1. パリで学んだ「ブレない自分の作り方」
  2. Vol.119「山本耀司さんとの出..
2018-07-05 35:46

Vol.119「山本耀司さんとの出会い」

エピソードをシェアする

Share on X Share on Facebook Share on Threads

パリを拠点として活躍するAECC代表取締役の斉藤統さんのインタビュー1回目。45年前にパリに来たきっかけ、フランス生活、そしてどうやってファッション業界に足を踏み入れたか、その軌跡を伺っています。

オープニングは、今も盛り上がっているワールドカップサッカーのフランスでのお話です。

オフィシャルサイトは、http://projectsparis.com/


00:16
こんにちは、あきです。
今日もパリで学んだ「ブレない自分の作り方」の時間がやってまいりました。
さやむさん、今日もどうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
今、収録しているこの日なんですけど、すごい気持ちがいい天気ですよね。
そうですね。パリの初夏みたいな感じ。
そういう感じですよね。
テラスでこれを収録させていただいて、
もしかしたら鳥の声とか入るかも。
いろんな鳥の声が多分入ると思います。
思います。
今はちょっと、さやみさん宅ではどうか分かりませんけど、
今もすごく盛り上がっているのがパリもフランス全土が、
このワールドカップなんですよね、サッカーも。
そうですね。
結構いろんな国が出てたりするので、
今回ロシアでやっているということもあって、
ヨーロッパではすごく見やすい時間にやっているんですよね。
そうですね。時差があんまりない感じですね。
でも日本の人も結構真夜中にみんな見てるよね。
録画している方も結構いらっしゃいますよね。
この熱量はすごいですよね。
私この間、フェイスブックにも一回あげたんですけど、
一回土曜日、日本語補習校の時にフランス船が入った時があって、
いつも行くカフェが入れなかった。
みんなそれを感染しようと、
人堂って大きなスクリーンとかあるからね。
だから私もあわよくばそこで見させてもらっちゃおうと思ってたけれども、
入れなかった。
でその後、結局さよみさんと待ち合わせしたんですよね。
他のカフェね、スタバ。
スタバなんですけどかわいそう。
そこは大スクリーンはないんでね。
そういう方たちは来ませんよね。
だからカラッカラ。
みんな見るんだ。
でやっぱりその話を書いたら、私の友人がブルターニュの方に住んでるんですけども、
彼女が、彼女のいつも行くカフェで一杯やって帰ろうかなと思った時に、
やっぱりスクリーンがないカフェらしいんですよ。
もう今日人いないから閉めるから帰って。
おやされたんだって。
っていうぐらい。
スクリーンのないカフェは大変な営業が。
営業が大変なことになって、スタバも含めて。
っていうぐらい特にフランス線の時は、
もう人が一気にいなくなるっていうのはあるんですよね。
だからそういう意味では盛り上がりがすごいし、
あとフランス人の特徴は、面白いなと思ってるんですけど、
03:01
最初、トーナメントに行く前にリーグ戦があるんですよ、グループがあって。
その時ってみんなわざわざスタジアムまで行かないんですよ。
家とかカフェとかで見てて。
だからスタジアムを見ると、フランス組って結構マイノリティなんですよ。
少ないんです。
色とかで分かれるじゃないですか。
それが南米とか遥かに遠いところの方が何万人と来てるのに。
見るとすごいみんな、特に南米とか結構すごいですね。
気合が違いますよね。
だからもう人生かけてくるみたいな感じがある中で、
フランス人は結構冷めてきますね、そういう意味では。
で、決勝に上がっていくとガッと盛り上がっていく。
だからあんまり期待はしてるけど、
シニカルというかちょっと冷静に見てるのがフランス。
本当にその可能性、優勝に近づく時に、
じゃあこれはもう可能性があると思った時に初めて行こうかなみたいな感じが、
私はすごくして、やっぱり南米とはちょっと違うかなって思ったんですよね。
あともう一点は、まさやみさんご存知かわからないけど、
日本のチーム、まだね、このタイミングで今どうなってるかちょっとわからないんですけども、
1回目の試合で勝ったと。
なかなか勝てる相手じゃないコロンビアに勝ったと。
ということですごい盛り上がってたわけなんですけども、
その時の前にいろいろ監督の介入劇とかいろいろあった。
聞きましたよ、私も。
私も詳しくは知らないんですけど、
その後、静かにみんな見てたというか、
どっかで監督のことをどうせみたいな。
ちょっとなんか覚めた感じでね、見てる感がありました。
それが勝ったことで、180度変わってるわけですよ、メディアが。
私それがすごく疑問に思った。
フランスもあるんですよ。
期待してなくて期待が高まってきてる方がうまくいってる場合もあるんだけど、
ここまでメディアが180度変わると何を信じていいのかなって思ってしまうっていう。
だからその辺のテレビの見方とかそういうのもちょっとすごく今回いろいろ考えさせることがあったかなって思いますね。
日本で私は7月は日本に行ってるので、
日本だから真夜中なんで見ないと思うんですけど、
うちの息子が大ファンで、全部のプログラムに点数表全部つけてるんですよ。
すごいですね。
恐ろしい人ですね。
すごいですね。それは相当好きなんですよね。
06:01
だからこの人はどこのチームで今プレーをしてて、
何番でどこの出身の人でとかって。
それはすごいですよ。
何に役立つんだろうこの知識って思うんですけどね。
でもそれはやっぱ好きこそものの上手な例じゃないですか。
何かにきっと。
きっと活かされる。
プレーはしないんですけど。
プレーはできないみたいでもうやめちゃうんですけど。
そうなんですか。
やめるんですよ。
それはもったいない。
一応彼なりの好きじゃないっていうポリシーがあって。
でも見るのは好き。
ジャーナリストになったらって話をしてたんですよね。
でもそういうアナライズとかレポーターをしたいわけではないとか言ってるんで。
その辺はわかんないですけど。
この知識ってやっぱり他でも活かせたらすごいなっていうのはあるんですね。
ロットとか宝くじとかそういう勝ち負けの賭けるみたいな。
賭ける。
賭けをしてるわけじゃなくてプレーを見てアナライズしてる。
そんな感じですね。
リサーチャーとか言っていいかもしれないですね。
かもしれない。
っていう感じで多分点数表つけながら一緒に日本で応援しようかなと思ってます。
それでは本編スタートです。
はい本編です。
今回はインタビューなんですけれども
ファッション業界の方なんですが
男性、久しぶりの男性で斎藤治さんという方にインタビューさせていただきました。
詳しい内容はインタビューで聞いていただきたいんですけども
フランスでファッション業界に入り
いろんなブランドのフランス展開を結構いろいろされていたり
ジョゼフみたいにこっちのものを日本に持っていったりっていう形で
一番取っ掛かりは幼児山本から入っているので
この辺の経緯をぜひ楽しく聞いていただけたらと思います。
こんにちは秋です。
今日も素敵なゲストの方に来ていただいています。
AECC代表取締役の斎藤治さんです。
治さん今日はどうぞよろしくお願いいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
AECCって何ですかって
いきなり思ってらっしゃる方がいらっしゃると思うんですけども
今はどんな活動を
本来はこの会社はもう作られてから
93年ぐらいに作られている会社なのでかなり古い会社なんですけども
大本は結構一番大きい時には10人ぐらいスタッフもいて
大きな仕事をしていたこともあるんですけども
いろいろな時間の流れと私が頼まれる仕事の内容によって
この会社を縮小して別の会社の仕事をしたことがあるので
09:02
それでそのまんま小さいまんま生き残らせていると
要するに閉めちゃってもいいんですけど
やはり会社というものがあるとこれはどこの国もそうですけど
やっぱり楽ですから
変な言い方ですけど経費の使い方とかも考えたときに
製法上も楽なことがあるので
昔のほど大きな商売はしていませんけど
自分でこそこそと恥ずかしくもなくやっております。
その辺の話はまたちょっと後々伺いたいんですけれども
フランスは何年お住まいになっていらっしゃいますか?
フランスに来たのが今でも覚えており忘れもしない
ある日オルリーンシュッドという飛行場があるんですけど
今でもありますけど
そこに右足をついたのは1973年の2月18日です。
冬だったんですね。
冬でした。
1973年というと
昭和48年です。
つまり45年前
そうですね。今46年目
長ければいいってことじゃないですけど
でもその間基本ずっとフランス
そうですね。
その間例えばどこかに住む
例えば日本に戻ったとかっていうのもなく
一番長く日本に戻ったとしたら
この後お話出てくるんでしょうけど
私がファッション界に入っていく過程の中で
日本に4ヶ月くらいいたことがあります。
それがマックス?
それが多分マックスだと思いますね。
なるほど。
じゃあ45年基本
人生の半分以上はフランス生活
3分の2くらいですね。
なるほどね。
フランスに来たきっかけ
結局45年前ということは
73年とおっしゃってましたけど
あの当時って
日本からフランスに来る人も
結構珍しい時代だったのかな?
そうですね。まだまだ珍しい時代ですね。
私どもの年代
戦後すぐの
僕はベビーブームに重なっているんですけど
ベビーブームのしっぽの方なんですけど
ベビーブームの人たちっていうのはアメリカなんですよ。
うちのママは世界一
うちのパパは世界一
アメリカはナンバーワンみたいな
なんでもアメリカアメリカアメリカって言って
それこそケネディ大統領がいたような頃で
みんな日本人がアメリカに向いている時代
その頃に私自身にへそ曲がりがいて
だったら俺はヨーロッパに目を向けようと
意図的というか
意図的です。初めは
みんながアメリカで
みんなが英語英語英語って言ってた時代なので
だから意図的にこれはそうじゃないと思う
それともう一つは私の父が
若い頃に非常にフランスの
やっぱり文化というか特に映画だとか
そういうものに影響を受けていて
あとフランスのポエもやっぱり詩だとか
そういうもので非常に影響を受けていて
父が結構フランスを好きだったってこともあると思うんですね
よくいらっしゃってたんですか?お父さん
12:00
あの頃はまだそんなに来てませんでしたけど
映画とかそういうものを通じて
でも父が来らしたのは
私が中学ぐらいからもよくフランスに来てましたね
そうするとやはりいろんなフランスの話とかしてくれたり
そういうやっぱり周りの人の影響っていうのはありますよね
父の友人たち大学時代の友人たちがやっぱり
ジャンルヤバンはかっこよかったとか
そういう話が出るわけですよ
そうすると結局は
あの女優がどうしたこうしたみたいな話になると
なんとなく僕の時代というと
フランスの代表的な女優というと
もうブリジットバルドとかアランドロンとか
最盛期の
あの辺にミライドモジューとか
ああいうのになっちゃうんですけど
うちの親父ぐらいになってくると
もう二昔ぐらい前ですけど
美女と野獣の時代ですから
1930年代とか
そういう影響はすごく受けてたみたいですね
あの頃の人たちは
明治時代の人たちは
明治は大正だごめん
明治はお父さんに怒られます
その時代から一応フランスを
少しずつインストールしていって
そうですね
なんとなく小学校後半
中学ぐらいからフランスという
なんとなくの憧れを持ってましたね
それで決定的になったのが
高校生の時に
これみんなに笑われるんですけど
ファントマステがあったんですよ
その映画見て
それこそかっこいいなと
何が良かったんですか
言葉とフランスの独特なギャグ
それから物の
あの頃の映画って皆さん見てみると
分かるんですけど
終わり方が特殊なんです
アメリカの映画ってのは
必ずハッピーエンドで終わるんですけど
フランスの映画ってのは
すごい皮肉に終わるんです
最終的にハッピーだったんだろうかというと
どっちにも撮れる終わり方
その時の気分で
見てる時の気分で
すごく暗くなる終わり方と
一応ハッピーだったんだろうな
というのがあるというのが
特にフランスの
アイロニーとは言わないけど
独特な考え方が結構面白いなと思った
それが高校の時に
面白いと思いました
ファントマスは
ただただくだらない
かすめき映画ですから
冗談で
冗談っぽく終わってまで
ルーディ・フィネスなんかが
走り回ってましたから
ジューブ・ケープとかいって
だから全然
ドタバタの映画でしたけど
でもやっぱりあの頃に
そういう映画を見て
フランスというものに対して
その憧れを持っていたことは事実ですね
そのまま大学は
普通に進学されて
普通に進学する前に
しばらく遊んで
遊んだんですか
遊んでましたしっかり
なるほど
浪人という言葉もありますけど
どれくらい遊ばれたんですか
2年半
3年くらい遊びました
楽しそうでしたね
社会出ちゃったんですよ一応
その間に
はい
大学
15:00
みんなあの頃って
大学大学大学
大学行かなかったら
人間じゃないみたいな
そういう収集があったんです
なるほど
実験
なったんですか
豪華比率も非常に高いとか
そういうものに巻き込まれたくないという
要は
自分としては
今から思えば
逃げを打てたんですよね
一応社会に出てみて
やっぱり大学に出たらなきゃダメかなと思って
また戻ったりして
いろんなことをやってました
その時はどんなことをされていたんですか
その時にもね
心理学の研究所の職員をやってました
へえ
南博士って今ももちろん亡くなってますけど
はい
その頃人鶴橋大学の心理学の先生だった
南フレイ先生という
はい
しかも行動心理学をやってらっしゃる先生のところの研究所に職員として
入ってらっしゃって
入ってたんです
ああ
やはり心理学
人間というものに興味が
はい
まだ10代ですよ
生意気に
それで
そういう人間というものに興味を持って
なんていうのかな
その心理学をやってみたいなと
ところがやっぱりやるには
大学に行かないと無理だなと
自分で気がついて
また事件勉強を再開したことを覚えています
なるほど
じゃあまた心理学の
うん
学校を大学に
大学で心理学をやって
入ったんですね
面白い
それで途中から
何か知らないけど
フランスに来る機会がたまたま
これうちの父の友人で
もう探せば出てくるかもしれませんけど
デシマルタイセンというお坊さんがいたんですよ
はい
その方がフランスに来て
はい
全都ヨーロッパというのを作ったんですよ
はい
ヨーロッパ全道場というのをパリに作って
はい
そこでその修行してたという
若いフランス人が
その父を
私の父を頼って日本に来たんですよ
おお
結局日本で勉強したいと
彼が柔道だったか
空手だったか
柔道だったと思うんですけど
やっていて
なるほど
その座禅と
それからその柔道を勉強したいと
日本に来た
はい
そのためには生活費が要る
うん
うちの父が
じゃあうちの息子に
フランス語でも教えてやってくれやと
おお
そんなのがきっかけで
私がフランス語に
なるほど
それがちょうど18だからまだ
研究所を勤めてる頃ですね
ああ
修行やってる頃ですけど
なるほど
そんな感じですかね
スタートは
じゃあ
そこから語学もちょっと
そうですね
勉強し始めて
まあ
彼から
それこそ
基本的なフランス語を勉強し始めて
はい
それでやっぱり行ってみたくなる
うん
これはまあ当然
はい
でそのうちに行ってみたい行ってみたい
っていうのが
こうだんだん気持ちが多くなってきて
はい
それもその彼とも仲良かったので
彼に相談したら
じゃあお姉さんが
うん
リオン
リオンの近くの
サプライエスというところにいるから
はい
そこ行ったらどうだということで
うん
それで来たのがきっかけで
帰れなくなっちゃったんですよ
うん
じゃあそれは
おいくつのときだったんですかリオン
22かな
3かな
そのくらいのときだった
でそのときは留学という形で
いや
そのときはまだ洋住みに来たんですよ
洋住みに来たんですね
洋住みに来たら
そのまま居着いちゃったという
ああ
18:00
でその後じゃあ学校に入られたんですかリオンって
その後は一応日本に帰って
大学卒業してなかったので
はい
卒業しに帰って
そっかそっか
はい
大慌てで
なるほど
で卒業してまたすぐ戻ってきて
だから正確には74年の6月くらいからが
長い大学になってますからね
ああ
73年に来て
一応6ヶ月くらいいて
帰って
戻って
で卒業した
うん
で卒業した
うん
またこっちに戻って
戻ってきたと
でそのときは
やっぱ新留学校やったんですか
いやもうその時には
もうフランス語をやることが
確保できましたから
なるほど
あのまでフランス語その頃できなかったですから
あなるほど
そんなにも
語学からスタートして
語学からスタートで
ブザンソンというところに
はいはい
結構あの語学のいい
今でもあると思うんですけど
はい
学校があってそこに行って
それからまたリオンに戻って
リオン大学の第二
うん
あの
クオクオの大学
クオクオ大学
クオクオ大学
クオクオ大学
うん
大学はどれくらい
いらっしゃったんですか
結局リオンに行って
そして
2年
73
74
75年間なんかに
大学に入りたいならば
学 envie入りたいならば
フランス語の試験を
おけなきゃいけない
っていうのがあるんですよ
うんうん
外国人の場合は
その試験を受けて幸いを受かったんです。
で、大学に入って、その時にはもう心理学ではなくて
シアンス・エコノミー・ジェスチョン
いわゆるビジネス系でした。
完全なビジネス系のクラスに
ユニバースティ・ブロンというのがあるんですけど
そこにハウで勉強し始めたんですよ。
経営経済学みたいなことを勉強し始めて
ところがそれと同時進行したのが
私の奥さんとの関係があって
うちの家内とは74年の9月、10月から10月に
知り合っているんですよ。フランスで。
大学でですか?学校で?
学校じゃないんですよ。
学校で知り合うわけないじゃないですか。
そうですよね。どういう?
こっちはアーベイ生でやってて
そうですよね。
敵はアーベイ生で問題ないわけですから。
そうですよね。はいはいはい。
学生職です。
え?学職で?
レスト・ユーですよ。
レスト・ユーはユニバースティの
学職でご飯を食べるじゃないですか。
はいはい。
行ったことありません?
行ったことありますが。
だから安いから。
そこで知り合って。
彼女も食べてた?
食べてた。
そこで勇気を持って声をかけて
はい。
はい、と書いて。
はい。
俺が41年以上一緒にいますけどね。
すごいですね。
ちなみにフランスの方?
フランス人です。
フランス人です。
すごいですね。学職が出会いだった。
学職が出会い。
うちの娘には今でも笑えますよ。
なんでですか?学職?
日本の学職は大学ごとにあるけど
こっちはクルースにいて
要するに学生養護会が作っていて
何箇所かあるじゃないですか。街の中に。
だからその学職であって。
正確に言うと学生食堂の外の喫茶店というのが
21:03
一番初めの出会いはね。
でもそれから一緒にご飯食べてくださいとお願いして
それは自分のフランス語の勉強をするのに
やっぱり喋らないとダメだから
ただただ学校で勉強してるだけではダメなんで
お話し相手になってもらうのがきっかけ。
実践編を。
いろいろと今日は何勉強してきたの?
今日はこんな公文習ったんだけど
よくわからないんだけど
それはねって言って
教えてくれたらね。
公文出してくれたり
そういう風なのがきっかけです。
彼女も学生で
そうです。
そうしてるうちに
帰るって選択肢は
帰るって選択肢は初めからなかったですね。
なかったんですね。
なかったですね。
残ろうと。
残ろうと。
で結局は
うちの父が結構
フランスにはいろんな関係があって
よく年に3、4回来てたもんですから
そこでなんとなく
親父がリオンに来ると
彼女も含めた何人かで一緒に食事したりすると
うちの父が急に
お前あの子好きなんだろうと
ばれちゃってたみたいな
しっかりばれてましたね。
そうなったんですね。
うちの父がやはりそういう
非常に国際的に動いてた人なんで
別に嫁さんが
外国人になるということに対して
すごい抵抗はない人だったんで
それににじんでも
お前が好きならいいじゃないか
みたいなところがあったんで
でも考えてみたら
川口の70年代とかあのあたりって
そういうふうに考えると
今とかと全然違うんじゃないですか
違います。ベースが違いますよね。
だからお父様はかなりオープンというか
やっぱり開けていた
オープンでしたね。
やっぱり外国との付き合いが一番良くて
やっぱりあちこちがよく外国行ってましたし
そういうことも影響してるんだと思うんですけど
うちの母は多少ちょっと寂しかったみたいですけど
やっぱり日本人の女性の方は
みたいなのがあったようでしたけど
しょうがないですね。
しょうがないでしょうね。
こればっかりだね。
こればっかりだね。
じゃあもう残ること決めました。
それからお父様はどういう
結局残ることを決めて
結婚したものの親から親からの仕送り
というわけでもいかないので
学校ちょっと半ばで辞めざるを得なかったんですけど
学校半ば辞めて
たまたま知り合いを通して
高島屋
やっぱり高島屋に入らないかって話があって
その場でその時の社長だった
千葉さんという方が
速決で入ってくれって
要はでもあれですよ
プランタンデパートの中にある高島屋の
半ば院ですよね。
日本語がきちっと
日本語とフランス語が
できるということで
できるということで
そこに入ったのは
77年の確か5月から入って
77年辞めましたね。
すぐ辞めた?
すぐ辞めた。
結局自分にとって
7ヶ月フランス語を勉強してきて
日本人のお客様がただ拝啓してる
24:00
というのが何度も
自分では納得できない部分ができてきて
私もまだ若いですから
20代後半ですから
何とか他のことができるんじゃないか
ということで辞めて
独立したんですよ。
もう独立したんです?
すぐ独立したんです。
早いですね。
ところが早すぎて
失敗が起きましたけどね。
それは何で独立しようと思ったんですか?
あの頃は
たまたま情報収集の会社ともと
つながるような企業があったので
情報収集をやってました。
リサーチみたいな?
リサーチです。
いろいろなジェトロンの関連の会社とか
そういうところから
フランスまたはヨーロッパの企画
特に企画が多かったですね。
やっぱりまだ
あの頃は通産省って言ってましたけど
そういう電気製品だとか機械だとか
どんどん外国に出すためには
それぞれの国の
マーケットっていうか
企画があるじゃないですか。
企画の本部ですね。
日本でいうJISですよね。
要するに
インダストリーなスタンダードがどうなっているか
それに従じていかないといけない
ということもあるので
そういう情報を集めたりしてましたけど
やっぱり仕事大変な割には
はっきり言って
そんな死ぬほどいっぱい仕事来ないですよね。
なるほど。
ちょっと早すぎちゃった。
早すぎちゃったかなと。
これでどうしようかなと。
いろいろ考えて
まだうちの子供もいなかったので
もう来て日本に帰ろうか
なんて考えているときに
そういうことを考えた時もあったんですね。
たまたま友人から
YSって会社お前知ってるかって
連絡が来たんですよ。
何YSって言ったら
字分かんない。
WASEって書き持ったら全然分かんない。
その方も分かってなかったんですか。
ただYSって会社があって
そこは人探してるんだって
田山敦郎さんという人がパリに来てるから
その人によかったら会ってみないと言われて
いいよ。
ファッション系らしいんだよねと言われて
山本洋司って知ってる?
知らないなと。
お互い知らないんだ。
私に話を持ってきたやつも知らない。
なるほど。
ただ田山さんに頼まれたからということで。
で、ちょうど洋司・山本のプティックを
今は忘れない。
おゆず真珠っていうのが
レアルにあるんですけど
そこにお店を作ってる時だったんで
そこに田山敦郎さんを
訪ねていった。
それがきっかけです。
そこでいろいろ話をしていて
実は田山さん
日本にちょっと帰るんですよと
どうしてですかって言うから
いやもう日本に本当は確実に帰ろうかなと思ってると
なんとなくなかなかうまくいかないし
日本の会社にどっかで企業に
入りたくもないし
私のわがままなこと言って
で帰ろうかなと思っているんです
と言ったら
じゃあ山本に会ってくださいと
ということで日本に帰って
山本洋司さんに会ったのが
この業界に踏み込む
27:00
きっかけだと。
そこで
決めたポイントは何だったの
それはですね
山本洋司さんが会いに行ったと
会いに行って
じゃあまたご連絡しますねと
山本さんが来て
フランスのLって雑誌があるよね
あそこのLが今度
どこだったか忘れたんですけど
集英社だったかな
組んで日本に来ることだと
それの
パーティーが
インペリアルホテルであるから
通訳として斎藤さん来てくれませんか
いいですよと
会社に行った
その時には着るものがなかったので
三つ揃いで
今とは全然違う
ビシッとして
そしたら山本洋司さんが
上から下まで行くと見て
その格好ちょっとなずいなと
その時に
今でもあります
そこの
事務所で
山本洋司さんが選んでくれたんです
このシャツ着てこのスーツ着て
後で電話をして
すぐに一人
すすあげをやってほしいと
女の子会社に駆けつけてくれました
それを着て
自分にとって初めての服で
こんな服着たことないなと
全然違うじゃないですか
普通の服着てる人から見た
山本洋司さんをはじめ
皆さんは山本さんかっこいいですよ
あなたは結構背高いし
そうですかと
おどおどしながら
仕事を終わらせて
オープニングに行って
来年山本さんがパレに行きますから
どうもこうなって話をして
帰ってきて
洋服脱いで畳んで
自分の服に着替えて
その服を持って行って
山本さんにどうもありがとうございましたと
返そうとしたら
彼がグッとそれを仕返して
入社プレゼント
その瞬間って
えらい感動したことを覚えてるんです
今でもその
入社おめでとう
今でもそのスーツも実は
ウエストなんか全然入れなくないから
着れないんだけど捨てられない
シャツはやっぱりボロボロになっちゃったので
捨てちゃいましたけど
未だにスーツは捨てられないで持ってます
それがじゃあ40年くらい前
だから1980年
8月か9月か
それぐらいですか
あー貴重な
スーツですよね
絶対に
今着てみたいと思わないんですけど
もうウエストが全然入らないですからね
なるほどね
確かに時間がちょっとだいぶ経っちゃってますね
だいぶ経っちゃってますからね
そこで
なんかでもそういうのって
男同士
女性同士それを受け取るから別ですけど
男同士だとやっぱり男気
男気っていうか
触れるものがあって
やっぱりかっこいいなと思ったんですよ
そういうやり方
30:00
はい1回目のインタビューでした
40年以上も前に
フランスにいらして
そこから大学行って
就職して
山本陽一さんと出会った
っていう話だったと思うんですけど
なんか印象に残ったところとか
さゆみさんありますか
そうですね
確かおさむさんがおっしゃってたのは
一旦
高校で社会に出たんですよね
そうですそうです
そこからまた
大学に行こうと
思って
行かれて
心理学でしょ
そこがとても
面白いなと思ったのと
また
そこから
フランスを選ばれたところ
っていうのも
当時にしたら
独特なのかな
という感じがします
ご本人はちょっとひねくれ者というか
天の弱みたいな感じで
おっしゃってましたけど
やっぱり当時アメリカみたいなところで
お父様の影響もあって
フランスの方に
行ったっていうことなんですよね
だからそこから
あの時期にフランスに渡るって結構
そうですね
その当時は特にファッションをやろうとか
そういう意図があったわけでは
全くないわけですよね
それが面白いなと思って
来てましたね
ファッション業界に入りたいとか
デザイナーになりたいとか
っていう場合だと結構そういう方ってね
いらっしゃいますよね
いらっしゃったと思うんですけども
全然そういう目的があるわけではなく
っていうのはとても
珍しい
かなと
結局残ったのは
奥様と出会ってしまったからみたいなところだ
白色で
それもフランスっぽいっていうか
ありがちっていうか
勇気を出して声をかけたと
素晴らしいですよ
素晴らしいですよね
米制やってるぐらいのレベルで
それをやる
それは素晴らしいと思って
日本人女性に皆さんに
参考にして欲しいと思う
男性でも
女性でも
全然関係なく
自ら声をかけていっても
勇気を出して
ちょっと話しかけてみようかぐらいで
恥ずかしがってる場合じゃないですよね
そこから何か先が
あるかもしれないし
実際会ったわけだし
彼の場合は
人生どうなるか分かりませんよね
あと最後の
陽次さんとの
出会い方
人とのつながりがつながっていったけれども
結果的に
東京で出会って
Lジャポンが
日本にやってくるから
その時の通訳で
入って
そのまま入社プレゼントとして
スーツを
もらったみたいな
33:00
意外にファッション業界
それ多いですよ
私いっぱいニューヨークで
洋服もらいました
それが
一つの証なんですか
私の入った
ブランドでは
本社がニューヨークだったので
ニューヨーク出張があって
そこで研修を受けるわけなんですけど
その時に
プラダを着た悪魔っぽいな
と思ったのが
プレスルームがあって
そこにいっぱい洋服があって
こっから好きなのを選んでいきなさい
みたいな感じで
一応そういった仕事を
するわけだから
好きなそのシーズンの洋服を
好きなだけ
バッグとかも好きなだけ
買ってもらって
一応
上限はある程度ありますけど
好きなのを
取って
持って帰って
サイズもあるから
たぶん今は
普通なのではないかな
と思います
彼の場合は
どっちかというと留舎を決めていったわけじゃなくて
そうですよね
留舎とか関係なく
そのプレゼントがきっかけで
入社するみたいなところになったから
それは素敵ですよね
だからちょっと
今の走りといえば
走りなのかもしれないし
そういう意味では
熱い思いに
お手伝いをしようという気になった
そういう中で会いもいいな
っていうのを聞いて思いました
次回は
もうちょっとフランス的な
コミュニケーションの話とか
何が大切かみたいなところを
お話し伺っていますので
楽しみに聞いてください
ありがとうございました
この番組は
毎週金曜日をみどりお届けしています
確実にお届けするための
方法として
iTunesやPodcastのアプリの
購読ボタンを押せば
自動的に配信されますので
ぜひ購読する
のボタンを押してください
また皆様からの質問や
感想をお待ちしています
オフィシャルサイトは
パリプロジェクトで検索していただき
お問い合わせから
質問や感想をぜひ送ってください
オフィシャルサイトから
LINEアットやメールレターで
有益な情報をお届けしているので
こちらもぜひ
登録してくださいね
また次回もパリで学んだ
ぶれない自分の作り方を
お楽しみに
秋でした
35:46

コメント

スクロール