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2020-12-04 11:12

#204 民を救いたい系

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少し考えてみれば「他人様を救うなんておこがましい。神様のつもりですか?」という考えが頭に浮かぶ。出しゃばるのはどうかと踏みとどまりたくなる。反対に、誰も助けようとしない態度、自分さえよければ良いよねという態度は空虚である。煩わしいことに巻き込まれない代わりに、誰とも深く関わることができない。多くの人は、おこがましいと空虚の中間地点として、特定の誰かだけを救うという結論に着地しているのだろう。見方によっては中途半端。妥協とも受け取れる。民を救う、身近な人を救う、自分を救う。こうして3つを並べてみると、「おこがましい」と思っていた民を救いたい系が何だか急に魅力的に見えてくる。/
サイコパスのラジオは、サイコパスがサイコパスの視点で語るラジオです。斜め上の視点に触れたり、サイコパスについての理解を深めるきっかけとなることを目的としています。/番組の感想や質問は、ハッシュタグ「#サイコパスのラジオ」をつけて、ぜひTwitterでつぶやいていただけると嬉しいです!今後の番組の参考にさせていただきます。/パーソナリティ:うえみずゆうき https://note.com/y_uemizu/
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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、民を救いたい系、というお話をしたいと思っています。
世の中にですね、民を救いたい系と、私が呼んでいる人たちがいます。
この人たちはですね、多くの人が人を救うということは、ちゃんと考えていると思うんですよ。
例えば、自分の家族とか、もちろんわかりやすく言うと、自分の子供とかね、
を救いたいと思っている人が多いと思うんですよね。
それも一応、自分ではない誰かを救いたいという気持ちだったりすると思うんですけども、
民を救いたい系の人たちというのは、民というぐらいですからね、
もうちょっとマクロで、顔の見えない範囲も含まれていたりするんですね。
結構、不特定多数の自分のテーマに合致する人たちを救いたいという気持ちですね。
気持ちというか、もうそれを信じてやまないというか。
そのための活動をしていたり、そのためのいろんな発信をしていたりという方が多いのかなと思っています。
すごい冷静に考えるとですね、民を救うというのは、おこがましい一言なんですよね。
例えば、よくこのポッドキャストでも言ってますけども、地球温暖化を阻止するとか、めちゃくちゃ民を救っている感じするんだけども、
地球温暖化した方が、ロシアのとってはね、素晴らしいよねと、
ロシアというか寒い国にとってはね、むしろ気温が上がって過ごしやすくなるわけだから、
むしろ気温が上がってくれていいんだけどという人たちもいるわけであって、
ある種、テーマに合致する民を救おうとしたときに、テーマに合致しない民にはそれが害になったりするということもね、あるわけなんですよね。
地球をそのまま温暖化した方がいいのに、温暖化を阻止されると困っちゃう人もいると。
なので、いろんなことがそこに通ずる。
なんかわからないですけども、それが本当にそうかというと、今パッと思って流れていくと、
例えば、潰れそうな企業にお金を注入して支援すると。
だからそれは日本の企業を救いたいんだということをやったとしても、
本来、例えば潰れて、一回そこが空洞化したところに新しい何かが入ったかもしれないのに、
そこがゾンビ的に生き残ることによって、次に行けないっていう、次に行きたい人たちがもしかすると被害を被ってるかもしれないし、
一方で、既存の企業で働いてる人たちが、そこが潰れちゃったりすると、
失業してやり直せないよっていう人たちからすると、
そうやって企業を救ってもらって存続できることはありがたいことだなというふうになるという感じで、
立場によって救われる人と邪魔される人と出てくるわけですから、
何をテーマにして社会にやろうとしても、それは自分的エゴでしかなくて、
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誰かは救えてるかもしれないけれども、その反対側に誰かを苦しめている可能性が十分にあるということなんですね。
なので、僕はあんまり社会の課題を言うよりは、自分のエゴとしてそれをやるっていうのがいいんじゃないかなと思ってですね。
つまり、何にも影響せずに生きていくっていうのは不可能なので、
どんなにインフルエンサーじゃなかったとしても、たった一人に影響するかもしれないわけですよね。
たった一人に影響してしまうということは、その人がプラスの影響を受けるかもしれないし、マイナスの影響を受けるかもしれないし、
人はわからないですよね。生きている限り誰かに影響を与えてしまうと。
ということは、影響を与えないようにしようとか、今言ったみたいに何かをした裏側で苦しんでいる人がいるみたいなことを考えだすと、
何もしない、今すぐ死ぬっていうのが一番いいんですよね。
今すぐ死んだところで、それはまたそれで悲しむ人もいるわけですから、またそれが難しいと。
だから悲しまない人を出さない方法というのはなくて、生きている限り苦しみとか悲しみを作っていっているという事実もまたあると。
難しいですよね。
なので、自分が許容できる範囲の救済と、自分が許容できる範囲の世界へのガイドを意識しながら、
自分のキャパというか、ちょうどいいなと思う感じで生きていくのがいいんじゃないかなと思うわけです。
個人的にはね。
ところがね、民を救う体験者たちはマクロに考えちゃっているから、
いい影響ももちろん大きいし、悪い影響ももちろん大きいというわけでございます。
考えてみればわかるんですけども、自分の子供を救いたいとか、自分の家族を救いたいというのは、
本当に顔の見える10人未満みたいな世界じゃないですか。
親戚とかがもしいて、すごい仲のいい一家で、もう少し人数はいるかもしれないけども、
何十人とか何十人もいないんじゃないかぐらいのレベルですよね。
でも民を救う体験の人たちは、地球温暖化であれば何十億人単位になるし、
何千人単位、何万人単位というレベルで救いたいなと思っている人もいると思うんですね。
その対極にというか反対にね、別に自分さえ良ければいいよみたいな人もいないことはないというか、
そういう人もいますよね。という感じで、自分さえ良ければいい、そして身近な人は救いたい、
社会のこういう人たちを救いたい、民を救いたいなという、この3段階あると思っていて、
この3つ並べたときにですね、やっぱり民を救いたいっていうスケールのデカさがやっぱり面白いなと思ったりするわけでございます。
民を救いたい系には2種類いて、この2種類がとても住み分けが重要だと僕は思っています。
その2つを分けているものっていうのは、人の話を聞けるかってことなんですね。
例えばカルト宗教の人とかっていうのは、自分が信じたい世界観を信じていて、
それはそれでいいんですよ、それはそれでいいんだけども、自分が信じたい世界観の外側にあるものは間違いであるとか、
かわいそうな人たちだみたいな感じで、自分たちが正義、自分たち以外のものは悪という、
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そういう構図になってしまって、そうじゃない人の意見が聞けない、人の話が聞けないというかね、
のがあるのかなと思います。一方で、話が聞ける民を救いたい系の人もいるわけですね。
反論も聞けるしっていう感じです。それで何がいいかというと、さっき言った自分が何かプラスの影響を与える、
誰かを救うっていう裏側で、誰かが苦しんでいるという事実もちゃんと受け止めた上で、
それでも民を救いたいという気持ちが、エゴが炸裂してですね、悪い意味ではないですよ、いい意味で炸裂して、
それに忠実に生きていきたいんだということだと思いますので、人の話が聞けるタイプの民を救いたい系の人というのは、
分を分けまいているではないですけども、自分自身がどんな影響を与え得るかという取り扱い注意のある種、
要は自分以上のものに、いろんなものに影響しようというのは、影響の仕方を間違うと危ないですので、
そこの危険性を分かった上で使うと、原発みたいなものですよ、原子力の危険性を知った上でどう使うかみたいなことを分かっている人が、
人の話が聞けるタイプの民を救いたい系。危険性を分かっていないまま民を救いたいという人達というのは、
人の話が聞けないし危ないということですね。なので、話が聞ける民を救いたい系と話が聞けない民を救いたい系がいた時に、
校舎の人達というのは、とても僕は素敵だなと思うからです。実際ですね、僕友達少ないんですけど、
でもその友達というか、一緒に仕事をしたりとか、この人とプロジェクトをやりたいなと思う人達を改めて考えてみると、
校舎の人の話が聞ける民を救いたい系の人ばっかりだなということに気付いたりするんですね。
なんでかなと思ったんですけど、僕自身が全くその民を救うことに関心がなくて、
どちらかというと自分の考えみたいなもの、思考みたいなものを死ぬまで研ぎ澄ましていくみたいなところの趣味みたいなところに走っているので、
割と自分の内側に向かっているところがあるんですよね。
けど、その社会の外側に向かって誰かを救済したいというのは、なんか僕にはないベクトルの向き方なので、面白いなと思いますし、
なんかですね、そういう人達って、なんだろうな、
まあ、民を救うということ自体がとても非合理なことなので、その非合理性が突き抜ける過ぎる時があるんですよね。
せっかく何か偉大なことを掲げているのに、非合理性が、非合理が過ぎて、
えーと、なんていうのかな、到底それ言ってるだけだったよねみたいな状態になってしまいがちだったりするので、
まあ、僕はねサイコパスの特徴を生かして、そこのなんだろうな、ここの部分はその合理性を発揮しても、
なんだろうな、その世界観を崩さないしとか、民を救うことにむしろプラスになるよというところの、なんだろうな、
その合理性と非合理性のデザインみたいなところで、民を救いたい系の方とお話しするとね、
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とても相性がいいなってことはこの仕事をしてきて思っているところなんですね。
なので、なんかこう、民を救いたいなっていう人のですね、お手伝いを、お手伝いとはまた違うね、
なんかなんだろうな、かっこいい言い方をすると散歩ではないですけども、
ちょっとなんかそういうアドバイスできるような、まあアドバイスは上からだな、上からじゃないんですよね。
単純に合理性と非合理性をですね、冷静に見分けられるというか、特殊能力がありますので、
なんかそういったところでですね、社会に僕が何か適用していけたらいいのかな、みたいなことを最近思っているところですね。
実際僕が今やっている会社もですね、社長は完全に民を救いたい系の人で、
非合理性突き抜けすぎちゃってるので、僕がどうしたらその世界観をしっかり崩さないようにですね、
買っといてですね、ちゃんとそれが形になるようにということで、
合理性を部分的に注入しながら形作っていくっていうのをやっているという、
このなんかバランスってすごいいいなと思っていて、
結構そのモデルというか、形を僕がこれからいろんなプロジェクトをやっていく上でですね、
参考にしたいなと思って、その形を取っていきたいなと思っているところです。
なのでね、もし皆さんこれ聞かれている方が民を救いたい系であればですね、
ちょっとその合理性、ただ合理的な人を呼んでもダメなんですよ、
頭がいいねとか、なんかコンサルっぽいねみたいな人を呼んでもダメで、
世界観をちゃんと理解して、何だろうな、その非合理性の価値を120%分かった上で、
でもここは合理的でいいよねっていう、そういう会話ができる人を是非仲間に加えられたらいいと思いますし、
逆にですね、僕のようにですね、そういうなんか非合理性と合理性、何なら合理主義者で、
でもその非合理性の面白さも分かるみたいな人はですね、
民を救いたい系の人を探してね、一緒に何か組んでみるっていう感じで、
チームでやっていくっていうのがすごくいいんじゃないかなということを最近は思っているところでございます。
世の中には民を救いたい系という人たちがいらっしゃるので、
それがね、人の話を聞ける人なのか聞けない人なのかってことは大きな分かれ道ですので、
ちょっと様子を見てみて、この人はなんか面白いなと思ったら関わってみるのもいいんじゃないでしょうか。
本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。
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