「自責」と「多責」の考え方の両極端さ
こんにちは、ゆみです。 今日もラジオを撮っていきたいなと思います。
えっと、そうですね。
なんかこう、今日は、
ちょっとなんか気づいたことを、こう、だらっと話していこうかなと思っていて、
まあ、えっと、
なんか自責と自罰みたいな、こう、あと多責みたいな言葉がいっぱいあると思うんですけど、
なんかこう、私の中で、なんとなく、えっと、今すべて起きている、なんか物事は、全部自分のせいなんだよっていうことと、
あとこう、自分を責めすぎないでね、みたいな考え方とか、こう、なんだろう、結構、結構両極端なメッセージだな、みたいなことを自分でもね、あの発信しながら思うことがあって、
なんか、両方なんかわかるんですけど、両方なんとなく、こう、違う、なんかなんとなく違うかな、みたいなとこ、なんだろうな、もう補足がいるよねって最近すごく思ってて、
あの、特に前者ですよね、なんかすべての物事においては、なんか起きている要因は自分のせいなんだ、みたいな、
あの考え方っていうのは、まあなんか確かにそうなんだけれども、
じゃあ、こう、なんだろうな、えっと、明日、えっと、なんだろう、いきなり事故にあって死にましたってなったときに、
本当になんかこう、信号を守っていて、あの、右左見ていたけれども、あの運転している人が、こう本当にただただこう体調が悪くなって、
ハンドルを回してしまって、みたいなときに、本当にじゃあ、歩行者の私は本当に悪かったのかって言われると、なんかこう私のせいだってなるのって、なんか不思議な考え方になるなって私は思ったりするんですよね。
なんか、たまたま、仮に理由があるとしたら、本当にそこにいたっていうことなんだと思うんですけど、なんか、あの、原因と結果があったとして、
なんか、私に仮にそういう事象が起きたとして、なんかこう、そういう結果が起きたとしたら、原因があったとしたら、ただそこにいたっていうことだけなんだと思うんですよね。
で、なんかそれが、まあ、あの、そこにいるっていうことは原因だったって言われたら、まあそうだなって思いますっていう感じだと思うんですよ。
うん、そうね、なんかこう、それをどういうふうにこう、なんだろうな、自発的に考えるっていうのは多分こう、なんだろう、そもそもそこにいたこと自体が、存在したことが良くなかったみたいな話とかになってきちゃうかもしれないけれど、
なんかあんまりちょっと、なんだろうな、建設的な考え方ではないな、みたいなことをすごく思ったりするんですね。
で、逆にこう、自分を責めすぎないでねっていうことも、なんかこう、ある種、なんかこう、なんだろうな、客観的に、なんだろうな、目が曇りやすい考え方だな、みたいなことも最近自分で思うようになって、
私も自分を責めすぎるっていうのは違うと思うんですよ、さっき言ってたみたいに、さっきのような対話がある、話がある中で、でもじっとりしてるような、なんだろう、こう、めちゃくちゃじっとりして、自分責めないで自分を肯定して、みたいな、なんか、
人間関係における原因と結果の考察
全考点ももちろん必要だけど、こう、俯瞰的に見たときに何が、なんか、なんだろう、自分という存在がどういう影響をこの場に及ぼしているか、みたいなこととかを考えることっていうのは割と大事なことだよな、みたいなことを思ったりもするんですよね。
なんか、例えばですけど、こう、んー、なんか目の前の、じゃあ人、私のさ、目の前の人が、なんかまあまあムカつく女の人が目の前にいたとして、その人に対して私が意地悪なことを言われたと解釈して、なんかこう、私が相手を責めたりするっていうことが起きたりする。
わけじゃないですか。まあ反抗することとかは、なんかすごく悪いことじゃないって私は思うし、自分を、自分を寄せるみたいなことはすごく悪いことじゃないんだけど、こう、なんだろうな、実際にじゃあこう、起こしたこととしてあったとしたら、意地悪なことをそもそも言わせていた背景には割と普段私がこういう、
なんだろうな、関わりとして実は相手を避けてしまってたみたいなこととかがあったりとか、
うん。
あの、目を合わせようとしなかったみたいなことがあったりするわけですよね。
なんかこう、だったらこう、向こうは世のずと私に対して意地悪がしたくなるような状況を私が作ってたみたいな話もあったりするかなっていう感じでして。
まあそれが良い悪いじゃないですよ。ただこう、なんだろう、どっちが良い悪いとかではなくて、なんかこう何がそうさせてたのかを、
具体的な、なんだろう、事象として観測する力みたいなのは割と、なんか、必要なのかなって思ったりするというか、
何、なんかすごい頭で考えてるように聞こえると思うんですけど、すごくこれって自分を正しく、なんていうんですかね、
健康的に自分を責めて健康的に他者を責めるみたいな感じをするためには、
するということは割とこう、なんだろう、自分が関わる周りの人とかにとってすごく健康的な関係が築けるんじゃないかなって思ったりもしていて、
陽キャ女子会での出来事と反省
なんでそんなことをふと思ったかというと、最近私、えっと、なんか女子会行ったんですよ。
で、めっちゃ結構嫌な女子会。私になったらめっちゃ嫌な女子会だったんですよね。
で、陰キャの中、陰キャ、え、違う、陽キャ3人の中に陰キャ1人放り込まれたみたいな女子会で、
こう、結構私嫌だったんですよ、その場が。
で、今すぐここから、なんか結構私は女子と、女子いっぱい集まると怖いなみたいな勝手なイメージもあって、
で、しかも結構陽キャ3人みたいな感じだったんで、結構キャピキャピしてるんですよね。
なんかこう、そういうのすごい苦手で、なんだろう、なんかここにいさせられてることがなんか、あの嫌だなぁみたいな、
こう、いさせられてるって私はその時、すごい自分が被害者意識みたいなのがあって、
そのうちの一人に、帰り際に結構辛く当たっちゃったんですよね。
なんか、なんでこんなとこいないといけないんだと思った、みたいなこと言っちゃったんですよ。
なんか、悪いことは言ってないけど、言わなくてもいいことも言ったかもなって思ったって感じなんですよ。
なんか向こうはそもそも、たぶん悪気ないんですよ。悪気なくてたぶん誘ってくれてるんだけど、
なんかそもそもで行くと、私が行かないっていう選択をする、いや、そもそも行きたくなかったんでね。
全然行きたくなかったら、行かなかったらよかったじゃんっていう話と、
なんかこう、行かなかったらよかったっていうことが実はあったりとか、
なんか、集団として私が、女子の集団としてその3人を捉えてしまって、
1人1人が何を考えてここにいるのかみたいなことを考えずに関わっちゃったな、みたいなのがあって、
で、しかも正直だから八つ当たりですよね。
八つ当たりしたなって思ったんですよ。
でも八つ当たりしたくなるような、なんかこう、環境でもあったみたいな、
私にとってはね、でもそれは相手にとっては見えてなかったっていう話がただの事実なんですよ、
多分それが俯瞰的に見た時に。
だから、私は私のことを守っていいけども、
守ってもよかった、守りたかったからそうなった、そういう言い方をしちゃったな、みたいなこととか、
なんか、守りたかったんだったらもうちょっと違うやり方があったな、みたいなことを振り返って考えてたわけなんですよ。
そもそも場に行かないっていうのが一番正解だったなって思ったりはしていて、
断りづらかったっていうのは全然あるんですけど、割と利害関係ちゃんとある女子会だったので、
私が断るっていうことは難しい場だったんですけど、
辛い気持ちになったのは私にとってはすごい悪いことじゃなかったし、
そういうふうな思いやりを自分に持ってあげていいなと思うから、
必要以上に自分を責める必要はないけれども、
ただ、私がその場にいたこととか、いるということであったりとか、八つ当たりをするじゃないけど、
自分がそういう辛い思いをしているっていうことに、表現することは悪くないけども、
こんなところに呼ぶなよみたいな感じの言い方をしなくてよかったなみたいな、
すごい嫌な言い方しちゃったんですよね。
そういう言い方をする必要はなかったっていうのが、私の自責で考える必要があるところというか、
特に相手との関係をより良くしていくためにって思った時に、
すごい自分にとって損なことをした、選択をしたなってその時思ったんですよ。
うん、だってそんな言い方したら嫌がられるじゃないですか、当然。
謝罪と関係改善の経験
で、なんかこう後から、でもすごい私は、なんかその陽キャ3人に自分がすごい気を使っている感じがあって、
すごい気使っている自分がかわいそうに思えたんですよね。
なんかそんなに気使わされてかわいそうみたいな感じなのを、
なんでこんな場に呼んだんだみたいなことで多分、
気を使わせる方が悪いってやっぱこう思ったんだと思うんですよ、私はその時。
だから私自身のために割とこういう場なんか来たくなかったみたいな表現をしてしまったんだと思うんですね。
で、それは相手にとっては、なんか知らんやんみたいな感じ。
まあ意地悪をしてたとしたら、意地悪してる意識があるとしたらまあ最悪だと思うんですけど、
そういう意識ではなかった可能性の方が高いかなと思うので、
ただただ会わなかっただけなんですよね、その3人と私が。
会わなかったという事実があるだけで、そこに対して意地悪をしたっていうことはなかったのに、
そこに対して私がこう、何だろう、
こう嫌味を言ってしまった、嫌味というかね、言い方を悪いことしちゃったみたいな感じがあって、
良くなかったなって思ったっていう感じなんですよ。
で、後からそういうのもやっぱり私が悪かったなってすごく思って、
1週間ぐらい落ち込んでたんですけど、正直関わるのも怖くて、
そういうのやっちゃったなみたいなのがあって、
嫌だなって思ったんですけど、1週間後ぐらいに、
久しぶりにお会いした時に、その人に直接やっぱり謝ろうと思って謝ったんですよ。
なんかそしたらこうすごく気遣ってくれてたんですよね、みたいなことをやっぱり言ってくれたりとかしてくれたので、
やっぱり謝れてすごく良かったなと思ったんですね。
自責と他責のバランスの重要性
何だろう、ある視点を持ったらすごく私は被害者に自分を思っていたし、
周りのせいだって思ってもいたけども、
一方でその中にいる、自分がどういう影響を与えてしまったのかとか、
どういう選択をしたからそれが引き起こされたのかっていうのを客観的に見た時に、
すごく自分で建設的に反省するポイントが見えたというか、
一方で、そういう悲しい気持ちになったっていう自分をいたわることもしたんですよね。
やっぱり嫌なものは嫌だし、疲れるのは疲れるよな、みたいなのを同時にやってあげたことによって、
その最終的に謝るっていうことができたな、みたいな。
今後はできるだけそういう場には、そもそも極力いかないっていう選択をしよう、みたいなこととかも。
あとは集団として見るのではなく、
私が昔すごいトラウマがあって、やっぱり女子に囲まれるっていうのはすごい怖いと思っている部分が勝手にあるんですけど、
今はもうトラウマを乗り越えているはずなんだから、その集団ではなくて個々として見るみたいなことが、
集団で意地悪されてるっていう考え方じゃなくて、その各々が一個一個どういう考えでここにいるのかみたいなのを想像して関わるみたいなことを
もっと一人一人と関わるみたいなことをやっていきたいな、みたいなことは思ったんですよね。
なんかこう、そんなんでいいかもって思った感じ。
意外となんか嫌われるかなって思ってた。嫌われたら嫌われたでいいかと思ってたんですけど、
でもそれはなんか自分にとってもすごく損だなと思ったし、
でも謝ったことによって逆にこう、なんかその最初やっぱりその方久しぶりに会った時めっちゃ表情固かったし、目合わせてくれなかったんですけど、
謝ったらすごい柔らかくなって、むしろ今までより心許してくれてるんじゃないかなってやっぱり思ったので、
なんかこう、嫌なことをしてしまった時とか、俯瞰的に自分がやっぱり悪いなって思ったこととかは、ちゃんと謝るっていうことができてよかったな、みたいなことを思いました。
めっちゃ久しぶりにこう、まっすぐ謝る人に謝るっていうことをしましたっていう感じです。
なんかこう、なんだろうな、やっぱり自責と他責のバランスってすごく難しいと思うんですけど、
なんか両方あるよね、みたいな感じだと思うんですよ。
なんかどっちかに、私は両方の視点で見れる人が一番強い、なんか人がとか言い方すると私が強いみたいな感じだって嫌だけど、
なんか両方の、自分にはここの責任があって他者にはこういうところにこう影響があったよね、みたいなことを両面で考えられると、今自分が取りたい選択を自ずと取れるんじゃない、みたいな感じの気持ちにはなったっていうところですかね。
なんかあいつのせいだとか自分のせいだって極端になってしまったときに、
まあなんだろうな、あなたのせいじゃないよって言い過ぎたりするのでもなく、
なんかこう自責で考えましょうって言い過ぎるのでもなく、両方の視点で考えましょうって言っていける方が、
なんかこう、自分にも周りにも思いやりが持ってて私はいいなって思ったっていう感じでした。
うん、そんな今日は私の反省ポイントを踏まえた上でのお話でした。
リスナーへの呼びかけ
今日も聞いてくれてありがとうございます。
なんか聞いてみて、こうなんだろう気づいたことがあったよとか、面白いなって思ってもらったのであればいいねとかコメントいただけると嬉しいです。
ありがとうございました。由美でした。