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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
完全招待制の晩餐会を開催したり、
公園にレジャーシートを敷くなど、
存在としての公園のコンセプトに様々な活動をしています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
本日、12月3日でですね、
39歳を迎えました。
123とね、覚えやすい誕生日で。
特別、誕生日に深い意味を持たせているわけでは、
個人的にはないんですけれども、
覚えやすい日なので、好きですね。
いつも通り仕事をして、
公園の活動もやって、
日常として誕生日も過ごしているわけですけども、
せっかくね、39歳ってことなんで、
そういう39歳っぽい話をしようかなと思っています。
よくね、39歳になりましたって時は、
今年が30代最後の年なのでっていうような
意気込みで臨む方って多いと思うんですけど、
僕自身、自分の人生をざーっと振り返ってみた時に、
12年周期でいろいろフェーズが変わっているなっていう感覚があるんですよね。
これは別に12という数字に意味があるというよりは、
たまたま僕の人生を振り返って切り分けたら、
12年で区切るとすごく分かりやすかったというだけですけれども、
今がね、39歳になった。
38歳を1年間やってきたわけですが、
その前ですね、26歳から37歳っていう12年間、
14歳から25歳っていう12年間、
2歳から13歳っていう12年間っていうのが、
今までの過ごした中でフェーズとしてあったかなと。
第1フェーズが、0歳から2歳は特に何の記憶もないから分からないですけども、
2歳から13歳という第1フェーズ、
14歳から25歳の第2フェーズ、
26歳から37歳の第3フェーズ、
そして38歳からの第4フェーズということで、
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すごく駆け足で振り返っていくと、
2歳から13歳っていうのは、
健康との戦いでしたね。
病弱で、
僕が記憶のある4歳ぐらい、
3歳か4歳ぐらいからは、
ほぼね、入院をしてましたね。
喘息がひどくて、
入院して、退院して、
保育園に行ったと思ったらまた入院して、
みたいな生活をしていて、
結構、10秒かもしれないみたいな、
検査結果次第では、
みたいな局面もあったりして、
結構、死をね、
幼いながらに意識するような、
そういう感じでしたね。
小学校1年生になってからは、
入院することはほぼなくなったんですが、
やっぱり冬、寒い時期になると、
喘息の症状が出たりっていう感じで、
結構病弱でした。
ただ、基幹死前足は小児前足というように
言われたりもしますけども、
成長とともにですね、だんだん、
症状が和らいできて、
症状が出づらくなっていくと。
なので、13歳にかけてですね、
どんどん健康になっていったというか、
健康を取り戻していったという感じ。
そして、同時にですね、
スタート時病弱だったから、
保育園にもほとんど行けずに、
友達というのはほとんどできなかったんですけれども、
そういうまま小学校に入っちゃったんで、
同級生とどう接していくかもわからないしっていう、
保育園からの繰り上がりも結構いたんですけど、
あんまり仲良くしてたわけでもないので、
小学校はサバイバルという感じで、
それもだんだん13歳にかけて、
小学校6年間を通じてですね、
お友達ができていって、
社会的にもというかね、
自分が所属している学校の中でも充実していたという感じで。
まず足場を生きていくという、
足場がですね、できていったのが
13歳までだったかなというふうに思っています。
生命維持ですね。
14歳から25歳、
この12年間というのは、
アイデンティティと向き合っていくという、
12年間だったように思います。
中心にはですね、
音楽がずっとあったと。
音楽をやった12年間とも言えますね。
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スタート時は14歳ですから、
サッカー部に所属してですね、
今では社会問題になるレベルの
パワハラと大罰が繰り広げられておりましたが、
そういった中でですね、
人権を奪われているという、
人権という考え方はしていなかったですけども、
自由が奪われているという学校生活でした。
学校生活じゃないね、部活ですね。
ただ部活がね、本当休みがなくて、
正月とかお盆も休みがあったかなというのが怪しいレベルで、
教合校でもなんでもない弱小のチームなのに、
正月しかも元旦ぐらいしか休みなかったんじゃないか、
みたいなレベルで、
年に2桁の休みはなかったですね。
本当数日休みがあるだけで、
それ以外ずっと練習とか土日も練習試合で、
スパルタというか虐待に近い感じで、
ひどい部活でした。
毎日同級生のみんなとは、
今日辞めるって言いに行こうとか言いながら、
結局放課後になると怖くなって、
言えなくて、
いやいや部活を乗り越えるっていう、
本当にひどい奴隷みたいな日々を過ごしてましたね。
その反動もあると思うんですが、
自分の人生を生きたいというか、
自分を表現したいという気持ちが、
すごく高まっていった3年間だったと思いますし、
実際、サッカー部を引退した中学校3年生、
受験期にもあったにも関わらずですね、
バンド活動を始めて、
その15歳、14歳の終わりかな、
サッカー部を引退して以降ですね、
一気に表現欲求みたいなものが爆発して、
バンドをやるんだという強い気持ちで、
高校に進学して、
怠け者の大学生みたいなのがいますけども、
ずっと遊んでる、
ああいう大学生活みたいな感じを、
高校時代は過ごしました。
バイトとバンドに明け暮れて、
学校は単位がギリギリ取れるぐらい集積するという、
本当そういう大学生がいますけども、
そういう高校生活をしていましたね。
高校に卒業した20代の先輩たちに連れられて、
夜な夜な遊んだり、バンド談議をしたり、
夕方はバイトをしてという感じで、
かなり学生だったのかなというような生活を
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高校時代はしていましたね。
バンドもかなり精力的にやってて、
高校生にしては精力的でしたね。
大分とか下関とか広島とか、
佐賀でも行ってたかな、
九州までライブしに行くというような感じで、
結構精力的にやってたし、
ヤマハがやっていたTEEN'S MUSIC FESTIVALは、
九州大会で、
4位ですね、ロッテですね。
お菓子のロッテが協賛されていたと思うんですけども、
ロッテ賞を受賞しまして、
クランキーチョコをものすごい数いただいたという、
3位まで全国大会に行ってたんですけども、
九州大会で散ったという、ZEPP福岡で散りました。
そんなバンドに明け暮れた高校時代、
そしてそれを卒業した後も、
バンドで音楽で生きていくんだという気持ちで、
プリーターをしながらバンド生活をやってきたと。
その限界を感じたのが25歳。
これで14歳から25歳のアイデンティティと向き合ってきた、
12年間がある種終わった。
アイデンティティが崩壊したとも言えますね。
バンドだと思ってやってきたんだけども、
それを断念するという決意をしたということですね。
26歳から37歳というのは、
働きありみたいな12年間でした。
バンドで生きていくって思い込んでたので、
それが25歳で突然ポキって折れちゃって、
急に社会に放り出された、
何の積み重ねもない人間みたいな、
不安で仕方がなかったですね。
どうやって生きていくっていう恐怖。
作業料奉仕の資格を取って、
要は手に職をつけて生きていこうと思って、
バイトを3つ掛け持ちでですね、
学費を貯めたりしてました、26歳。
27歳からは学校に無事入学してですね、
排水の陣で臨んでましたから、
もう狂ったように勉強しましたね。
で、無遅刻、無欠席、学年主席ということでですね、
学校の狭い世界ですが、
トップを駆け抜けてきたわけですが、
3年生の春に、何か違うなと思ってですね、
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この業界、自分に合ってないなと。
最初からね、今思えば、
そりゃそうだろうって感じしますけども、
すごく保守的でスローな業界ですから、
僕のようにアバンギャルドで、
かつね、そんなどの保守というよりは革新的な
という性格の人間からすると、
かなり物足りない感じがした。
業界が悪いというよりは自分に合わないということをですね、
実習等を続けて感じました。
なので、潔く学校を辞めまして、
そこからですね、
今、討論カフェというポッドキャストと一緒に
やっておりますけども、
のぞみさんという方が経営されている
株式会社ビッグツリーの方に、
インターンと言ってもいいのかな、
ちょっとわかんないですけども、
インターンぐらいの気持ちで、
学校を辞めてですね、
27歳、29歳かもその時、
29歳に別に給料もいらないんで、
授業の立ち上げ支払いさせてください、
みたいな感じで行きました。
学費とかね、奨学金とか貯金してたのがあったんで、
それを切り崩しながら生活すればいいや、
ぐらいの気持ちで、
ビジネス経験ゼロだったんで、
ビジネスですね、
ビジネス学校ぐらいの気持ちでのぞみましたね。
だから学費ゼロだからいいや、ぐらいの感じで、
だからお給料いらないんで行きますとか言って、
我々働いてたら、
なんか働きを評価していただいて、
1年でですね、
何者でもないところから役員にしていただいて、
そこからですね、今に至るまで、
株式会社ビッグツリーの取締役をさせていただいております。
そんな応援で、
29歳からですね、
ようやく社会デビューしたという感覚があります。
26歳から学費を貯めるとバリバリ働いて、
そして専門学校ではバリバリ勉強して、
そして29歳からは会社でバリバリ働いて、
というようなことをやってきた37歳ぐらいまでという、
この12年間は、ただひたすら
身を子にして働いてきたという感覚がありますね。
後半は、
株式会社コテンに入って、
そこでもダブルワークをしながらですね、
一部門の部門長をしながらですね、
2社に勤めるという、
結構ハードワークをした感じでしたね。
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で、38歳になる、
37歳かな、になったタイミングではないか、
37歳になってちょっとして春に、
去年の春に株式会社現象を作って、
株式会社ビッグトリとコテンのダブルワークから、
株式会社ビッグトリと現象のダブルワークという形に切り替わって、
37歳の1年間を過ごし、
そして第3フェーズ、
働き有りの時期を終えると。
去年の12月に38歳を迎えて、
ちょうどそのあたりからですね、
自分は自分の会社を作ったけども、
この現象という会社をどうしていきたいんだっけ、
ということとしっかり向き合って、
で、存在としての講演というコンセプトに
思い立ったと。
だから38歳以降というのは僕の中では、
第4フェーズですね。
名前はまだついていませんけども、
講演をやる12年だというふうに思ってますね。
12年で辞めるかどうかは知りませんけども、
とりあえずこの12年間は、
しっかり講演をやり切ろうという気持ちがあります。
その先にどういうフェーズが待っているかというのは
わからないですけども、とにかく
これまでの人生の感じを踏まえると、
12年ぐらいはそういうフェーズが続くんだろうな
ということをなんとなく思っていると。
そう思った方がやりやすいというところもあるんで、
38歳から49歳、このフェーズというのは、
講演をやり切るというふうに思っていますね。
なので、39歳、30代最後の年というよりは、
去年38歳から僕は講演という新たなフェーズが始まっていて、
その2年目になるという感覚の方が強いですね。
39歳どういうふうにしていくのかというと、
講演のフェーズ2年目ということで、
1年目はとりあえずやってみるという感じだったんですが、
2年目は講演活動をしっかり講演事業として始めていくために、
サポートプログラムみたいなものも始めていきたいと思っていますし、
その上で講演活動にもう少し自分のリソースを振って、
講演活動をしている、存在としての講演であろうとしている人間なんだということと、
それと社会的な価値、一つの価値として経済的にも支援していただけるように頑張っていきたいと、
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そういう1年にしたいなというふうに思っています。
その辺の具体的な話はまた年明けにやっていけたらいいかなと思っていますが、
39歳を迎えましたので、
講演として、存在としての講演として頑張っていく1年になるかなというふうに思っていますので、
この幻想のラジオ並びに、私、上光幸、そして幻想を引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
本日は以上です。
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それではまたお会いしましょう。
さようなら。