そして沙織の夫、豊との関係というのも、娘の失踪によって悪化の意図をたどっています。
夫婦喧嘩が絶えず、家庭内での緊張というのは日に日に高まっています。
唯一の支えとなっているのは地元テレビ局の記者、砂田という人物で、彼は情報番組のコーナーとして長期にわたり継続取材をしています。
しかし、一向にミウは見つからないし、何の手がかりもないので、取材内容はまんねり化しておりますし、
継続取材は続けているものの、視聴率を求めるテレビ局の圧力なんかもあって、
あんまり大きく大々的に報じてもらえるわけでもなく、完全にローカルのテレビ局しか取り扱ってくれないというような状況。
一時期、本当に失踪したばっかりの時は、全国ネットで配信・放送されていたようなものも、今ではローカル番組でしか取り上げてくれない。
それと同時に、サオリやその家族に対する世間の関心というのも薄れていった。そんな状況でこの物語はスタートしているんですね。
そんな中、やはりローカルのテレビ局で働いている砂田という人物も、視聴率を狙った取材を強いられて、
サオリやその弟ケイゴに対する世間の関心を煽ることになるんですけれども、
ケイゴ自身も事件発生直後の報道が原因で犯人扱いされて、挙動不審な様子を見せているんですね。
テレビ局上層部の圧力もあって、編集担当は視聴者が興味本位で抱える疑惑を煽るようなVTRに仕上げてしまっていて、
ケイゴの仕事やプライベートなんかにも支障が出るようになっています。
嫌がらせなんかもケイゴさんよく受けるようになってしまうんですよ、結果的にはね。
一方、娘を亡くした母親であるサオリというのは、娘を探すためにあらゆる手を尽くします。
例えば、サオリたちの活動を見た人が情報提供のDMを送ってきてね、直接会ってお話ししたいということで、
ガマゴーリーまで行くんですけれども、ちょっとガマゴーリー遠いみたいなんですけど、
遠くてもいいから、どんな情報でもいいから、わらおもすがる思いで飛びついていくんですね。
でもこれ自体もいたずらやったりとか、さらには見つかったっていうようないたずら電話、警察を装ったいたずら電話があったりだとか、
もう信憑性のない情報がじゃんじゃん続いて、サオリ自体の精神状態というのもさらに悪化していきます。
映画の終盤、もうほんまにラストはサオリの弟、ケイゴが犯人ではないかという疑惑が浮上しているんですけれども、
実際には闇カジノに行っていたため、アリバイについて嘘の証言をしていたということが明らかになるんですね。
弟もミウへの思いはサオリと同じで、家族全員が深い悲しみに包まれてるんですね。
最終的にミウは結局見つからず、サオリは緑のおばさん、あのなんて言うんでしょう、横断歩道とかで旗振りするような、渡っていいよーみたいなことやってる人、
緑のおばさんとなるボランティア活動を始めて、ある日小学生の女の子が横断歩道を渡って振り返るんですよ。
その少女がサオリの方を見た瞬間に、サオリは自分の娘がよくやっていた仕草を思い出す、
っていうところでこの物語終わるんですよ。
ミッシングは失踪事件をめぐるマスコミの報道と、情報社会の闇というのがリアルに描かれていて、
視聴率を求めるテレビ局の姿や、SNSでの抽象、家族の崩壊、現代社会の複雑さっていうのを垣間見ることができる映画だと僕は思いました。
石原さとみの演技というのは圧倒的で、娘を失った母親の心の深さ、闇の深さを感じさせますね。
吉田圭介監督の演出というのは、人間の嫌な面を描きながらも、最後には救いと希望を残すっていう特徴、共通する特徴があるのかなっていう気がしますね。
これは最初からストーリーを楽しむための番組じゃないんですよ。
よくよく考えてみてほしいんですけれど、こういうね、サスペンスっぽい映画とかドラマって失踪や殺人のストーリーなら普通はよ、
普通っていうのが正しいか分からないけど、多いものとして挙げられるのが、失踪や殺人事件があって、
そこからその事件が起こるまでの過程、経緯が描かれたりするものが大変だと思いませんか。
もしくはそこから直近の状態、1ヶ月とか2ヶ月とか分からんけど、もっと時間をかける場合もあるけど、
そこから犯人が捕まるまでの経緯を追うものが大半やと思いません。
僕結構サスペンスドラマとか映画って起承転結がはっきりと分かりやすく構成されているから、
誰が悪で誰が捕まってとかっていうのははっきり分かるじゃないですか。
そこまでにどういう物語があってっていうのがすごく分かりやすいから好きなんですけれども、
このミッシングという映画の焦点はそこではないんですよね。
娘の失踪から3ヶ月経ちましたよっていうところが話のスタートなんですよ。
世間の関心がこの事件からかなり薄れてきた頃、別のニュースなんかが取り上げられて、
もう世間の目はそっちの話題に向いてしまっているっていう状態でのお話が始まるんですね。
で、結末までお話ししてますけど、結末として、
皆さんもお気づきだと思うんですけど、何も解決してないんですよこの映画。
何にも解決してない。
犯人も捕まっていなければ、娘も見つかってないというね、
何て言うんですかね、2時間近くある映像作品なんですけど、
状況としては頭から終わりまでほとんど何の進展もない映画なんでしょう。
時間の経過だけは映画の中で1年半か2年近く経過してたかなと思うんですけど、
2年とか多分そのぐらいの歳月かかってるけども、何にも変わってないんですよ、状況としては。
メディアの取り上げ方や、SNSの出現、インターネット掲示板といった、
誰でもどこでも匿名で発信ができる世の中になったという、
弊害をこの映画では描いてるんですよね。
被害者家族が叩かれてしまったりとか、本気でやったらあかんようないたずら被害にあったりとか、
もうね、終始ムナクソ悪いんですよこの映画。
そんなムナクソ映画のテーマについて、次のチャプターでは考えてみましょう。
この映画ミッシングの主なテーマなんですけど、
色々あると思うんですけれど、大きく分けると僕は4つあると思ってるんですね。
まず1つ目が、喪失とその後の人間の本性ですね。
サオリの娘、ミュウが失踪した瞬間から、サオリの心っていうのはもう崩壊し始めるんですよ。
娘を探す過程で、サオリは世間の冷たい目に晒され、ネット上での誹謗中傷にあいます。
ここでね、人間の本性というのが浮き彫りになっていくんですよ。
サオリ自身が育児放棄の母と非難されるように、人間は他人の苦しみを見たとしても、
意外とね、簡単に冷たい言葉を浴びせることがあるんですよ。
そこに突っ込みどころがあると簡単に暴言吐けるんですよ。
それってね、結構怖いことやなと僕は思うんですよね。
見ず知らずの人やったりとか、自分にストレスや負荷がかかっていると、ついついやったりしちゃうことがある。
その、なんていうのかな、しかも相手が見ず知らずで、テレビとかパソコンの画面の向こうにいるっていうことを忘れて平気でポロッとそういう発言ができてしまうことがあるっていうのが、結構怖いことやなというふうに僕は思いました。
そして次の重要なテーマというのは、メディアの影響と視聴率市場主義というところですね。
地元テレビ局の記者、砂田は視聴率を狙う最上層部の意向により、
沙織や彼女の弟慶吾に対する世間の関心を煽るような取材を命じられるんですね。
ここでメディアがいかに人間の感情を操作し、事実よりも視聴率を優先するかっていうのが描かれてるんでしょう。
砂田自身も事実を報道することに重きを置きたいと思っているけれども、
どうしてもね、上からの圧力っていうのに勝てないという葛藤、リアルな葛藤っていうのが垣間見ることができます。
さらにですね、家族の崩壊と愛の深さというのも大きなテーマではないでしょうか。
先ほどもあらつじのところでちらっと申し上げましたが、
沙織の夫、豊との関係は娘の失踪によってもう毎日毎日夫婦喧嘩。
どっちが悪いとかじゃなくて、お互い緊張状態が続いててイライラしてるから、どうしても喧嘩になっちゃうのよ。
で、こういうところで家族の絆っていうのがどういう風に崩壊していくのか、
そして愛情というのがどんな風に形を変えていくのかっていうのが描かれていると僕は思います。
綺麗な愛情、綺麗な夫婦関係ではないんですよね。
崩壊していく玉を描いてるんですよね。
沙織の弟、慶吾もミュウが失踪する直前まで一緒にいたというところで、
誹謗中傷の標的となり、家族全体が苦しみを深めていくというようなストーリーになっています。
そして最後の4つ目が希望と救いというテーマではないでしょうか。
映画のラストシーンではボランティアはじめて前に進んでいくよというところで終わりましたよ、
という風にさっきチラッとお話ししたんですけれども、
ここで訴えたいことっていうのは、
きっと失った大切なものを取り戻すことはできへんかもしれへんけど、
希望と救いを見出すことはできるんだよっていうメッセージが込められてるんじゃないかなと僕は考えたんですよね。
僕個人の考えとしてはね、
僕個人的な考えとしては、
もう失ったものというのは何が何でも取り返さなあかんって思ってる人間なんですけど、
それでもね、やっぱり取り返されへんものって存在するんですよ。
自分の力や考え方や動きだけでどうにかなるものばかりではないんですよね。
そういうこと、この失踪事件についてもそうじゃないですか。
藁をすがる思いで娘のことを捜索しているけれども、
呼びかけても呼びかけても動いても動いても娘は見つからないわけじゃないですか。
どうしてもね、自分の力だけでは変えられないものっていうのも世の中には存在するんですよね。
嫌やけど、認めたくないけど。
でも、そんな状況でも自分の心のあり方次第で希望と救いというのは見出すことができるということなんですよね。
自分の娘は見つからない、帰ってこないけれど、その少女に自分の娘を重ねて見て、
自分の子供ではないけれど同じ思いや悲しみを味わう親御さんが、
一組でも減るように自分にできることをやり始めた、前に進み出した。
そんなラストなんですよね。
だからね、この映画ね、ボケーッと見てるとなんかよくわからんうちに終わる映画なんですよ。
このラストを見てもピンとこない人も結構いると思うんですよ。
でも石原さとみが演じた沙織という女性は、もう僕はとにかくすごいなと、
この沙織さんという人が実在したらというか、
多分同じようなお母さんってもしかしたら世の中にいらっしゃるかもしれないんですけど、
ほんますごいなと僕は思ったんですね。
映画の中でも旦那さんの豊かが、お前すごいよっていうシーンがあるんですけど、
ほんまにこの人すごいなと僕は思いました。
人生ってどんなに暗くても希望が見出せないような状況をやったとしても、
自分の力で、自分の足で光を探して前に歩き出さなきゃいけない瞬間というのがあるんですよね。
この映画のタイトルのミッシングというのは、きっと行方不明になったお嬢さんのことも指しているんですけれど、
母親が見失った希望の光や、見失った本来あったはずの人生の道ということでもあるんじゃないかなと思う。
もうお母さんも迷子、お嬢さんももちろん行方不明という意味ではミッシング、
まあいい、ロストしているというふうに言えるんじゃないかなと思うんですけど、
お母さんも実は迷っている、路頭に迷っている、人生の路頭に迷っているというような感じが僕はします。
次はこの映画で主演を務めた石原さとみについてお話をしたいんですけれども、
過去の作品を見ていくと彼女は様々なジャンルに挑戦していて、
卓越した演技力で高く評価されていますよね。
例えば、シン・ゴジラでは帰国詩女か何かを演じているんですかね、
僕ちょっと見てないんでわかんないんですけど、
でも、この英語混じりの日本語のセリフ回しや心情を読み解くのが難しい人物を公演していて、
第40回日本アカデミー賞の優秀女演女優賞を受賞しているらしいですね。
この時の演技もすごいと、まあ一部では話題になっているんでしょう。
このセプテンシャベリって言ったらいいんですかね、
9月に唐突に入学してくる帰国詩女特有の喋り方を徹底して仕上げてきているというふうな記事を読みました。
あれね、地上波で放送された時はマジでなんなんあの喋り方ウキるみたいなバカにされているポストもすごく多かったらしいんですけれど、
本物の帰国詩女の方たちはあのセプテンシャベリがわかるので、
石原さとみすげえ、役作りすげえってなった作品でもあるそうです。
他にも、そしてバトンを渡されたという作品では初の母親役を演じて、
シングルマザーとしての深い感動を与える物語のキーパーソンになったりと、
かなり演じ分けがすごいというふうに評されています。
今回取り上げているミッシングでは、石原さとみのこれまでのイメージを一新する新境地に挑んだと言えるのではないでしょうか。
というのも、確か石原さとみは7年前に自分を壊してほしいということで、
吉田圭介監督に、自ら監督の作品に出させてくださいと出演オファーをしているらしいんですけれども、
その当時は港区女子館が強すぎるので、俺の映画には合わないみたいなことを言われて断られているんですよ。
確かにそれわかるわと僕は思っていて、
僕の偏ったイメージ偏見なんですけど、
石原さとみってちょっと言い方悪いですけど、港区女子館が強いなと思っている女優さんだったんですよ、
この映画を見るまではね、わかると思ってたんですよ。
さらに言うと、吉田監督の映画というのは一作でも見ていただければわかるんですけど、
本当にね、鼻のない塩顔というか薄い塩顔というか地味なおフェイスの方が大半を占めるんですね。
ミッシングも石原さとみ以外の出演者さんはみなさん薄顔ですね。
有名な方やと中村智也さんが出てますけども、イケメンやけど鼻のある感じのお顔ではないじゃないですか、中村さんも。
だから彼女は確かに吉田監督の世界観にはもう合わないんですよ。
でもそれでもですよ、もう顔は変えられへんけど、どうしてもこの世界観に合う自分を作るために、
わざと添加物の多い食事を食べて、ジム通いもやめて、ガサガサの唇にするためにリップクリームを塗るのもやめ、
さらに髪の毛を痛ませるためにボディーソープでガシガシ髪の毛を洗うってね。
石原さとみって美女が強いから、どうしても演技よりルックスで仕事を続けてるんじゃないかとか、
思ってる方いらっしゃると思います。僕も若干そう思ってました。すみません。
でもマジでこれ見て、この人それだけじゃないねんなって僕は思いました。
あとね、映画の中でボロボロのお母さんではあるんやけど、やっぱりそれでも綺麗なんですよ。
なんていうか、肌があるんですよ彼女。
なのであの世界観の中ではすごく浮いてるんですけれども、それでも圧倒的な演技力、迫力、
心を失っていく姿というのを鮮やかに描き出してますね。
特にネット上での誹謗中傷やメディアの被害者家族を叩けと言わんばかりに煽るような報道に翻弄されるサオリンの姿というのは、
見る者の心を揺さぶるものだと思いますね。
また彼女が演じる役には必ず一種の共通点みたいなものがあるらしいんですけれども、
それが誰もやらないことをやろうとする人ということなんだそうです。
自分の信念に従って行動する強さがあるという女性像が多いらしいんですよ。
ミッシングのサオリンという役柄も娘を探すためにあらゆる手を尽くし、
世間の冷たい目に晒されながらも最後まで希望を失わない姿というのが印象的でございます。
今回紹介しているミッシングでの彼女の演技というのは確かにこれまでのイメージを一新するもので、
彼女の演技力の深さというのをすごく感じることができました。
割と僕の中では石原さとみという女優のイメージをぶっ壊してくれた作品だなというふうに思っています。
最後に吉田圭介監督についてもご紹介しておきましょう。
吉田圭介監督は2006年に中編映画生夏で監督デビュー以来、多彩な作品を手掛けてきております。
特に初期の作品では女子高生が主体の物語が多く見られています。
例えば机の中身や純喫茶急べなど、若い女性の内面や関係性を描いた作品が多いというのが特徴の監督でございます。
吉田監督の作品はユーモアと人情物語を融合させた独自のスタイルで知られております。
三角や机の中身ではコメディ的な要素とブラックコメディ的な側面を組み合わせて複雑な人間関係というのを描き出しています。
特に三角ではストーカーをテーマにした作品でキャストの演技が高く評価されております。
ミシングもシリアスの中に時々、「えぇ!?」っていうような演出があります。