隔日早朝配信【早起きは三文の徳】
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サマリー
このエピソードでは、正解の概念が時代とともに変化することや、教育における正解の捉え方が掘り下げられています。また、正解を教えてもらうのではなく、自分で考える力の重要性が強調されています。正解とは何かを探求し、言葉や意味の生成がどのように行われるかが考察されています。正解のない冒険の重要性や、知識を獲得することよりも新しいことを創造する喜びについても語られています。
正解の変化
はい、おはようございます。早起きは三文の徳。弥生になりましたね。弥生、いよいよ生い茂る弥生が始まりました。春ですね、弥生ね。いよいよ生える弥生、弥生の4日ですね。今日のタイトル、正解って何?。はい、正解って何?。もうね、昨日も話したんですけども、みんなが正解求めるようになっちゃって、早く正解を教えてくれみたいな、正解知ってる奴が偉いみたいな話になっちゃうんだけど、じゃあその正解って何?って、誰が作ったの?ってね、ことなんですけどね。本当にその正解は正解なの?みたいな、今の正解はね、10年後の正解とは限らないよ、みたいな話なんですけども。じゃあ、正解は変化するんですけど、
世界も変化するんですけど、正解も変化するんですけど、たまたま今それが正解だとされてるだけかもしれないことは結構いっぱいあるわけですけれども。
その正解って何?ってことで、正解は一体誰がどうやって作ったの?ってね。これ共通テストとかだと、あるいは学校の試験とかね、
例えば大学の授業でも、小学校、中学校、高校でもいいけどね、大学の授業で言うとその試験があってね、試験の正解、先生が作るわけだよね、基本ね。
じゃあその先生が自分で本当に正解作ったのか?って言うとそうでもないんだよね。いろんなこれまでにいろんなことを考えてきた人のいろんな知識やら何やらを、
まあ一応大学の先生だから自分の頭で考えてると思うんだけども、自分の頭で考えてこれが正解だとするわけですけどね。
でもその正解ってその先生だけの正解じゃないの?なんて先生もいなくはないんですけれども、
まあだいたい常識的な範囲で正解をね、検証可能な形で作るということが求められるわけですけど。
その集積がまあね、例えば大学入試の入試センター試験とかの正解になっていくわけですけどね。
そこではその正解についてはいろんな人がね、見るわけだから、これはちょっと間違ってるよとか言う人がいては困るわけで、
ある意味だから無難な正解っていうかな、無難な正解。
誰もが異論の余地がない正解をそこでは作るしかないわけだよね。
そうするとそこにはやっぱりそれなりの専門家も含めた万人の目があって、
これが正解ということで、まあそりゃそうだよねって。
だからあんま面白くないわけね、正解のある問題っていうのは。
正解のない問題の方が面白いはずなんだけど、でも正解のない問題はないはずだと思ってたりする人の方が多いんだよね、おそらくね。
必ず正解はあるはずだと思うんだけど、正解のない問題の方が多いんですよね、実は世の中にはね。
なんで人間ホモ・サピエンスがそもそも言葉喋るのかって、まだ正解ないわけだしね。
なんでAIは言葉喋れるようになったのかって、これも実は正解ないわけね。
教育の方法
多分こうだろうみたいな話しかないんだけど、でもそういうのは問題にならないわけね。問題にならないっていうか、
そういうのを考えてる人もごくごく一部いるんですけども、やっぱり普通のオーディナリーピープルはそういうことをあんまり考えずに、
これが正解とされているということで、もうそれをね、なんか偉い人が言ったらそれが正解って言うんだけど、
その正解とか常識とかがひっくり返ったことってこれまでにも結構いっぱいあるんですよね、実はね。
そうすると、じゃあ、何がまだ正解がわかってないことなのかがわかってるかどうかって、結構大きくって、
正解がないことを考えるのが実は面白くって。
ただその辺の領域に行くっていうのはなかなか大変なんですよね。
その前提としていろんなことを知らないとね、知らないとわかんないわけでね。
もう全部とにかく誰かに正解を教えてくれみたいな話で正解を積み上げていっても、正解がない正解まではたどり着かないわけだし、
なんのこと言ってるかわかるかな? わかんない、わかりにくいよね。
結局その、人に頼ってね、外側、自分の外側にある正解だけを正解だとしてるうちは、
それはその、自分で何が正解か、わかってないことが何かがわからないっていうね。
自分で考えるっていう力がないと、それはわかんないわけだよね。
どう考えてもこれわかんないよねっていう、問いの立て方も含めてですよね。
問いの立て方も含めて、何がわかってて何がわかってないかがわからないという。これよくあるじゃないですか。
あの、勉強教えてーなんてね、小中学校時代、時々言われたりして、
どこがわかんないの?って言われても、どこがわかんないかがわかんないんです、みたいなね、ことを言われたりして。
どこがわかんないかわかんないんじゃ困ったねーと言いながら、
じゃあどこがわかんないか一緒に考えてみようかーなんつってね、昔、家庭教師やってましたけども。
そうするとそれは学ぶ喜びに繋がるんですよね。
その、いやこれが正解だからこれを覚えなさいって言ったら、もうそれは家庭教師のね、勉強っていうか、
学校の勉強なんてもうつまんないの極致であってね。
これが正解だからこれを覚えなさい、こうすれば点数が取れます、
これは公式ですから暗記してくださいって、そういう教育ばっかりやってね。
それを要領よくやるやつが点数を取っていくもんだから、みんなそっちに行くんだけど、
逆に勉強できないやつが、どこがわかんないのかわかりませんなんていう、
まあ、こうね、私よく家庭教師やったんですけど。
その時にこれが正解だからこれは公式を覚えてこうすれば点取れるからってのは一切やらずに、
やらずに。どうせ点取れてないんだからその子は最初からね。
取れてないんだから、学校で点数取ったところで生きる力にはならないので、一切ね。
なのでもうそんなことは、はなから捨てて、
じゃあどこがわかんないか考えてみようってね。どこがわかんないか。
どこがわかんないかを考えることで、どこがわかんないかがわかることが面白いという体験を結構いっぱいするようにしたんですよね。
学びの瞬間
そうするとね、これ顔が輝くんですねー。
学びの瞬間ですね。
公式覚えろとか、こうやれば点数取れるって言ってた時には、もう苦しそうな顔してた子がね、
中学生とかが多かったですけど。
これがね、わかんないことがわかった時のパッと顔が輝く瞬間ね。
これがまさに学びの瞬間だと私は思ってるわけですけど。
だから正解なんてないんだよって、正解なんか自分で作ればいいんだよって。
むしろ自分がどこがわかんないことが、
どこがわかんないかがわかることがやっぱり一番正解なんだよっていうかな。
そんなことをこう結構ね、いろんな場面でやってきたつもりなんですけどね。
それがやっぱ面白いんですよね。自分自身も、私自身もそこが面白いわけだよね。
何がわかっ、なんかモヤモヤしたものがあって、なんかこれね、これが正解だって言われるけど、
これなんか違うよな、おかしいよなって。その違和感の原因をね、
1年、2年、3年と考え続けるわけね。違和感の原因を。
例えば、まぁ最近ね、言語の本質なんて本とか脳の本質なんて本が出て、
まぁだいぶいいとこまで来たと思うんだけど。だいぶいいとこまでって、上から目線だな。
いいとこまで来たと思うんですけど、私30年前に言語学勉強して、
どう考えてもおかしいだろうと、こいつら。構造主義的な言語学者が言ってることは、
どう考えてもおかしいだろうと。何かがひっくり返って転倒して倒錯してるよなって思ってたんだけど、
ようやくここに来て30年経ってようやくね、
世界が、言語学者の方の世界がひっくり返ってたっていう。やっぱりそうだよねみたいな。
私はもう私で、そのつもりでやってきたんで全然いいんですけども。
そういうことも言ってきたし、そもそも言語に構造なんてないんだよって。
正解の探求
文法だって確立した正解があるわけじゃないんだよって。
むしろ、すべては生成する言葉が生まれいずる場所、
そしてそこにこう、複数のホモ・サピエンスがいて対話する言葉を交わし合う中で、
意味が生じていって、そこに言語が生まれていくだけの話で、
生成の言葉こそが言語の本質で。
もうこう、文法とかね、辞書に載った言葉はすべて死んだ言葉だと。化石化した言葉だっていうね。
なんてことは言ってきたんですけどね。
私、言語学者じゃないので別に、
私が言ったところで誰も聴く耳持たなかったんですが、
ちゃんと中公新書でベストセラーが出ると、そっちが常識になって、そっちが正解になるのね。
これまでの過去30年の言語学の常識は、
正解とされていたものはすべて、普遍言語があるとか普遍文法があるなんて全部不正解だったわけだけど、
それを正解として出題された問題だってあるわけだけど、
それは絶対おかしいだろうと、私は思ってきたわけですけども。
その時に試験に出たりするわけだよね。
その時に、これは違うとか書いても、
バッテンもらっちゃってテスト取れないんで、
そういう時は、本当は違うんだけど、
今出題してる人はきっとそう思ってこれが正解だと思ってね、
いずれこれは正解じゃなくなるんだけど正解だと思って出題してるからその解答を書くみたいなね。
ちょっとひねくれた高校時代を送りましたけれども。
そんなことはさておき、正解なんてね、
正解とされているものなんてね、
もうすでに分かっちゃってることで何も面白くないっていうね。
それを知ることになんか、そのレベルで競いあってて、
優劣を競いあってるみたいなこと自体がもう、ちょっとホモ・サピエンスとしては情けないなと。
正解の向こう側に冒険するホモ・サピエンスっていうのは、どれだけ今いるんだろうっていうぐらいね。
だからゲームやっててもつまんねえなと、これ。
結局、一緒じゃないかとね。作られた世界の中で、
マトリックスの中で、
足掻いてるだけじゃねえかっていうね。
マトリックスの外に出てみたいっていうね、
ゲームの外側からこう眺めるとかね、
なんかそんなことができるといいんですけどね。
あるいはその、正解のないゲームとかね。
まあ例えば将棋なんかもそうですよね、正解のないゲーム。
スポーツなんかもそうですよね。
やっぱ正解のないゲーム。
だからこういうのは面白いんですけどね。
そうじゃなくて正解のある世界の中でなんか、
競いあって、ああだこうだ言って、
コンプレックスや優越感を感じてるっていうの自体がなんかもう、
まあ見てて嫌ですね。
見てて嫌ですねって、どこ見て言ってるか知らないけど、見てて嫌ですね。つまんない。
つまんない。
まあそんなことで、正解って何?ってことで、
タイトル合ってたかな。
正解って何?って、そもそもね。
誰が作ってんの?って。どうやってできたの?って。
正解なんて本当にあるの?って。それは時代と社会とともに変わる正解もあるし、
まあ変わらない正解もあるんですけどね。
だけどそういう正解はもうすでに獲得した知識であって、
まだ獲得していない方に行ったほうが絶対面白いと思うんですけどね。
まあそういう意味では昨日の話にも繋がるんですが、
やっぱり冒険したいですね。
分かってないことに向かった冒険をしたいですね。
あるいはまだ存在しないことをつくる冒険をしたいですね。
そういうのがやっぱり学びの喜びだし、自分がわかってないことがわかること自体が楽しいんであって、点数取ることが楽しいんじゃなくてね。そんなので楽しみを感じちゃってるやつが多数派になっちゃって、世の中でなんかね、
エリートになって東大行っちゃって官僚になっちゃって、
アホな政策ばっかりやってるっていう風にしか見えない今日この頃です。
冒険の重要性
ということで還暦爺の戯言を、
今日も早起きは三文の徳にもなりませんが、
何文の得にもなりませんが、
まあ三文ぐらいにはなるかな。
三文っていくらだか知ってますか?
昔の配信で喋ってます。
ということで今日も和風で終わりたいと思います。
ではまた、良い一日を。
08:01