「失地回復」という現代の合言葉
川北省吾著、新書 世界現代史 なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか(講談社現代新書)を読んだ。
本書のキーワードは「失地回復」だ。
ロシア、中国、そしてアメリカ。
それぞれが「失われた黄金期」を取り戻そうとしているというのが、本書の基本的な見立てだ。
レコンキスタが、国民国家が最も輝いていた時代への回帰願望だとすれば、それは論理的に成立しない欲望ではないか。
地球は一つだ。
その上で複数の国家が同時に「かつての最大版図」「かつての最高権威」を実現することは不可能である。
ロシアが大ロシア帝国の版図を求め、中国が「百年国恥」以前の中華世界の中心への復帰を求め、アメリカが唯一の超大国だった冷戦直後の秩序を求める——これらは互いに矛盾し、全員が同時に達成することはできない。
もしイタリアがローマ帝国時代のレコンキスタを起こしたらどうなるか。
現在のあらゆる国家と衝突する。
ムッソリーニはそれを試みて破滅した。
つまりレコンキスタは、構造的に「全員が負ける」ゲームだ。
本当に求めているのは「豊かさ」ではなく「承認」だ
ではなぜ各国のリーダーたちはそれを求めるのか。
ここで一つの読み替えが必要だと気づいた。
彼らが本当に求めているのは豊かさではないのではないか。
プーチンがNATOの東方拡大に激怒したのは、ロシアの経済が苦しかったからではない。
習近平の「百年国恥」という言葉が指すのは、経済的貧困よりも、列強に蹂躙され「かしずかれる側」から「かしずく側」へと転落した屈辱の記憶だ。
トランプもまた、客観的にはまだ世界最強国であるアメリカにいながら「アメリカはなめられている」という感覚で動いている。
彼らを突き動かしているのは、承認欲求の挫折だ。
「俺たちをちゃんと認めろ」——突き詰めればそれだけのことなのではないか。
そう考えると、現代の地政学的緊張は「資源や土地の奪い合い」という古典的な帝国主義とは本質が異なる。
それは「誰が誰にかしずくか」という序列をめぐる争いだ。
地球は一つの猿山にすぎない
これを別の言葉で言えば、地球という猿山のボス争いである。
霊長類の研究者たちは、人間の権力闘争がチンパンジーなどの社会と連続していることを丁寧に示してきた。
ボスの地位をめぐる争い、承認と序列への執着——それは人間だけのものではない。
ただし現代の「猿山のボス争い」には、決定的な違いがある。
核兵器の存在だ。
猿山では、最終的にボスが決まれば秩序が生まれる。
しかし核を持つ大国同士は、本当の意味での「殴り合い」ができない。
猿山ごと崩壊したら、承認欲求どころではないからだ。
だから「殴れない」大国たちは、代わりにボス感の演出を過熱させる。
力を見せつけ、小国をかしずかせ、威圧のポーズをエスカレートさせ続ける。
ウクライナ戦争は、その演出だけでは屈辱が癒やされないところまでプーチンが追い詰められた結果だったのかもしれない。
承認欲求は特別な感情ではなく、生存本能
ここで、より根本的な問いに突き当たる。
人間はなぜこれほど承認欲求に支配されるのか。
人間は極端に社会的な動物だ。
集団から承認されること、序列の中に位置を持つことは、かつては文字通り生存と直結していた。
村八分は死を意味した。
だから承認欲求は特別な感情ではなく、生存本能と深く融合した欲求として進化してきたと考えられる。
さらに言えば、人間の脳が巨大化したのも、自然環境への適応よりも、他の人間集団との競争のためだったという説が有力だ。
より巧みに協力し、より巧みに相手集団を出し抜く——その軍拡競争が脳を肥大化させた。
そしてその脳が核兵器を作り、気候変動を引き起こし、AIを生み出した。
集団間競争のために発達した能力が、集団全体を危機に陥れる道具を生み出してしまった。
リベラリズムは本能に負けたのか
それを食い止めようとして生まれた概念が、リベラリズムだったと思う。
リベラリズムの本質は、ある意味で本能への不信から出発している。
人間は放っておけば支配したがる、差別したがる、排除したがる——だからこそ法の支配、人権、国際規範という「本能を制御する装置」を意図的に設計しようとした。
冷戦終結後の1990年代は、その装置が最もうまく機能しているように見えた時期だった。
フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という楽観論もそこから生まれた。
しかしリベラリズムは本能を軽視しすぎた。
承認欲求も、帰属意識も、自分たちの共同体を守りたいという感覚も「克服すべき遅れた感情」として扱いすぎた。
結果として、制御されるはずだった本能が、リベラリズムへの反動という形でより純粋に、より攻撃的に噴出した。
トランプもプーチンも習近平も、ベクトルはバラバラだが構造は同じだ。
「本能と折り合いをつけたリベラリズム」というキーワード
では、どうすればいいのか。
答えはまだないが、一つのキーワードが浮かぶ。
本能と折り合いをつけたリベラリズム。
承認欲求を否定せず、しかし暴力や支配に向かわない形で満たす回路を、制度や文化として設計できるか。
「普遍的人権」という抽象的な理念だけでなく、具体的な国民国家や共同体への帰属感と共存できるリベラリズムの形があるか。
それはまだ誰も説得力ある形で示せていない。
今の世界の知的な空白は、そこにある。
しかし人間が決定的に違うのは、自分がその構造の中にいることを認識できるという点だ。
本能の外に出て本能を俯瞰できる。
その能力を、個人ではなく集合的な知恵として機能させること——それが今問われていることだと僕は感じた。
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川北省吾著、新書 世界現代史 なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか(講談社現代新書)を読んだ。
本書のキーワードは「失地回復」だ。
ロシア、中国、そしてアメリカ。
それぞれが「失われた黄金期」を取り戻そうとしているというのが、本書の基本的な見立てだ。
レコンキスタが、国民国家が最も輝いていた時代への回帰願望だとすれば、それは論理的に成立しない欲望ではないか。
地球は一つだ。
その上で複数の国家が同時に「かつての最大版図」「かつての最高権威」を実現することは不可能である。
ロシアが大ロシア帝国の版図を求め、中国が「百年国恥」以前の中華世界の中心への復帰を求め、アメリカが唯一の超大国だった冷戦直後の秩序を求める——これらは互いに矛盾し、全員が同時に達成することはできない。
もしイタリアがローマ帝国時代のレコンキスタを起こしたらどうなるか。
現在のあらゆる国家と衝突する。
ムッソリーニはそれを試みて破滅した。
つまりレコンキスタは、構造的に「全員が負ける」ゲームだ。
本当に求めているのは「豊かさ」ではなく「承認」だ
ではなぜ各国のリーダーたちはそれを求めるのか。
ここで一つの読み替えが必要だと気づいた。
彼らが本当に求めているのは豊かさではないのではないか。
プーチンがNATOの東方拡大に激怒したのは、ロシアの経済が苦しかったからではない。
習近平の「百年国恥」という言葉が指すのは、経済的貧困よりも、列強に蹂躙され「かしずかれる側」から「かしずく側」へと転落した屈辱の記憶だ。
トランプもまた、客観的にはまだ世界最強国であるアメリカにいながら「アメリカはなめられている」という感覚で動いている。
彼らを突き動かしているのは、承認欲求の挫折だ。
「俺たちをちゃんと認めろ」——突き詰めればそれだけのことなのではないか。
そう考えると、現代の地政学的緊張は「資源や土地の奪い合い」という古典的な帝国主義とは本質が異なる。
それは「誰が誰にかしずくか」という序列をめぐる争いだ。
地球は一つの猿山にすぎない
これを別の言葉で言えば、地球という猿山のボス争いである。
霊長類の研究者たちは、人間の権力闘争がチンパンジーなどの社会と連続していることを丁寧に示してきた。
ボスの地位をめぐる争い、承認と序列への執着——それは人間だけのものではない。
ただし現代の「猿山のボス争い」には、決定的な違いがある。
核兵器の存在だ。
猿山では、最終的にボスが決まれば秩序が生まれる。
しかし核を持つ大国同士は、本当の意味での「殴り合い」ができない。
猿山ごと崩壊したら、承認欲求どころではないからだ。
だから「殴れない」大国たちは、代わりにボス感の演出を過熱させる。
力を見せつけ、小国をかしずかせ、威圧のポーズをエスカレートさせ続ける。
ウクライナ戦争は、その演出だけでは屈辱が癒やされないところまでプーチンが追い詰められた結果だったのかもしれない。
承認欲求は特別な感情ではなく、生存本能
ここで、より根本的な問いに突き当たる。
人間はなぜこれほど承認欲求に支配されるのか。
人間は極端に社会的な動物だ。
集団から承認されること、序列の中に位置を持つことは、かつては文字通り生存と直結していた。
村八分は死を意味した。
だから承認欲求は特別な感情ではなく、生存本能と深く融合した欲求として進化してきたと考えられる。
さらに言えば、人間の脳が巨大化したのも、自然環境への適応よりも、他の人間集団との競争のためだったという説が有力だ。
より巧みに協力し、より巧みに相手集団を出し抜く——その軍拡競争が脳を肥大化させた。
そしてその脳が核兵器を作り、気候変動を引き起こし、AIを生み出した。
集団間競争のために発達した能力が、集団全体を危機に陥れる道具を生み出してしまった。
リベラリズムは本能に負けたのか
それを食い止めようとして生まれた概念が、リベラリズムだったと思う。
リベラリズムの本質は、ある意味で本能への不信から出発している。
人間は放っておけば支配したがる、差別したがる、排除したがる——だからこそ法の支配、人権、国際規範という「本能を制御する装置」を意図的に設計しようとした。
冷戦終結後の1990年代は、その装置が最もうまく機能しているように見えた時期だった。
フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という楽観論もそこから生まれた。
しかしリベラリズムは本能を軽視しすぎた。
承認欲求も、帰属意識も、自分たちの共同体を守りたいという感覚も「克服すべき遅れた感情」として扱いすぎた。
結果として、制御されるはずだった本能が、リベラリズムへの反動という形でより純粋に、より攻撃的に噴出した。
トランプもプーチンも習近平も、ベクトルはバラバラだが構造は同じだ。
「本能と折り合いをつけたリベラリズム」というキーワード
では、どうすればいいのか。
答えはまだないが、一つのキーワードが浮かぶ。
本能と折り合いをつけたリベラリズム。
承認欲求を否定せず、しかし暴力や支配に向かわない形で満たす回路を、制度や文化として設計できるか。
「普遍的人権」という抽象的な理念だけでなく、具体的な国民国家や共同体への帰属感と共存できるリベラリズムの形があるか。
それはまだ誰も説得力ある形で示せていない。
今の世界の知的な空白は、そこにある。
しかし人間が決定的に違うのは、自分がその構造の中にいることを認識できるという点だ。
本能の外に出て本能を俯瞰できる。
その能力を、個人ではなく集合的な知恵として機能させること——それが今問われていることだと僕は感じた。
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