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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、前提と態度というお話をしたいと思います。
サイコパスのラジオもですね、残すところ2回ということで、
最終回はですね、4年間を振り返るとかをしようと思っているので、
事実上ですね、このテーマトークみたいなものが、サイコパスのラジオとしてですね、テーマトークみたいなものが最後ということで、
何を話そうかなというふうに思ったんですけど、僕がいろいろこのテーマトークで
思うことを話していると。その思うことを話している土台となるというか、前提となる
世界認識みたいなところ、自分はどのように世界を見ているのかという根本的な足場みたいなものを、今日お話ししたいなと思っています。
過去の配信会でもですね、いろんな形でそういう話はしていきたいのかなとも思いますが、改めてですね、
2024年、5月現在のですね、僕が持っているというか、どのように世界を見ていて、
どういう態度でその世界に臨んでいるのか、みたいなことをお話しできたらと思います。
だからこそ、このようなアクションになっている、みたいなのにですね、今後のお話とかが繋がっていけば、
そこと合わせてですね、見ていただけると、なるほどとなるんじゃないかなと思うので、
うまく伝えられるかちょっとわかりませんけども、お話ししてみたいなと思います。
世界は意味がないと思っていると、根本的に意味がない。
そう言うとね、やっぱり怒られることが多いんですが、根本まで遡っていくと、やっぱり意味がない。
なんで生まれてきたんですかって言っても、後から意味づけをして、このようなために生まれてきたとか、このような使命を持って生きているとかっていうのは、
個人の自由なんと僕は思うんですけども、とはいえ、生まれながらにして意味が与えられているなんてことはですね、ない。
というような立場というか考え方をしています。
これが宗教とかになってくると、命みたいなものにも意味が与えられて、生まれながらにしてこのような意味があるとかいうことが説明されたりすると思うんですけども、
僕はおそらくそういった意味では無宗教というか、あまり意味みたいなものが絶対的に存在しているというふうには思っていなくて、
各個人が意味みたいなものを作り出していて、その意味と意味が重なり合う形で、僕たちはこの社会を形成しているというふうに思っています。
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だから、個人の意味づけでしかないのだとすると、でしかないわけじゃないんだけどもね、いろんな人が意味づけしている、全員が意味づけしている中のバランスの中で生きているんだけど、
でも、自分という意味では自分で目の前のことに意味づけすることができるよねと、だったら人から与えられるとか社会から与えられる意味をそのまま内面化する必要がないというかね、
してもいいんだけどね、もちろんするというのも個人の意思だし、それをしないことも選択できるよねっていうことを僕はいつも言っていると。
もう少しポジティブに言うと、自分がこのように世界を見ている、見たいと思えばそのように見れるわけだから、自分がもっと楽になったり楽しくなったりするような、
世界を前向きに生きられるような意味づけっていうのを積極的にしていけばいいんじゃないかなって思ってるんですね。
こういう話をいろんな言い方でするんですが、やっぱりそれっていうのは、ある種の強者の論理らしいですね。
実際の社会に目を向けてみると、今言ったみたいにいろんな意味が共存している、全員が意味づけしているわけですから、もしくは全員って今生きている全員だけじゃなくて、
もう過去亡くなった方がつけた意味みたいなものにもありますよね。この社会にある法律なんてものもそうだし。
いろんな人が作った意味の中で生きているから、自分だけの意味で生きていけるわけではないよねっていうのも一方で正しいよねと思うんですね。
だから、自分なりに意味づけして自分が楽しく生きていけばいいじゃないっていうのは、それを上手にやれる人だけが、もしくはそれをコントロールできる、
支配する力を持っている、わかりやすく言うとお金をめちゃくちゃ持っているとか、そのような人脈を持っているとか、
そういう人にしかできないんじゃないの?って言われることが多いですね。
実際、そのようなお金を持っているとか権力を持っている人が、自分の意味をまかり通らせるために他社を支配していくというパターンが本当に多いですね。
規模問わず。例えば小さな会社であっても、その社長が社員を支配しているみたいなこともあったりするし、
支配的な社長ばかりと言いたいわけではないんですけども、そのような社長も結構見受けられるという感じはしてますね。
し、それは会社だけじゃなくて家庭もそうかもしれないし、友人関係でさえそうかもしれない。
必ずしも、国家の権力者がとか、大企業のすごい社会を動かしている人たちが、みたいな話をしているわけではなくて、
どんな小さな単位でも他社と関わりながら生きている中で、その他社の意味みたいなものを踏みにじって、
なんなら支配して、自分の意味を押しつける、押し通す形で、この社会というのが作られているのもまた事実だなと思っていますね。
その中で僕が言っている、自分の意味づけ、意味を持って楽しく生きていけばいいじゃないっていうのは、確かに器用な人とかね、
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強い人にしか実現できないというような言われ方をしても、
反論の余地がないというか、そっちはそうなのかもしれないなとも思うわけですね。
そこで、だったら一人ではなくて、多様な意味、多元的な価値みたいなものが認め合えるようなコミュニティというのがあったら、
もう少し自分自身で意味づけをし、その意味みたいなものもある種承認されるというか、認められる場があれば、
自分の価値観みたいなもの、自分の視点みたいなもの、自分の意味みたいなものをですね、
安全に醸成していける場として、一つ多元的な価値を認めることができるコミュニティ、
モチーフとして公園的なものと思っているんですが、存在としての公園のようなコミュニティができたらいいなと思って、最近は活動しています。
ちょっとややこしい話をしているし、うまく説明できている感じがしないので、
やっぱりややこしく話してしまっているような気もするなと。
僕の世界認識のベースというのは、相対主義的なものの見方をしていると。
まず一つ目にですね、世界には根本的に意味がないと、根底には何の意味もないんだというところを出発点にして、
次にですね、だからこそ誰もが意味づけをできるよねと、意味がないんだからこそ意味をつけることができるよねと、
つまり一人一人が意味づけをする主体者であるよねというふうに見ていると。
で、あるならば好きな意味を選べばいいじゃないと思っているということですね。
もちろんその意味と意味がぶつかり合うので、結構物騒な社会ではあるんですが、
うまくバランスを取りながら自分の意味を採用したり、他人の意味を採用したり、混ぜてみたりとかいう感じで、
100%自分の意味で生きていくことはもちろんできないんだけども、
自分の意味づけの部分、他者の意味づけの部分みたいなところをうまくですね、折り合いをつけながらやっていけばいいじゃないと思っていると。
ただそれは、認識が器用にできる人とか、今の社会でですね、有利な条件を持っている、
権力を持っているとかお金を持っているとかっていうような、コントロールしやすい状況にある人みたいな、
認識強者か、物理的にこの環境をコントロールできるかっていうものを持ってないと、なかなか難しいよねと。
一人では心細いよねっていうのもある。
だったら、じゃあそのような多元的な価値が共存できる公園のようなコミュニティができたらいいんじゃないかと思って、
ここ最近僕は活動し始めたという感じなんですね。
今日伝えたかったところっていうのは、まさに僕の世界の、世界認識のベースというか、
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意味がない、だからこそ自分で意味がつけられるんだよというところ。
これが僕の前提と態度です。
世界には意味がない、これが前提で、態度は、だからこそ自分で意味がつけられるんだから、積極的に自分で意味付けしていこうよというものですね。
これを理解していただいた上で、今後僕はいろんなところでお話をする、いろんなところで発信をしていく内容を吟味していただけると、
なるほどなと、そりゃそうだろうなと、そのような前提と態度であれば、そういう意見になるよなというより納得度が、
というか理解度が高まるかなというふうに思いますので、理解してもらえると嬉しいです。
これをきっかけにですね、皆さんが自分はどういう前提の世界認識をしているか、
そのような世界で自分はどのような態度で生きているのかみたいなことを考えてみるきっかけになったらいいなというふうに思いました。
ぜひ皆さんのですね、前提と態度も教えれたら嬉しいです。
本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。