無駄だと言われた港が、広島を軍都に変えた
前回、広島城の殿様が知藩事になり、そのまま明治維新を迎えたところまで書いた。
「安芸国府から広島市へ 広島湾岸の1300年史」というマガジンにまとめているので、過去4回もあわせて読んでもらえれば嬉しい。
今日は、その広島がなぜ「軍都」と呼ばれるようになったのか、というところまで話を進めたい。
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城を追い出された県庁
廃藩置県のあと、県庁は広島城の中に置かれていた。
ところが明治6年、その本拠地に陸軍がやってくる。
城内に置かれたのが広島鎮台だ。
元は熊本の鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)の分営という扱いだったのが、独立した鎮台として広島に据えられた。
鎮台は全国6か所に置かれ、そのひとつが広島だった。
明治21年、これが第五師団へと改編されていく。
軍が入れば、県庁の居場所はなくなる。
追い出されるようにして移った先が、国泰寺というお寺だった。
今、広島市役所がある、正に国泰寺町の辺りだ。
当の国泰寺は後年、己斐上に移転した。
己斐峠の近くにある大きくて立派なお寺だが、かつては街中にあったわけだ。
県庁はこの寺の中で3年ほど仮住まいを続けることになる。
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尾道が県庁所在地になる?
この仮住まいの時期に、面白い出来事が起きている。
当時の伊達宗興権令が、県庁を尾道へ移し、県の名前も「御調県」に変えたいと大蔵省に持ちかけたのだ。
尾道のある郡が御調郡だったからだ。
もし通っていれば、広島県の県庁所在地は尾道になり、名前も御調県になっていた。
だが大蔵省の前島密がこれを突っ返した。
尾道は道が狭く、平地が少ないことと、県庁をむやみに動かすことを嫌ったのだという。
郵便制度の父として知られるあの前島密である。
結局、県庁は広島に残った。
歴史のちょっとした分岐点だと思う。
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遠浅の海を見た、ひとりの県令
やがて県令は知事と名を変える。
その最後の県令であり最初の知事でもあるのが、千田貞暁だ。
薩摩の出で、東京府から海路で広島へ赴任してきた。
このとき彼が見たのが、広島湾の酷い遠浅だった。
広島湾は、太田川が運ぶ土砂で中州が育ってできた土地だ。
以前の回で、その一番広い中州に広島城が建ったと書いた。
千田の頃になると中州はさらに広がり、海はいっそう遠浅になっていた。
潮が引けば、江波から対岸の己斐まで歩いて渡れた。
『この世界の片隅に』にそんな場面が出てくる。
大きな船は近くまで寄れず、途中で小舟に乗り換えねばならない。
千田は上陸のために長い潮待ちを強いられ、これは不便だと痛感した。
そこで彼は、もっと沖に近代的な港を築こうとする。
それが宇品港だ。
遠浅の海を埋め立て、港をつくる。
当時は琵琶湖疏水に匹敵する大工事だった。
とはいえ、埋め立てるということは、そこで営まれていた養殖の場を潰すことでもあった。
当時の広島は海苔と牡蠣の一大産地で、『この世界の片隅に』の主人公の実家も、江波で海苔養殖を営んでいた。
宇品の埋め立てで海苔養殖はできなくなり、牡蠣は筏から吊るす垂下式の開発によって沖の養殖へ移り、生き残った。
だから今も広島は牡蠣の名産地なのだ。
築港は当時の日本では最大級の工事なので、当然、金が足りない。
あちこちから借り、国にも補助を掛け合い、そのたびに叱られた。
挙句、こんな無駄なものに金ばかり使うなと責められ、千田は完成間際に知事を罷免されてしまう。
理由は「工事計画が粗漏」だから。
港はできたが、千田知事はボロクソな言われようだった。
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無駄な港の大逆転
ところが、ここで逆転が起きる。
日清戦争だ。
仕掛ける側の戦争は本土の外でやる。
兵も軍艦も、どこかの港から送り出さねばならない。
さらに国内では船に代わる輸送手段が、ちょうどこの頃に生まれていた。
鉄道である。
東京からの線路が、日清戦争の直前に広島まで届いていた。
三原から広島は賀茂台地越えの難所だが、何とか広島までは敷設が終わっていたのだ。
つまり全国の兵を鉄道で運べる南限が、ちょうど広島だった。
そこに、軍艦を着けられる近代港がある。
無駄だと笑われた宇品港が、これ以上ない軍港として機能する。
広島駅から宇品港まで急いで軍用鉄道を敷き、日本中の兵が広島に集まり、宇品から大陸へ渡っていった。
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こうして軍都ができた
宇品の周りには、軍の心臓部が揃っていく。
今の広島大学病院の場所が兵器支廠で、武器弾薬が保管された。
現在でも時々、不発弾などが発見されるのはそのためだ。
そのすぐ近くには被服支廠が置かれ、軍服や装具が保管された。
今、郷土資料館になっている建物は糧秣支廠で、兵の缶詰と軍馬の秣をつくり蓄えた。
兵さえ来れば、武器も軍服も食糧も揃い、宇品からそのまま戦地へ発てる。
これが広島を軍都たらしめた仕組みだ。
軍が根を張れば、関連する産業も膨らむ。
武器を作らねばならず、壊れれば直さねばならない。
そうやって重工業的なものが次々に育っていった。
街は戦争のたびに軍需で潤い、経済を太らせていく。
やがて、広島で意志決定したほうが早いということになり、明治天皇が広島に入る。
大本営が置かれ、帝国議会の建物も設けられ、臨時の帝国議会まで開かれた。
ほんの一時とはいえ、広島は実質的な首都の機能を果たす。
今も広島城周辺には、明治天皇が滞在した場所や使ったとされる井戸が残っている。
続く日露戦争でも、兵と船は主に宇品から出ていった。
中国とロシアのあいだの戦いも、沿岸の海戦も、多くはこの港が起点だった。
近代の広島を大きくしたのは、城下町よりむしろ宇品港だった。
そしてその港を、絶好のタイミングで用意したのが千田貞暁である。
宇品には今も千田廟公園があり、彼の銅像が立っている。
千田町という地名も、彼の名から来ている。
近代の広島をつくった立役者は千田貞暁だと言っていい。
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前回、広島城の殿様が知藩事になり、そのまま明治維新を迎えたところまで書いた。
「安芸国府から広島市へ 広島湾岸の1300年史」というマガジンにまとめているので、過去4回もあわせて読んでもらえれば嬉しい。
今日は、その広島がなぜ「軍都」と呼ばれるようになったのか、というところまで話を進めたい。
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城を追い出された県庁
廃藩置県のあと、県庁は広島城の中に置かれていた。
ところが明治6年、その本拠地に陸軍がやってくる。
城内に置かれたのが広島鎮台だ。
元は熊本の鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)の分営という扱いだったのが、独立した鎮台として広島に据えられた。
鎮台は全国6か所に置かれ、そのひとつが広島だった。
明治21年、これが第五師団へと改編されていく。
軍が入れば、県庁の居場所はなくなる。
追い出されるようにして移った先が、国泰寺というお寺だった。
今、広島市役所がある、正に国泰寺町の辺りだ。
当の国泰寺は後年、己斐上に移転した。
己斐峠の近くにある大きくて立派なお寺だが、かつては街中にあったわけだ。
県庁はこの寺の中で3年ほど仮住まいを続けることになる。
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尾道が県庁所在地になる?
この仮住まいの時期に、面白い出来事が起きている。
当時の伊達宗興権令が、県庁を尾道へ移し、県の名前も「御調県」に変えたいと大蔵省に持ちかけたのだ。
尾道のある郡が御調郡だったからだ。
もし通っていれば、広島県の県庁所在地は尾道になり、名前も御調県になっていた。
だが大蔵省の前島密がこれを突っ返した。
尾道は道が狭く、平地が少ないことと、県庁をむやみに動かすことを嫌ったのだという。
郵便制度の父として知られるあの前島密である。
結局、県庁は広島に残った。
歴史のちょっとした分岐点だと思う。
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遠浅の海を見た、ひとりの県令
やがて県令は知事と名を変える。
その最後の県令であり最初の知事でもあるのが、千田貞暁だ。
薩摩の出で、東京府から海路で広島へ赴任してきた。
このとき彼が見たのが、広島湾の酷い遠浅だった。
広島湾は、太田川が運ぶ土砂で中州が育ってできた土地だ。
以前の回で、その一番広い中州に広島城が建ったと書いた。
千田の頃になると中州はさらに広がり、海はいっそう遠浅になっていた。
潮が引けば、江波から対岸の己斐まで歩いて渡れた。
『この世界の片隅に』にそんな場面が出てくる。
大きな船は近くまで寄れず、途中で小舟に乗り換えねばならない。
千田は上陸のために長い潮待ちを強いられ、これは不便だと痛感した。
そこで彼は、もっと沖に近代的な港を築こうとする。
それが宇品港だ。
遠浅の海を埋め立て、港をつくる。
当時は琵琶湖疏水に匹敵する大工事だった。
とはいえ、埋め立てるということは、そこで営まれていた養殖の場を潰すことでもあった。
当時の広島は海苔と牡蠣の一大産地で、『この世界の片隅に』の主人公の実家も、江波で海苔養殖を営んでいた。
宇品の埋め立てで海苔養殖はできなくなり、牡蠣は筏から吊るす垂下式の開発によって沖の養殖へ移り、生き残った。
だから今も広島は牡蠣の名産地なのだ。
築港は当時の日本では最大級の工事なので、当然、金が足りない。
あちこちから借り、国にも補助を掛け合い、そのたびに叱られた。
挙句、こんな無駄なものに金ばかり使うなと責められ、千田は完成間際に知事を罷免されてしまう。
理由は「工事計画が粗漏」だから。
港はできたが、千田知事はボロクソな言われようだった。
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無駄な港の大逆転
ところが、ここで逆転が起きる。
日清戦争だ。
仕掛ける側の戦争は本土の外でやる。
兵も軍艦も、どこかの港から送り出さねばならない。
さらに国内では船に代わる輸送手段が、ちょうどこの頃に生まれていた。
鉄道である。
東京からの線路が、日清戦争の直前に広島まで届いていた。
三原から広島は賀茂台地越えの難所だが、何とか広島までは敷設が終わっていたのだ。
つまり全国の兵を鉄道で運べる南限が、ちょうど広島だった。
そこに、軍艦を着けられる近代港がある。
無駄だと笑われた宇品港が、これ以上ない軍港として機能する。
広島駅から宇品港まで急いで軍用鉄道を敷き、日本中の兵が広島に集まり、宇品から大陸へ渡っていった。
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こうして軍都ができた
宇品の周りには、軍の心臓部が揃っていく。
今の広島大学病院の場所が兵器支廠で、武器弾薬が保管された。
現在でも時々、不発弾などが発見されるのはそのためだ。
そのすぐ近くには被服支廠が置かれ、軍服や装具が保管された。
今、郷土資料館になっている建物は糧秣支廠で、兵の缶詰と軍馬の秣をつくり蓄えた。
兵さえ来れば、武器も軍服も食糧も揃い、宇品からそのまま戦地へ発てる。
これが広島を軍都たらしめた仕組みだ。
軍が根を張れば、関連する産業も膨らむ。
武器を作らねばならず、壊れれば直さねばならない。
そうやって重工業的なものが次々に育っていった。
街は戦争のたびに軍需で潤い、経済を太らせていく。
やがて、広島で意志決定したほうが早いということになり、明治天皇が広島に入る。
大本営が置かれ、帝国議会の建物も設けられ、臨時の帝国議会まで開かれた。
ほんの一時とはいえ、広島は実質的な首都の機能を果たす。
今も広島城周辺には、明治天皇が滞在した場所や使ったとされる井戸が残っている。
続く日露戦争でも、兵と船は主に宇品から出ていった。
中国とロシアのあいだの戦いも、沿岸の海戦も、多くはこの港が起点だった。
近代の広島を大きくしたのは、城下町よりむしろ宇品港だった。
そしてその港を、絶好のタイミングで用意したのが千田貞暁である。
宇品には今も千田廟公園があり、彼の銅像が立っている。
千田町という地名も、彼の名から来ている。
近代の広島をつくった立役者は千田貞暁だと言っていい。
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