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Chikaraチャージ レイディオ💪
こんばんは、Chikaraです。今日は、また緊急収録の
時間となりましたが、いやー本当にね、ちょっとあの
今回もまた、すごくすごく気持ち良さそうに持論を展開されているある方がいたので、もうそのまま
そっとしておこうかなと僕も思ったんですが、ちょっとコメント欄を見ていると、その気持ち良い持論の方に、ちょっと心が動いてしまったような方が、勘違いなのに心が動いてしまった方の発言がちょっとコメント欄で目についたので、
いやーこれはちょっと誤解は解いておいた方がいいんじゃないかなというふうに思ったので、僕の持論を一つ
お返しさせていただこうと思いました。
何のお話かというと、ある関西の受賞アーティストの方が
いらっしゃって、私の今朝の、僕の今朝の
放送に対してのお話、ちょっとね、こう思いますよっていうコメントをスタッフでいただいていたんですが、
その中で何をお話しいただいたかというと、一つ一つ自分がやったことを提示している作品だったり、
僕については、明日の茶盛会について、僕は告知と一部説明をつけて放送を撮って、
明日ぜひ楽しみに聴いてくださいねっていうお話の放送を撮ったんだけども、
そこに一つ一つ丁寧に説明を加える力は、アーティストじゃないねと。
ただ、私は、その関西受賞アーティストの方は、自分のことをね、私はアーティストだから、わざわざ説明は入れません。
そんな部粋ですっていうね、お話を、要はそういうことを言われていたんですが、
いやいや、ちょっと待ってくださいと。
アーティストが自分の提供した作品を説明をしないというのは、誰が決めたんでしょうかという。
今日はそういうお話になるかなと思いますけども、これね、ちょっとチャットGPTに僕は聞いたんです。
昔からアーティストと呼ばれる人は、自分の作品の意図、もしくはこういう意思を持って書いてますよっていうことを、
一切説明を加えていない、そんな歴史はありますかと僕はチャットGPTに聞いたわけです。
そうするとGPTはこう答えました。
最近の現代アートの中では、作者本人も本当にどういう意図で書いたかっていうことを曖昧に自分としても書いた上で、
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すべての感じることは、見ていただいた方の自由にお任せしますという風潮がなくはない。
もしくはゴッホやピカソのような方たちは、後世、見る方の感性にお任せします、委ねますと言っていた時期もありました。
ただし、ゴッホもピカソも、例えばピカソのゲルニカという作品自体も、
あの意図は戦争についての悲惨さを訴えるということをピカソははっきりと説明をして、
その誤解がないようにすべて見ていただく方に説明を加えていくということもされていたし、
もっと言うとピカソもゴッホも、自分が売れていない頃の作品については、
しっかり自分がどういう意図を持ってこの作品を提供しているかを説明していた。
ただし、後世に自分のブランディングがしっかり出来上がって、
この作者はこういう意図の作品を出しているということが広く知れ渡っている状況においては、
一部の作品において、感じていただく方の感性にお任せしますという提供の仕方をしていた時期もあったようです。
この作品を、自分の関西ボケについて言うとしたら、
自分のボケを感じる方の感じたまま、お好きにどうぞと言っていることは、
要は僕からすると、かつての日本の大企業が自分の製品の品質を信じて、
こんな良い製品を作ったんだから、あとは勝手に放っておけば売れていくと信じて、
今のように経済が30年停滞するような愚かな戦略を取った大日本企業と同じであり、
製品は作ったら終わり、作った以上はあとは市場にお任せ、何の底に努力もせず、
自分の意図、どういう製品が需要があるのか、そういったことに一切関心を持たないというか、無責任に、
その後は、成るようになれという戦略、これに他ならないと僕は強く感じています。
これをGPTに言わせると、何と言ったかというと、努力の放棄、怠慢な自己満足と呼べるでしょう、ということです。
それで良いと言えば良いのです。
要は、こういう方がいたら悪いですが、責任を放棄するという意味で、自分がやりたいようにやるという意味では、
例えばですが、アマチュアバンドが自分の好きな音楽、作りたい音楽を作ってるぜ、イエイって言っている、
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そういった売れないアマチュアバンドのようなものでしょう。
それでライブハウスが一人、二人しか埋まらなくても自己満足でやってるぜ、イエイ。
わかる人だけわかってくれればいいぜ、イエイ。どうでしょうか。
そんなことを若さんもやっていません。
150人を集めたのは、日々の丁寧な説明があって、このライブの意図はこういうものですと、ずっと丁寧に一つ一つ説明して、
意図を説明していくからこそ、そこに共感した人が集まって、150人という満席の状況を生み出していて、
例えばですが、他のアーティストの方。自分は壁についての愛を語るぜと言って、語っていって、自分の作品を一つ一つ丁寧に説明している方もいます。
自分のオリジナルキャラクターを生み出し、その生み出したキャラクターのこだわりはこういうところだと、一つ一つ説明を加えていこうと、
これから努力していこうという方もいます。
僕はそういった方がアーティストではないと、一言で終わらせられるエセ・ジショウ関西アーティストの一言で、心が動いてしまって、
こんな説明を加えている自分はアーティストと名乗ってはいけないんじゃないか。そんなふうに勘違いをしないように、僕はあえてこの放送を撮らせていただきました。
もう一度言います。ゴッホもピカソも、どんな芸術家であっても、自分の意図があるものを勘違いされたくないという作品については、しっかり説明を加えてきた歴史もあり、
そしてどうでもいい、責任もない、自分にとってはどういう理解をされてもいいという薄い作品については、
感性に委ねることもあるでしょう。僕も実際、この間、カリカリ炙りカルビという放送をあげました。
いきなりカリカリ炙りカルビというタイトルの放送をあげましたが、一切僕はあれに説明も加えておりません。
なぜなら僕は、あの放送は単なる自分がやりたかったボケであって、一応コメント欄にどういう意図でこの放送を撮ったかのコメント欄には書きましたが、
わざわざ放送を撮ってまで、後から自分のスタイフ放送に収録してまで、その説明を加えることはしませんでした。
ただ、もう一度ですが、エセ関西アーティストの方は、わざわざまた、なぜスタイフでその収録を撮るんでしょうか。
コメント欄でコメントしてくれれば、私はしっかりコメント欄でテキスト返しをさせていただくんですが、
わざわざみんなが見れるように、みんなに湧いて欲しい。 観客よ盛り上がって欲しいという、自己顕著欲のあふれるあの関西自称アーティストは、
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自分で説明はしないと言いながら、自分のスタイフであげていくあのエセ関西自称アーティストの方は、スタイフを毎回撮られるので、僕は
皆さんに広く勘違いされないように、私もこうして、その説明のスタイフを撮らなければいけなくなってしまうという、
こういう手間がかけさせられている状況にございますが、本当にアーティストの方、
勘違いしないでください。 アーティストの方であっても、自分の説明責任、作品についての説明は、これはマーケティングと一緒です。
そしてアーティストの方がマーケティングをする必要がないという世の中ではないと僕は思っているので、
自分の意図、勘違いを少しでも少なくするための丁寧な説明は僕は加えるべきだというふうに思っています。
かといって僕はアーティストというよりはマーケターなんでしょうが、そう言ってもね、アーティストの方をディスるような、
勘違いを煽るような放送が出ていたので、僕のこの回を撮らせていただきました。
ということで、以上です。 勘違いは皆さんしないように気をつけてください。
あ、ちなみに、僕は、
そのエセ関西アーティストの方を大好きです。
それでは行きます。 力チャレンジ!
今日も力あふれる一日を!