番組紹介と季節の話題
FM八ヶ岳 デンインライフ 山とともに生きる 花谷康裕が担当します。
この番組では、北都市の山々を中心に、私と山との関わりについてお話しします。
はい、みなさんこんにちは。花谷です。今回2回目の収録となりました。
実はですね、前回の放送ですが、アーカイブページができました。
FM八ヶ岳のホームページの中からですね、アーカイブのページを選んでいただきますと、私の番組タイトルである山とともに生きるのコーナーにですね、先月お話しした内容が載っております。
結構その内容から、今月はですね、続きといった辺なんですけども、そこから続いていくような話もあるかと思いますので、まだお聞きになっていない方とか今回の放送を聞いて、この番組を知った方はですね、ぜひFM八ヶ岳のホームページからアーカイブを聞いていただければ、今回お話しする内容とのつながりができてくると思いますので、
ぜひお聞きになっていただきたいなと思います。
はい、で世間はゴールデンウィーク真っ只中でですね、北斗は桜の時期はすごく人がわーっと増えてですね、桜が散るとゴールデンウィークまで一旦静かになるんですけども、また人が戻ってくる季節です。
で私、貝コマがたけの山小屋の運営もしてるんですけども、この時期って、実は山の上ってあんまり人が多くない時期でもあるんですよね。
下の方はもう新緑で芽吹いて、それこそもう半袖でもいいんじゃないかっていうぐらい暑い日も続いたりするんですけども、山の上、特に私が運営している山小屋って標高2400メートルありまして、さすがに2400メートルっていうとまだ雪なんですよね。
でその雪がですね、貝コマがたけって2967メートルあるわけで、3000メートル近い山になるんですけども、まだ上の方はたっぷり雪山ということで、やっぱり全員が誰もしもが登れるような、そういう時期でもないということで、実は結構ふもとはものすごく賑やかなんですけども、山の上はとても静かっていうようなそんな時期で、
個人的にはすごく静かに山を楽しめる時期でもあるので、とても好きな季節でもあります。
大学時代の山岳部とヒマラヤ遠征への決意
さてですね、今回ですね、この番組ではですね、主に3つの話題ということでお話をさせてもらっていて、まず1つ目が私と本当に山後の関わりですね、そういったことを話をしています。
2つ目がちょっとゆるっとした趣味のお話であったり、皆さんのお便りを紹介したりだとか、3つ目にこの北都の山々、あとそこで活動している私のお話とかもさせていただいています。
この前ですね、僕の話の中でですね、幼少の頃から神戸で山に登ってきて、その後、新州大学の山岳部に入るまでのお話をさせてもらいました。
今回はですね、その大学の山岳部時代の話をちょっとしたいなというふうに思っています。
大学ですね、あの前の放送でもお話ししましたが、僕は何かその勉強をしたくて大学に進んだのではなくて、とにかく山に近い大学に行きたかった。ただそれだけで新州大学を選びました。
入部説明会もそこそこにですね、もう山岳部に入るって決めてたので、いきなり山岳部の門を叩いて山岳部に入り、いきなり最初から活動を始めたということで、もう本当にこのために新州に行ったようなものです。
ただですね、すごい面白かったのが、神戸ってものすごく町と山が近くて、本当にそうですね、学校の帰りに家に帰る途中に山を通りながら帰れるような環境だったので、新州について一番最初の印象はですね、山が遠くなったなというような感じがしました。
新州大学なんですけれども、今も学生が20人ぐらいいて、活発に、今も全国の大学の三角部がだんだんなくなったりだとか、だいぶ小さくなっていく中で、やっぱり山のふもとにある新州大学は今でも20人ぐらいの学生が活動しているんですけれども、
僕らの頃もやっぱり4年、4学年通して20人から25人ぐらい、王女隊の活動をしていました。
当時はですね、もう1990年代の話で、今よりもそんなに学校もまだ厳しくない、それこそ大変が利くような、そんな時代だったと思うんですけれども、その頃はですね、年に5回の合宿があるんです。
5月に新人合宿をやって、夏に2週間ぐらい重曹をする合宿、それから10日間ぐらいかけて剣だけで岩登りをする合宿、冬合宿前のプレ冬合宿、冬合宿、それから年末年始に冬合宿ですね。
こんな感じで続いているんですけれども、いきなりですね、5月の新人合宿って、いわゆる昔の昭和の三学部って、三軽の時代ですよね。しかも四五輝当たり前の時代、そんな最後の時代に僕も三学部にいてですね、いきなり30キロから40キロぐらい近いですね、荷物を担いで入山すると。
しかもですね、1週間ぐらいの合宿なんで、たぶん今の感覚だとじゃあそれゴールデンウィークに行くんでしょっていうふうに思うかもしれないんですけど、違うんですね。当時は5月の下旬に学校をですね、1週間サボって入ると。そんな感じでした。
今はね、それができなくて、今年はですね、3回に分けるって言ってましたね。週末3回に分けて新人教育を行いますと。もうさすがに1週間学校休むのはもう無理になりましたっていう現役の話があって、まあ時代も変わればそうなるのかなと思ってはいるんですけど、僕はまあそういう意味では古き良き時代に過ごしてました。
そこで鬼のようにしごかれるので、ひどい時は半分ぐらい辞めていきます、新人は。すごい奮いがかかるんですけども。そこから活動がスタートするっていう感じになります。そんなのをずっとやっていくというわけなんですけども。
僕ね、実は大学時代にですね、3回海外登山、海外遠征をしてまして、ヒマラヤにも2回行きました。その後、いわゆる南米だったり北米だったりとか、そのあたりにクライミングトリップに出かけてるんですけども。
今日はですね、一番最初のヒマラヤの話をしたいなというふうに思うんですけども。大学僕が入ったのは1995年なんですね。大学入る前も前回のお話の通り、高校でもしっかり登ってたんですけど、まだいわゆる雪山とかロッククライミングとか本格的な登山って全然やってなかったんですけども。
大学に入ってからそういうのを始めて、4月に入りました。5月、6月あたりにですね、来年ヒマラヤの遠征の計画があるんだけど、現役も行ってもいいぞっていうふうにOBが話をし始めてですね。
僕はもともとヒマラヤに行くのがものすごく憧れでもあったので、まだ一度もアイゼンすら履いたこともない、ピッケルも持ったこともないのに、来年行けますかって僕手を挙げたんですよね。そしたらうちのOBはなかなか着物をすわって面白い人が多いところなので、いいぞって。その代わりは一年一生懸命トレーニングしろよって。
それだけでいいんだと思いながら、そこでもう来年、次の年96年にヒマラヤに行くということが決まってしまいました。もうそれから大変ですよね。もうとにかく1年生の時は一生懸命、来年ヒマラヤに行くっていう大きな目標もできてしまったんで、いきなりそんなことになってしまったんで。
もうとにかく新人合宿もそうですけども、その後の合宿、それから個人参考ですね。もうとにかくかなり上りまくってですね、1年終えたっていうのをよく覚えてます。冬はやりがたけですね。冬合宿もやりがたけに行ってですね。
すごい今も思い出すんですけども、周りはいわゆる今でいう化学繊維のシュラフを使っているんですけど、僕だけ先輩の話を無視してダウンシュラフを持っていったら、長期で参考するとダウンのシュラフって管理が悪いとペッチャンコになってしまうんですよね、水を吸って。
でもやりがたけに着く頃には全く使い物にならないような状態になって寒くて一睡もできなかったとか、そんなこともあったんですけども、そんなこんなで1年間しっかり登ってですね、96年のヒマラヤに行くことになったんですけども。
ヒマラヤに行くとなると、当時は3ヶ月行く計画だったので、もうどうしても学校を休まなきゃいけない。さすがに新人合宿1週間サボりますぐらいのレベルではないので、もう完全にこれはダメだなということで休学をしようということで、1年生の時にですね、恐る恐るですね、その時の指導教官の先生のところに行ってですね、来年休学させてくださいと。
言ったら何がしたいんだって言われて、いやヒマラヤに行きたいんですと。ほう、実はヒマラヤの未登峰に登山を行くっていうその計画があってですね、それに行きたいんですけどって言ったらですね、もう僕ね、もうその時のあの先生に話している景色とか、全然もう忘れもしないけど、一番インパクトに残っているのがその時の先生の返事ですね。
僕がそういうことを話したら先生はこう言ったんですよ。大いに結構だ、行ってこいと。すごいですよ。大いに結構だって普通いますかって思って、もうその時のね、その先生の顔とあのなんかその目の輝きとかっていうのがもう今でも忘れられなくて、何かあったら僕もね結構大いに結構だっていうのはすごくいい表現なんで使っているんですけども。
そんな感じでヒマラヤに挑戦するということになりました。なんか話していると、僕はこの1回目のヒマラヤの話ぐらいはやろうかなと思ったんですけども、まだなんかネパールにすらいけないという話になってしまいましたので。
初めてのヒマラヤ遠征
次回はですね、実際にこのネパールに行った時の話をですね、1回目のヒマラヤと学生時代の海外登山のことをお話ししたいなというふうに思います。
はい、じゃあここでですね、1曲お届けしたいなと思います。宇多田ヒカルさんのOne Last Kissです。よろしくお願いします。
はい、今ですね、曲をお届けしている中でですね、収録、一緒にFM八ヶ崎の方とやってるんですけども、この続き聞きたいみたいな話になってしまったので、来月ってなるとね、だいぶ先の話になるので、
さっきの前半の続きをここでお話ししたいなと思います。1回目の初めてのヒマラヤ登山の話ですね。
96年、1996年というともう今から実は30年も前になります。すごいですよね、30年前。その時ですね、30年前、僕初めてのそれが海外でした。だからパスポートももちろん初めて取って海外に行くことになりまして、ネパールに行きました。
当時ですね、今から30年前のネパールっていうのは、今はもうすごいあの国も経済成長している国でですね、大きなビルが建ったりだとか車もいっぱい通っている、今はそういう状況なんですけども、当時はですね、自動車も非常に少なく、
大きな高層のホテルだったりとかビルとかもそんなにたくさんない時代、まだそれこそ道に牛が活歩している時代ですので、すごくのどかな牧歌的な景色だったのが、今でもよく覚えています。
僕行ったのは新州大学の山岳会とですね、ネパール警察、ネパールの警察の登山学校というのがあって、そのネパール警察登山学校との合同の登山隊っていう感じでした。だから結構あの大掛かりな登山でもありますし、一応オフィシャルな登山隊、ネパール政府にとってはオフィシャルな登山隊でもありますので、それなりにセレモニーがあったりだとか、そういった大げさなこともたくさんあったということです。
8月の下旬にカトマンズに入りまして、準備がなんだかんだに2週間ぐらい準備したと思うんですけども、初めての海外というのもあるし、やっぱり当時のネパールってまだあんまり衛生状況も良くなかったりとかしたので、ついてもうこれみんなそうだと思うんですけど、お腹を壊し、頑張りすぎたっていうのもあって熱も出しみたいな感じで、
カトマンズの準備の時にもう完全に体調を壊したっていうような思い出があります。
そうは言っても何とか復活をして、キャラバンと言ってですね、山のふもとまで歩いていくんですけども、僕らが目指した山っていうのがラトナチュリという7035メートルの未登峰なんですけども、ちょうど中国・チベットとの国境線上にある山です。
今はですね、そこのベースキャンプまで行くと、カトマンズ出てそうですね、1週間もかからないぐらいでベースキャンプに到達できるんですけど、当時はですね、まだ道路もそんなに発達していない時代でですね、歩き始めの標高が確か500メートルぐらいしかないところなんですよね。
だから山頂まで6500メートルぐらいの標高差を全部歩くわけです。とんでもない登山なんですけども、ものすごい気温の高いところからそのヒマラヤの上まで登っていくというような感じなんですよね。
歩き始めてですね、荷物を担いでくれるポーターさんも190人規模だったかな。すごい規模感の大きな登山隊だったので、一人30キロの荷物が200人近い民区で運ばれているということなので、6トン。
荷物だけでそんなにあったのかというぐらい、とんでもない量なんですけども、それぐらいの荷物があってですね、山の中に住んでいくという感じです。ところがですね、僕途中でですね、やっぱりまた体調を壊してですね、もう本体から1週間ぐらい置いてきぼりにされてですね、後から一生懸命追いかけていくというような感じでした。
でもね、その間に非常にネパールの食事だとか文化だとか言葉に非常に適応してですね、まだ当時20歳ですからね、何でもかんでもスポンジのように吸収していくような時期だったので、それはそれでトラブルだったんですけど、すごい楽しい思いをして、ベースキャンプが標高5000メートルぐらいのベースキャンプなんですけども、そこまで本体から1週間から10日ぐらい遅れて到着して、ようやく登山活動というふうになるんですけども、
当時日本のメンバーもOBも結構年配の方もいらっしゃったんで、たぶんいわゆるその体力としては20歳の僕が一番あったはずなんですけども、やっぱ公所っていうのが初めてでですね、もう全く使い物にならない人間でですね、一番荷物が担げるはずなのに一度も荷物を担がず、
当然ですね、先頭に立ってルートを作ったりすることもできずですね、すべてルートができてですね、すべて荷物を荷上げをしてもらって、全部がお膳立てがされた状態で登るというですね、非常に情けない、登山としてはかなり情けない内容ではあったんですけども、
無事にですね、その7035メートルのラトナチュリという山に初登頂するという経験をすることができました。
たぶんですね、この経験っていうのはその後の僕の人生を完全に決定付けたと言っても過言ではありませんね。やっぱりこの山頂からの景色ですね、今でもよく覚えてます。
もう本当に360度広がるヒマラヤの山々、あとすごくインパクトに残ってたのが、アネハズルという鶴、ちょっと小型の鶴なんですけども、その鶴っていわゆる渡り鳥なんですけども、チベット高原から冬になるとインドの方に南下していくんですけども、その時にヒマラヤを越えていくんですよね。
なので、本当に標高の高いところを渡っていくんですけども、僕がちょうど6900メートルぐらいにいる時にですね、その鶴の渡りがあったんです。
もうその景色がすごくてですね、自分の目線もそうなんですけど、自分よりも高いところに鶴のいわゆる変態ですよね、10羽20羽って組んで飛んでるあれがですね、どんどんチベットの方からインドに飛んでいくっていうのをほぼ自分の目線で見た。
そんな強烈なインパクトのある体験をしてしまいまして、やっぱりそれからですね、ネパールっていうところがですね、今は僕の本当に第二の故郷っていうふうに思ってるんですけども、そんなふうに思ってます。
この時ですね、無事にミトウホーに登ることはできたんですけども、やっぱりこの一番最初の登山でヒマラヤのミトウホーに登ったっていうのがですね、多分その後の僕のネパールの登山においてもやっぱり一つの指針になったような気がしまして、
実はですね、僕はいろんな山30年かけて登り続けてたんですけども、有名な山ってあんま登ってないんですよね。最近ちょっと自分のその登山のどの山登ったかとかどの山に挑戦したかっていうのをリストアップして見てみたんですけども、多分ほとんど聞いたことない山ばっかりなんですよね。
ずっと辿っていったら、去年もヒマラヤ行ってたんですけども、去年の山でネパールヒマラヤで登ったミトウホーあるいはミトウルートっていうのが、それがちょうど10回目だったんですけども、当然そういうところなので、全然有名じゃない、聞いたこともない山ばっかりでした。
だけど、やっぱりそういった未知の世界に憧れを持つ一番最初のきっかけになったのがこの大学生の時の登山で、それがですね、やっぱりその後の人生にすごく大きく僕は役に立っているのかなというふうに思っています。
学生時代の海外というのはそれだけじゃなくて、またさらにもう1回ヒマラヤに行ったりだとか、後は後輩と2人で3ヶ月ぐらいかけて北米南米とトリップしていったんですけども、またその話はまた次のときですね、お話をさせてもらいたいなというふうに思っています。
北杜山守隊の活動と山小屋運営
そんなところで、本当はですね、ちょっとゆるっとですね、なんか違う話をしようかなと思ったんですけども、急遽、これ完全にアドリブですけども、山の話をさせてもらいました。
はい、2曲目はですね、稲葉浩司さんでタッチです。
はい、では最後のコーナーはですね、北都の山々のお便りということでですね、私ですね、北都山盛り隊という、これはね、登山道整備をはじめとした山の保全の活動をする一般社団法人を2022年に立ち上げて活動しています。
そのことについて、ちょっと皆さんにご紹介も兼ねてお話をしたいなというふうに思います。
で、きっかけになったのがですね、2017年に、貝コマがたけの七畳小屋という山小屋ですが、この小屋がですね、運営をすることになりました。
で、よく聞かれるんです。何でその山小屋を始めたのっていうのはよく聞かれる話でして、それまではですね、いわゆる登山家としての活動であったりだとか、山のガイドですね。
まあそういった形でプレイヤーとして活動することが多かったので、そういった中でいきなりその山小屋を始めるっていうのが何でっていう話をね、よく質問で聞かれたこともよくあるんですけども、
それすごく思い返すとですね、僕なんかその山小屋をやることが目的ではなくてですね、この北斗ってすごくこの山が美しくて山が素晴らしくて、多くの登山をする方だったりとかですね、そういった環境を求めて移住される方も多いと思うんですけども、
そんな環境でですね、当時僕が抱いた思いというのは、この素晴らしい資源があるのに生かしきれてなくてもったいないなっていうふうにずっと感じたんですよね。
ただし最初、もったいないなと思う頃はまだいわゆる他人事でもあってですね、もっとよくなるのになと思いながらいて過ごしてたのが、自分で何とかしてみたいなという思いになったのがちょうど2015年ぐらいの頃になります。
ただですね、僕はここの遅延も欠延もなく移住者でもあったので、でも山ってやっぱり誰のものでもなく、いわゆる公共のもの、社会のものだと僕は思っていて、そういった地域の財産でもあるし宝でもあると思うんですよね。
でも僕はここに遅延も欠延もないと。やっぱりそういった山を活用して何かをしていくにはやっぱり地域の人たちだったりだとか、あるいはこの北都市の行政だったりだとか、そういった地元の人たち、地元の関係の人たちとうまく協働してやらないと多分うまくいかないんだろうなというなんとなく自分の仮説があってですね。
そんな時にじゃあどうやったらそのつながり作れるかなと思って、思った時に出会ったのがその山小屋だったと。
で、なんでそれがって思うんですけども、実は北都市にある山小屋って全てですね、全てではないか、北都市のそのカイコバがたけの市場小屋は、いわゆる北都市の公共施設、北都市が持っている施設なので指定管理者制度って言ってですね、民間にその運営を委託するような形で運営をされていると、そういう形なんです。
なので、そうかとここに手を挙げて、それに採択というか認められれば、ここで山小屋の管理運営もできるし、山小屋の管理運営をするということは地域だったりとか、北都の市役所だったりだとか、そういったところともうまく連携しながらやらなきゃいけないんで。
これをやったら、もしかしたら自分がやりたいなと思ったことができるかもしれないなと思って、その指定管理の募集があったんですけども、そこに応募したのが2016年ということになります。
山小屋って僕ね、一度も実は働いたこともない素人なんですよね。
そのとき、いろんな人たちに開かれている募集なので、僕だけではなくて、他に何社かすでに山小屋を運営しているような会社だったりだとか、そういった人たちが手を挙げていたんですけども、僕はそのときに夢をたくさん語りました。
つまり僕はここでこういうことをすると、ただ山小屋のことだけを考えているんじゃなくて、地域の山がこういうふうに変わっていくんじゃないかみたいなことをしっかりプレゼンをさせてもらったんですよね。
そしたら、それが響いたのかどうかわからないですけども、私に選んでいただいたというような経緯があります。
最初はですね、貝クマ畑の七畳小屋がある場所って黒島尾根っていう日本三大宮島の一つで、非常に標高差2200メートルあるものすごく急な尾根で知られているんですけども、当然厳しいルートなので、それほど人も来ません。
人が来ないとなると山小屋の運営としてはなかなか難しいので、まず多くの人に来てもらえるようになったらいいなというところで、僕は黒島尾根ってものすごく好きなルートでですね、山小屋をやる前からよく登ってたんです。
何が素晴らしいって、町のすぐ裏に登山口があってですね、標高770メートルから登山が始まるんですけども、ふもとは本当に深い森、昔からの里山の生活の跡みたいなのもちゃんと残っている雰囲気からですね、途中からですね、貝クマ畑って山岳信仰の山としても非常に有名ですので、信仰の石碑だったり石物だったりだとかそういったものが出てきて、
最後上の方に行ったら昔から貝クマってクライミングで非常にいろんな困難なクライミングもされてた場所でいわゆるアルピニズムって言われてるんですけども、そういった本格的な山としての風格も持っていると、なかなかですね、この里山、それから山岳信仰、アルピニズムとこういう僕の思う日本の山の三大要素っていうのをですね、
兼ね備えている山ってそんなないんじゃないかなというふうに思うんですよね。なんか2つ兼ね備えている山岳信仰もあってアルピニズムもあるような山があったりとか、あるいは里山であり山岳信仰の山というようなところはあるんですけども、やっぱりこの3つあるっていうのはね、なかなかなくてですね、僕はそれがすごくこの貝クマの魅力だと思ってて。
とにかく七畳小屋のPRっていうよりも、黒棟でのPRをたくさんしました。もうとにかくこの素晴らしい場所なので皆さん登ってきてほしいと。別にその小屋に泊まってほしいとかそういうことはほぼ言ってないですよね。とにかく来てくださいと。素晴らしい景色もあるしというところで、前回お話しした9号目の剣の話もしましたけども、それもそうですね。
日本を代表する山岳景観もあるというふうにアピールしていきました。そうするとですね、やっぱりかなりそういうアピールはいっぱいしたので、おかげさまですごくたくさん人が来てくれるようになったんですけども、今度やっぱり人が増えるということはそういうマイナスの面ももちろん出てくるんですよね。
それはどういったことかというと、例えば今まで人が踏み荒らしていないようなところですね。それまで草が生えてたりとかしたところにですね、ちょっと道のコンディションが悪くなったりとかするとですね、どうしても歩きやすい方に人間は行ってしまうので、そうすると本来の登山道じゃないようなところに踏み跡ができたりだとか、
そういった人が増えることによる負の側面みたいなものが少しずつ出てきてですね、こういうことが起こるのかと思いながら過ごしてました。
ただ、どうにかしなきゃなとは思いながらも、やっぱりそのどうにかする技術もないし、知恵もないし、まだそこまで決定的な破壊とかそういうわけでもなかったので、こういうことが起こるのかというのを感じながらいたんですけども、これはもうまずいなってすごく思った時があって、それが
2019年の台風19号、覚えている方もいらっしゃると思うんですけども、もうかなり大きな台風が来ました。この台風ですね、南アルプス、カイコマ畑のみならずですね、南アルプス全域にかなり大きな被害を及ぼしてですね、今でも南アルプスのスーパー林道のバスが通っていた区間ですね、復旧がせずに崩れたままの状態になっていても、
戻らないんじゃないかなというぐらい崩れている場所もあるんですけども、そういった深い爪痕を残した台風がありました。この時にですね、もういろんなところで道も大きな水が流れたので崩れたりだとかしてですね、
もうこれ今行動を起こさないと、この登山道もしかして今後使えなくなるんじゃないかっていう風な危機感があってですね、そこで行動を開始したというのが2019年の年末でした。
ところが皆さんご存知の通りですね、2020年からコロナになってしまって、取り組みがすぐには開始はできなかったんですけども、今までですね、登山道って山小屋の人たちだとか、あるいは地域の人たちですね、本当に限られた地域の人たちだけでなんとか支えてきたような側面もあるんですけども、
もう正直その山小屋だけではやりきれない。地域もだんだん高齢化していてですね、昔は白州の方も地元の山岳会が中心になってしっかりとその道の整備もしてたんですけども、そういうこともできなくなった中で、
これはもう完全に新しい仕組みを考えていかないと難しいなと思って、じゃあどうしたらいいのかなっていうふうに考えたときに、これは山を愛する人たち、それは地域の人たちだけではなくて、例えば東京の方だったりとか都市部の方からカイクマガタケが好きで登りに来てくださるような人たちですね、そういった人たちの力も借りて、
みんなの力でなんとか道を維持していくっていうような、そういう方法でできないかなというふうに考えて取り組みを始めたというところであります。
今後の活動とリスナーへの呼びかけ
今ですね、その取り組みはですね、すごくこの3年4年でですね、だいぶん頑張ってやってきましたので、だいぶん広がりつつあるんですけども、また4月からですね、今年の4月から5月、6月、7月ですね、北手山盛り台の方で登山道保全のワークショップっていうものを開催しています。
これはですね、実際にその登山道を補修する体験をするだけではなくて、その山の成り立ちだったりだとか、どうしたらこういうふうな自然の環境の変化が起こるんだろうかとか、そういったのをですね、実際にフィールドで観察をしたり体験をしたりしながら学ぶというような機会を作ってますので、ぜひ北手山盛り台のホームページをご覧になっていただきたいなというふうに思います。
北都市民の方、これ聞いてる方も多いと思うんですけども、また秋になるとですね、毎年エコパークの取り組みの中で、北都市民の方にはですね、すごく参加しやすいお値段で参加できる企画も作っておりますので、ぜひですね、これからですね、北手山盛り台のホームページなどもチェックしながら、SNSなどもチェックしながら、ぜひですね、一度参加をしていただいて、
一緒にですね、この地域の宝である山を守る、そういったことを考える仲間になっていただきたいなというふうに思います。はい、ではですね、最後の曲です。中島美由紀さんの「糸」です。どうぞ。
はい、皆様いかがでしたでしょうか。
番組の冒頭にもお知らせしましたが、FM八ヶ岳のホームページのアーカイブのページに、4月からの放送のアーカイブができ始めてますので、ぜひそちらを聞いていただきたいなと思います。
それからですね、お便りですね、募集をします。また私のSNSとかでも発信はしたいなと思うんですけども、もしこの放送を聞いていただいて、僕に何か質問等々がありましたら、FM八ヶ岳のホームページの中にですね、メッセージとリクエストのページがありますので、もしよければそちらにメッセージを入れていただければと思いますので、よろしくお願いします。
あと、北手守り隊のワークショップですけども、今度ですね、5月、6月、7月と、まだ募集中ですので、もし関心がある方はですね、ぜひホームページを覗いていただきまして、そこからワークショップの参加フォームに飛びますので、ぜひ確認をしていただきたいなというふうに思います。
はい、今月もありがとうございました。FM八ヶ岳、Day in Life、山と共に生きる、花谷康裕でした。また来月お会いしましょう。