00:14
こんにちは、木です。今日もパリで学んだ「ブレない自分の作り方」の時間がやってまいりました。
さゆみさん、今日もどうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
11月1日ということで、とうとう冬時間にもなって、秋がパリにもやってきたっていう感じですけど、
今年、あったかいですよね。
例年に比べると、まだコートとかあんまり着てない感じ。ジャケットで全然まだ平気。
ジャケットとストールとかあれば、多少は全然平気。
本当に薄めのジャケットでもいけちゃいますよね。ストールがあれば。
いつももうちょっとなんか寒かったような。
寒い時は、もう本当にコートでグーツで良かったんですよね。
グーツが登場してないんですよ。
グーツあったし、本当に先週ぐらいから履き始めたぐらいで、ロングブーツなんかましては全然履いてないし、
セージャー、ショートブーツぐらいで。
タイツとかも全然履いてないですよ、私も。
必要ないもんね。なんか逆にちょっと履くと暑いかなみたいなね。
暑いぐらいですね。
ちょっと中に入っちゃうともう暑いっていう感じだから、どうしてもちょっと珍しい。
やっぱりこれ年々暖かくなってきてるのかしら。
なんてちょこっと思ったりもするんですけど、
お家の中とかももうショファーで暖房が入ってるんですよ。
入りますよね、いつも10月中ぐらいはね、入っちゃいますよね。
大抵自動的に入るんですけど、暑いんですよ。
結局ショファージュをつけていって、窓を開けちゃう。
なんともったいない。
そっかそっか。いわゆる集団っていうか、アパート全体だからね、こっちでコントロールできないんですよね。
暑くなって窓を開けちゃうんです。
これってエネルギーの無駄遣いじゃないかしら。
そんなに暑いんだ。
でも、お年寄りが多いと気温高くしません?設定が。
多分彼らに合わせてるんですよね。
ですよね、エアコンが厚刈りの男性に合わせてるのと同じで、暖房もね、お年寄り、
じっと動かないお年寄りを大体家にいますからね。
動かないでしょ、だって。
犬の散歩ぐらいかな、して動いてるよね。
だから、うちも21度でも設定温度を決めていて、寝室は19度にして、
で、その1個だけ暖房が入ってない部屋があるんだけど、そこは気温が21度切ったら自動的に入るようなシステムになってるんで。
03:06
モダンな作りなんですよ。
うちはね、そんな設定ができなくて、もうとにかく全部ガーッと入るんですよ。
暑くなっちゃったりとかすると、窓を開けるしかない。
で、家の中でノースリーブとか着ちゃうでしょ?
もうだって家の中半袖かノースリーブですよ、みんな。
それはちょっとね、羨ましいと言えば羨ましいけど、
暑いんですよ、暑すぎかもしれないですよね。
今回は本当になんかちょっと意外なくらいに暖かいから、
まあこれがね、またいつどうなるか、ちょっとわかんないけれど。
だからあんまりこう、冬のファッションっていうのが、
なんていうのかな、まだ意識できないというか、
あんまりお買い物欲もない、湧いてこない。
秋のファッション的にはどうですか、今年。
秋ね、私もね、今ダウンシャリ中なんですよ。
なので、なるべくこう買いたくない。
まずは減らしたい。
そこなんで、なるべく買わずになんとかこう、
ある物で楽しんでいきたいなと思っているところ。
確かにスニーカーの度合いがすごく増えてから、
ブーツに移行するまでの時間が変わってきたなと思っていて、
今まであったらもう今の時期、
今10月ぐらいからすぐブーツみたいな感じだったのが、
結構やっぱ今年は流行りもあるのかもしれないけど、
スニーカーがすごく多くて、
こないだね、すごいドレッシーっていうかエレガントな女性を見かけて、
もう膝から上が本当革ジャケットにワンピース着て黒いストッキング履いて、
で、ちょっと冬のファッションなんですよ。
だけど、下が靴がスニーカーだったの。
黒いスニーカーで、だからすごいブーツの感覚で、
膝から上を見るとすごくエレガント、
だけどちょっとカジュアルダウンしてる感じ、
だけどめちゃめちゃカジュアルではなく、
ちょっとオシャレなスニーカーっていう感じで、
こういう感じで、ブーツじゃなくてスニーカーになってきてるっていうのがちょっとパリの中では、
それは私も思いますね、
リッセイの子達を見てると、もうそれが著実で、
スニーカーしか履いてない、
もうみんなほぼ98%ぐらいスニーカー、女の子たちが。
ちょっと前のフランスとは違う感じのファッションになってきてるかなと思う。
だけど、そこ以外はすごくリッセイの子達もシックだったりとか、
カジュアルな感じだったりね、
基本ジーンズはジーンズなんだけどっていう感じですよね。
06:02
スニーカーもまたちょっとアメリカ人とかの履き方と違うコーディネートをしてるかなっていう感じが、
服が違うとかっていうよりはコーディネートの仕方が違う?
全然違う。
さっき今、だからアキさんがおっしゃってたみたいに、
すごくエレガントな服にあえて合わせるとか、
レースのロングスカートに内側、外側レースなんですよ。
内側にミニの黒いスカートみたいなのがあって、
足が透けて見える。
だけど足元はスニーカーでスポーティーにして、
そんなに女々しない感じ。
ある程度の何ていうのかな、甘辛バランス。
そうね、懐かしい甘辛バランス。
とれてる。
また別の言葉で言うとスポーティーとエレガントですね。
なんかバランスがいい感じにとれてる人とか見ますよ。
革ジャケットとかね、そういうのって結構合わせやすいでしょ?
合わせやすいと思います。私も合わせますよ。
何でも合っちゃうかもね。
だから結構フランスのファッションには合ってるかもしれないなって思ってて。
ものすごいドタグツをアフリーなんとかって言うんですよね。
ドタグツスニーカーがあるじゃないですか、ドタ。
ごっちい感じの。
あれをあえて私が見たんですけど、
レースのロングスカートに合わせてるファッション関係者がいました。
面白いね。
聞いたらルイビトンで出してるゴツゴツスニーカー。
あえてそういうのを合わせ出して合わせるようにみたいです。
まあ確かに今年よくみんな靴自体が結構ごっつい感じ。
ヒールとかもごっつい感じとか結構見るから、
そういうあえて強調したいっていうのはあるのかもね。
なんかボリュームを出してっていう感じがなんとなくあるかも。
今のトレンドなのかなっていう感じは確かにしますね。
だからそういう意味ではスニーカーは本当に、
まあね旅行者の方でも普通に履くけど、
なんかみんな履いてるって感じですよね。
まあどこかにパーティーに行くとかってなったら、
ヒールとか持っておいてスニーカーから履き替えていけば、
またそれはそれで素敵な感じにもなるでしょうしね。
昨日ね、メトロに乗ってたら、
まあそのスニーカーの履き替えで思い出したんだけども、
たぶんちょっと妊婦さんっぽい感じがしたんですよ、姿勢的に。
で彼女が、その彼女のバッグ、茶色い革のバッグから靴がはみ出てるの。
09:00
それでちょっとローファーっぽいのを履いてて、
で彼女の足元見たらスニーカーを履いてるから、
あ、オフィスで着替えたんだなって、履き替えたんだなと思ったんだけど、
ビニール袋も何にもしないで、そのままバッグに突っ込んでるんですよ。
その衛生観念に。
すごいよね。
そう、でもパンとかもそのまま入れちゃったりしてるでしょ?
バッグに?
そう。
あ、紙とかで巻かないで?
ああまあね、確かにね。
まあ多少持つとこ巻いてるけど。
あるんですけど。
結構あれっていう、何でもそのまま入れてしまう。
プロテクトしないですよね。
だからね、包む文化じゃないんです。
でもね、包む文化とかっていう問題じゃないような気もするんだよね。
衛生観念がやっぱり日本人と違うなって私はいつも思う。
私もあの、そのバッグ自体も普通のおしゃれな革バッグだからね。
なんかこうプラスチックのバッグとかショッピングバッグに入れてるんだったらまあわかるけど、
それの入りきらなくて上3分の1が出てるかかとが、どう思います?これ。
でもそのバッグにパンとかも突っ込む人いる。
まあいるから、だから多分お財布から何から全部一緒かですよね。
怖いなと思うんだけども、だからいかに私日本人の衛生観念ってね、すごい発達してるなって。
逆にね、もう細かいぐらいだからね。
だからそのちょっと今の話はちょっと関係ないけどね、今8階文化っていうのでちょっと思い出してね。
だからまあ多分オフィスと行き帰りで履き替えてるんだなと思ったけど、まさかバッグから丸見えの状態で出しているとはね、思わなかったみたいな。
いろんなものがね、バッグに入ってそうですね。
ね、っていうまあちょっとパリの今の最近の風景をお話しさせていただきました。
はい、それでは本編スタートです。
はい、今回も月1回のインタビューをお届けしたいと思います。
今回はベイン陶芸家でタイル作家の名人彩子さんです。
彼女はお話を聞いていただければわかると思うんですけども、スペインに20年住んでいらっしゃって、
ベイン陶芸家として活躍された後に場所を日本に移されたという方です。
それでは前半をお聞きください。
こんにちは、木です。
今日も素敵なゲストの方に来ていただいています。
スペイン陶芸家でスペインタイル作家の名人彩子さんです。
彩子さんよろしくお願いいたします。
お願いします。
彩子さんはスペイン陶芸家でタイル作家ということなんですが、スペイン陶芸家というのは陶芸というのはどういうものなんでしょうか?
12:02
そうですね、まず土が真っ白なんですよ。
これはアジア祖国では採れない土で、アジア祖国で採れる土はだいたい1260度という高温焼成の土が主なんですけれども、
スペインの土というのは元々焼く温度が低くて980度、1000度くらいで焼く土なんですね。
元々地中海沿岸でよく採れた土で、土が真っ白なので上に乗せる色がすごく綺麗に映るという色がね、色彩陶芸というか、カラフルな焼き物というか、そういう焼き物ですね。
それはスペインの土を持ってきているということなんですか?
そうなんです、そうなんです。今は船便で1月半かけてスペインから運んできて、
それくらいの量はいかがですか?
1リットルのこういう入れ物に全部詰める感じ。
入っちゃうんだ。
粘土だけじゃなくて、いろいろこういう釉薬の材料も鉱物系も、
移行から全部。
だいたいこれくらいの、12キロくらいの塊を50パックくらいに乗ってきますね。
なるほど、船便で届くと。
そう、船じゃないと絶対無理ですね。
飛行機だったら大変ですね。
飛行機だったら大変。だからインド洋をずっと回って、東南アジア回って、
香港とかに寄って、それで東京の港に来るという、土も長い旅をして。
実際に、作品はまたお祝い写真でお見せしますけども、
どういうものを作ってらっしゃるんですか?
えっとですね、私はまずタイル画、要は陶板ですよね。
平たくのした四角い陶板ですよね。
で、あれを組み合わせてタイル画、陶板画っていうのを作って、学創して、
だから絵の感じなんだけど、それをタイルで作っているという陶板画と、
あと壺とか、大きめの壺とか、それと、あと動物のオブジェとか。
小さいものから大きいものから、いろいろ。
あと少ないんですけど、一応実用品のカップとかお皿とか、
日本語陶芸家は結構そういうのを作る方が多いですけど、私はすごく少量です、その実用品は。
どっちかというとオブジェとか。
そうですね、オブジェとか。
今は古典とかいろいろされていると思うんですけど、実際にスペインに住まれて、
このスペインの話もまた聞きますけど、日本に戻られてきてどれくらいなんですか?
日本に戻ってきて、2013年の1月に戻ってきたから、もうすぐ6年ですね。
15:03
日本で活動したのは、2013年が初めて?
そうでもなく、そのちょっとぐらい前から、スペインに在住してたんですけれども、
ちょっと日本の百貨店さんから展示をしてくれないかみたいなお話が少しずつ入るようになってきて、
でも私は日本にいないじゃないですか、だから夏休みとか来れるタイミングの時にやったりとか、
あるいは人に売り場に立ってもらってやったりとか、そういうオファーが少しずつ増えてきて、
もしかしたら日本ではそういう道もあるのかなというのは少しずつ思ってたんです。
じゃあもう帰ってきて、結構日本で全面的に今も6年間がっつりやってる?
そうですね、本当に運がいいことに、私はちょうど帰ってくるタイミングあたりですごくいい画賞さんにめぐり会ったんです。
すごく私の作品が気に入ってくれて、この画賞さんは元々ヨーロッパ、アメリカ絵画専門の人で、
日本の作家は扱わない人なんですけれども、私もそうやって日本人ではあるんだけれども、
焼き物をやっているということで、知り合ってすごく気に入っていただいて、
面白いからと言って、その画賞さんがいろんなそういう会場を持っているんですけれども、
アレンジしてやってくれるようになったんです。本当に運がいいことに。
それからもう展示会を?
そうですね。最初の2年ぐらいは関東県中心で、それから少しずつ地方にも行くようになって、
今は関東よりも地方を回っていることの方が多いかも。
あちこちでやってますよね。
月1か月2ぐらいで、日本全国いろいろ行って。
それも本当にバラバラっていうか、限られた場所というよりも、今度ここなんだとかそういう感じでやってますよね。
そういうことです。
もともとのスペイン峠と出会ったところからちょっと聞きたいんですけど、それはもともときっかけは何だったんですか?
もともときっかけはね、私大学の頃、やっぱりアートが好きだったんですよ。
でも自分で作るというよりも見る方が好きで、
あちこちの海外の展覧会とかいろいろ見に行って、
それでね、私が好きな絵はスペイン人の作家さんの絵ばっかり見たんですよ。
偶然?
偶然。知らずにパッと見て、あ、これいいなって思うのが、誰が描いたんだろうって見ると、
18:02
あ、スペイン人だって。
あ、この人もスペイン人だ。
あ、これもスペイン人だみたいな感じで。
とにかく、なんで私はこんなスペイン人が描く、そういう絵画?
その色や構図、なんでそういうのに惹かれるのかなっていって、
スペイン、何だろう、このスペインという国は?っていうところで、
まずそこでスペインっていう。
キーワードが入ってきた?
そう、キーワードが入ってきた。
なんか共通項あった?
やっぱりね、私色が好きなんですよ。
色がいいな、やっぱり色の使い方が。
そう、色が好きなんだ。
色しげななんかそういう構図とかも好きなんだよね。
とにかくそれは理屈ではなく、
直感的に、あ、これ好き、あれ好きって思う絵がみんなスペイン人の絵だった。
なるほどね。
で、そこでキーワードが入ってきた。
で、そこから?
そこから、私は大学出たら、どこか外国に行きたかったんですよ。
どこかで勉強したいって思ってて、
一番最初に思ってたのが、見る方が好きだったんで、
ニューヨークの、私メトロポリタン美術館が大好きで、
あそこの学芸員になるっていうのが一番最初の夢だったんです。
それで、ニューヨークの大学院で、
美術史なり美術理論みたいなのを専攻して、
絶対にメトロポリタン美術館で働くっていうのが一番最初の目標だったんだけれども、
それがある時に変わったんですよ。
大学の3年生ぐらいだったかな。
で、なんでかっていうと、
読むは、見てああだこうだというよりも自分で作りたくなっちゃった。
それまで作る方はあまり興味が元々なかったのに。
なんか嫌になっちゃったのよね。
見るだけで。
作ってもいないのにさ。
批評するっていうか。
批評する人ばっかりじゃないんだけれども、
なんかそれが嫌になっちゃったんだよね。
それで、じゃあ私には何が作れるかなと思ったの。
その時に絵っていうのは私全然子供の頃から得意じゃなかった。
絵心がそんなにあるわけじゃなかった。
別に学校作の点数がすごくいいってわけでもなくて、
じゃあ私には何が作れるんだろうと思って、
これが面倒かなってピッときた。
で、近所の、日本ってご近所に陶芸教室とかあるじゃないですか。
ああいうところが結構好きで、行ってたところがあったのね。
それで、じゃあやっぱ粘土だと思って。
じゃあ、人のものを見て、出来ないのが嫌で、
21:01
自分で作りたくって、スペインで粘土ならば、
やっぱりスペインに行って陶芸学校に入るしかないなっていう。
ニューヨークから移っちゃう。
それが本当に直感的なこと。
それは大学3年生とか4年生とかその辺ぐらいですか。
だから、行くつもりは行くつもりだったんで、
お金は結構貯めてたんですよ。
アルバイトをして。
3年ぐらい、いくらかかるかよく分からないけど、
とにかく貯めてなんてないですよ。
で、そのとき直感的に、
私は将来陶芸科でやっていけるんじゃないかと思ったの。
まだ行く前に。
そう、行く前に。
すごいな。
直感?
直感。
その直感に忠実に生きてきちゃった。
それが自分の中で何か、確信はあったの?
その直感に対する。
うん、なんかね、すごくいけそうな気がしたの。
これなら、でもなったの。
本当に?
何の根拠もないんじゃない?
ときってまだ、いわゆる陶芸教室にちょっと行ってるぐらいのときですよね。
そうそう、行ってたぐらいのとき。
変な作品をたくさん生み出せた、そんな私が。
なぜ、あの直感は自分でもどこからきたのかさっぱり分からないんだけれども、
でも、これだと思った。
で、大学卒業して、スペインにも行ったんですか?
行きました、行きました。
どれぐらい?
半年ぐらいかな。
やっぱりスペイン語、陶芸学校に入るから、語学学校じゃないから、
やっぱりある程度できないと、これは相当苦労するだろうと思ったんで、
半年アルバイトとスペイン語学校に通って、それで、
向こうの学校は9月スタートなんで。
じゃあそれはもう、団書出したらOKだったんですか?そっちの学校に入れたんですか?
うん、そうだね、そうだね。
それがね、入った時も、当時ってネットとかもなくて、
メールもなくて、スペインの陶芸学校って一体どこがあるんだろうって。
それは領事館に行って、そこで3つ教えてもらったんですよ。
スペインの、日本にあるスペイン領事館で。
そう、陶芸学校3つだけ。それは国立のマニセスの陶芸学校っていう、
バレンシア、私が行ったとこなんですけど、そことタラベラと、
タラベラってもう一個スペインの陶芸の町があるんですけど、
あとバルセロナの私立の陶芸学校と、3つしか教えてもらえなくて、
それで私6月に手紙を書いたんだけど、返事が来ないんですよ。
その参加書とも?
参加書とも。あ、私立のところは来たから。
だけどちょっと高いなと思って、それで陶芸だけじゃなかったんで、
私はどっちかというと陶芸だけの学校に入りたかったんで、
24:01
で、マニセスとタラベラの学校を知りたかったんだけど、
ちょっとも返事が来ない。どうしようって。
で、カリキュラムは分からないし、要領も分からないし、何も分からなくて。
何の情報もないって感じ?
そうなんですよ。で、電話したってスペイン語できないし、
そんな怖いことはできない。
じゃあ行ってみてくるしかないかなと思って。
スペイン上陸?
そうなの。で、向こうって9月スタートで6月終了なんで、
6月ぐらいの頭ぐらいだったらまだやってるかなと思って、
で、とりあえず1回行こうと思って。
それは大学卒業したときの、まだ4年生とかそのタイミングですか?
いやいやいや、4年生じゃないよ。大学卒業したこの6月。
あ、じゃあこの9月に入りたいのにっていうタイミングですね。
そうそうそうそう。だけどちょっともう返…
あ、でも手紙とかはもうちょっと前に返ってた。
あ、返ってた。でも返事が長かった。
で、半年ぐらい返事がないから。
半年ね。
半年ね。
その辺はスペイン時間なんですかね。
スペイン時間なのね。
そいで、とりあえず6月に行った。
その2つの学校の。
そう、2つ。で、まず最初に一番行きたかったと思ってた、
私が入ったバレンシアの学校に行って、
で、インフォメーションに行ったら、
あ、君ねって手紙書いてくれたの、君ねって出て。
読んでるんだそれ。返事くださいよって言って。
で、まあいろいろこう私が伝える。
とりあえず私は見学に来たってことは言いたかったんだけど、
なんかうまく伝わらなかったみたいで。
入学申し込みに来たのかと思ったみたいで。
で、なんか書類を。
書けと。
書けと。で、書いたら、そこで入学が決まっちゃったんですよ。
え、そんな簡単なシステムだったんですね。
そう、そんな簡単なシステム。
で、後からよく考えてみたら、
あれは国立の学校なのね。
だから、あの、授業料がないんですよ。
で、誰でも入れるんだ。
一応。
それは外国人でも全然大丈夫。
当時はそうだったのか。
今はなんかいろいろ厳しくなったみたいだけど、
で、1993年に行ったって。
あの当時は、スペイン語チェックとかも全然なくて。
あ、それ語学チェックもなく。
語学チェックもなく。
すごいね、古いですね。
誰でも入れたの。
だから、本は誰にでも開いて、
ただ、内容が大変なんでどんどんやっちゃうからね。
だけど、一応入れることは入る。
で、私、そうそう。
で、それを後から思ったことは、
どういうことだからなんだと思ったんだけども、
その時は。
分からず。
分からず。
で、入学金とか、授業料のことも、
聞いても聞いても教えてくれないんですよ。
一体いくらかかるんだろうと思った。
一番気になるところだったね。
それが無料なんですよ、国立だから。
お金の話なんかしてもしょうがないよね。
そうそう、そうそう。
それも知らなかったんで。
だから、そう。
そういうことで入学が決まってしまった。
行ってよかったんですね。
行ってよかったです。
じゃあ、もう一つのところには行かなかった?
行かなかったです。
行かないで終わっちゃった?
行かないで終わっちゃった。
で、一回戻って、また9月に行った。
27:00
そうです、そうです。
行った。
で、何年間なの、その専門学校。
一応3年間。
その3年間は、どんな生活を。
いやー、大変だったんですよ、やっぱり。
だって誰も知り合いがいないでしょ。
いないない。
で、マリフェスというのはちょっと郊外の小さな町なので、
町的には小さな規模なので、
学校と借りたお家と近くで、
すごく人々も優しく、
一応温かく合わせてもらったんです。
スペイン人って結構ね、温かい人だし。
学校の勉強は大変だった。
なんかね、分かんないんですよ、とにかく。
何を言ってるか。
いくらスペイン語をやってきたとはいえ。
そうそう、で、一番最初の日に、
じゃあ次の授業までに用意しておく工具とか、
ああいうの、黒板に書いてあったのかな。
でもその工具とかの単語とかが全く分かんなくて、
一発も分かんないもんね。
分かります、分かります。
いっぱいの用語じゃないんだね。
そう、いっぱいの用語じゃない。
だからほんと分かんなくて、
それでもうとにかく書き写して、
材料屋さんに持ってって、
これが全部欲しいって言うしかないでしょ。
で、そんな感じで、
私はもうとにかく遅れ気味で、
遅れ気味で把握するものを。
何人くらいいたんですか、スペイン人とか。
一学年は。
一学年はね、クラスが3つくらいあって、
20人ずつくらいはいたかな。
結構いたの。
若い人ばかりじゃなくて、
結構出っ張りの子もいたりして、
でも外国人はその時は台湾の女の子がいたのと、
あとスウェーデンの男の子がいたのと、
学校全体に私と3人だけでした。
じゃあ基本スペイン人がメイクを。
そうそう。
外国人はほんと少数。
そう。
それで、いろんなカマの勉強するクラス、
釉薬の調合のクラス、ろくろのクラス、
あとオブジェ作るクラス、
あとデッサンのクラスもあって、
デザインのクラスもあって、
いろいろ本当に陶芸のいろんなことを
いろんな方面から学べる学校だったんだけれども、
とにかくね、
何かものを作らなくちゃいけないクラスっていうのは、
次の課題が何だかよくわからないんですよ、私が。
どういうことですか。
だから、こういうコンセプトでこういうオブジェっていうのが
次の課題で出るでしょ。
でもそれが話されてるだけだと何だかわからない。
黒板に書いてくれればわからないんだけど、
書かないんだよ、皆さん。
しゃべるだけ。
しゃべるだけ。
だから、昆虫っていうコンセプトのやつが最初に出たんだけど、
昆虫ってことはカラオゼしてわかったんだけど、
昆虫だったら何でもいいのかなみたいな。
とにかくいろいろ両浦先生があれだけ話してるんだから、
ただの昆虫じゃなくて何かいろいろあるんだろうなって。
でも私にはわからないんで、皆さんが作り始めるのを見ながら、
30:03
ちょっと待ってるわけね。
そう、待ってる。スタートがすごく遅くなっちゃう。
作り始めが遅くなっちゃう。
で、なるほど、なるほどっていろんな人を見ながら、
なるほどねって言って納得してやっと自分の方から始まるんで。
自分の操作期間めっちゃ短くない?
めっちゃ短い。
そう、めっちゃ短い。
本当に全部そんな感じで、
遅れ気味、遅れ気味で、だから後が大変でっていうような感じで、
1年半ぐらいはね、相当大変でした。
本当何やってもこんなにこう。
じゃあ後半になってだんだんペースがつかんでいくようになった。
スペイン生活1年半分経ってやっと楽しくもなってきたし、
友達もやっと打ち解けられたし、
最初からこんなものがあってとか分かってきたから。
それってやっぱり学年が上がってくると厳しいんですか?
そう。
乱れで曲がれるんですか?
一応テストに全部。
テストに合格すれば?
テストに合格すれば、はい。
テストは結構厳しくてね、
だから結構勉強した。
その頃のメンタルってどんな感じだった?
やっぱりね、さっきも直感の話で戻るけど、
直感で単価切って言っちゃうと言った以上、
そう簡単には変えれないよねっていう、そういう気持ちがあった。
確かに。
じゃあダメだったって簡単に変えるのは自分の心が許さないというか、
言っちゃった以上頑張るしかないよね。
あの時思ったのは、諦める勇気は私にはないなと。
なるほどね。
逆にね。
逆に。
頑張っていくっていうのは、
私にとっては勇気ってほどのものじゃないなと思って、
でもこの思いを抱えていろんな人を巻き込んで、
いろんな人に心配かけてきちゃったところで、
じゃあ3ヶ月で無理でしたって言って諦めるっていう、
そこは私かなり勇気がいるな。
そっちのほうが勇気がいる。
そっちのほうが勇気がいる。
私には諦める勇気は。
もう選択肢がなかった感じがします。
そうね。
諦めるっていう方はもうなく、やるしかないみたいな。
そう、やるしかないみたいな。
で、何か先が見えない時もありましたね。
なんかトイレに閉じこもってなかなか。
それは何に対する泣きなの?
それはね、どうにもつまんないっていうか、
人にも溶け込めないし、言っていることも分からないし、
先生はいろいろ言ってくるけど、この人外国人だから
33:04
何言ってもどうせ通じないだろうっていう顔をしていることへの。
やるせない感じ。
やるせない。
もう先生とか諦めちゃって、私には話してこない人とかもいるんですよ。
優しい先生は一生懸命それでも気にかけてくれたりするけど、
そんな先生ばっかりじゃなくて、
もう何かこの人にはって思われちゃう。
仕方がないのね、本当に分からないから。
そういうことを悲しかったですね。
それは本当に初期の頃?
初期の頃、1年半、初期の頃。
私たちが笑っているのに、私は何がおかしいのか分からない。
海外にあるわけだよね。
でも笑ったらいいのか、笑っちゃいけないのか。
かもよく分からない。
笑わないとまたさ、それはそれでさ、
この人なんですかって。
でも笑っているなら分かっているんだよねって聞かれると、
分かっていないから。
あれつらいよね。
戸惑い。笑いも戸惑いのある笑い。
笑いの後、笑っていたら分かっているんだって言って
何か振られると全然答えられない。
海外の勉強ではよくあらたまるんですね。
そういうのもつらかったね。
勉強の課題よりも、やっぱりそういう人間関係みたいなのを
なかなか解け込みきれないというか。
優しい人たちだから、表面的には優しいのに。
でも本当にこう、やっぱり分からないからさ、
言っていることが心かよわしきれない。
そんなところがやっぱりつらかった。
3年終えたとき、卒業したときはどんな感じだった?
卒業したときは、私はすごく最後は優秀だった。
追い込みがすごかった。
追い込みがすごかった。
結局3年やって、60人ぐらい行った生徒さんたちは
卒業したら10人ぐらい。
6分の1、どんどんやっぱりやめていっちゃう。
なんでかというと、みんな軽い気持ちで入ってくるんだよね。
近所に陶芸学校があったからか、他にやることが見つからなかったから。
やっぱり日本からね、わざわざ来る人とはちょっと違う。
だから私は最終的には先生にものすごく可愛がっていただいて、
じゃああやこ来い来いって、あやこあやこ、
ほらあやこの作品だって。
最終的にはすごい可愛がってもらって、
結局卒業した人が一番多かった。
その10人の中で。
そう、10人の中で。
そう、テストだから。
筆記テストとかもすごいできるよなって。
36:02
勤勉な日本人。
勤勉な日本人がそこで出たみたいな。
でもやっぱりそこの直感を信じて、諦める勇気っていうのも全部置いてきて、
やったっていうのが最終的には3年の間に。
そう、身を結んだっていうね。
その卒業の時に次どうしようと考えてたんですか?
そう、考えてたの。
だから卒業の時に、ここが私の一つの決断の時が卒業の時で、
その時私スペイン人のお付き合いする元の旦那さんなんですけれども、
一つはその人と結婚してスペインに残って、
それでスペインでずっと政策を続けるっていう選択肢と、
その方は私が日本に帰っちゃったら遠距離はちょっと無理だっていう人だったんで、
もうそこで彼とはすっかり別れるって、
拠点を日本に移して日本でやるかっていう、そういう決断の時。
で、私は彼とスペインを残る方を選んだ。
じゃあその結婚もして、
そう結婚もして、彼が、向こうの人って結構日曜ないこととかよくやりますよね。
で、自分も彼が住んでいたお家、結構大きい山の方に住んでいたお家の地下に
私のアトリエを作ってもらって、
そこで、だから私は上で生活して、下で政策っていう本当に理想的な生活を。
じゃあ作家としてそこからスタートしたっていう感じなんですね。
そうそう、そうなんです。
で、その時にどういう活動をして、作家として展示をしていこうとか、どういう感じですかね。
それで、やっぱり人間ってないものねだりなものじゃないですか。
それでやっぱり私は大学時代は外に出たって仕方がなかったのに、
やっぱり今度じゃあスペインにずっとって決まると、
逆球に日本が恋しくなってきたりして、やっぱり日本との接点を持ちたいなと思うんで。
で、私が学んできたスペイン単位の絵付け技法っていうのが、すごく独特な技法があるんですよ。
で、それをやっぱりすごく面白いのね。
絵付けの技法とは全然違うので、すごく面白いので、
これを日本の人たちに伝えたいなっていう思いがあって、
じゃあそれをまずやろうかな、作家活動の傍らはそっちもやりたいなと思って。
それで、夏に帰った時に単発でタイルの絵付けの講座とかをやったりして、
何年か2年ぐらいそんなことを、冬に帰れたこともあったんで、
そんなことを繰り返しているうちに、日本でも習いたいっていう人が増えてきて、
でも私は日本で通年で開くわという感じになって、
39:02
で、どうしようかなと思った時に、私の姉が、
じゃあ私が日本で教室を開こうかなって。
姉も元々物作りが好きだったので、
それで姉が私のバルバレッシャー号に1年ぐらい来て、
デシリしたわけですよね。
そうです。
それはもう作家とかそういう作品じゃなくて、
もう本当に向こうの職人さんが描くタイルの絵付けのほうを、
そっちに特化して姉に教えて、
で、姉が本当に東京でそういうコースを開いて、
2人でカリフラムを考えて、
で、ヨーロッパっていろんなタイルがあるので、
そういうスペインのタイルだけじゃなくて、
オランダのデルフトタイルだったり、
イタリアの宗教的なタイルだったり、
イギリスの古い中世の大理石みたいに見えるタイルとか、
いろんなタイルがあって、
そういうヨーロッパのいろんなタイルを網羅できる、
そういうカリフラムを2人で考えて、
それで姉が東京でそれを教え始めたんです。
そうなんです。
だからちょっと日本と繋がったわけですね、そこで。
すごく嬉しかったです。
で、こっちでスペインはスペインで、
自分の作家活動をしてたと。
ただ、子供が結構すぐ早くできてしまったので、
だから、最初に長女ができて、
3年後に息子ができたので、
その作家活動はちょっと無理かなって。
私、本当に作り出すとそれに没頭しちゃうので、
やっぱり子供育てながらとても作家活動ができないんじゃないかと思って。
なかなかやっぱり難しいですか。
工房業務のほうもあったから、
だから作家活動は本当にスタート2年、3年したところで
1回ちょっとストップしたんですよ。
そうだったんですね。
子供が生まれて、すごく手のかかる期間に入って、
だから作家活動は10年、100個ぐらいはストップしてたかな。
でも結構いろいろコンクールとか。
そうそう、それは後半。
本当に全く作れなかったのは、やっぱり息子が3歳ぐらいになるまでだから。
やっぱり3歳でも学校に入るから、
6年ぐらいは本当に全く何もできなかったんだけど、
その後やっぱり息子、子供たちが学校に入っている間に
少しずつ再開が始めて、
それでスペインって補填をして売るっていう、
そういうことがあまりできないっていうか、
やろうともできないけど、売れない国っていうか、
そういう経済状況もそうだったのかもしれない。
そういう状況だったから、あまりそっちよりも、
とりあえずは6年間、私は作りたい気持ちを抑えられてきたので、
42:01
とりあえずそれを少しずつ出していくために、
まず売るとか売らないとか関係なく、
自分の作りたいものを作ろうという。
そうすると用途のオブジェみたいな。
オブジェ作みたいなもので、
それがちょうどスペインはコンクールとかたくさんある国なんで、
そういう大きいものを作ってコンクールに出すっていう、
そういう時代にそこから少し入っていった。
どれくらいの創作期間ですか、そういう時?
それは物によってなんだけど、
大変なものだと3ヶ月くらいかかったり、
結構失敗もするんで、思った通りにいかなかったりするので、
やり直ししたり。
ひとつの作品にずっとかかってるわけじゃなくて、
いろいろ同時進行で大きなものを、
アイデアこっちのアイデアこっちのアイデア、
みたいな感じで同時進行でやったりして、
それでコンクールって入ると賞金をもらえたりするので、
あ、そうなん。
じゃあアーティストとしてはそれは結構大きなポイント。
そうそう。
で、入賞して賞をいただけると、
美術、陶芸博物館に所蔵みたいな感じで。
できる。
そういうような感じで、
スペインにいた時は結構そういう方向でやってたな。
で、そこで所蔵してくれたら知名度というか、
見てもらえる機会が増えますね。
だから結構大きなオブジェを作った感じ。
あ、じゃあその時は東京でやってるのは
ちっちゃなオブジェというよりも結構大きいもの?
大きいもの。
だから値段があるようでないような、
そういう本当にアート、いわゆるアートですよね。
やっぱりさっきもちょっと言ってましたけど、
ギャラリーとかってやる文化って、
スペインとかは結構アートにオープンなイメージがあるけれども。
あのね、やっぱり絵画は結構皆さん価値を見出すんですけれども、
焼き物の位置が低いんですよ。
絵画に比べて。
焼き物はアートというよりもやっぱり人間工芸というスタンスで、
なかなか見て面白いっていうのはあるんだけども、
そこに大金を払って買うっていう、そういう文化があまりない。
絵だったら結構ね、お金持ってる方なんかは買ってたりもするんだけれども。
それも知らなかったところなんだけど、
もちろん個展なんかもしたんですけど、
それをしてすごくいい評価はもらえるんだけど、
ひとつも作品が売れないみたいな。
買う人はいないみたいな。
それといい作品が売れるかどうかはまた別にね。
だからそういうのも、そうなんだっていうことをそこで知っていくっていう。
コンクールをメインに。
そうね、コンクールをメインに。
やっぱりコンクールって純粋に評価されるから、
それは自分にとってもすごく励みになって、
もちろん落選したこともなんでもあるけれども、
やっぱり入った時はすごく嬉しいんですよ。
45:01
これ見ると、経歴見るとかなりやってますよね。
そう、かなり。
すごいスピードで。
ものすごい出した。
ありとあらゆるコンクールに出展してるんじゃないかぐらい。
だって入賞してるだけでこんなにあるってことは。
そう、すっごい出展しました。
でも一番嬉しかったのが、
アルコラっていうバルセロナ郊外にある一大峠産地があって、
そこでやってるコンクールで、
プロの方が審査するんじゃなくて、
ランジョー社の人気投票で1位が決まるっていう、
そういうパブリック特別賞みたいな、
そういうのがあるコンクールがあるんだけど、
そこで一番をもらった時が。
それ何点ぐらい知ってたんですか?
もう出展数ですか?
いや、結構だったと思うよ。
1000点ぐらいは出てたと思う。
1000点の中のトップだったんだ。
そう、だからそうやって焼き物が分からない人たちが
フラッと来て、これいいって言って、
そういうのに選んでくれたことが、
すごくそういう経験も今の私の活動にすごく。
それはちなみにいつ頃だったの?
いつ頃だっただろう。
それはコンクールに出し始めて、2年後ぐらいだったかな。
はい、船田彩子さんの1回目のインタビューでした。
今回はスペイン峠とどうやって出会ったのかというところから、
スペインの留学時代と実際の活動の前半をお聞きしたという感じなんですけども、
彩美さんなんか気になったところとか、一緒に残ったところありますか?
私ね、大学時代、スペイン語が第2外国語だったんですよ。
先生がめちゃめちゃ厳しい先生で、
授業とか同時通訳方式だった。
先生が日本語を言ったら、それをすぐにスペイン語で言う、またその逆とかいっぱいあって、
本当に本当に本当に死ぬかと思うぐらいスペイン語の勉強をしたんです。
本当に大変だったの。徹夜とかして。
そうだったんだ。
それぐらい大変だった記憶があって、
そのスペイン語をね、学ばれ、実際にインターネットとかない時代に調べられて、
行かれて、手探り状態で学校にとりあえず一つ行ってみたら、なんだか入っちゃったみたいな。
すごいなと思いますよ、そのエネルギーというかね。
でもそうするしかなかった時代ですからね、ある意味ね。
48:02
懐かしいのと同時に、でも私たちもそういうところがある意味ちょっとあったかなっていうのをちょっと思い出した感じがして、
嬉しくなった感じの。
ないなりに情報を集めて、それに向けてできる行動をするしかなかった時代ですよね。
行ったらもう一生懸命やるしかない。
逃げられないというか、諦めることができないと言ってましたよね。
直感を信じて諦める勇気がなかったみたいな話をしてましたよね。
やるしかないんですよね。
それぐらいの覚悟を、スペインの地元の子たちが気軽に学校に行くのとはちょっと違うノリだったっていうのは、
海外生活で留学経験のある人あるあるじゃないかなと思うんですよね。
私はね、やっぱりこのイギリス時代を思い出したんですよ、自分の。
言ってることがまずわからない。
私もイギリス人しかほとんどいなくて、ネイティブスピーカーばっかりで、
私と台湾人の人だけがノンネイティブだったんですよ。
あとは全員も英語圏の人たちばっかりだったから、
要は普通に日本語喋ってる感覚で喋ってるけど、
とにかくその笑いのほんとツボもわからないし、
ほんと何が何だか全然わからない。
だからもう調べてる間に次どんどん進んでるじゃないですか、話が。
彼女の場合は作品を作るっていう方だけども、
私の場合は文献を読んで発表したりもしなきゃいけなかったし、
結局ね、人の心をやってるからそれをちゃんとやらなきゃいけなかったから、
その苦しかった時代を思い出したって感じですかね。
彼女は3年間だからもっと長期間だけども、きつかったと思うんですよ。
みんな多分留学してる人は特に日本人もいなくて、
頼れる人もいなくてっていう生活の中で何とかクリアしていこうって、
葛藤の中で毎日生活してるっていうのは経験ある人はいるんじゃないかなと思うんですけど、
ちょっとそれを思い出した。
イギリス時代を思い出したなっていう感じがしたので、
だから彼女が今全然動じてないっていうか、
いるのはその時のつらかった3年間があるから、
後にずっとスペインにも続けて住むようになるわけだし、
そういうところがね、結構懐かしさと励みになったところかなと思いましたね。
強かったですね、そういうのを考えると。
強くないとやっていけなかった。
情報も限られてるし、本当にやる気ないみたいなところはありますよね。
51:01
彼女は特に作品を作らなきゃいけなかったわけだから、
お父さんも早いうちにできて、ちょっと休止状態になって、再開した時にコンクールにガンガン出しまくって。
やっぱり面白いなと思いました。
芸術ってヨーロッパでそれなりに評価を受けてるのかと思ったら、
やっぱり絵画と焼き物は違うとか、
やっぱり見方が物によって全然違うんだなっていうのを、
スペイン事情とともにね、ちょっと知る機会になったなと思います。
来週はインタビュー後半をお聞きください。
ありがとうございました。
この番組は毎週金曜日を目途にお届けしています。
確実にお届けするための方法として、
iTunesやPodcastのアプリの購読ボタンを押せば、
自動的に配信されますので、ぜひ、購読するのボタンを押してください。
また、皆様からの質問や感想をお待ちしています。
オフィシャルサイトはパリプロジェクトで検索していただき、
お問い合わせから質問や感想をぜひ送ってください。
オフィシャルサイトからLINEアットやメールレターで有益な情報をお届けしているので、
こちらもぜひ登録してくださいね。
また、次回もパリで学んだブレない自分の作り方をお楽しみに。
秋でした。