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こんばんは、ヴァルです。このチャンネルは、弱さを抱えた自分が人生をサバイブしていくための 思考・感情の記録として、今日も配信していきます。
はい、こんばんは。 ストレッチのしすぎで、今腰を弱しております。ヴァルでございます。
私ですね、昨日の夜、教師のお友達と飲んでたんですけど、
なんかその子からね、教師の仕事の大変さとか聞きながら、 やっぱりね、本当に教師の方々の、なんだろう、
背負うものとか大きくて、本当にタフな人じゃないと勤まらないなーっていうところとか、
その子のなんか正直な、いやもうやめたいわーみたいな話とかね。 でもなんか、余評としているその子の話は面白くて、いろいろね、お話ししてきたんですけど、
なんか、ちょっとね、
その子の話でグッときたエピソードがね、変わって。
えーと、 その子の担当じゃない、
他の先生が担当しているクラスに、不登校の子がいるらしくて、
ただなんかそのクラスは、物が結構乱雑に置かれていて、 不登校の子の机にも当たり前のように物が積まれてて、
先生もあんまりそこらへんに関して気づけてないっていうかね、
異に関する様子もなくて、その子はその状況に怒りを感じてて。
実際クラスの子に言ったのかな? その子がもしね、登校してたら、どんな気持ちになると思うの?って怒ってる
その子の、その子じゃないや、その子か、友達のね、顔を見てたら、なんかちょっと泣きたくなったんですよね。
そんなことを考えてくれている先生がいるんだなって、なんかどっちかというと生徒側の気持ちになっちゃって。
ちょっと大げさだけど、いやそれって本当希望だよなぁって思ってね。
私自身、えーと、学校で不登校になったことはなかったんですけど、
ま、ていうか、不登校自体がまだ珍しい時代だったと思うんですよね。
でも、うーん、馴染めてたとは、学校に馴染めてたとは言えない子だったですし、
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例えばね、友達が一人もいないクラスで、こう誰ともつるまずに、というかつるめずに、休み時間ずっと机につっぷしてやり過ごしてた時期があったりとか、
もちろんね、楽しかった時もあるし、でもそういう苦い思い出もいっぱいある
10代だったんですよね。
だから、うーん、ま、トータル的にやっぱりその、そういう学校社会みたいなものに馴染めてたとは言えない自分だったからこそ、
なんか、そういうところまで見ててくれてる人がいるっていうか、先生がね、そういう目線で見ててくれてたのかなぁとか、
見ててくれる先生がいるんだなぁってことに、なんか救われる気がするっていうか、
すごいなんか、うん、生徒目線になってグッと来ちゃいましたね。
でまた、あのその子は歌が上手くて、あのミュージカルが好きで、
で、その子の式で、こう、
結構もう高齢行事になってるらしいんですけど、文化祭でミュージカルをやるらしいんですね、学生たちが。
で、学生の子たちがね、自分たちで表を作ったりとか、あの舞台の動画、実際の動画を見てダンスを覚えてきたりとか、
これね、本当にめちゃくちゃ大変だと思うんですよ。
うん、ミュージカルってね、演技も歌もダンスもありますからね、本当に大変だと思うんですよ。
でも、なんか、その子のスタンスって、生徒のためにっていうか、
うん、やったら面白いじゃん、みたいな、この子がやりたいからやるっていう基本的なスタンスなんですよね。
でも、なんか、そういうふうに勉強とは違う活躍の場所があるっていうこととか、こういう世界があるんだとか、
こういうこともやったらできるんだっていう感覚を10代のうちに示してくれる先生って、
で、しかもね、それが都市部だったらそういうことも、もしかしたら結構あり得るのかもしれないんですけど、
どちらかというと閉じられている地方においてそういうことをしてくれる先生って、
なんか生徒側の目線に立ったら、すごいいいよなって思って、もう平日なんですけど、有給取って絶対見に行くねって伝えてるんですけどね。
なんかその子の話聞いてたら、私もね、小学校の時の先生、残念ながら担任ではなかったんですけど、私の。
すごいね、いろいろやってくれる先生がいたんですよね。
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その先生の授業めちゃくちゃ面白くて、たまたま私の担任の先生がお休みで、日本史の授業をその代わりにね、やってくれたんですけど、
その歴史の授業で話した内容、今も覚えてます。
あの、モンゴル帝国の元皇でしたっけ、そのね、モンゴルの人たちが日本に攻めてくる時に、
日本の武士たちはまだこう、戦をする時に名乗る、自分の名前を名乗る文化があったけども、向こうのモンゴルの方、人たちはそういう文化がないから、
名乗っている間に、わーって攻められるみたいな。弓の長さももう2倍ぐらいあって、めっちゃでかいみたいな話とかね。
いまだにやっぱり面白くて覚えてたりとか。
その先生は自分のクラスの生徒で、なんていうのかな、自転車でこう何十キロも、なんだろう、都市部の方に走りに行くみたいなことをしたりとか、
あとタイムカプセルを埋めて、二十歳になったら埋めるんじゃないか、その先生が預かってくれてたんですかね。
いろいろこう腐ったり、劣化したりとか、そういうのを防ぐために先生が持ってくれてて、
私のクラスではなかったけれども、友達が単人の先生だったりするので、
実際にその二十歳になったら、それを先生と一緒に焼けたみたいな話とか。
舞台でいうと、南極探検家の白瀬信さん。
日本人で初めて南極に到達した白瀬さんの二抹割劇を1、2時間ぐらいあったような気がするんですけど、それもなんかね、やることになって、
でもその先生の考案で、私、小学校の時もめちゃくちゃ人見知りで暗いやつだったけど、
でもなんかやりたいって手を挙げて、なんかちょっとねセリフの多い役になったりとか、すごい楽しかったっていうかね、
クラスの担当ではなかったけれども、その先生がねいろいろ考えてくれてることが、なんかすごく子供ながらにすごく記憶に残ってて、
でもそれでも先生側にとってみたら、めちゃめちゃ負担っていうか、先生が全員そうであれみたいなことじゃなくて、
多分、そういうことを自主的にするのって強制されるものじゃなくて、
私の友達も、小学校の時の先生も、でもやりたいからやってたし、教えたいから学んでたし、本当に自分がこうしたいからしてたっていう、多分それだけの話だったと思うんですけど、
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とかね、その先生だけじゃなくて、もちろんその性格とか教え方とかに相性はあったと思うんですけど、
大人になった今になって思うのは、やっぱなんか勉強って本来もっと楽しい、もっとっていうか、
勉強って本来面白い、知的好奇心が描き立てられるものだったから、もっと勉強すればよかったなって、
これは結構多くの人が思いますよね、勉強していけばよかったって、私もそう思うし、
あとなんかたくさん先生にね、声かければよかったなと思って、なんとなく声かけちゃダメっていうか、声をかけるものではないってあんまりこう、
日頃に話しかけられるような、なんだろうな、勝手に思ってたんですけどね、日頃に話しかけられなかったんですけど、
全然先生側にしてみれば、なんか嫌がる理由もないっていうかね、
例えば授業でわからないことあったで、授業が終わったら聞きに行けばいいし、聞かれたら喜んで答えてくれる人がほとんどだと思うし、
なんかもっと先生と話しとけばよかったなって思ってて、
あとは実現するかわかんないけど、やりたいって思ったことも、もっとね、やったり提案したりすることってできたのかもなって、
その先生側の目線の話を聞いて、もっと信頼してもいいのかな、よかったのかなって思いましたね。
もちろん中にはね、仕事として割り切ってやってます。
面倒なこともこれ以上嫌ですみたいなことも、もちろんね、ただでさえいろいろストレスをたまる仕事だと思いますので、あるとは思うけど、
友達の話を聞いてたらなんかそんなこともありましたね。
今日はバラバラな世界で共に生きるリチャード・ローティの哲学っていう本を一冊ご紹介してみようかなと思います。
これはNHK出版で、あの10分で名著って番組ありますよね。
そこの番組でお話しされてた内容なのかな。
ヒチョルさんっていう方が、このリチャード・ローティ、哲学者のリチャード・ローティの考え方を紙砕いて、
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10分で名著で説明してくれていて、それが改めて本になったみたいなね、ことらしいんですけどね。
簡単に概要を説明すると、引用していきますと、
分断が極まり、正しさはSNSでぶつかり合う社会で、私たちは他者といかに語り合えるか。
アメリカの哲学者リチャード・ローティは、共通の基盤なき世界で、それでも人が共に生きる可能性を問い続けた。
その哲学から、文挙不可の時代を生きるための知的作法を鮮やかに引き出す。
ホニャホニャホニャと続くんですけど、そんな感じですね。
先ほどお伝えした通り、ヒチョルさんっていう哲学者の方が、ローティの哲学を、
たぶん、実際言文難解だと思うんですよ。
ヒチョルさんの説明も、結構、分かりやすい文章の時と、これどういう意味なんだろうという時と、
読みやすいか読みづらいかというと、ちょっと頭使う本だなということではあるんですけど、
例とかを出してくれたり、分かりやすい言葉でできるだけ説明してくださっているので、
大体の概要は理解できたという感じなんですけど、
ざっくり言うと、リチャード・ローティさんという哲学者は、今までの哲学そのものを否定しているんですよ。
なぜかというと、それまでの哲学というのは、西洋の文化において、社会において作られている考え方であって、
この真理は存在していて、真理は完成されたもので、これはこうであるみたいなね。
ある意味、そこで会話が終わっちゃうみたいな、西洋の考え方における、これはこうっていう考え方を、
哲学、これまでの哲学は解いていたけども、それは違うっしょっていうふうにローティさんは言ったそうなんですよね。
むしろ会話を終わらせるんじゃなくて、会話を継続させるためにあるものだと、哲学は。
その真理なんていうものは存在しなくて、これまでの歴史とか、この変わっていく社会において、
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いやこれはこうかも、これはこうかも、こうかもっていうか、その時点では断定されているとは思うんですけど、
その時点で、真理ってどの時代においても、揺るがない絶対的なものだとは思うんですけど、
でもローティさんが言うには、それはその時その社会が作り出した考え方というか理論だよねっていうことなんですよね。
だからこう世界は、世界には永遠不変の真理とか究極の本質ってものはなくて、
時々その時々の状況とか言葉によって作られるものだということなんですよね。
それを理解した上で、それぞれのね、社会に生きる人たちの目的とか価値観はバラバラだけど、
それでも何とかやっていく、会話を続けていく、そのために何ができるかということを考えた人らしいんですよね。
ちょっとさっきの繰り返しになるかもしれないですけど、
人と人との間でもお互いにそれぞれ考え方とか状況とか変わり得る存在で、
その人はこうだみたいな、誤筆されることじゃなくて、変わっていくんだと、再定義されていくみたいな。
再定義されていることに開かれているっていうことをみんなが理解する。
そういうことに連帯していく人と人がバラバラだけど生きていく、つながって生きていくみたいな可能性がそこにあるんじゃないかっていうふうにおっしゃっていて、
だからこう、本質的な絶対的な真理、これは絶対こうだ、みたいなこととか、それは絶対にあなたの責任です、みたいなことじゃなくて、
偶然に生まれたこと、状況状況によってたまたまそうなっちゃったこととか、たまたまその時その人はそう思ったんだよねっていうことを断定しないって言うんですかね。
そういうことが重要なんじゃないかって言ってたんだと思うんです。そういうふうに私は理解したんですけど。
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まあそれはその通りですね。そういう考え方ができたらいいですよねっていう。
だからね、そのあらすじと言ったらいいんですかね、本のあらすじで読み上げたようにSNSで正しさがつかり合う社会でっていうふうに書いてましたけど
それは確かにそう、正しさで絶対的な正しさが存在してて、これはこうなんだっていう、これが正義なんだっていうぶつけ合いみたいなことじゃなくて、
本当にその人だったりとかその状況だったりとか背景だったりとかその人の考え方が変わり得る、でも今こうみたいなのを何て言ったらいいんですかね、都度都度検討していくみたいな。
すごい多分めんどくさいことだと思うんですよ。正解がどこかにあって、決められた正義があってとか、そしたら楽ですからね。
それ信じちゃえば楽じゃ楽なんですけどね。じゃなくて会話を続けようよってローティさんは言ってるんだと思うんですよ。考え続けよう。そうそうそう。
あとね、そのローティさんの考え方の中で一個なんか問題定義みたいなものがあって、ちょっとこれ面白いなと思ったので話してみたいんですけど
そのローティさんの比喩の例の中でね、公共空間としてのバザールと私的な空間としてのクラブっていう例があるんですよ。
バザールは多種多様な人たちがテントを張って物を売ってて活気に溢れてていろんな人が存在している。
で、クラブは一方で特定の人が狭いコミュニティで、クローズドな空間ですよね。そこに集う人たちで話すっていう。
で、そのバザール、外の世界っていうか公共的な空間において扱う言葉と、そういう閉じられた空間、クラブでの喋る内容っていうのは
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帰りがあってもいいんじゃないかと。本音と建前みたいなものが使い分けられていた方が健全なんじゃないかっていう風にローティさんは言ってたんですよね。
バザール、例で言うバザール、公共空間だけだと本音が吐き出せないし、苦しさがあるし。
とはいえそのクラブみたいなところで、例えば愚痴を言ったりとかね、ちょっと汚い言葉を使ったりするっていうことも、それが公共と混ざっちゃうと、それはそれで何て言うんですかね、亀裂が生まれちゃうじゃないですか。
だからそこは分けていた方が健全なんじゃないかっていう話なんですけど、でもなんかヒチョルさんがね、その説明の中で言ったのが、人間はでも守備一貫しているべきなんじゃないかみたいな。
なんかこう、その本音と建前を使い分けることってなんかずるいっていうか悪、なんか誠実でないみたいなも考えられるんじゃないかと言っていて、そこはちょっと難しいですよね。
公共のね、外の世界の安全性とかその心理的安全性を守るために、心の底から正しい言葉しか使わないということを求める社会を本当にしていいのかっていうね、そういうふうに決めちゃっていいのかっていうところを
ローティさんは、いやそれは公共的に正しい言葉とプライベートの正しくないかもしれない言葉は一人の人間の中に発生していて、湧き出ていて両立してもいいんじゃないかというふうに言うんですよね、ローティさんの考え方としては。
私それを聞いた時に、どこを公共として、どこを私的な空間とするかって、それなんか人によってもしかしたら違うんじゃないかなって思ってて
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例えばさっき言ったSNS、SNSをパブリックな、全世界の人が見える空間だから、これは公共の空間として扱うのか、それとも
いやこれは、SNSは自分の普段言えない、実社会で言えない鬱憤とかね、辛さとか怒りとかそういうものを吐き出すためにやってるんだから、それはもうプライベートな空間なんじゃないかと言われると、なんかそうな気もするし
いやどっちなんだろうって思ってね、なんか人によってそのどこを公共とするかみたいなのが違う気がしてて
私的にはSNS、スタイフもSNSの一部だとは思ってるんですけど、エックスとかインスタとか、SNS上は公共空間だと私は思ってますね
だからやっぱりなんて言ったらいいんですかね、例えば私がめちゃくちゃ何かに怒ってたとして、なんかそれに対してそれを吐き出す場所ではないんですよ、私の中では
怒りがあったとして、怒りを整理して、こういうことだったのかもな、てへみたいな、わかんないですけど、ちょっとこうふざけて投稿するみたいな、いやーでもそれもないか、ちょっと思い返したんですけど、あんまりない、あんまりないですね、やっぱ公共空間っていう考えに近いですね
でもエックスとかインスタとかに比べるとスタイフはやっぱり私自身が濃く出ますし、自分の実際に起きたこととかお話ししたりするので
でもとはいえ、なんかすごい秘密を話してますみたいな、これは人には言えないんですけどね、みたいなこととか、人には言えないけどぶっちゃけさ、みたいなことでもないような気がしてるから
やっぱスタイフも含め公共空間なのかな、でそのクラブ、いわゆるクラブ、素敵な空間は本当に閉じられてる場所かな
一対一での会話とか、まあ複数でもあってもいいんですけど、いやでもね飲み会はどうなの?みたいな、飲み会はクラブなんですか?
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いや人によっては飲み会はクラブ、そうですね、あのプライベート空間って思うかもしれないですね、でも私はクラブとは思えないですね
飲み会だってね10人ぐらいやっぱねそこそこ人がいるわけじゃないですか、でそのね軽く言った言葉がとか振る舞いとかがなんか人を不快にさせてたりとか
しかも酔ってますしねお酒も入ってますから、そういうのしてたら怖いなぁみたいな、公共空間な気がするんですよね
だからそこがローティーさん的に言うとあのしっかり分けられてればいいっていう話なんだけど
でもそもそも何を公共空間とするかクラブとするかで、そこが統一されてないと、いやこの場所でも言ってもいいじゃん
本音というかこういうぶっちゃけみたいなことも言っちゃっていいでしょみたいな感覚の場合と
いやそこは言うべきではないと思っているみたいな人の考え方が違うと
そこはちょっと一つ問題なのかなーっていう気はしますよね
でもそのタイトル通りねバラバラな世界で共に生きる
バラバラな自分たちがね共に生きるっていうことを考えた時に
徐々にそのバザール、公共空間っていうのが広まってきてる感はありますよね
いやそれはその表現は素敵で不適切であるみたいな
ちょっとそのクリーンにするみたいな空間
ここそれを何だろう公共のものと捉える範囲が増えてきてるのかなぁとは思いますね
でも完全にねローディさんの言う通り完全に閉じられた
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閉じられたじゃない完全に開かれた空間は絶対に息苦しい
これは確かにもう大共感ですね
絶対に吐き出す場所は必要とは思いますけど
言った通りどこをどう定義するのかみたいなところは難しいなぁっていう気はしましたね
なのでそのローディさんの哲学
哲学をすごく学んでいる人だったらよりその対比
ローディさん以前に発生している西洋哲学の考え方をある程度頭に入っていたら
どれだけそのローディさんの話が何て言ったらいいのかな
ローディさんの考え方の立ち位置みたいなのが分かってまた面白いのかなっていう気もしましたけど
なんかそうですね
会話を継続させるっていう考え方とか
私たちは偶然の産物であるというか
変わっていくよねっていう
過去も今も未来も変わっていくよねって考え方もあるよねっていうのは結構共感しましたね
でもそのバザールとクラブの話は
なんかこれはこれでヒチョルさんが著者になってる
それだけを大きなテーマに扱った本があるらしいので
それもなんか機会があったら読んでみたいな
もう少し深く深掘りしてみたいなっていうふうに思いました
なんかすごい話しちゃったな
ちょっとつらつらと話してしまいましたが
本を読んでると
私ね影響を受けやすい立ちなんで
社会がとか今の日本はみたいなね
言葉を用いやすくなるんですけど
でもなんかやっぱり人と話すとそのバランス感覚を取り戻すっていうか
なんか普通になんて言ったらいいのかな
普通にね友達と会ってて
いやでもそれってさみたいな
いやそういう社会だったよねみたいな話し持ってきすぎるのは
なんかちょっと違うなっていう気がしてたので
なんかその本を読んでいろいろね知るっていうことと
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実際にこう人と話して
その人と話す時の運動感みたいなのって
なんかそのバランスあるのかなって思いましたね
まあなんかそのことは結構その
不投稿の話もありましたけど
発達障害の話だったりとか
なんかそういう話で意見が白熱してたんで
なんかついそういう方向に言葉をね
使いがちだったんですけど
いやちょっとそれはね
違かったかなって今思ってますね
ちなみにねその子と話した後に
なんかつんどくにしてた
子供の教育にかかる本って言ったらいいのかな
それが優しさじゃ困るっていう本があって
さーっと読める感じだったので読んだんですけど
やっぱ子供に対する親の振る舞いが
こういう影響を与えるんだみたいな話とか聞いてると
なんか本当に扱う言葉って難しいよなって
さっきのねローティさんの話もありますけど
なんか結構ねこうバッサリ聞いてくれる話をね
スパッと溶談してくれるみたいな
お悩み相談室とかそういうラジオとか
ポッドキャストとかの話って
やっぱ人気だったりするし
聞いてる方も気分爽快
なるほどみたいな風になりますけど
私はこうずっともぞもぞと
あーでもないこうでもないって言って
言葉を探し続けるのが
あってるのかもしれないですね
ローティさんの言葉を借りると
終わりはないと
完成はない
成長した結果完全体こうなりましたみたいなのって
生きてるうちはもうないと
完全体になったらもう死
それはもうイコール死じゃないかみたいな話があるんで
そのもぞもぞを考え続けるって
いいのかもしれないですね
これをこうやめないっていうことをね
この個人チャンネルの方ではね
していこうかなと思います
今日はいつも以上にもぞもぞ話してる
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回になっちゃいましたけど
途切れ途切れにでもね
途中をやめていただいてもいいんですけど
聞いていただいた方本当にありがとうございます
はいそれではまたお会いしましょう