
そうしないと、このいついつまでに何々をするとハッピーという、この何々をするとが出てこないんですよね、この何々をするとは、この現在の不足を埋めるものを手に入れるということでもあるわけ、それを20代ではここを手に入れておきましょう、30代ではこれを手に入れておきましょうというわけね、手に入れていない、手に入れられなかったらハッピーでないとすれば、つまりデフォルトは不足しているってことですよね、
デフォルトが満たされているんだったら、20代30代で何も手に入れなくていいわけだから、何かが手に入ることが幸せの条件だとすれば、デフォルトは不足ということになるわけよ、で、そこを何で埋めるかってね、これが結構この分析が面白くできていてね、基本的には心なんですよね、心の何かを埋めるんだけども、
それは目に見えないのでね、手に入れたかどうかがわからない、だからそこが埋まったという象徴を作り出すんですよ、今ならどんなものかというと、例えば最先端の家電とかですね、なんか今だとそのおいしく焼けるオーブンとかありますよね、そういうものがこの象徴になるわけ、あとはガジェット、今アレクサみたいなのがありますよね、それから今だと電気自動車とかも結構トレンドですよね、このトレンドっていうのがね、やっぱり一つの象徴になっているわけ、
モノファッション、それからまあリゾートホテルで休日を過ごすみたいなね、この休日の過ごし方、それからエステ、ヨガ、フィットネスみたいなこのサービスを享受するというかね、だからおそらくその割とこのなんていうのかな、勉強とか好きな人にとってはこの知的な活動みたいなのもここの象徴になってくるはずです、要は多分クオリティオブライフみたいなことで呼ばれているものがここに入ってくるんでしょうね、
で、まあ僕らはこのこの文脈というのは要は自分、つまりこの現在の自分に不足を見てそこを埋めるための象徴を得ていくという、これがいついつまでに何々をするの正体かなと僕は思うわけね、で、このね、カチューにいる時はわかったんだけど、この少し前の映像を見るとね、割とそれってかなり滑稽じゃないかみたいなことがわかるのね、このね、えっと今のやつ、今の象徴はね、ものすごくこう、
魅力を発するようにできてるんで、まさにこれが僕の足りないものを埋めてくれるというその感覚がすごく湧いてくるのね、でも古いやつも同じ象徴だったんですよ、え、かつての時代もね、で、それを見るとこんなものが象徴だったのかっていうね、ちょっとね、滑稽さがこう、わかるのね、例えば60年代の三種の神器と呼ばれてたものはテレビ冷蔵庫洗濯機なんですよ、で、これが70年代、70年代になると、
カラーテレビクーラー、クーラーなんでね、まだエアコンじゃなくて、カラーテレビクーラー自動車に変わるわけですね、で、今の6つ、どれを見ても、これが象徴か、みたいな感じがやっぱりしますよね、で、まあ、あの、ドキュメンタリーのね、白黒の映像とかを見ると、もうそれが本当になんていうのかな、こう、特にね、あの、アメリカの50年代、60年代の映像を見るとすごいなって思いますね、本当にこれを手に入れることがハッピーなんだ、みたいなのがこう、映像からね、こう、
滲み出てるんですよね、もう満面の笑みでこう、みんなでこのテレビの前に向かって、さあ、つけるぞ、みたいなね、お父さんが多分つけるんだろうけど、で、日本で言うと、そこでリキド山とかね、えーっと野球とか見て、こう盛り上がったりするんだけど、これがまさにこの象徴なんですよね、で、今はずいぶんとこれが多様化したんだけども、多分このジャンル分けするとね、こういう層、こういう層、みたいなことにジャンル分けすると、やっぱりそこの層なりの3種の新規は多分見つかるんでしょうね、
まあ、ここはあの細かく見ていく必要はないので、あの流しますけどもね、で、この、でもね、ここがここですごく重要なのは、えっとこの象徴はそもそもあるものの象徴だったわけね、それは心を埋める何かだったはずなんですよ、
それは象徴や形に落とし込まれると、えっと僕らはね、そのもともとこれは何の象徴だったかのその意味の方を忘れてしまうんですね、そしてこの象徴自体にこの目を、象徴自体に目が行って、これがなくては不幸だと感じるようになってしまうんですよ、で、面白いことにこの多くのね、この象徴形みたいなものは売られるものなので、これを売る側はそれがないと不安だよって言ってこれを煽るわけね、
技術や家電の本来の役割と忘れられた意味
まあこれがあいまって、ますます僕らはこの象徴がそもそも意味していたもの、何の象徴だったかを忘れて、この形の方を求めるようになっていくわけですよ、で、おそらくこの50年代60年代のね、この3種の新規テレビ冷蔵庫洗濯機あたりは、おそらくだけど僕らを縛るものから解放されて自由になるというね、この目に見えないものがあったはずなんですよ、
多分心を自由にするということですね、洗濯機があることによって手で洗うその時間が少しなくなりますよね、そういう家事とかそういうものに縛られていた人が、人たちが、そこから自由になるという、そういう象徴だったはずなんですよ、テレビもおそらく同じでしょうね、この情報が得られないというのはやっぱり不自由なわけですよ、これが今インターネットになってね、まあ本当にいろんな情報が得られるようになったから、
僕らは多分以前よりもかなり自由になっているはずなんですよ、でも面白いことに、この情報というのはそのような役割を持っていたはずなんだけども、今はこの象徴である情報の方に、そこを得ることに夢中になっているんで、これは一体何だったんだっけということを僕らは忘れるわけね、多分さっきあげたね、この最先端の家電みたいなものにも、僕は間違いなくこの僕らを縛るものから解放されて自由になるという、
この元々の意味っていうのはね、必ず含まれているはずなんですよ、例えばそのさっきの美味しく焼けるオーブンね、これはまさにその何だろうな、まあ大げさに言うならば三ッ星のシェフが作るような料理を家でできるってことですよね、つまりこれはどういうことかというと、僕らが今まではそういう料理を食べるためには、それなりの高いお金を払って、そういう場所に出かけていって、そこを予約してね、
なんとか席を取って食べるしかなかった、でもこのオーブンを買うとそういうことから解放される、まさに自由、いつでもその料理が食べられるっていう、多分この文脈が必ずそのどんな製品サービスにもね、働いてるはずなんですよね、だから得たかったのはこちらの方なんですよ、何かから解放されて自由になる、心が少し豊かになるとかね、そういうことですよね、休日の過ごし方とかそのエステ、ヨガ、フィットニスみたいなものも多分そういうことだと思うんですよ、
知的な活動であれば学ぶというね、その喜びをこの体験するみたいな、心にそのフォーカスされているものが必ずあった、でもその象徴というものを僕らはね、求めている、そうすると面白いことにね、この本来解放されて自由になるというための象徴だったものが、それが得られない不安、そしてそれを得なければいけないというこの感覚によってね、
得ることに制限されて自由を失ってるんじゃないかなっていう、そんな感じがするわけ、だからこれが僕はね、この世の中の文脈の正体なんじゃないかなと思う、まあ文脈が悪いわけではなくてね、このいつのまにかそこに乗っかってしまうと、本来得たかったものの象徴形の方に行ってしまって、何が大切だったのかということを忘れてしまうということですね、つまり僕らは自由になりたかったんですよ、
そして心が豊かになりたかったんですよ、だからそれを叶えてくれるいろんな発明をした、ところがいつのまにかそのもの、その象徴が大切になってしまった、このように考えるとね、まさにこのいついつまでに、ある年齢までにこういうことをしているのがハッピーだというこの文脈が僕らの自由を縛っているんだってことがわかりますよね、だとしたらここから抜け出ていいってことになるんですよ、
そもそもこの文脈がない方が僕らは自由なんだろうねっていうここにもし帰結したとすればね、ここから離れることにそれほどなんていうのかな、この罪悪感みたいなもの、それから負けた感みたいなもの、なんか悪いことをしている感みたいなものを持たなくても良くなるんじゃないかなっていう、そんな感じがしますね、
もちろんだからといってね、僕はここであのいわゆるミニマリストとかね、あの製品、清い貧しいと書いて製品みたいな、そんなことが言いたいわけじゃないよね、本当に欲しければその自分を幸せにするものとして大切にすればいいし、それを得ることをね、得るためにね、努力したり頑張ったりすればいいと思うんですよ、
例えば私にとってのその楽器っていうのはその一つなんですね、これはえっとなんというかな楽器そのものが欲しいというよりも、私がその楽器を弾くことによって表現できる音楽、これのなんか道具として欲しいわけね、で私がこの音楽を奏でるということはまさに私の心の活動なので、そのために必要なものなんですよね、もしかしたらこの今私がいつも使っているMacね、パソコンこれもそうかもしれない、
だから本も欠かせないかもしれないですね、だからえっと今は随分と買わなくなりましたけど、私にとって服というのもね、この心を豊かにするものの大切な一つなんですよね、やっぱりどうでもいい服を着て街を歩くときにやっぱり慣れない、これはえっと誰に見せたいとか、誰と比べてかっこいいかとかそういうことではなくてね、なんか私の一部のような感じがしているんですね、
だからこういうものとしてね、まさにその象徴みたいなものをゲットするのは全く問題ない、でもその何が欲しくてこれを私は得るんだっていうその意味の方ですよね、それが何を意味していたか、何の象徴だったかっていうここを忘れてはいけないんじゃないかなと思う、ということはですよ、やっぱりますますね、この自分にとって何が必要なのかを自分で決めていいってことなんじゃないかと思うの、
もし60年代に生きていてね、三種の神器だよとこれを持ってないとハッピーじゃないよと言われたとしても、えー別に俺テレビいらねえし、みたいなことでずっと買わないみたいな選択があっていいと僕は思う、まあ60年代は難しかったかもしれないけども、現代であれば、この多様化した時代であれば、それをまさに自分で決めていいんじゃないかと思う、
そうするとさっきの文脈の中のね、この年齢までにこうなっているの、こうなっているは自分で決めていいんだってことになりますよね、だからここをその世の中の文脈に乗っからないという選択はそれほどその悪くはないというね、こういう認識、これが第一なんじゃないかなと思う、で第二はさっきのもう一つのね、この年齢までにというこの時間軸ですよ、ここを何で添わなきゃいけないんだっていうことをね、
時間軸と文脈
問い直すっていう、この時間軸に沿ってこのみんながいいと言っている象徴をゲットするという、もうその象徴をゲットするっていうところは今ね、ちょっとそうでもないんじゃないっていうところでね、ちょっと折り割りをつけたと僕は思っている、あとはこの時間軸ですよ、これはその面白いことにね、この時間というのは実はこの僕らが作った文脈の一つが一部なんですよ、なぜかというと、
何も何も意識せずに何も考えずにこの世界をパッと見渡したときに時間というものはどこにも存在してないんですね、これは常に僕らの頭の中で今は何時だとかね、あと何分しかないという、このなんていうのかな、思考が生み出すこの概念でしかないわけ、そしてそれをなぜ考えるかというと、僕らが沿っている文脈の中に時間というものが定められているからなんですね、
まさにだから面白いことにこの世の中の文脈というその文脈の中自体に時間というものが埋め込まれている、そもそもセッティングされているんですよ、これはまあ例えるならばね、そのサッカーと同じなんですよ、サッカーというゲームには前半45分、後半45分っていうね、で間に15分かな、休憩があるというこの文脈が入ってますよね、
でサッカーからこの文脈を取ってしまうととんでもないゲームになるわけ、時間無制限でゴールを取り合うってね、ゴールを入れ合うっていうこれ全然勝負もつかないし、見ててちっとも面白くないですよね、だからこのゲームを面白くするためには45分縛りという文脈が必要なんですよ、
でも面白いことにこの野球というゲームの中には時間という文脈がほぼほぼ入ってないんですね、まあ今はダラダラやらないようにピッチャーがボールを持ってから何秒以内に投げなきゃいけないっていう部分的にはこれが導入されてるんだけども、
よーく考えてみるとね、野球というのは実はこれはすごいゲームでね、終わらない可能性があるゲームなんですよ、で僕はこれにかなり近いやつを一度、まあ僕だけじゃなくて多くの方が目撃してると思うんだけど、確か2006年だったっけな、夏の甲子園ですよ、
で翌日また9回をやって24回で勝負がついたっていうね、そういう本当に長い試合がありましたよね、でもこれは原理としてはですね、ずっと終わらないっていう可能性もあるわけ、確か翌日4対3ぐらいで決着がついたんだけども、この日も延長15回引き分けっていうことはあり得るわけね、そうすると1週間経っても1ヶ月経っても決着がつかないみたいなことはあり得るわけ、
でこのようにサッカーは45分縛りのゲームであると、でも野球にはその時間の文脈は流れていないというね、こういうものの中で僕らは暮らしているわけですよ、
だとしたら実はこのね時間の概念を自分の人生にどのように適応するかというのも、実は一つではないということなんじゃないかって気がする、これはとてもですね、このように先ほど最初にね冒頭にお話ししたようなこの人生設計が崩れたっていうこの感覚を抱いた時には、僕はゲームを変えてみるっていうのはすっごく大事だと思いますね、
ここにだからこの年齢までにこのようになってなければならないという文脈がすごくのしかかってきてね、ここから出るなみたいな圧力がかかるわけですね、かかるんだけどももうそこでやれないよねと、今とてもじゃないけど45分走る体力もないし気力もないよねって言った時には、
なんかもうちょっと野球のようなゲームを今は少しやってみようかなと、その間を空けてねちょっとタイムとかして、で素振りを3回ぐらいしてゆっくりとこうバッターボックスに入っていくみたいなゲームもあるわけですよ、ということは僕らの人生の中にそのような例えばね、そのようなジャンルのやることみたいなこともおそらくあるはずなんですよね、
そのように自分の時間を過ごすことは悪いことではないはずなんですよ、全てにおいてこの時間が流れている、この時間の縛りがある、そういう文脈のゲームだけではないというね、そんな感じが僕はするのね、だからあとはですね、これ実はね時間の問題のように見えて、実はそうではないんですよね、
これは多分だけども、今の自分が人にどう見られるか、この自分が人にどう思われるかというここだけなんじゃないかなって気がする、つまりですね、これはまあ受験で言うと浪人するみたいな感じですよ、現役で受かっている人がみんないると、自分のクラスの友達はみんな現役で受かったと、自分だけ浪人しなきゃいけない、その自分は今どう見られてるんだろうね、
人にどう見られるか気にする感覚
それが一浪ならよかったけども、また失敗して二浪になってしまったと、さらに人にどう見られているかが気になるよねっていうこの感じ、これが多分この僕らが時間を気にする感覚の裏にある正体だと思うんですよ、そうでなければ人にどう見られるかを気にしなければ自分の速度が遅かろうと速かろうと人の倍かかろうと3倍かかろうとのんびりしていようと全く関係ないはずなんですよ、
だから何言って何が悪いのっていうそういう感じですよね、だからおそらく一人で家で何かをするときに、この例えばそうだなラーメンを作るのに何分かかったかとかね、ラーメンじゃダメかな、ラーメンはもう3分とか決まってるんでハンバーグでもいいですよ、
ハンバーグを作るのにどれくらいかかったかと、下手すると僕が作るとしたら半日くらいかかるかもしれない、気にならないですよね、でもこれが例えば料理学校とかに行って自分と同じハンバーグを一斉に15人が作るとかってなると自分だけ人の倍かかるっていうのは我慢ならない、なぜかこいつダメなやつだなと、こいつ何か才能ないなとかね、こいつ不器用だなとかね、
なんかもうそもそもこいつは人としてありえないんじゃないかみたいなことを思われたくないっていうこの感覚だけですよね、でもよく考えてみると、そのね、例えば僕が会社で働いていて、うわぁどうも調子悪いなと、少し小休止したいなとかね、
例えば僕が女性でね、子供が生まれたな、子育てだな、これから始まるなという時に、その自分を見て、あの人はもうこの幸せな道から外れたんだねみたいなことを誰が思うんでしょうね、おそらく誰も思っていないんじゃないかなと僕は思う、特にこの現代のね、今の日本においては、
そんなことをいちいち、あいつ負けたなとかね、あいつもうなんかこの道から外れたんで成功者ではないなみたいなことをいちいち心にね、思い描く人が本当にいるのかなっていう、もしいたとしたらそれはその人の方がおかしいんじゃないかなっていう感じがしませんかね、
まあまず僕はいないと思うし、いたとしたらそれはもうどうぞそのように思っておいてくださいって言っていいようなそんな感じがするんですよね、だから多分これは心象なんですよ、僕らが自分の中で勝手に感じているそういうなんつうかな、やっちまった感っていうのかね、ある種のまあ一つの劣等感なのかもしれない、自分だけこの道から外れてしまったみたいなそんな感覚、うん、
これをね、なんとか手放せないかなと思うんですよね、人にどう見られるか、人にどう思われるか、しかもですね、自分が今参っている時なんですよ、ここでやっぱりこの自分をしっかりと見てあげて、この自分に今何をするのがふさわしいのかということをね、考える以前に人にどう思われるんだろうかってね、この人生、他の人が見てどうなんだろうみたいなことを考えるのは順番がちょっと違うんじゃないかと思う、
そういうことは置いといてですね、そもそもそんなこと気にする人はいないだろうし、多分思い過ごしだから、うん、だからこれを思うから多分焦ったり不安になったりするんですよね、早く元に戻さないと、どう思われるかわかんないみたいなこの感じ、
うん、だからここを手放すということで、僕らはこの時間軸からね、この文脈にある時間軸からまさに解放されて自由になるんじゃないかなって感じがするんですよね、うん、で、このようにしてまずこの年齢までにこういうようなことをしておくの、このようなことをしておくは、そっかそっか、なるほど、僕らがやってるのは象徴を手に入れること、そしてそれによって実は不自由になっていたんだな、
ということで手放す、そしてこの年齢までにというのは、えっとそもそもその時間を自分の人生にね、どのように当てはめるかは自分で決めていいんだし、えっとそれがどのように人に移ろうかな、移るかなんか気にしてもしょうがないんだということでこの2つを手放すわけですね、
で、そうすると、えっとここで以前にもお話ししたようにね、この自分が剃っていたセカンドベストなんだけども、これが一番いいんだろうなと今のところね、そこで乗っかっていたこの世の中の文脈がなくなるわけですね、そうすると少しやっぱり困る、じゃあこの先どうすればいいのっていうね、そこでやっぱり僕は同じ繰り返しになりますけど、
えっとこの世界にもともとあった文脈に自分を置いてみるっていうことです、これがやっぱりですね、えっと最も自分を自由にする方法なんじゃないかなと思います、問題はですよ、あの以前も言いましたけど、この世界にある文脈って何よっていうその答えですよね、僕はね、そこを以前も言わなかったんですけども、今日も言うつもりはなくて、えっとそこに何が書かれているかは知る必要はないんですよ、そうではなくてね、書かれていないことはなんだ、制限されていないことはなんだ、
っていうことを感じればいいわけ、パッと自分が今生きているこの世界を見渡すわけ、ここに何が書かれていないか、例えばこの年齢までにこのようなことをしないとこの世界では幸せになれないと書かれているかっていうことですよ、それを見てみればいい、そんなものは多分どこにも感じられないはず、少なくともこの時間までにこういうことをお前は手に入れなければいけない、そんな制限はこの世界にはないはずなんですね、
自由な時間軸で生きる
これが僕は世界の文脈だと思う、だから書かれていることを理解せずともそこにはないものを感じればいいんですよ、これが世の中の文脈とどれだけかけ離れているかっていうことがわかればいいんですね、いやいやいやさすがにやっぱり20代までにこういうことをして30代までにはこういうことをしろとこの世界の文脈にはどこにもないよな、これはわかるはずなんですよね、書かれてないことは僕らは多分見抜けるんですよ、
ここに身を任せてみるんですね、そして時間というのは確かに世の中には流れているからそことを完全に無視して完全に離れて暮らすことはできない、だから例えば人と会う約束をするとかいついつまでに何々をするとかっていうそういう期限みたいなものは一応僕の文脈として受け入れておきましょうと、
これは世界になかったとしてもね、僕らが作ったその仕事とかゲームとかねそういうものの中で生きる限りここは無視できない、でもそこから離れてねこの世界の文脈に自分のこの身を置いたときにはそこはないよなっていう風に暮らすことも実は自由にできるということですね、そこを選ぶ使い分けることができる、そしてもっと大きなスパンで今自分はどんな状態なんだろうと、
例えばこのなんつーのかな調子悪くてなかなか仕事がうまくいかないと、そっかそっかとこの私に今どんな時間軸を与えればねいい感じで元に戻れるんだろうかとかねこの事業ビジネスがうまくいかなかったときにどのような時間軸を自分にこの当てはめたら立て直す余裕というかねじっくりこの修正をするそんな時間が得られるんだろうかとかね
例えば子育て出産みたいなことでそれまで沿っていたねこの世の中の文脈から少し外れたような感じがしたときにじゃあこの今私がこの子と一緒にこの世界という文脈にいるとしたらえっとそこには何が書かれていないんだ
焦んなきゃいけないって書かれてるのかそんなことは多分書いてないよねとそれを自分で感じながら一旦ねその子供の頃からこの襲ってきたこの年齢までにこうなればハッピーみたいなこの文脈から離れてみるってことですね
そしてまたそのその時がくればですよ
例えば気力体力そういうものが充実充実したときもしくはそれなりにその子供をねこの保育園とかそういうところに預けて何かそのする時間ができたときにまたそこに戻りたければ戻ればいいんですよね
いつでもそこに戻るか戻らないかも多分自分で決められる
そしてそれがねえっと他の人よりも例えば10代遅れてるとかねみんなが30代でやってることを私は40代でやってるなぁだから何ですよ
うんそんなものをその気にせずにねまさにこの自分の人生を歩くというこれがまさにその自分に優しい自分に幸せな選択なんじゃないかなと思います
だからこの人生設計が壊れたなぁと思って焦りや不安を感じたときはねこのようにちょっと考えてみるといいんじゃないかなと私は思いますね
今日はこんな感じですかねあの私がやってるジャジュインワーク月に2回やってるんですけどもね
えっとこれが実は最近なんとなくでこの世界の文脈というかねもともとこの世界にあった文脈を感じるっていう
多分そういう要素というかなもしかしたら僕はその無意識のうちにねその目的を持ってこのイベントを始めたんじゃないかなと最近感じているんですね
だからこのジャジュインワークにある7つの作法というのがあるんですが
人生の設計と不安
恐れや不安を解消するためちゃんとするためのことをやらないみたいなことが1個あるんだけどもそれはこの世界に書かれてないよねっていうそういう確認をしている
でこの書かれていないこと7つをねその心に留めておいて何かをやると自然とこの世界の文脈に添えるんじゃないかっていうそういうなんかね
自分でもよくわかっていなかった効果というのが最近わかり始めてきてるんですね
でこれを今週末のえっと4月8日の1時からまた開催しますのでよかったらこんな体験ができるイベントという風にね
そんな風に捉えて参加してみると面白いかもしれないです
えっと今回はリアル会場は申し上げない私の近くの南大沢になってしまうんですけどもねもうあの何人かお持ち込みいただいてて本当にすいませんという感じなんですが
えっと同時にあのオンラインでもやりますんでねえっとハイブリッドですんでぜひご参加ください
じゃあ今日はですねえっとそんなわけで世の中に脈々と流れているねこのこの年齢までにこうなっているのがハッピーというね
そこからちょっと外れてやばいなぁと調子悪かったりその諸々の事情でねなんか俺は今この道から外れてしまってるんじゃないかっていうそんな感じがして
不安とかね焦りを感じた時はあれここから外れるっていう選択もあるよねっていうことで安心してねこのいい1日をお過ごしくださいありがとうございます