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五代スポーツポッドキャスト、すぽきゃす。この番組は、スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す五代グループの提供でお届けいたします。
はい、本日のインタビュー。白楽支店、広北支店ヘッドコーチ、鳩谷和宣コーチです。この方ですね、とにかくスケールが大きい方でして、身長が185センチ。肩幅もガッチリしてます。
ドライバーなんですが、僕も一回見たことあるんですけどね、300ヤード飛ばすんですよね。これ平均だっていう噂があるんですけど、ちなみに鳩谷和宣コーチの平均300ヤード、これいいですかね?
平均300ヤードってすごくないですか?
300飛ぶ最大ではないんだよね。平均ですかってヤバいですよね。ガチです。
ガチですか?今横に橋場コーチがいたんで、実際に聞いた方が分かると思って今話しかけちゃったんですが、300ヤードとにかくスケールがでかくて、ちなみにレッスン中の声も大きいですよね?
やっぱりあれは真似できない。
なるほど。遠くにいてもレッスンしてるのが正直分かる。そんなスケールがでかすぎる鳩谷和宣コーチなんですが、見てるだけで元気がもらえるコーチです。
とにかくいろいろな経験をされていました。話を聞いてですね。だから鳩谷和宣コーチってこんなにでかいんだと。身長だけじゃなくて、こんな大きな男なんだっていうことが理解できるお話なので、ぜひ聞いてください。
ゴルフコーチ鳩谷和宣です。よろしくお願いします。
今ちょっとびっくりした話があったんですけど。
大体僕聞いてるんですよ。皆さんに誰かの聞いてくれてるかなっていうところで。だいたい今聞いてくれてるリスナーさんはまたこのくだりかみたいな話なんですけど。啓蒙も含めてですね。
そしたら鳩谷さんは知ってるけれども奥様も聞いて、奥様が聞いてくれてるんですね。僕としてはそれ結構今ヒットで。すごい嬉しかったです。いつか一緒に乾杯したいなって。
このポッドキャストですね。おそらく鳩谷さんが一番最後のゴルフコーチになるかなっていう感じがします。今まで橋場コーチも藤田コーチも福田コーチもやってきてですね。これが最後にはならないと思うんですよね。
今日もですね、今まで話したことないことをすべてさらけ出してもらおうかなと。僕はこうして鳩谷コーチのいわゆるゴルフストーリーっていうか、強いて言うならゴルフに出会う前というきっかけとか聞いたことがなかったんで。個人的にゴルフがやっぱり大好きなんで、ゴルフコーチの話をいつも興味深く聞いてるんですけど。
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そのところでですね、鳩谷コーチはご出身はどちらですか?
東京の江戸川区ですね。
江戸川区?江戸川区のなんていう?
火災ですね。
火災?臨海公園火災?
そうですね。臨海公園から直線で4キロぐらい北駅の方に向かって行ったんですよ。
そうなんですね。そうするとディズニーランドの近くになるんですか?
ディズニーランドはどちらかというと臨海公園から見て真東になるんですけど、うちの家は真北の方に。
そしたらもう江戸ですね。東京育ち。
江戸は埋め立ちですけどね。江戸川区は。
そこで生まれて、ずっと育ちは?
ずっとそっちです。
学生の頃からゴルフに出会ってたんですか?
私はゴルフはプロになるって決めてから始めてるんですよ。
プロになるって決めてから?
そうです。
どういうことですか?どういうタイミングだったんですか?
もともと私の身体的部分がどうしてもデカいので、小さい時から親に冗談まじりでお前はスポーツ選手だなって言われてたんですよ。
幼い頃からデカかったんですか?
早生まれなんですけどデカいんですよ。
お父さんも大きかったんですか?
うちの父は165cmくらいしかないんですよ。
うちのお袋が153cmくらい。
父親の方のおばあちゃんが大きかったんですよ。
おばあちゃんが?
おばあちゃんが明治生まれて165cmあったんで。
大きいですね。お父さんと同じくらいあったんですね。
うちの父親の兄弟はうちの父親が一番小さいんですよ。
あとはみんな175cm以上あるんですよ。
そうなんですね。
185cmです。
もう小学生の時?
もう幼稚園の時から後ろから3番より前になったことはないんですよ。
そうなんですね。
高校生まで並ぶとか集まるとかっていうグループ体系の中では
後ろから3番より前になったことはないです。
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そうなんですね。
だからずっと成長止まらずに来た。
今は伸びてないですよね?
今は伸びてないです。
その頃から体大きいしスポーツだなと。
冗談まじでうちの父親がスポーツ選手だったら金押しになれるぞなんて言ってたんですよ。
私も欲が深いもんですから何でも買えるなみたいな。
その時はスポーツの歴史、小学生から何をやってたんですか?
正直な話、小さい時からスポーツ選手って憧れてたので
当時スポーツで飯が食えてたって言ったら野球しかないじゃないですか。
ましてや大長島、前世紀の時代ですから。
だから最初はプロ野球選手にならったんですよ。
だから小学校2年生から野球始めたんですよ。
そうなんですね。
小学校2年生野球始めてそこからどれくらい野球やってたんですか?
野球は中学卒業までやってましたね。
ただプロ狙ってからは野球もプロ野球選手になりたいと思ってやってるわけじゃないですか。
だから少年野球チームに入っても5年生の終わりくらいからリトルリーグに転校してたんですよ。
いきなり高級の方でできるようにいってそっちで転校してやったんですよ。
それが小学校5年生に転校して、そのままリトルリーグで中学校3年生に…
中学入るくらいまで、中1の途中くらいまでやってたんですけど、
ちょうどその頃目悪くしてピッチャーが投げる回転のボールが見えてたから打てたんですよね、当時は。
ましてや超出力もあったんでよかったんですけど、目が急に悪くなって、
球の回転が見えなくなったんですよ、ボールの回転が。
ピッチャー投げるボールの回転が見えてると、
昔よく川上監督が現役の時にボールが止まって見えるなっていう話が実話であったんですけど、
本当にそれくらい見えるんですよ、ボールが。
この回転だと思うから合わせられるんですよ。
それが見えなくなっちゃったんですよね、急に。
視力が落ちたってことですか?
視力が落ちたんです。
急にそれで野球に自信をなくしまして、これはプロでやっていけないと思って。
一応メガネはかけたんですけど、あまりにも急激な目の悪さでドキンガンみたいになってるわけですよ。
だからメガネかけるとその屈折率で球が要は着てる角度が違うわけですよね。
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だから打てなくなっちゃったんですよ。これはいかんと。
それで次プロとしてやってるんだって言ったら、ゴルフしかなかったんですよ。
そのいわゆるボール見えなくなってだんだん自信なくして、
じゃあその当時鳩谷少年は自分がこれじゃあプロで飯食っていけないと。
じゃああと目悪くなってもできるものは何かっていうことを考えたらゴルフだったんですか?
プロとしてお金が稼げるというスポーツの業種ではゴルフしかないわけですよ、日本ではその当時は。
ちょうどその時に出てきてたのが中島敦彦選手だったんですよ。
中島さんはこれメガネかけてるじゃないですか。できると思ったんですよ。これはできるかもしれない。
そうですよね。漫画にでもなってるくらいですからね。
その時にいわゆるテレビで見てたりですとか、
あとすごいですね、プロで飯食えるのはどれかっていうセレクトだったんですよ。
もうそれしかないんですよ。最初からそれだけ読みたかったんですよね。
夢とか生むんじゃなくて、金稼ぐのは何かって考えただけですからね。
それはでもある意味僕らからしたらすごいですよ。
稼げる稼ぐっていう気持ちがあったんですよね。
それは今までいろんな人に聞いてきて、
ほとんどの人がゴルフを始めた後がテニスを始めた人とか
ゴルディキッズのコーチで言えば陸上ですとか、他のスポーツをやってた人もいるんですけど、
だいたいご家族の影響なんですよ。お父さんがあって、お母さんがあっていうことで。
僕もそうなんですけど、羽田さんの場合はゴルフだって思ったので、
お父さんとかご家族の影響じゃなかった。
いや、それもありましたよ。うちの父はゴルフ大好きでしたからね。
やはりお父さんはゴルフされたんだ。
そこそこなかったんですよ。シングルではいましたから。
その影響もあってゴルフを身近に感じることはできたんですね。
ゴルフはプロがある。野球がプロがあるっていう選択肢はしてたんですよね。
なるほどですね。
今テレビでもよくやりますけど、野球やってた方ってすごい飛ばす人多いじゃないですか。
そうですね。
一番最初ゴルフやろうと思ってやるきっかけを作ったわけですよね。やりたいっていうか。
その時に一番最初にやった感触ってどうだったんですか?
一番最初にやりたかったんですよ。
父親に連れられて練習場に行って、
付き合いでお前来いって言われて行ったのが小学4年生の時ですよ。
じゃあまだ野球…
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野球も全然やってる時。まだリトルリーグには行かないで少年野球チームでやってる時で。
じゃあまだ回転読めてた時ですね。
そうです。
その時は父親の使わなくなった4番ウッドを短く切ってもらって、
4番ウッドで打ってたんですよ。
4番ウッドってまだ難しくないですか?
最初だから何も分からないじゃないですか。
だからそのまま打ってましたよ。
野球でも打つほうが好きだったんで、バッターのほうが好きだったんですよ。
なるほど。
じゃあ打つっていうところに関しては、
やっぱり野球はやっぱりバッターのほうが好きだったんですか?
そうですね。
じゃあ打つっていうところに関しては、
いわゆる親和性があるからスイングとかスイングの軌道も、
そういったところではあまりストレスなく…
そうですね。打ててましたね。やっぱり最初は。
そこは大きいですよね。
僕らは大人になってから始めるじゃないですか。
長いんですよ、ボールまでが。
ドライバーなんか持った日には、まず感覚が分からないですよね。
やっぱりありますよね、そのギャップっていうのが。
やっぱりその頃から当たってるんですか?
いや、当たってないですよ。ただ単に負けず嫌いなんで。
当たらないのが悔しくて、そのままずっと打ち続けるんですよ。
打ち続けるんですね。なるほど。
そういったゴルフをそこの時にやろうと思ったのが、
プロでやれるのはここだと思ったのが、タイミングとしては小学校5年生ですか?
それとも中学生になってからになるんですか?
漠然と考えたのは小学校6年生ぐらいですかね。
ゴルフのプロになりたいかなって思ってたのは、
ちょうど目が悪くなってる時だったんで。
だから小学校の時の卒業の文集っていうんですか、
あれにプロゴルファーって書いてありますもん。
そうなんですね。それ今度写真撮らせてください。
初めて見るから。
そうなんですよね。
それで中学校は友達と離れたくなかったんで、
そのまま地元の公立に行ったんですよ。
だからゴルフなんてあるわけがないですよね。
それで野球は続けてたんですよ。
でもそれは良かったですよね。
そうですね。野球部って休みないんですからね。
ないですよね。
とにかく朝練は毎日だし、夏休みは1日もないし。
一番忙しい時期でしたよね。そう考えると。
そうですね。
ちょうどその時の突っ張りが流行ってるあの時代ですから、
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逆に言うとそっちに流されないで良かったかなと。
なるほど。でも突っ張りより強かったんじゃないですか。
誰も相手に来なかったですね。
来なかった。さすが。
僕は個人的にはボスって言ってるんですけど、さすがですね。
誰も来なかったですよ。
私もそういうのが好きじゃなかったですからね。
みんな仲良くが好きだった。
なるほど。
その高い時期を経て、進学を高校生になって、その後はどうだったんですか。野球は?
野球は中学校の時に引っ張り辞めて、高校受験は自分で選んで行ったんですよ。
要はゴルフ部のあるところに。
そこでもう明確だったんですね。ゴルフ部がある。
ゴルフ部があるところで、完全にゴルフ付けにできるところ。
やっぱり当時から有名だったのは日大だったんですよね。
日大行けば絶対あるだろうって。
ここ日大のどちら?
私は千葉日大一校。
本当は両国にも両国の日大一校ってのがあって、その兄弟校なんですよね。
両国のほうに行ってもよかったんですけど、両国のほうには近所の嫌な奴がいたんで。
近所の近くに住んでるお姉としぐらいの、一つ上だったかな。一つ上のそれなじみの先輩がいたんですけど、嫌な奴だったんですよ。
こいつが言うなら行かないと。
それでほら、千葉方面だとちょうどラッシュがないので、電車通勤で。
帰るときも。
行きも帰りも。
逆になるから。なるほど。
それで千葉日大行ったんですよ。
そしたら千葉日大行ってラッキーだったのは、ゴルフの高校の大会の中では、日本で5分の1に入っている教皇校だったんですよ。千葉日大って。
絶対僕そんなに知らなくて、ただ日大だったから行っただけで。
入ったらすんげえ教皇校だったんですよ。
そうなんですか。うまい人がいっぱいいたんですか。
そうです。日本でジュニアで名を馳せている奴とかいたんですよ。千葉日大は。
それは全然情報なく、ここでゴルフ部があると。ゴルフって言ったら日大だろっていうブランドで。
でたまたま言ったら運が良かった。だから最初入部するのにも面接があったんですよ。
入部届出して入れるわけではないんですか。
そうなんです。面接があって、誰を入れるとかって上では決めるんですよ。
だから逆にスポーツ歴何やってたとか、いろんなのを聞かされてみて。
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ましてや我が体がでかかったので。その点においては入部されたんですけど。経験なくても。
雰囲気が。期待されますよね。
期待っていうよりも下手な奴が入っても持たないだろっていうのがあるんでしょうね。
その後その高校生活はいかがだったんですか。
部活が強豪校だっただけにめちゃめちゃきついんですよ。
練習がとにかくきつかったですね。打つ練習じゃなくて基礎トレーニングが半端なかったんですよ。
やっぱり強豪の高校とかってそうなんですね。
先輩のたらたんなるしごきっていうかそれをサティスティックに見てるっていう。
いわゆる可愛がりですよね。
ある業界では可愛がるという。間違いなくそれですよ。
厳しかったですね。
一年生の入部してからが地獄でしたもん。足が痛くて動けないんですよ。だって電車乗れないですもん。
それはもう本当にきつすぎちゃって。
もうきつすぎてきつすぎて。当時まだうちの実家は和式のトイレだったんですよ。
座れないですよ。足の筋肉が筋肉痛で。
それで俺に行って洋式に帰ってくれって言って帰ってもらったんですよ。
最初入部してからの一年生の時の半年間は一日たりとも筋肉痛がなかったことがなかったんですよ。
学校の外周が1.3キロあるんですよ。千葉西大って。田舎だからめちゃめちゃでかいわけですよ。
でそれを先輩は軽く5周とか10周とかって言うんですよ。
気分で。
気分で。でまず軽く僕一番ランニングが大嫌いだったんですけど先輩命令はするしかないじゃないですか。
でいつもビリッケツなんですよ私が。だいたい走るの苦手なので。
苦手だったんですね。
短距離は好きなんですけど長距離は大嫌いなんですよ。
でそれでいつもビリッケツで回ってくるとその次のメニューがあるんですよ。
それがスクワットなんですよ。
きつ。
でそのスクワットが部員の数×1人100回数えなきゃいけないんですよ。
部員の数何人いたんですか?
13人から始まったんです。
13人から始まるんですか?
13人だから1300回。
1300回もスクワットなんて当時やったことがないじゃないですか。
やらせるんですよ。
1300回って連続でですか?
連続で。
持ちます?
持たないですよ。
持たないですよね。
持たないけどヘタリ込んでも立てこの野郎言われて蹴りが入って思いっきり立たせるんですよ。
でそれでもう本当に泣きながらの状態ですよね。
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いつかこの先輩殺すと思ってました。
その先輩方はやらないんですか?
やらないです。
1年生の時その先輩たちはやらされてるわけですよ。
それを次はまた後輩職に。
もう日台の悪い週間ですよ。
なるほど。
昔の卓球はそれはもうあれですけどね。
職種というか種類のスポーツでも先輩の仕事ってそんなもんだなという時代でしたから。
そうですよね。
でも相当強くなったんじゃないですか。
ほんっぱなかったですよ。
冗談抜きで、当時1年生入部した中には本当に私と同じでプロ目指してたやつもいたんですよ。
それがキャプテン、後のキャプテンになって私が副キャプテンになったんですけど。
そいつがあれでしたよね。
トレーニングを普通は1年生の時で終わって2年生からは後輩をいじめるっていうパターンになるじゃないですか。
そいつがいたから今度は2年生でも3年生になってもずっと練習を続けるんですよ。
へー。
だから高校3年生までスクワット1000回より少ないって時ってそうそうなかったですよ。
すごいですね。
だからキャプテンがやるんですよ。
俺もやらなきゃいけなくなるし。
そしたら私たちの同期の3年生は部活行かなくなるわけですよ。
練習の時行くと。
トレーニングの時は来ないとかってなるわけですよ。
そうですね。
要領が良くなっちゃったりするとまたね。
そうなんですね。
だからそいつのおかげかもしれないですよね。
基礎体力がついたっていうのは。
すごいですよね。大きいですよね。
で、高校2年になる頃に千葉西大で中東部もあったんですよね。
まだ中学生の部があって部室が同じなんですよ。
そしたらジャンボ酒の息子が入ってきたんですよ。
中東部に。
私が高2の時に彼が中1で入ってきたんですよ。
部活で。
だからね、ゴルフやってる人間だったらジャンボ酒って誰でも知ってる。
そうですよね。
もちろん誰でも知ってますよね。
今でも知ってる。
今でもレジェンドになってますけど、その当時がレジェンドですから。
ただ、私が高校の時はジャンボが大スランプの時で。
低迷で舐めが消えかかってるぐらいの時だったんですよ。
そうだったんですね。
で、その時に息子が入ってきて。
案外息子と気が合ったんですよね。
そんなに怖くない先輩みたいに思われたらしくて。
高校生の鳩谷先輩が怖くなくて。
それで、お前に連れてけと。
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プライベートの時にお前に連れてけよって言ったら、いいですよって連れてってくれたんですよ。
で、私とキャプテンやってたやつと2人3人でジャンボの家に行ったらジャンボさんいたんですよ。
お家に。
お家に初めて行って初めて会って。
で、お前らなんだって言ったら。
僕千葉西大のって言ったら。
長道の後輩かって。
ジャンボさんの弟に長道さんっているんですよ。
長道さんが第一期生なんですよ。千葉西大の。
そうなんですか。
で、それでゴルフ部を立ち上げたんですね。
そうなんですか。
で、それでお前後輩なのかって言われて。
で、言われてそうですって。
全部お前後輩的やなって。ジャンボさんもでかかったんで。
そうですよね。同じぐらいですよね。
いや、私もでかいんですよ。ひと回りでかいですよ。
ジャンボさんは実際会うとスラッとしてるんですよ。
そうなんですか。
すごい大きく見えますね。
大きく見えるんですけど、お腹周りもでかいの見えるじゃないですか。
すげえ細いんですよ。
そうなんですか。
今はね、女子のプロ一人なんか。
そうですよね。ハラエリカさん。
あの綺麗な子ね。スラッとしてる。何人もいるんですよ。
たまたま彼女が出てるだけで。これから出てくる子何人か来ると思うんですよ。
そうなんですね。
そんな出会いがあったんですね。
そうなんですよ。それがあって、たまたまトレーニングルームをジャンボさんが自分のために作ったと。
で、出来た学会だから、お前たち使っていいぞって言われて。
そのトレーニングルームを使うようになったんですよ。
昔は根性理論のあれだったのが、今のサイエンス的なスポーツの先駆けだったんですよね。
そうなんですね。その根性スクワットなんかよりも遥かにレベルの高い設備がその時に出会ったわけなんですよね。
それが高校2年生の時。
だからその時に、ちょっとジャンボさんのその家に研修生がいたんですよ。
で、それが今の金子中堅さんで、日本の書家が。
まだ彼なんかが、金子さんなんかがまだ研修生。
面倒見てたんですか。
3人いたんですよ。
そうなんですか。
そういうやっぱり弟子というか。
弟子を育ててましたよ、ジャンボさんは。
そういう名前があるんですかね。
そう、みんなだから、昔からやっぱり習いに来るっていうか、弟子入りするっていう感じで3人くらいいて。
で、もちろんね、私たちの年上ですから、犬が来たっていう形で、今度は子間遣いさせられるわけですよ。
犬の散歩行ってこいとか、車洗いとか。
なるほど。
当時ジャンボさんがめちゃめちゃでかかったんで。
敷地は本当に千数個以上ありましたからね。
すごいっすね。
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すごいですよ。
戦争ですか。
庭がテンスコート一面有にあるんですから。
すごいっすね。
その他に駐車場があって、車10台以上停まれるところがあって、その他にトレーニングルームのアパートがあって、家があるじゃないですか。
その裏にプールもあったんですから。
だからプールも掃除しろって言われて。
飛び込み台があるようなトレーニングルームですよ。
すごいっすね。
大豪邸ですよ。
都内にある?
奈良市の方にあったんですね。
奈良市の自衛隊のすぐ隣にあったんですよ。
だからいつも帰り道にジャンボさんのお店もあったので、ゴルフショップがあって。
だからいつもゴルフにおいては千葉に行ったおかげで、めちゃめちゃいい環境になってたんですよね。
だから高校を卒業したらすぐプロになるって、プロの道に入ろうっていう、自分の作ったレールがあったんですよね。
そこまで順調に行ってたんですよ。
そこまでも?
そこまでも。
この番組は提供、ご大グループ、プロデュース、キクタスでお送りいたしました。