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2024-11-29 30:43

#166 デカルトが方法序説で人体解剖から科学の在り方を語ってて面白い

西洋近代哲学の祖と言われるルネ・デカルトの方法序説は「我思う故に我あり」で有名ですが、その後半には人体解剖の話や科学の在り方について語られていて、哲学書というより科学の言説として面白かったのでご紹介します。


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サマリー

ルネ・デカルトは著書『方法序説』を通じて、哲学と科学の関係を考察しています。特に、人体解剖を通じて理性の重要性や科学的探求の意義について語っています。このエピソードでは、デカルトが「方法序説」において人体解剖を通して科学の発展について説明しています。心臓の構造と血液循環の理解が当時の科学的文脈でどのように評価されていたかを掘り下げています。また、『方法序説』を通じて、自身の信念を確認する重要性や宗教改革との関連性について考察が展開されます。

デカルトと『方法序説』
建コンのアレこれの建コンのアレです。建コンのアレこれの建コンのアレです。
ちょっと滑舌が良くないですね。
このポッドキャスト番組は、建設コンサルタントというつかみにくく分かりにくい業界についてあれこれお話をしていく番組です。
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今日は哲学の話をします。すみません、もう趣味会ですが、でもちょっと科学の話です。
というのはですね、以前にも何回かポッドキャストで話してるんですけど、哲学というものに最近関心がありましてですね。
それでルネ・デカルトっていう近代哲学の祖とか、近代哲学の父とかって言われている人がいて、「我思うゆえに我あり」で有名な人なんですよ。
そのね、「我思うゆえに我あり」っていうのが出てくる本を読んでまして、方法序説って言うんですけど、それねもうややこしくてあんまり読み進まなくてですね。
もう3ヶ月か4ヶ月くらい読んでたんですけど、その中盤に入ってきて突然、あの人体解剖の話が、動物か動物かの心臓の解剖の話が出てきて。
本当にあのなんつーの、腸脈とか、動脈とか、五神房、左心室みたいな、そういう話がドアーっていっぱい書いてあるんです。哲学じゃなくてこれは医学じゃねえかと思って。
予告するとデカルトさんっていうのは医学とか、エンジニアリングっていうか工学、自然科学にも非常に造形の深いというか、活動をしている人だったらしいんですよ。
でその、「我思うゆえに我あり」と同じ本に出てきたもんだから、すごいこれは面白いなあと思って、でね、ちょっとこの本の紹介をすることを通して、
まあなんだ、どういう哲学というものと科学っていうのがどんなふうに関係しているのかっていう話ができたらいいなあなんてことを思って、
ちょっとそんな話をしてみたいと思います。 この方法序説という本の正式なタイトルは、「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法序説」
ということが書いてあって、勉強の仕方みたいな、まあなんかそんなイメージがあるんですよね。理性を使って勉強するやり方みたいなね。
前の私が哲学について話した回でも、この理性を使おうぜってのは哲学なんだっていうのが、私の
哲学と科学の関係
関心を持った一番最初の入り口というかきっかけで、人とは何か、人生とは何か、愛とは何かみたいな、なんかそんなイメージあるじゃないですか、哲学って。
確かにアリストテレスとか昔のギリシャの人はそういう問いをするみたいなことをやっていたのかもしれないんだけれども、
近代の哲学っていうのはそれよりもね、人が持っているこの理性というものにフォーカスしていることが多くて、その理性にフォーカスをするっていうのは当時の歴史の流れもすごく関係をしていて、
当時はね、教会が言うことが正しくて、物事の正しさを自分で確かめるっていうことが今ほど当たり前ではない時代だったらしいんですよ。
だけど、正しさというのは実験をしたりして自分で確かめるっていうことがだんだん受け入れられていく、その入り口の時代に生きた人がデカルトなんだなって、この方法序説を読むとすごくわかるんですよね。
なぜかというと、ガリレオ・ガリレイが出てくるんです、デカルトには。同じ時代を生きた人だそうです、ガリレオ・ガリレイ。
この方法序説にガリレオ・ガリレイがどんなふうに出てくるかというと、ガリレオ・ガリレイさんは、ごめんなさいね、これ明確にそうは書いてないんだけど、後ろのその解説なんかを読むと、この文の意味はこの出来事のことを指してますって解説が書いてあるんですね、現代の人がつけるじゃないですか、注釈。
それを踏まえて言うと、方法序説は、ガリレオ・ガリレイさんは地動説を唱えて偉い目に遭いましたんで、それを踏まえるとここではあんまりこういうことはっきり言わないようにしますわ、っていうことになって方法序説で出てくるんです。
本物の文面はガリレオ・ガリレイって名前出なくて、どこそこでこういう主張しちゃって大変な目に遭った人というのもいるので、ここではこういう言い方に留めますとかって書いてあるんだけど、それはガリレオ・ガリレイのことらしいんですよ。
ガリレオ・ガリレイっていうのは皆さんご存知のように天動説が信じられていたところに地動説を唱えて断罪された人なんですよね。
ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたということもまさになんとなく今までストーリー的に信じられてた天動説、地球は止まってて天が動いてんだっていう天動説に対して、いろんな星の観察、特にこの惑星とかの観察をすると、どうも動いてんの地球じゃね?って思ったわけですよね。
それを観測してそう思った人もガリレオ・ガリレイ以外にもいたらしいんですけど、ガリレオ・ガリレイはそれをバーンって発表したときに、宗教裁判みたいなことにあって、異端新聞を受けて断罪されてしまうわけなんですよね。
っていう時代なんですよ。っていう時代に、でもこれは方法序説でデカルトが言ってることだけど、だけどやっぱり我々はこの理性というものを使って実験をもって何が正しいのか、正しいというか真実を追い求めるということをしましょうよ、しましょうよって言ってる、それが方法ってそういうことなんですよ。
こんなやり方をしてやっていきましょうよって。そういう本なんですよ。で、そのためにはどう考えるかのすごい入り口のところに、我思うゆえに我ありって言葉が出てきて、自分って存在してるよねっていうことが何か語られて、自分が存在してるってことはこうだよねってことはこうだよねってことは実験してこんなことがわかるってことはこう言ってもいいよねみたいに繋がっていく話なんだけど。
私は健康の番組として、哲学とか我思うゆえに我ありの話は今日はしません。しないで、後半の科学的な営みについてデカルトさんがこの方法序説で話していることをちょっと語ってみたいと思うんですね。
この方法序説っていうのは全部で第1部から6部まであるんですけど、その6部の一番最後の6部にね、再び冒頭でもガリレオガリレの話出てくるんだけど、一番最後にももう一度出てきて、そこの言ってることが面白くて、誰とは言わないがガリレオガリレの論文が否認されたということを聞き及びました。
だけどこれだけは私は言っておきたい。そのガリレオさんのガリレオって本で出てくるのはっきり名前言ってないけどの論文を読んだけども、その中身にその宗教に対しても国家に対しても害になるようなことは一切見つけませんでした。
私はでもこういうことがあると自分の意見って言うのを躊躇したくなりますよねって言って、あのなのでちょっといろいろ控えましたってことが6部にもはっきり書いてあるのがまあ面白いところなんですね。
で、今日の話はその6部の1個手前の第5部の話をしたいと思います。
そんな我思うゆえに我ありで有名な方法序説なんですけども、第5部にはね結構その第1部から読む間に結構我々が感じる哲学っぽい話をしまくった後に第5部で結構面白いことが書いてあって、例えば画家というものは平面に立体を示すことができなくて、ある一面から見た像をその平面上に再現しているに過ぎないよねっていきなりアートの話始めるんです。
心臓解剖の考察
で、これはあの多分ちょっとざーっとウェブで調べた感じだとこのね、確かに普通に人間が目で見た時にそこに立体的な物体があるんだけども、でも裏側って人間の目から見えないじゃないですか、でその物体を画面上に表現しようと思って書くとやっぱり裏側って画面には書けないわけなんだけど、これってその物体の認知に対してどうなんだみたいな、まあなんかそういうことっぽい話かなと思うんだけど、
後々このデカルトからまた何十年か百年ぐらいの先のアートの発展って、じゃあ見えない裏側を描いてみようみたいな話でキュビズムとかね、それこそあのなんだっけ、
まあなんかいらない、あー俺あの有名な画家の名前が出てこないんだけど、ピカソ、ピカソ、ピカソとか出てくる話とかに繋がるような、だからアートに対する哲学的な視点とか問題意識みたいなものが出てきたりするのも方法序説の面白い話だったりする、それから重力によって全てのものは地球の中心に向かって引き寄せられてるっていう万有引力の話が出てきたりとか、
火によって灰を加熱してガラスを作るみたいな話が出てきたりとか、月の配置によって潮の満ち引きあるよねって話が出てきたりとか、科学の話がどんどん出てくるんですよ。あれ哲学どこ行ったみたいに思うんだけど、結局こうデカルトがやろうとしてるのはこの科学をやるための
骨組み、基礎だね、土台として哲学ってものが、私たちがイメージする哲学がいるってそういう話で1、2、3、4部まで話してきて、5部で言ってることが多分デカルトが特にこの瞬間興味のあったことっぽいんだよね。天体の話をしたりとか人体っていうか臓器の話をしたりするんですよね。
こんな話もあって、神というのは一つ一つの振る舞いにいちいち関与するんじゃなくて、法則を作ってその法則によって後は成り行きに任せてるんだと。
とするとこの法則っていうものを我々知るっていうことが非常に生活にとっても有用だよねって、まあそういうことを言うんですよね。法則を知って生かしましょうっていうのは、それが神様が作ったかどうかは別としても物理法則を知って生かしましょうっていうのはまさにエンジニアリングの話で、読んでてね、科学じゃんって、エンジニアリングじゃんって、工学じゃんってことをね、読んでね。
最初の半分読むのに3ヶ月か4ヶ月くらいかかったんですけど、後ろの半分、この科学の話が始まってからもうものの1週間くらいで読み切りましたね。面白くて。
第5部から読んでください。皆さん、方法除雪を手に取ったら第5部から読んでください。それで、その5部のハイライトというか一番中心の話題が心臓の解剖なんですよ。
で、これまた面白いこと言ってて、今から書くことを読む前に読者の皆様にはこれをやっていただきたい。肺を持つ大きな動物を持ってきて、その心臓を切り開いてみてください。なぜなら、あらゆる点で人間の心臓によく似ているからです。
って言ってるんですよ。ダーウィンの進化論とかずっと後だよね。でも、この時デカルトはすでに動物の心臓と人間の心臓めっちゃ似てるぞって言ってるわけ。
とかすごくない?なんかとかすごくない?これ、えー?って思って。でさ、切った時にここに見えるのが右側の心室ですって。右心室ね。
あの右心房左心房右心室左心室ってこう4つに分かれてるじゃないですか。中学とかでやりましたよね。それの話が出てくるんですよ。
1500年とかで600年の人ですよ。1600年代の人。前半。で、あのー、ここ。
あ、やべ。後ろのカメラが落ちちゃった。おはよう。
いいご飯食べる?いいご飯食べよ。ということで続きは後でもう1回撮りまーす。
はい、ということで、結局日を改めまして撮り直しております。
日を改めまして、あの日は結局その後ですね、牛山カマルにご飯を食べさせて。まあいいかその話は。えーと、どこまで話したかっていうと、
デカルトと心臓の解剖
その方法除雪にですね、心臓の解剖の話が書いてありまして、大きい動物を持ってきて割いてみてくださいみたいなことがあったりなんかしまして、
あとまあそういう寝室写真室とかいうことも書いてある話もしましたよね。で、そこにね、ちょっとここから言い逃したところというか続きなんですけど、
弁がありますっていうんですよね。中学校のあの理科っていうかでもやりますよね。あの心臓って4つの部屋があって逆紙弁がついてて、こう、あの、縮んだり膨らんだりっていうのを繰り返すだけで、その逆紙弁の効果でこっちにだけ行ってこっちにだけ行ってってこうなるっていう。
それのことも書いてあって、上手い仕掛けになっているってルネデカルトさんは言ってます。上手い仕掛けになっているって面白いよね。
でまぁそこからね、あのもう延々となんかなんつーの、それこそ我思うより我ありに同じぐらいの熱量で、あの心臓の解剖の話がずーっとずーっと書いてあるんですよ。
でまぁそれを詳しくは言わないんですけど、まぁいろいろ言ってるとか、あともう一個ね、すごいなぁと思ったのは、その、えっとまぁそんな感じでポンプが延々と血を送り続けるということは行った先の血はどこへ行ってしまうのかみたいなそんな話も書いてあるんですけど、それについてもデカルトさんはイギリスの学者がこんな論文を提出していてほぼ明らかになっているみたいなことが書いてあって、
同脈の抹消血管というのが腸脈の抹消血管につながっていてループになっているということが実験で確かめられているって言ってるんですよね。すごいじゃんと思って。1500、600年代にもうその心臓と血管のその巡りの話って解決してたんだなんて。
その何がすごいと思うかというと、血道説天道説で揉めてる時にですよ。揉めてて、しかもはいガリレオガリレーさんあなた異端でーすとかって言ってる真っ只中に人間の血の巡りってもうわかってる知ってる人は知ってたんだみたいなことがあったりなんかしてそこがまたね、あのすごく対照的っていうかなんか全然進んでないんだがすごい進んでんだかっていうその不思議をすごく
感じましたですね。で、まああのそこにまた付け加えてね、そういう状態なんで、世の中的にはガリレオガリレー状態なんで、ガリレオガリレーってかガリレオガリレーの異端神門状態なので、そのデカルトもこんな風に書いてて数学的な論章の力を信じないで真実と真実らしいものの区別をすることが慣れてない人っていうのは私のこの話を否定するかもしれない。
だけど、ただこれは実際に見て触って確かめて知ったその機関の配置とか熱とか構造から必然的にわかることなのであって、その時計の仕組みを知るのと同じことなんですよ。
だから人間のね、その心臓ってなかなか見たこともない。まあ、人間ってかごめんなさい。これは動物の心臓を言ってんだね。動物の心臓のこと言ってんだけども、あの見たことないかもしれないけど、だからそれは一般常識、皆さんが信じている常識とか宗教上の今までこうでしょって言われてたことから外れてたとしても、実際見て触って配置を観察したらこうなんだから正しいに決まってんじゃんみたいなようなことで、
えっと、会の初めの方に行ったんですけど、哲学っていうのはその自分で確かめたことが正しいみたいな言われてたことが今まで言われてたことが正しいっていうよりも、その正しいかどうかっていうのは確かめようよみたいなそういう文化の現れなんだなってことをすごい感じるわけなんですよね。
科学の必要性の認識
まあ、そんな感じでその人間の作りとかについてルネ・デカルトさんは関心があったみたいで、結構そのロボットの話とかもしててね。ロボットっていうかその人間がその機械だったらどうかみたいなこと言って、まあそういうことを言っていますですね。
で、えっとですね、そんな感じで解剖の話をした後に、最終的にその科学の話になっていくんですけど、そのデカルトさんは初めはあんまり物事を発表するっていうことに関心がなかったそうです。
ここからね、その学問を論文として公表するっていうことっていうのが良いのか悪いのかみたいな話をし始めて、その論がね、またこう読んでいくと2点3点するのが面白いんですけど、その第6部のところに書いてあるのは、もともと私は哲学的な思考が自分の人生にとって役に立つっていうことで、それだけで十分でしたと。
で、考え方っていうのはそもそも十人十色なんだから、自分の考えが人の役に立つかどうかなんてあんまり考えて当時はいなくて、自分が考えたことを自分で役立てることだけに満足をしてたんです。で、この段階は別に外に発表する気がない時点ね。
で、ここから続きます。ただ、あの、以下のことに気づいて以来、自分の至った発見や理解を隠してるっていうことは、人類の幸福に貢献してないことになる罪であると考えるようになりました。何に気づいたっていう、何気づいたかというと、その理性を用いることで極めて有用な知識に到達することができますよ。
それから、学校で学ぶ詩弁的な哲学、これちょっとわかんないけど、そのよりも実践的な哲学というものがすごく役に立つんですよ。これが実験したり、要は科学のことですね。あの、言葉とか弁とか、弁って弁論ね、あの、そういう哲学よりも実践的な哲学、これはイコール科学のことなんだけど、科学っていうのがすごく役立つってことに気づきました。
で、3つ目の気づきは、この実践的な哲学、いわゆる科学によって水とか火とか空気とか天体などあらゆるものを説明することができて、その作用を知ることで暮らしにめっちゃ役立つことができますよ。こういうことを知ったので到達したことを公表せずに隠すっていうのは人類の損を生むことだって、デカルトさん言ってるんですよ。
これってもう根本的な研究科学の立場じゃないですか。今でも知り得たことを公表して、誰かがやったことを参考にして、そしてどんどんその人類の地を高めていくっていうのが研究のあるべき姿だと思う。研究って営みだと思うんですよ。
しかもそれを暮らしに役立てることができますと、水とか空気の振る舞いが理解できると暮らしに役立てることができます。これエンジニアリングですよね。エンジニアリングじゃんと思って、哲学というかデカルトってエンジニアリングじゃんということを思ったのが私のこの興奮なわけですね。
この営みによって暮らしに役立つ技術を発明したり、医学の進歩によって人々が健康に暮らすことに貢献したいんですって言ってて、心臓の解剖の話にあるようにデカルトっていうのは結構医学に関心があったそうで、そういうこともやってるっていうことなんですよね。
公表をするっていうことに関して、そういうふうにオープンにするっていうことが大事だなってことを思いました。デカルトの次のステップは一人でこれをやるには限界があります。だから私は自分が知り得たものを何でも公開することにしました。
みんなは私の発見からスタートしてその先を探求してってくださいっていうふうに言ってるんですよね。こうやって地をシェアしてそれを糧にみんなで探求するとすごいことになると思いますよっていうことを言ってるんですよ。
これは学術研究の中に巨人の肩に乗るっていう言葉があって、今までの人が詰め上げたことからスタートしてその先を研究することでどんどん蓄積が増えていくっていうのをこの1600年代のデカルトが言ってるっていうことにすごい感動して。
だから我思うゆえに我ありは多分哲学的にすごいんでしょうけど、そんなことよりここの科学と工学の部分が私はすごい面白いなと思ったんですけど。最後にもう一つどんでん返しがあります。
そういうふうにデカルトは公開をしてみんなで公開しあってシェアをしてそうやって地を高めていくと人類にとても貢献できるよねって言ってるんだけど、そう思ってた。
だけど何でもかんでも発表すると反論とか批判をいっぱい受けそうな気がするなぁと。その反論にいちいち対応してる時間ちょっともったいない気がするなぁと。
しかもガリリオ・ガリエさんがやってたようにただの反論じゃ済まない場合もあるなぁと。私が実験を経て正しいと思った真実というのは自信があるけど、でもこれを信じない人とか受け入れたくない人が世の中にいっぱいいることも私知ってます。
これをバーンってオープンに出しちゃうとややこしいことになりそうだと。私はそのややこしいことに巻き込まれるぐらいだったらその間に別の研究をしたい。なので脂そうなやつは全部死んだ後に発表しますって方法除雪の最後の方で言ってるんです。これも面白くない?
実際にあのデカルトの様々な研究の多くの部分っていうのは彼が亡くなった後に公開をされているし、この方法除雪自体も匿名で公表してるんですよ。
なのでこの方法除雪に書いて、方法除雪って何だっけな、何とか論何とか論って4つぐらいセットのうちの序文なんですよね。それが方法除雪なんだけど、だからこの時にいくつか技術的なことを公表しているんだけど、それに対する批判とか質問とかは出版社に出してくださいって書いてあるんですよ。
なぜかというと著者を公表していないから。それぐらい世間と自分の考えている哲学的な実践的な哲学についてのギャップをよく理解していて、その中でも前に進もうとして最初は自分のアイデアを自分で生かすだけで十分だわって思ってたんだけど、やっぱりこれみんなのためには公表しなきゃいけないよって言って、
その後にうん、だけど公表するのは死んだ後にしようって言ってるっていうね。それがすごい面白い、すごいリアリズムを感じるなと思って、またここにガリレオガリレイっていう今でもすごく有名な地道説を唱えた科学者が随所に出てきて、それに反面教師じゃないけどそこから学んで気をつけてますっていうのがすごく面白いなと思うので、
あの我思うゆえに我ありっていう哲学に関心なくても、あの方法序説っていうもの、昔々の科学のスタートって何なのかみたいな意味で、このルネ・デカルトの方法序説をちらっと読んでみるということは結構お勧めです。
デカルトの謙虚さと方法序説
その時に皆さん5部から読んでください。5、6読んでください。ここから1、2、3でもいい。1、5、6でもいいかもしれない。最初の方も結構面白くてね。あのすごいね、謙虚なんですよね、ルネ・デカルトって。自分の言ってること正しい自信ちょっと実はあんまないですし、皆さんが受け止めてくれるかもわかんないですみたいなとこから始まってて。
なんかね、哲学者ってこう、これはこうである、これはこうである、だからこうであるみたいにね、ビシバシ上から見せるんで書いてあんのかなって思ってたんですけど、第1部のところとかの物腰の柔らかな感じとかすごく面白いですね。
そういうことで、デカルトの方法序説っていうのは、あのなんだろう、後世の利益になると確信できるもので、今出すことで面倒になるということは一旦公開を遅らすということは意義があると思ってるんですとか言いながら締めくくると。
そういう本なんですけど、ぜひ興味がある方は読んでみてください。それと、これを機会に哲学というものに関心を持った方がいらっしゃれば、一つはそれ哲ラジオっていうポッドキャストがありまして、それは非常にお勧めです。
あともう一つは日本一面白い哲学ラジオっていうのがあって、名前がすごい似てるんだけど内容は結構違います。個人的にはね、それ哲ラジオの方が導入編としてはお勧めだなーって思ってます。まあ以前にもそれ哲ラジオの話はしたかもしれない。
それとそのガリレオガリレの話をしましたけれども、当時のその社会とかそれからその宗教的な正しさみたいなものに興味がある人は古典ラジオの宗教改革の回を見ていただくというのもいいんじゃないかなと思います。
デカルトはどうもカトリックだったみたいですけどね。でも当時そのプロテスタントっていうのがもう生まれたり始まったり活動が行われている時代だと思いますけど、科学の視点として自分で確かめる。
先生が言っていることを信じるわけじゃない。教会の牧師さんが言っていることを信じるわけじゃなくて、自分で確かめて正しいと思ったものは正しいんだと信じるとかね。そういう視点が結構デカルトのこの方法助説を見ていると軸としてあるように感じるんですけど、その芽生えとしての宗教改革っていうふうに捉えることも私はできると思ってて。
なぜならば宗教改革というものと聖書が印刷をされたっていうことは非常に密接なつながりがあるらしくて、印刷された聖書をよく読んでみると、うちの教会の先生が言ってたことと結構一致してねえじゃんっていうのがそのプロテスタントの宗教改革の炎というか熱源の一つであったというふうに。
古典ラジオを聞いてるの理解ですけど私はそういうふうに捉えていて、だからやっぱり自分で確かめるっていうことがすごく行われたのが1400年500年600年っていう時代だと思うんですよね。
そのヨーロッパの中ではね。そこで啓蒙思想っていうものが生まれたりとかしてて、そういう流れの中でみんな自分で確かめたことを信じるっていう、そういうふうになってたっていう歴史の上での出来事としても面白いんじゃないかなと思います。
ということで、ちょっといっぱいしゃべってきましたけれども、はいはいはい、そういうことで。
全然健康の話じゃありませんでしたね、哲学の話。
ルネ・デカールと方法上哲の紹介でした。
最後まで見ていただきありがとうございました。
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