岡田さん。何ですか、Satoruさん。我々は、今までいろんな本の読み方を模索してきたじゃないですか。そうですね。上巻と下巻をお互い別々読むとか、27人で一つの本を分けて読むとか。
そういうことをやってきて、次はどんなことやろうねみたいなことを、この間岡田さんとお酒飲んだ時の電車の帰り道かなんかで、酔った頭で私が記憶しているのは、岡田さんがおっしゃってたのは、確か一つの本をゆっくりゆっくりのろのろと読むのはどうだろうみたいな。
そうですね。確かそんな話をされてましたよね。で、私が返したのは、それは実は宮沢明夫さんという演劇の有名な方が横道理一の「機械」という短編を11年ぐらいかな、確かかけて読むっていうのをやって、それ時代の本がめちゃくちゃ面白くて、確か文学賞、有名な文学賞まで受賞してるんですよ。
その、ゆっくり読むという。ゆっくり読んだ。心身が、そうですね。だからやっぱり先人たちの素晴らしさというかですね、そういうことをやってる。でも我々もなんかそういうことを一つやってみたいねみたいなことをですね、話して。一つ思いついたのが、まあ短編ですね。
短いお話小説を、最初の1ページ目だけを読んで、残りのページは読まないと。読むとしても半年後とか1年後とか、かなり時間を置いて読もうみたいな。そういうことをちょっとやってみようということでですね、今回はちょっとそういう1ページ目だけを読むというですね、試みをやってみたいと思います。
同じ本の1ページ目を2人とも読むと。
そうですね。
さとると岡田勇、超旅ラジオ。
今回選ぶのは、宮沢昭夫さんの心身に敬意を表するという意味合いもあるんですけれども、横光リッチさんというですね、私正直その横光リッチの機会だけは読んだことあるんですけれども、全然記憶に残ってないです。
なるほど。
それ以外は全然読んだことがないので、私は正直横光リッチさんの作風とかもあんまりわからない。
僕は全く読んだことないです。
岡田さんもそう。
はい。
その横光リッチさんの岩波文庫のですね、緑の岩波文庫の日輪春は馬車に乗ってのですね、本に収録されているハエというですね、10ページで終わる短い小編。
そうなんだ。
なるほど。
その情報を初めて。
その情報をちょっと共有しましょうか。
いくつか情報を共有すると、そのハエというその10ページの。
10ページなんですね。
10ページ分の1ですね。
とともに、じゃあこの岩波文庫って表紙に数行ですね、著者の作品の特徴とか書かれてたりするので、そこだけもちょっと読んでみましょうか。
新感覚派の行省として勇ましい省を中心となる人物として登場した横光リッチ。横光リッチさんは1898年生まれで1947年に亡くなられた方。
結構49歳ぐらいで。
まあ今にしてみれば若くして亡くなられた方なのかな。
次々と新しい小説形式に挑戦したが、戦争によって不幸にも挫折した。
だが現在の文学状況の中で横光の試みは今もなお課題たり得る多くのものを含んでいる。
という。
なんかドキドキするような紹介のされ方ですよね。
というページの中ほど29ページのですね。
いわのみ文庫の29ページの端絵の1ページ目はですね。
1ページと言いながら6行しかですね、書かれていない。
というのはこの段組で前半のそのページを割って右半分はタイトルの端絵しか書かれていないので。
しかもこれがなんだろうこれは本当に私1ページ目しか読んでないからこの後どうなるか全くわかんないんだけども。
1、2とかに小組、節、パッセージごとのっていうのかなに組が1、2っていうのが1ページ目になるから。
実際に文字が書かれているところが非常に少ないんですよね。
6行をね。
ということでこの6行を手がかりにどんなお話なのかと残りの展開はどうなのかということを全部読み終わるのは来年にしましょうか。
今撮っているのが2025年の1月なんで。
ああじゃあゆっくり読む企画でもあると。
ゆっくり読むそうね。ゆっくり読むというかだから今日1ページ目だけ読んで残りの9ページは来年読むと。
これをお聞きのリスナーの方ももしご関心があれば1ページ目だけを読んでしばらく封印してください。
来年2ページ目読みますか。
10年かけて。
持つかな。いいね。じゃあそれでもいい。
じゃあそれは来年の気分で決めます。
とりあえず今やることはこの1ページ目だけを読んで。
どうなるかということでじゃあまずですねこの1ページ目を読んでみましょうか。
なぜなら6行しかないから私が朗読するのも十分な時間の尺があると。
ハエ
1
真夏の宿場は空虚であった。
ただ目の大きな一匹のハエだけは薄暗い馬屋の隅の雲の巣に引っかかると
後足で網を跳ねつつしばらくブラブラと揺れていた。
と豆のようにポタリと落ちた。
そうして馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から
裸体にされた馬の背中まで這い上がった。
2
馬は一筋の枯草を奥歯に引っ掛けたまま猫背の老いた御舎の姿を探している。
御舎は宿場の横のまんじゅう屋の店先で将棋を3番さして負け通した。
これで1ページ目が終わりますね。
岡田さんこれはどうですか。
これはでも本当僕このページしか見てない僕もね。
もうこれだから1と2があるから2節なのか2章なのか
結構細かくこの後3,4,5,6,7と続いていくのかなっていうのを。
そうですね。そんな気がしますね。1の場面でほぼ情景描写というか
ハエがポタリと落ちて馬の背中に這い上がるのが1位なんですね。
でもなんか少し特徴なのがそのクモの巣に引っかかったわけじゃないですか。
だから普通もう虫としては終わりですよね。死んじゃうというかクモに食べられるしかないけれども
ブラブラと揺れてたけどなんとか助かって
これなんか特徴的ですよね。馬糞の重みに斜めに突き立っている藁っていうのが。
だから多分馬屋っていうか馬を飼っている藁がいっぱいあるところに
その馬糞がビョンって置いてあって1本だけピョンって背で立って
それがずいぶん長いんでしょうね。それを這い上って馬の背中まで。
裸体にされた馬の背中っていうのか。そうですよね。馬って裸体じゃないですか。
でもこれはねやっぱり御舎で出てくるからその後にね。
だから多分その馬車を運転する人って人だから。
もうこの短い中で御舎の意味が分からなかったので普通に自主的に。
御舎はそうそうだから。馬に乗る人でそうですよね。
だからそういう。馬に乗るための器具みたいなシートみたいなやつが普段はついてて
それを剥がされた状態にいるから裸体にされた。
でも普通の馬車だったらそんなに裸に近いまま
馬と車を結びつけるようなものだけだから
衣装はそんなに特別な儀式じゃないとつけない気もするから
もしかしたらなんか結婚式とかそういう式のためにつけられた
そういう御舎なのかもしれないしただでも馬車とつなぐためだけのことを
それを取ったから裸体にされたって言い方にしてるのかもしれないし。
このわずか3,4行の中にいろんななんか含みというか世界観が出てるような感じがあって。
すごい身分の高い人を引く予定なのかもしれない。
もしかしたらそうなのかもしれないですよね。
だからなんかもう名作の予感がすごいしますよね。
でそのさっきの序章の情報だけ述べちゃうと1898年に生まれて1947年に亡くなられた方の
多分だから20代30代ぐらいに書かれた今の世界観からすると結構若い頃に書かれた
にもかかわらずすごいなんかかなり昔に書かれたにもかかわらず
今でも一応通じる文章ですよね。
難しい言葉はそれほどない。
ちょっと漢字の書き方とかは昔のあれかもしれないけれども
なんかすごい良いなという感じがありますね。
漁舎が人間がだから漁舎しか登場してないですね。
猫背の置いた漁舎の姿を馬が探してるっていうから
結構親しんだ馬と漁舎の間には少し信頼関係とまではないけれども
長くこの商売を漁舎をやってきているんだなという感じが
でも漁舎は今は仕事はしてなくて
まんじゅう屋の店先で商議を散々させて負け通したというのが
ちょっとユーモラスな感じもあって
誰とはやってるのかわからないけど
そういう家計商議なのかな
それとも普通のそういう軒先で商議をしているのどかな
街なのか
これはどこの場所の話なのか
いつの時代の話なのかがちょっと書かれてないので
わからないんだけれども
なんとなく想像はつくのかな
岡田さんどんな場所のどんな時代の話だと思いました
これはでもやっぱ
街中じゃないですか
街中に
どこの街
日本
日本かなやっぱり
江戸
江戸
東京
江戸時代
宿場
宿場なんですよね
確かに宿場っていう言い方は
わりと江戸時代っぽいですよね
でも
確か江戸時代には馬車はないはずですよ
江戸幕府は
確か馬を一般交通にすることを禁じていたので
日本にはあんまり馬車の文化は
幕末か明治かなんないと出てこなかったはずなんですよ
なぜかというと参勤交代とか
ゆっくりゆっくり地方大名から
リソースを絞り取ることが政策だったから
治安維持がとても大事にしてたじゃないですか
だから漁舎が出てくるっていうことは
わりと明治というか
つまり横光立さんの
この小説を書いたであろう時期と
結構同時代的な時期だったのかなというのは
私の推察ですね
宿場どうでもいいけど
宿場の最初に登場する一行目には振りが長くて
次の最後の6行目には送りが長い
これは横光立さんの作風というよりは
いわなみ文庫の人の
いわなみ書店の人の
仕業
ミス
過失
なのではないかなと思いますけど
でもそういうことって
昔の文学を読んでるとありますよね
あんまりここに深淵ないとはないような気がするけど
そういう感じですかね
美しくなかったのかもしれない