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第134回 アシカガキャスト
先日、人と話していて、ネットでのコミュニケーションを信用しない、
リアルにあって話さないとその人を判断できない、という主義みたいなものを聞いて、
それに対しての反論というわけではないんですが、
それをヒントに考えていたら、文人主義の話につながりました。
文人主義とは何かということなんですが、
文人の文は、分割の文ですね。分けるという字ですね。
個人に対する文人ということなんですけども、
これは小説家の平野圭一郎が提唱する考え方で、
私はコルクという漫画家のエージェント的なことをしている会社の社長の佐渡島さんという方の
僕らの仮説が世界を作る、という本で知りました。
本当の自分というものは存在しなくて、文人の集合体が自分なんだよという考え方で、
じゃあ文人とは何かというと、
一人の人間が家族といるときとか、友達といるとき、会社の上司といるとき、後輩といるときなどなど、
相手によって違うそれぞれの自分が文人なんですね。
本当の自分というものが中心にあって、
いろんなシーンに応じて演じている、使い分けているというよりも、自然とそういう風になってしまうものだということで、
いや自分は演じている、使い分けているという人もいるかもしれませんが、
でもやっぱり自然体の自分であっても、相手によって自分は違っているので、
自然とそうなるということは否定はできないんじゃないかと、私自身もそうかなと思います。
で、この文人の考え方は、人をそれで評価するというよりも、自分自身を見つめ直すということに使えるようです。
本当の自分というのを探さなくていいとか、どの文人もそれぞれ自分自身だと受け入れる。
じゃあ気持ちよく過ごしていくには、どの文人の割合を増やしていくかを考えればいいとか、
そういうことで生き方が楽になるという人もいるようです。
そして私なりの解釈なんですが、ある人の悪い面というのを何かのきっかけで知ったとしても、
あ、それがこの人の本性なんだなと否定するのではなく、文人の一つに過ぎないと。
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その一つの文人を見て、それを本当のその人だと思うのは、
本当の自分というものなんかないという文人主義の考え方からすると違うんじゃないかと。
私はこの文人主義というのを知ってからそう考えるようにしています。
もちろんその一つの文人が自分と全く価値観が相入れないとか、あまりにも悪の面があるとかだと、
文人の集合体のその人を信頼できなくなるだろうなと考えると、
トータルの文人で人を判断するという考え方もあるでしょう。
そしてネットでのコミュニケーションは信用しないで、リアルにあってその人を判断するという考えだと、
結局はその人の自分に対する文人を判断基準にすることになります。
じゃあネットでもネット上のその人の文人が出てるだけではないかとも言えると思うんですが、
ネット上でその人のいろんな文人が見られる場所があるなと、それがフェイスブックだと気がつきました。
フェイスブックはリアルの人間関係がベースになっているだけに、
投稿する時にある程度これは仕事関係の人向け、これは地元の友達向けとか分けてる人もいると思いますし、
そうでなくてもコメントが入ってくると、そのコメントをくれた人とかその仲間内に対する文人が出てきますよね。
仕事上のつながりの人が学生時代の友達っぽい人と盛り上がってコメントをしていて、
あ、この人こんな感じのノリで友達とやりとりしてるんだという新たな一面を見たという経験のある人も多いと思います。
今更私が文人という言葉を使って言語化しなくてもみんな感覚的には気づいているはずだと思うんですが、
フェイスブックはその人のいろんな文人が見られる場所だなと。
それをその人の評価につなげるか、その人の自分に対する文人を信じるか、どちらが正解かはわからないですが、
フェイスブックはいろいろな人のいろいろな文人が見られる場だと、改めて気がついたという話でした。