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2024-03-27 21:45

ささきるの水曜回帰φ瑠 [2024.03.27]

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サマリー

ささきるさんは、水曜回帰ファイルの新しいエピソードで、『ドクタースランプ』と『アラレちゃん』について話しています。手塚治虫と宮崎駿の作風の違いや、鳥山明の絵の能力とスモールワールドな世界観について語られています。

00:04
おはようございます。
2024年3月27日
こんかい、言えてないな。
えーっと、2024年3月27日、水曜日、ささきるです。
水曜回帰ファイル始めて行きたいと思います。
先週水曜日が祝日でですね
私、うっかり普通に休んで、このポッドキャストのことも思い出さずに一日過ごしちゃったんですけど、夜になってあれ今日なんかポッドキャストしたりないなっていう感覚で気づいて、
それで今日休みで、それでこう仕事のルーティーンの中に入り込まなくてついやらないでしまったんだなってことを気づいたんですけど、
このポッドキャストしたりないっていう感覚で気づいた自分が、あ、俺ポッドキャスターだなっていう感じがして、なんか面白かったです。
で、じゃあ一回休んだから別にすごい語り逃したことがあるかって言われると、そんなないんですけど、例によってこの水曜日はニュースを取り上げるっていうコンセプトを持ちながら、
ニュースに振り回されてはいかんっていうことも常々私の考えでもって言ってるもんですから、
例えば水原一平の件が話題になればなるほどですね、何の一時情報を持ってない者が喋ってもしょうがないという気持ちがますます強くないですね。
絶対に取り上げないっていう気持ちが出てきます。もう1ヶ月もして、後でゆっくり調べればいいんです、そんなことはね。
なのでニュースを取り上げるのに取り上げたくないっていうね、そんな番組になっておりますが、ちょうど1ヶ月じゃないや、ちょうど時間が経って喋りたくなってきたトピックスに鳥山明がございます。
前回も喋ったんですけども、前回喋った後にですね、火曜日担当の綾子Pさんがたくさんやられてるポッドキャスターのうちの一つに、
アクエストフォーザニューパラダイムっていう番組があるんですけども、その27話の中でサンキュードラゴンボールっていうエピソードがありまして、そこでこう話してるのを私楽しく聞いてたんですけども、
それを聞いてるうちにね、あ、これ話したいなって。話したいなっていうか、考えたことなかったから考えてみたいなって思うテーマが出てきたんですね。
それがですね、綾子Pさんが番組の途中で言ってたんですけども、「あられちゃんの主題って何?」みたいなこと言ってたんですね。
どうやら綾子Pさんは自分の90%がドラゴンボールでできていると。だから鳥山明が好きだとはいえ、ドクタースランプあられちゃんのことあんまり知らないと。
それで一方の番組のお相手の方がですね、一方あられちゃんの方は知っててドラゴンボールの方はあんまり知らないっていう、そういうバランスで会話が進んでたんですけども、
その中であられちゃん、ドクタースランプって何が主題なの?みたいな話が出たんですね。主題、いいですね主題。
俺も考えたことがあったけど、あ、そう言われてみて、ふと思ったんですね。
これメディアヌープ本編でも喋ったんですけど、あられちゃんってもうずっと今でも何度引っ越しても持ち歩いてるぐらい好きな作品なんですよね。
ただね、そんな読み返すわけじゃない日常。持って歩いてお守りにしてるだけだって、そんな読み返すわけじゃなくて、今回も読み返す時間なくて読み返してないんですけども、
『アラレちゃん』と『ドクタースランプ』の関係
ふとね、あれってどんな話なんだろうって思ったんです。今日はそんなお話です。
ご承知のようにと言っていいと思うんですけども、あられちゃんっていうのはアンドロイドですよね。ロボット。
で、お話の主人公はドクタースランプ。だからのり巻せんべいですよね。
どっちが主人公かっていうのは、漫画の冒頭はのり巻せんべい。それがだんだんと、あられちゃんの方が主役っぽくというかね、アニメの方だとそこ中心になるんですけども、作品のタイトルからもわかる通り、ドクタースランプ。つまりこれはのり巻せんべいですね。
その作品なんですけども、これが何なのかっていうと、たぶんね、鉄腕アトムに対するアンサーというかね、バリエーションなんだと思うんですよ。
鉄腕アトムっていうのが天魔博士と天魔博士が作ったアトムですよね。
それはドクタースランプとあられちゃんという関係に近しいんだと思うんですけども、どっちも強力なパワーを持ったロボットなんですけども、鉄アトムの方は原子力の、それこそアトムですからね、原子の力で動く強力なロボットで、
科学が世の中をどんどん良くしていくっていう時代にあって、その風を受けつつも、でもその科学が行き着く先の矛盾みたいなものも同時に描こうとしてるみたいな、そういう作品だと思うんですけども、
同じくすごくパワフルなロボット。ロボットって言っても、あれ何で動いてるんだろう、原子力じゃなくてロボビタンデみたいな、そういう飲み物で動いてるんですけども、あれただの海水だったから、ただの。
それで動いてるんですけども、それは別に、何て言うんだろうな、科学が行き着く先の社会とか人類とかを描いているわけじゃなくて、この世のどっかにある、あの作品世界のどっかにあるペンギン村の中の出来事に終始するわけですよね。
もちろんアラレちゃんのパワー自体は地球を割っちゃったり、月に物を投げちゃったりみたいな、全地球的、全宇宙的なパワーがギャグとして描かれるんですけども、お話自体はペンギン村の中に閉じていると。
なんかすごく対比的だと思うんですよね。80年代、正確には70年代の後半に愛作品が出てきた時に、捉え方によっては自閉的、自分の世界に閉じこもっている内向きな村の中の出来事みたいな、そういうスモールワールドでハッピーになろうみたいな風にも見える。
そのことが社会にアクチュアルに訴えかけをする、そうしなきゃいけないんだという考え方からすると、すごくせこくて小さくて悪いものを放置しちゃうという意味で、悪に近いという言い方も最近ではしますけど。
そういうのも見方もできるんだけれども、あれがあの時パッと出てきた時には、社会を変えよう変えなきゃいけないみたいなものが行き詰まっている中に対して、ポッと肩の力を抜いてくれるような、でもその肩の力の抜け方がどこまでも世の中を開いていくような、そういう明るさポップさを世の中に与えたと思うんですよね。
当時、自分はそういうことまで考えて読んだわけじゃなくて、最初に触れたものがあられちゃんで、後から哲は後も知るみたいなことだったんで、そういう差みたいなものは後になって思うわけですけど、あられちゃんってあの時そういうものだったんだなと思いますよね。
だからあの時のポップカルチャーで例えば村上春樹が受けるみたいなものってやっぱり同時代性があって、すごく小さな世界の中の出来事ですよね。
社会に動向するみたいな。
富山明も大変しているところがあって、生涯自分が生まれた地域に住んで暮らして働いている、どんどん外の世界に出ていくんじゃなくて、自分が住んでいる地域とか一緒に暮らしている人々を、スモールワールドを大事にして生涯やっている、そういう面がありますよね。
それが作品としてすごく世界の果てまで届いているっていうことがあると思うんで、彼女も閉じこもっているっていう表現は、そういう見方は合わないと思うんですけど、そういうものを描いているんじゃないかと思うんですよね。
手塚治虫と宮崎駿の作風の違い
一方、手塚治虫と同世代の宮崎駿とかは、ものすごいエネルギーを持ったロボットを描くっていった時に、巨神兵とか、あるいはナウシカに出てくる火の七日間みたいな、世界を滅ぼしちゃうようなロボットを描くわけですよね。
手塚治虫の手塚アトムがいた時に、「いや、もうあんなもんじゃないよ。世界滅ぼしちゃうんだよ。」って描く人もいれば、もっと世代が違って、もっとポップなアラエちゃんみたいなものを描く人も描くものが現れてきている。
そういうふうに配置してみると、アラエちゃんが何だったのかな、みたいな。それを主題とまで言っていいかわかりませんが、主題ないんじゃないかな。
なんていうか、こび抜けてああいう絵を描くことができた。その絵を描くこと自体に喜びを持てる人が、ああいう作品を描くのにはまったっていうようなことだと思うんで。
なんか主題があったもんだとは思わないけれども、世に出た後にその主題を纏うっていうことはあったんじゃないかなと思いますよね。
鳥山明を歌唱評価していたな、みたいなこと最近僕よく言うんですけども、それイラストの能力、絵の能力、漫画の能力だけじゃなくて、ああいうスモールワールド、ポップでハッピーな、なんかそういうもの。
やっぱり自分そういうものでできてるなと思うんですよね。なんか、ぼんち的な世界観というか、シマ宇宙的な世界観というか。
例えば悟空にしても、悟空っていうのはドラゴンボール?その強さって宇宙とかあの世にまで届くようなパワーを持っているのに、そこが暮らしている世界って、なんか家族?父とご飯とあと孫たちとみたいな、なんかそういうちっちゃな家族ですよね。
あれって鳥山明の世界観、半径3メートルの世界観ってすごく出てると思ってて。僕もね、結局そういう感覚で生きているところがあるんですよね。それは鳥山明のせいだけとは思わない、なんか強くありますよね。
だから僕何をしているときにすごく充実感を感じるかというと、世界の果てまでこう死に行っているときっていうよりかは、犬の散歩をしているときに近所のPTAの役員に会って、この間のあれどうなりましたっていうふうに立ち話で物音を確認するとか、
息子の同級生のお母さんとバッタリすれ違って、お互いの犬の成長の近況を交換したりとか。
あとよく出前を頼むお蕎麦屋さんの出前のおじさんがバイクで通り抜かれるときに、ヨーって挨拶していって、その前歯のかけた笑顔の素敵な、前歯のない笑顔の素敵なおじさんなんですけど、その人とね、くったくのないセイハローを交わすときとかすごく不幸せな気分がするんですよね。
あと僕は住んでいる日曽木窪以外に東野にもよく行くんで、そこでお風呂入っているときにバッタリと仕事仲間がいて、アポ取るまでもなく仕事の話の続きができたりとかね、そういうときにすごく幸せだなって思うんですけど、思うんです。
なんかね、そんなことを思いましたね。だから俺の中にペンギン村があるというかね、ペンギン村の中に俺がいるみたいな世界観があるなと思ってね。
ペンギン村いいよね。本当に適当に言いますけど、ファーストペンギン村じゃなくて、ファーストペンギンってペンちゃんの世界で最初にこう訳のわからないものに飛び込む先導役みたいになりますけど、ペンちゃんがファーストペンギン村だとしたら、ただのペンギン村。他のものについていくペンギン村。なんかいいよね。いいですよね。
ちょっと今日もわけわかんない話なんですけども、今日もお聴きいただきますエンディングテーマ、フラクタルワークソングです。
今日一日を部屋掃除 誰にも会いたくない
切羽詰まって 午後の資料も準備不足
教わったばかりの 名前も忘れる
今夜すぐに布団に潜ろう 夢も見たくない
カレイドの底に沈む夜 僕らは誰の言葉も思い出さない
くたびれたフラクタル 歌うボソボソと
はい、どうだったんでしょうか。ちゃんと論を立てずに思いつきで喋っちゃったんで、なんかわかりませんが。
とりあえず鳥山アキラの合集でも買ってくるか。はい、それではまた来週お会いしましょう。
それでは良い一日を。
21:45

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