関与と責任について考える
オンデマンド・ボイス・交論。 口喧嘩ではない、交わす論ということで、まあ談議でもいいんですけどね。
討論というより談議、雑談みたいな感じなんですが。実は「原爆の父オッペンハイマー NHKBS世界のドキュメンタリー」を見た感想をちょっと
喋らせていただいたらもう即座に、たなさんが5月21日ですね。即座にリアクションしてくれて、それに対して私、LISTENのコメント欄でコメントを文字で書こうかと思ったんですが、
これはせっかくだからオンデマンド・ボイス・討論ならぬ交論につなげてみようかなと思って、いろいろ考えてるうちにちょっと時間が経ってしまいましたが。これ私の中でも結論出てるわけではなくて、
むしろ自然科学の方のたなさんの意見も聞きたいなということで、私は一応社会科学ということが専門になるので、ちょっとまた違うと思うんですよね。それでタイトルを
「科学者の職分|関与と責任」というテーマにしてみたんですけども、どういうことかというと、要するに科学者と社会あるいは科学者と政治との関わり、関与ですよね、をどう考えるかという問題と
もう一個は、その時に生じる責任というね。科学者としての責任、市民としての責任、人間としての責任、あるいは政治的決定に関わったことの責任ってどうなるのか。責任っていうのはいろいろな、一つでは語れないんですけど、実は。
これでいわゆる、どちらかというとむしろ関与しないと、現実政治、現実社会にあまり関与しないというのが、むしろ科学者の職分であるという考え方もあるんですよね。なので、オッペンハイマーなんかも関わったからいかんと。
しかも甘ちょろい考えで関わるからこういうことになるみたいな言い方もできなくはないわけね。だから、愚か者とか愚者とか言われたりする部分もあるんですが、ただそのこれは甘かったっていう問題なのかっていうと、微妙にちょっと違和感も感じるんですよね。
これはもうまさに科学者としてどこまで責任を負うのか。その以前の問題としてどこまで関与するのかっていう問題が実はあって。これは前に少し、これの前の前にお話しした感想で、
いわゆる政治あるいは正義の原理と、それから真実の追究という科学の論理と、それから善とか倫理に関わる人間としてのモラルとか良識みたいな問題っていうのは、必ずしも一致しないという話をちょっとさせていただいたんですけど。
もりっしぃさんはそれを因数分解と表現してくれて、なるほど因数分解かと思って妙に納得したんですけど。これをどう考えるかなんですね。
そこで職分ですよね。つまり学者ないしは科学者は、職分に従って不必要な関与をすべきではないという議論もあるんですが、それはそれでやっぱりちょっと違うと思うんですよね。
やっぱり人間として、市民として、社会や政治に実際には関わってるわけで、純粋に100%科学者だけで生きてるわけではないと。この峻別というか腑分け。一人の人間の中でどう腑分けするのかっていう。
一緒くたにするのはやっぱり違うんですよね。科学に政治持ち込んだりしてしまったらやっぱりこれは違うわけで。だから科学を追究するときには、やっぱり真実なり現実なり、これを科学的な方法で追究するっていうところに徹するべきだと。
一方で、市民として社会に生きる人間として、あるいは場合によっては、政治的な意思決定に関わる専門家としての関与っていう問題が出てくるんですよね。このときに科学者であるというアイデンティティと、いま言った社会的・政治的な存在としてのアイデンティティっていうね。
ここってそう簡単じゃないし、結論は簡単に出ないと思ってて、ずっと考えていくしかないテーマだし、かつて、私なんかすぐ頭に浮かぶのはマックスウェーバーとかが浮かぶんですけども、やっぱりこの問題を突き詰めて考えるわけですよね。
なんでこれこだわるかというと、結局それが責任という問題に関わってくるんですね。これも政治的な責任と人間としての責任、あるいは市民としての責任、さらには科学者としての責任ってやっぱりそれぞれちょっと違うわけなんですよね。
科学者の責任について
この責任論っていうのはまた難しいというか、責任っていうのは、例えば、犬に責任があるかっていう。犬が噛みました。責任があるかって言われたら、飼い主の責任にされるわけね。つまり責任っていうのは、あくまでもホモ・サピエンスの社会の中で通用するのが責任っていうことで、犬には責任ないとだいたい言われるわけね。
犬のせいじゃないと。飼い主の責任だと。例えば、ここは💩しちゃいけませんで、犬が💩しました。それは飼い主の人間性とモラルの問題だとか言われるわけね。そういう張り紙とかもしてあるわけ、近所にね。他にもこれは別の話だけれども、例えば犬がベンチに座りましたとか、あるいは犬が公園の水道から水飲んでましたとかね。
言うと、これはもう犬のせいじゃなくて、全部飼い主の責任だって話になるわけね。他にも犬が噛んだとか言うと、これも飼い主の責任になる。つまり何が言いたいかというと、責任っていうのは徹頭徹尾、ホモ・サピエンスの世界で通用する概念だということなんですよね。
なので、だから人間社会、そこには社会があり政治があり科学があり、いろんな営みがあって、男女関係とかも含めて責任問題っていうのは生じるわけですよね。
親子の間にも責任は生じるわけだし、男女間、あるいは最近は男女じゃないカップルもいっぱいいますので、カップル同士の間でもいろんな責任問題が生じるわけで。これは意外とプライベートな領域からポリティカルな領域まで、
結構いろんな場面で考えさせられることが多かったんですよね。これ誰しもそうだと思うんですけど。そこでもう一個絡んでくるのが、やっぱり科学者としての責任。ここでオッペン・ハイマーは政治的意思決定に関わっちゃったわけだよね。
でも決定者ではなかったんだよね。深く関与した。一方で、オッペン・ハイマーは科学者として、そこにはやっぱり政治的な思いもあって、すべての戦争を終わらせるという目的もあって、科学者として、
多分オッペン・ハイマーじゃなかったらもうちょっと開発遅れたかもしれないっていうぐらい、やっぱり超人的な働きをしたんだと思うんですよね、科学者としてもオーガナイザーとしてもね。
だけど一方で、一人の人間であり一人の市民であると。一人のホモ・サピエンスであるところでの責任というのを感じる。しかも政治にはある意味、英雄視された後には裏切り者呼ばわりされると。
そこで自分の責任ということをオッペン・ハイマーはどう考えたのか。さらに科学者としての責任というのをどういうふうに考えたのか。そこに関与したこと自体をどう思っていたのかなんてね。
もういろいろ考えると重たくて重たくて、私には処理できない話なんですけどね、実はね。そんなことで結論ないです。結論ない。とにかく意見の交換ができたらいいなということで。特に自然科学とかやってる立場からすると、どんなふうにこれは考えたらいいのかなって。
社会科学は社会科学でまたちょっと違うんですよね。それこそ私には原爆の開発とか危険なものを作ることってことはできずに、せいぜい社会科学的な知識を政治学で喋ったとしてもそれが何か実害につながるってことはそうない。
唯一私の中であったのは、例えば大学という組織の意思決定に関わったところで、やっぱりそこでいっぱい決断してきましたからね。その決断は本当に、そうじゃない決断もあったわけだけど、そこで決断してきたことってどうだったんだろうなとかね、いろいろ思うことはあるんですけど。
そういう、なんていうのかな。やっぱり関与しないっていう選択をしてほしくないんですよね。関与はすべきなんだ。関与はすべき。じゃないと始まらない。だけど関与すると責任が問われる。だから責任を問われたくないから関与しないっていう選択のほうがむしろ今の時代、支配的になってるような気がして、それが実は社会にとっても政治にとってもマイナスを生んでるんじゃないかっていうね。
ただ関与したら重たいものを背負わなきゃいけない。十字架含めてね。だからみんななるべく関わらないっていう感じになってるのが、本当にホモ・サピエンスの社会、そして政治的な営みにとっていいことなのだろうかなんていうことを私は考えてるということで。
関与と責任の問題
ディアレクティーク、最初の交論。うまくいかなくてもいいんです。途中で終わっちゃってもいいんですが。とにかくそんなふうに思ってるんだけど、どう思います?ということで、まずは、たなさんに振ってみようかなという話でした。
この「84ブログ」ですね、たなさんのに対するリアクションということなんですが、ちょっと返事が遅れたのはちょっと重すぎて、私にとってはね。あとどういう切り口で何をオンデマンド討論、オンデマンド交論するといいのかなって思ってるうちに時間が経っちゃいましたけども。
お粗末様でした。返事どちらでもお任せしますので。ではまた。