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2024-01-17 30:58

1/17 29年、今も日常に染みわたる

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29年前のあの日から。それは今も、日常と想い出と記憶の中にしみこんで、切り離せずに同化している。

本日のマイク:FIFINE K688

🐸にしのん声日記
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#声日記

サマリー

1月17日は、阪神淡路大震災から29年目であり、地震の影響がまだ日常に染みわたっていることを実感しています。地震当時の経験やその後の生活の中で、揺れた記憶や地震の影響が長く残っていることを振り返っています。また、地震の後も地震が続き、29年経った今でも日常に揺れが染み渡っています。関西では揺れを避けることはできず、揺れと共存しながら何とか生き抜くことが重要なのです。

地震の発生と記憶
1月17日、西野キズナです。
2024年の1月17日は、阪神淡路大震災が発生してから、
29年目になると、昨日のニュースで聞きました。
さすがに、約30年も経つと、だんだん、いつだったっけっていうのがね、
大きい地震も何回も発生していると、どの日付がいつの地震だったかみたいなのがだんだん混ざってくるんですけど、
でも、阪神淡路大震災かって聞くと、
あの揺れた日のことは今でもとても鮮明に、昨日のことのように思い出せる日です。
私は関西にいて、被災はしたものの大きな被害ではなかった。
とはいえ、うちの食器棚とかはね、かなり食器がやられてしまって、
割れてしまったものはもう処分せざるを得なかったですが、
欠けたお皿はしばらく使っていて、去年だったかな、一昨年だったかな、
なんかツイッターでつぶやいたような気がするんですが、
その欠けたお茶碗をね、ずっと使い続けてたら、
欠けていたところが丸みを帯びて、丸みを帯びてきたんですよね。
なんかそれを見てたら、もうそんなになったんだなぁみたいな、
ちょっといろいろ多分話しながら思い出しながらになるので、
取り留めのない話になる可能性があるので、それは今回はどうぞお許しください。
今年の元旦もね、大きな地震があって、
今日、昨日か、昨日の夜もまた震度5弱だったかな、地震が、余震があったりして、
29年前も、29年前のあの日のそれ以降の自分もずっと思っていたけれど、
その、それが起こってしまったからには、起こらなかった日々はありえないんですよね。
何だろう、起こった日の朝のことをすごくよく覚えていて、
地震が起きた時、私の部屋は2段ベッドがあって、
あの、一人の部屋なんですけど、2段ベッドが置いてあって、
上に私が寝ていて、下はソファーになるベッドだったから、
下をソファーか、なんか荷物を置いていて、空間として使っていて、
で、揺れていたその時は2段ベッドの上にいたので、
本当に幸いなことに、私自身は全く怪我を負ったりっていうことはなかった。
ですけど、もう部屋の中に置いてあったものは、全部部屋の中に散らばって、
で、そう、今思うと本当にのんきだったなって思うんですけど、
2段ベッドの上で揺られている時、私、家族が起こしに来たと思ったんですよ。
めちゃめちゃ体揺さぶられるじゃん、みたいな。笑っちゃうんですけどね。
でも、本当にすごい揺れ続けるので、あれ、これは揺り起こされているんじゃないぞっていうのに気づいて、
そこでようやく目を覚まして、はっきり覚醒した時にはもう部屋の中ぐちゃぐちゃだったっていう、
今じゃ考えられないですけど。
学校への通学と影響
で、もう部屋の扉もどうだったかな。
開けて、とりあえず家族と、すごい早朝でしたよね。確か5時46分52秒か。
学校に行くために起きるのはもう1時間ぐらい後だったんですけど、
その日はもう5時46分に地震が起こったから、そのタイミングで飛び起きて、
で、家族、その時は兄もいたかな。
父と母と兄と私と、もうそこから寝るなんて本当にもう無理で、
居間のテレビを、ニュースを聞きながら、ひとまず電気は通っていたので、朝食をとってニュースを見るっていうことをしてました。
で、最初は確か被害の状況がどれほどの規模なのか、みたいなのがよく分かってなかったんですが、
結構日が昇っていくにつれて、なんともすごい地震だったっていうのが分かっていって、
で、そうこうしながらニュースを見ている間に、学校に行く時間になるんですよね。
ただ、本当にもう家の中もぐちゃぐちゃになるような地震だったんで、どうしたらいいか分かんなかったんですけど、
その当時、学校まで自転車通学をしていて、同じマンションの幼馴染がいたのでね、
毎朝待ち合わせをして一緒に自転車を走らせていたんですけど、
その子もいつもと同じ時間に待ち合わせの場所にいたので、
とりあえずもう家にいてもしょうがないので、学校行こうって言って自転車でいつもの通学路を走ったんですけど、
まあ私の住んでる地域は、本当に神戸の方のね、兵庫の方のひどい被害の大きかった地域に比べるとそれほどではなかったですけど、
もういつも自転車で走っていたからすぐ分かったんですけど、道路がもうあちこちひび割れてるんですよね。
それですごい、本当にすごい地震だったんだっていうのをじわじわと実感しながら学校まで行って、
地震の影響と生活への継続
学校は学校でたどり着いて、門も開いていて、学生も何人か同じように考えた人たちが集まってきてはいたんですけど、
私と友達が一番乗りぐらいで職員室にね、鍵を取りに行っていつも鍵を開けるみたいな感じだったんですけど、
教室を見に行ったら、教室の中の教卓の上とかによく時計置いてあるじゃないですか、掛けてある掛け時計が、
あれが落下してて、教室の床にその時計のガラスが飛び散ってて、みたいな。
ああ、時計が壊れてるって言いながら職員室に行って、先生に時計落ちて割れてますって言ったら危ないから触らないで置いておいてって言って、
先生たちが確かその時計を片付けてくれてから、教室で待機ができるようになって、窓とかは確か割れてなかったと思うので、
ただ、いつもの始業の時間になっても、まあ全員は集まれなくて、結局ホームルームだったかな。
朝の時間も遅れて、多分ね、先生たちが職員室でいろいろとされてたんだと思うんですが、
今日はせっかく来てもらったけど、もう解散にしますと、安否確認はした上で解散にしますっていう。
で、クラスメイトの中でも集まれてない、教室に来れてない人がいたりとかして、で、分かる範囲では連絡が来ているけども、
まだ連絡のつかない人もいるから、先生たちはそういう人たちの確認をします、みたいなやり取りをした記憶が、
朝、揺れが起こってから、その教室の情景ぐらいまでが、本当にずっと鮮明に覚えていて、忘れたことはない、29年経ってもね。
で、学生時代の間、ずっとその自転車通学の道があるから、もうほぼ毎日その道を通るんですよね。
で、ひびの入った道を、その後何年もずっと見続けたし、その道沿いの両脇に住宅街があって、一軒家の民家が並んでるんですけど、
その後何年もかけて、その道の一軒家がどんどん建て直されていくのとか、耐震工事を行っていくために建て替えるのとかを、
本当にその後何年も、必ずどこかの家が建て替えになっているみたいな状態になっているのを見ていたので、
で、起こった、揺れた後の私の生活の中に、ずっとその揺れた記憶、揺れたっていう事実の延長に生活がある、切っても切り離せない感覚が、
それはそう、道路のひび割れがずっと残っていて、そこから雑草が生えて花が咲いたりとか、道路のひび割れから街路樹の木の根が出てきたりとかするのも、
あそこは地震があってひび割れて、でも数年後に植物がそこから顔を出したんだみたいな、通学路の周囲の家々がどんどん変わっていくのもそうだったし、
阪神淡路大震災からの29年間
学校の校舎が耐震工事のためにブルーシートで覆われて、当時美術部員だったんで美術部で活動してたんですけど、校舎が覆われちゃったから外が見えないみたいなことが確かあったような気がする。
地震があってから数年後でも、地震のための何かが常に行われているっていうことが、もう日常だった。
家に帰れば、地震の時にかけたお茶碗があって、そのお茶碗を洗いながら、これは地震でかけたお皿だったって思うし、
うちの食器棚は、もう次の地震では揺れないじゃなくて、引き出しが飛び出したりね、観音開きの戸がバーンって開かないように、もう止めてあるんですよね。
開くのには面倒なんですけど、実際揺れた時にだいぶ食器がやられてしまったので、それを思えば止め具を付け外しするぐらいの手間はどうってことないなぁとか。
そんな、そんな29年だったかなぁ。早いなぁ、29年か。
まあでも、その阪神淡路大震災の後も、東北の地震があったり、東日本大震災も離れていたとはいえ揺れましたし、
少し前の北大阪の地震でも揺れましたし、揺れるたびに二段ベッドの上で、のんきにゆらゆら揺られながら眠っていた自分を思い出しますね。
まあ、関西は活断層めちゃめちゃ多いんですよね、実は。
で、今住んでいるところから多少移動したところで活断層走ってるんで、
まあ、昔の、昔のっていうか、その29年前の地震があった時に、自分が住んでいる土地の活断層をいっぱい調べてみましたけど、
まあ、この土地にいる限りは揺れからは逃れられないっていうのはもう覚悟の上ですよね。
とはいえ、まあもう揺れるのはしょうがないとはいえ、
何だろうな、やり過ごすも何か違う気がする。
未だに表現がすごい難しいって思う、この話をするときに。
でも私にとっての地震の体験は、地震が発生したその時だけじゃなくて、さっきもずっと語っていたように、
地震が起きた日から何年も何年もずっと、ずっと日常に染み渡っているものっていう感覚なんですよね。
まとめる言葉を持たないけれど、まあでもそうだなぁ。
まあ、なんとか生きて過ごしていられるうちは、のらりくらりと揺れと共存していくかな、みたいな付き合っていくかっていう感じかな。
なんかそう、元旦の日からもやっぱりずっと考えているその揺れが起きて、その日からどう揺れが起きたという日常を、揺れが染み付いた日常をどう過ごしていくか。
みたいなところ。
揺れても、なんとかなりましたって言ってたい。
そうだな、なんとかなりましたって、なんとか大丈夫でしたっていうために、今からちょっとずつできることをやっぱりやっておきたいのかな。
まあ、そのために瓶を手放したりとか、携帯電話のね、フォーマも手放そうかなって手放したのもあるし、
なんだろう、昨日かな、昨日考えてたのは、全然あの、ここまで話してきた話題からすっ飛ぶ言葉に終着するかもしれないけど、着地するかもしれないけど、
地震って現場にいなかった人間にしてみれば、その日、その時、その瞬間揺れたっていう事実しか残らないけど、
少なからず影響があった地域にいた人間にとっては、一瞬で終わった出来事ではなくて、ずっとずっとその後の生活にも、
記憶にも思い出にも日常に染み渡って続いていて、終わりのないものなんだなって、昨日思った気がする。
29年経っても、何と形容していいかわからないのは、多分終わってないからなのかなーって気がしました。
生活の端々、よく見ると、そう、昨日の瓶の話じゃないけど、残ってるもんねー、とういう取り留めのない話でしたってことで終わろうかなー。
来年も、もし同じ日に収録することがあったら、なんか喋ること変わるかなー。
今まであんまりちゃんと記憶、記録として語り残したことはなかったので、
まあ、29はちょっと端数だけど、まあいいでしょう。
というわけで、17日の記録でした。
30:58

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