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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、認識の檻というお話をしたいと思っています。 緩やかなコミュニティであったり、
目的は明確な組織であったり、私たちはその中の一員であるって感じられる時っていうのは、
何らかの共通の認識の檻の中にいると、 そういうふうに僕は考えるんですね。
この共通の認識の檻の中にいると、 共通の正しさみたいなものを一つ共有できると、
そういうカラクリになっているというふうに思うんですよ。 認識の檻っていうのは、憲法とか法律みたいに言葉で書かれている場合もあるし、
明文化されていない空気みたいなものですね。 文脈そのものが認識の檻となることもあると。
なのでこれは必ずしも明文化されているか不明瞭であるか、みたいなことは問わないんだけども、その認識を共有している、その檻を共有している、その中にいるからこそ、ある正しさを共有しているということだと思うんです。
具体例を出すと、昨日か一昨日か忘れましたけど、マスクのお話をしましたけど、
今日本ってマスクをつけないと外も歩けない空気があるよねと。 これは一つの認識の檻なんですよね。
マスクをしないといけないよね、するのが正しいよねという認識の檻があって、 めっちゃ空気読めない人がいたら、そんな檻は見えないからマスクつけずに歩いたりも極端な話できますよね。
それはもちろん空気だけじゃなくて、今コロナがとかということを知っているからというのもありますけど、それも知らずにかつ空気も読めなかったら本当にマスクつけないと思うんですよね。
なんでみんなマスクつけてるんだろうって多分なると思うんですよ。それはこのコロナがこういう状況でとか、あとはこの日本のマスクつけないといけないようなこの同調圧力がっていうのを認識して、その檻の中にいるから初めてつけなきゃだよねって思っているということだと思います。
言語化されている方の檻にしてもそうで、例えば僕が今すぐロシアに飛んでロシアに降り立ったときに、何の意識もなく犯罪を犯すかもしれないですよね。
それはロシアにとってこれはもうNGですよってことが法律とかで言語化されているはずなんだけども、僕はそれが読めないし知らないが故に何の悪気もなく法律を犯す可能性があると。
これは共通の認識の檻の中にいないからロシアの中ではそれが適用されてしまって自分は逮捕されてしまうかもしれないと。
こういう大きな話だけじゃなくて日常の人と人とのコミュニケーションも共通の認識の檻の中にいないと正しさを共有できないから、正しさを共有できないことはとても危険なんですよね。
例えばオリンピックの話で森さんがバッシング受けで辞めちゃったみたいな話あると思うんですけども、ああいうことって世の中にたくさんありますよね。
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あれも、いわゆる現代的な価値観というか、現代の流れからいくとやっぱり差別はダメだよねという認識の檻があって、
でも彼のように、いわゆる旧時代的な差別が当たり前にまかり通ってたような時代の認識の檻の中にいると全く違う檻にいますから、こっちの檻にいる人からするとあっちの檻にいる人がもう悪魔に見えると、
あっちの檻にいる人からするとこっちの檻にいる人がなんか意味わかんないよってことになると。だから共通の認識の檻の中にいないと正しさを共有できないから、コミュニケーションが成立しないってことだと思うんですよね。
もちろん差別を良しとする、差別を良しとしないっていうのを一個抽象化したレベルで、差別する人もしない人もいろいろあるよねぐらいの認識の檻の中でコミュニケーションすれば、
なぜ女性別姓みたいな発言をするのかってこととかをもっとフラットに対話できるんだけども、そんなことはなかなか難しいですよね。
それはやっぱりそれぞれの正しさを一個抽象化して、みんな正しいよね、あなたの正しさって何なのか、私の正しさって何なのかってことを語り合えるレベルの認識の檻を持っていない限り難しいなと思うんですよね。
そんなことをしだすと、究極は人を殺しても良いかどうかみたいなことを、殺しても良いかどうかっていうディベートではなくて、殺すっていうのもあるし、殺さないっていうのもあるよねっていうレベルで分かり合うみたいな感じになっていかないといけないし、それになってくると究極のカオス状態ですよね、ルールなんてものが成立しなくなる、無秩序の極みになってくる。
もしくは秩序の極みになる。文化、言語、通貨、いろんなものを同じ、統一して一つの認識の檻の中で、地球の全人類をその一つの認識の檻の中に入れてしまうことができれば、確かに全人類で一つの正しさを共有できるんだけども、それはちょっと不自由な感じがしますよね。
全人類が共有する認識の檻は、多分相当難しいし、逆に真逆のね、みんな違ってみんな良いの極み、無秩序みたいな世界も、それはそれでこの頑張った人類が作ってきたこの社会みたいなものを全否定する動きというか、
まあ本当に人が人をいつ殺すかもわからない状況、いつ自分が殺されるかもわからない状況に身を置くということでもあると思うので、その両極端は難しいにせよ、どっちかに、ベクトルがね、どっちかを向いているっていうのが社会だと思うんですよね。
まあその何だろう秩序の方に向かっていこうっていうエネルギーと、それに反発して無秩序に行こうっていうのがどっちもどっちで、なんだろうな、ベクトルとベクトルが対立し合っているみたいなものはあるのかなと思うんですけど、まあいつの時代もそうなんでしょうね、秩序に向かおうとする人と無秩序に向かおうとする人たちがガチンコバトルをして力が強い方に勢力が傾いていくっていう、ただそれだけのことなのかなとか思ったりもしますけども、まあとにかく今日言いたかったことは、
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その世界の抑制ではなくて、認識の檻、共通の認識の檻の中にいなければ、正しさを共有できないので、正しさを共有できないと多分コミュニケーションも相当難しいよっていう話です。逆を言えば共通の認識の檻を何か作ってしまえれば、正しさを共有できるので、コミュニケーションが比較的安全になるよねっていうことだと思うんです。
僕がですね、ツイッターとかテキスト上のコミュニケーションであまり変身しないようにしてるんですよ。それは共通の認識の檻の中にない可能性が高くて、ともすれば一言一言が誤解が誤解を生むみたいな感じで争いが争いを生んでしまう可能性があるから、あんましねテキストでコミュニケーションはしないように気をつけていると。それでもたまに変身したりしている。
矛盾してるじゃないかと思うんだけども、それはおそらくこの人は僕のこの認識の、こういう認識の檻を共有できているから、きっとこの正しさを共有できているよねと思った場合のみ変身をしている。こんな感じで使い分けているんですね。
認識の檻というのはあくまで比喩ですけども、そうした一つの檻の中でいる、ここ共有してるよねっていうのを感じられる人と、共有できているよねっていう範囲の中でコミュニケーションするっていうのは比較的安全なのかなというふうに思います。
これはすごい抽象的な話なので、ちょっとわかりづらかったという方もいるかもしれないんですけども、僕はそういうことを考えて日々人とコミュニケーションをしています。
こんなことをかれこれ10年、もっと長い間考えて、同じようなことをずっと考えているなというふうに思うんですね。
人と人は分かり合えるのかみたいなことを、僕はずっと考えているなという気がしていて、10年前にバリバリとバンドをやっていた頃に作った曲もまさにこういうことを歌っていたなと思って、
今10年後こういうことを今話しているのも全く自分は変わっていないなというふうにも思ったりします。
せっかくなんでですね、その曲を紹介して終わりたいなと思うんですけども、まあ別に曲紹介をしていく
ポッドキャストではないのですが、ちょうどこの今回の回とリンクするところがあったので曲紹介させていただきたいと思います。
ホームシックというバンドを僕がやっておりました。やっておりました?やっております?どうなんだろう?
今もうほぼ引退状態になりますけども、ホームシックというバンドの惑星という曲をお聴きください。
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グラウンドを見越し 苦労のこのないキャラと
そういうわけではないようだ 呼吸を捨てて生き咲くのは 誰のためなのか
無数に散らばった時間を受け止められそうかい 作られた世界に惑わされている僕らが
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無数に散らばった時間を認め合えると思うかい