小学校2年生の末っ子がスマホで名前を音声入力して検索し、「お父さん有名人だよね」と画面を見せてきました。思わず笑いましたが、恥ずかしい投稿が出ていないか背筋がひやりとした体験です。高校1年の長女からは「TikTokだけは絶対やめて」と念押しされてもいます。子供に見られることが前提になった時代に、発信のあり方を改めて考えました。
誰が見ているかわからない中では、言葉を選びすぎて大事なことが言えなくなりがちです。「厳しさ」の話がその典型で、修行の厳しさを肯定すると生存者バイアスといわれ、かといって厳しさ=ハラスメントという極論にも違和感があります。日蓮(鎌倉時代の僧侶、日蓮宗の宗祖)の言葉に「慈悲の心がなく上辺だけ親しくするのはかえってその人の敵と同じである」というものがあります。本当の友とは何でも同調する人ではなく、必要なときに言いにくいことを伝えられる人だという意味です。
父であり師匠でもあった先代住職の厳しさは、大声でどなるような強さではなく、肝心なときに言葉を選んでビシッと伝える質のものでした。意味のある厳しさとは、その奥に慈悲の心があるかどうかにある、と今は考えています。
- 末っ子にエゴサ(自己検索)されて気づいたこと
- 発信の自己規制と、言えなくなる話の問題
- 厳しさをめぐる二項対立への違和感
- 日蓮が説く慈悲と、意味のある厳しさ
- 大事なことを言葉を選んで伝え続ける決意
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