そう、まあそう、そうやんな。 だって昔は怒ってたよ。なんで私ができることをみんなできひんの?って。
そう、怒ってた怒ってた。 中学生ぐらいの時にめっちゃ怒ってた。なんでわからへんの?みたいな。
私がわかんのになんでみんなわからへんの?みたいな。 すごい自己評価低いってことやけど逆に言ったら。
それでほら昨日急に私って実はちょっと賢いっていうラインを送ってしまったやんか。
送ってきた。もらいましたよ。 で、え、アホやと思ってたん?って帰ってきて。
アホとは思わんけど
賢いってなんなんとか言い出すと難しい話ではあるんですけどね、もちろん。 そうだね。
でも賢さってどっちかっていうと抽象的概念を理解できるかどうかなのかなって私は思ってて。
そう思ったら私やってんなーみたいな。 でも賢さの定義とはとかいう話をしてる時点でちょっと鬱陶しいやつではあるんやけどね、もちろん。
言葉の定義はね、人と話す上では大事やから。 そうやんなよ。 同じものを見つめてないと話しできひんからね。
昨日ちょうどなんか、昨日ちゃうわ。おととい。昨日や。昨日や。 今あの職場で新人さんが起派ってその研修をやってるんやけど、
まあその新人さんどうこうって話じゃないけど、 お客さんと喋っててやっぱ難しいとこってそこやなっていうとこがあって、
じゃあルールの話をしましょうって例えば言うとするやんか。 でも片方は囲碁のルールの話してて、片方は将棋のルールの話してたら全然意味わからへんやん。
いやコマ1個ずつしか進めないですよって将棋の人は言うし、 囲碁の人は進むって何ですかってなるし。
まだでもどっちもボードゲームやからまだマシやけど、片方それこそバスケのルールの話とかしてたらもう地獄やんか。
ボールは1個ですよねみたいな。ボール?何の話ですか?みたいな。 将棋の話してる人からしたら。
そこで大事なのがやっぱり何のルールかっていう擦り合わせをまず最初にしとかないといけないよねみたいな前提条件じゃないけど。
それがなんか自分にとっての思い込み。さっきの私のことを大事にするってことはつまり私の言うことを聞くことだと私は思っていたっていう思い込みが前提のルールとして自分が実は持ってて、
でも相手にとってはそれが前提のルールではないからそりゃ噛み合わへんよねみたいな。っていう話をちょうど昨日してて。
タイムリーやね。
わからず私は邪魔くさい奴やなって思いつつ、でもまあ結構人間関係というかこのコミュニケーションを取るっていうことにおいてはやっぱり一番大事な実は部分なんじゃないかなって思って。
それを細かく擦り合わせることが大事というよりは違うってことをまず認識すること。
例えば東大行ってる人に対してあの人賢いよねっていう人の賢いの言葉の定義はどこかみたいな話とかって東大に行ってるから賢いのかまた違うじゃないですか。
勉強ができる賢いと思考力みたいな意味合いと。
そこを擦り合わせじゃないけど知っていったりとか意味が同じく自分が思ってる同じ意味が単語一つ言っただけで伝わるみたいな共通言語みたいなのを一緒に作っていくのがやっぱり友達とかで仲良くなるってことだと思う。
だからやっぱり何にせよ自分が思ってるそのものの形みたいなのをはっきりしておくのは大事よ。人間関係において。
自分側がね。
自分もわからんし相手もわからんってなったらもうなんかえ?ぐちゃぐちゃになっちゃうから。え?どういうこと?みたいなのになっちゃうから。
自分だけでもはっきりしておいたらこの人は自分の形とは違うんやなみたいなのは一回わかるかって感じではあるなっていうのは思うな。
たしかにね。
なんかそれがさ、よく言うさ、自分らしく生きるじゃないけどさ、自分軸みたいな言い方がよくするやん。なんか自己啓発本とかで。
それって結局その自分はどう考えてるんだろうとか自分はどういうものを持ってるんだろうとかそこを明確にすることなんやろうなっていうのは思うよね。
自分でわかってれば人にも説明できるし。
そうやな。
人と違っても別に平気やし。
だからなんか話聞いててなんかこの人世の中生きづらそうで大変そうやなって思うのはやっぱ全員が全員同じルールで生きてると思ってる人たちはそうなるなーって思うよね。
そりゃさ、同じスポーツをみんなでやるときに同じルールでやらないと意味ないけど。
でもないやんそんなもの。世の中に。
生きて死ぬぐらいしかないやん絶対的なルールって。
生まれた死ぬ終わりみたいな。その間に関しては何のルールもないわけやん。
まあそりゃ栄養取らな死ぬとかは水のまな死ぬとかはあるけど、そりゃなんかもう生物学的な話やから。
その辺がなんか人間って生き物の難しさと面白さなんやろうなと思うよね。
ある意味なんかルールが雑。
それぞれルールを持ってるからね。
そこのルールのさ、相手のルールとこっちの自分のルールをめんどくさがらずにすり合わせて、
じゃあ私たちの間ではこういうルールねみたいな取り気味をできる人って、かなり人間関係向いてるなって思う。
そこをめんどくさがらない人。
そうね。
だから世の中でさ、今回避型って呼ばれてる人たちいるやん。
あーなんか、なんかで呼んだ。
あんまりこう私もはっきりわかってるわけじゃないんやけどさ、
その回避型って言ってる人たちはやっぱこう自分のルールと相手のルールがあるっていう前提はわかってるやろうけど、
その自分のルールに沿って欲しい。
自然と添える人。
同じルールを持ってる人みたいなのを求めてて、
それ以外の人たちはなんかまあダメやったらこっちからさればいいかみたいな感じになっちゃうのかなって。
そこをちょっとめんどくさがっちゃう人なんかなっていうのは最近ちょっと思ったことがあって。
SNS見ててやけど、それも。
まあでもなんかそれって結局こう承認欲求とかがものなんかなって今ふと聞いてて思ったけど。
使い古された言葉で申し訳ないけど。
承認欲求?
あなたのルールはそれなのねって、まず一旦承認してほしいみたいな。
それをあんまりされた経験がなかったり、自分の中で自分自身が自分自身のそれを承認できてないと、
それを周りに認めさせることでしか承認されなくなってしまうから、
それと違うことをするイコール俺とか私とかを否定してる身になっちゃうかなって思った。
結局なんか自分で自分を認めてないと一緒よねと思うよね。
まあ私自身もそうやけど、そうやった、そうやけど、まあそういう部分ももちろんあるけど、
回避型ね、なんかうまいこと言われるけど要するにモラハラじゃね?みたいな話だけど。
俺のルールに絶対やってことやん要するに。
そうね。
お前らが従えってことやろ?
その回避型の言葉の使い方が合ってる定義が合ってるかどうか知らんけど。
そんなジャイアンルール押し付けられてもね。
なんかどうでもいい人とかやったら別にその程度で、もしかしたらいいんかもしれへんけど、
例えば恋人とかさ、ある程度特別な関係を結んでる人たちからしたら扱いづらいよね。
すり合わせをしてくれないとか、そもそも話をしてくれないとか。
なんで一緒にいんのってなるよな。
そうそうそうそう。
特に恋人とかさ、婚姻関係を結んで配偶者になったりしてるみたいなさ、
時って、もう日本では基本的に一般常識として枠は一つやん、それって。
そうね。
だからその回避型とか言ってんと、明け渡してやるよその枠をって思うのね。
なるほど。
せめて。せめてね、いやもうこっちから話すことは何もないって思うんやったら、
いやもうすり合わせもする余地もありませんって言うんやったら、もう別れるなり離婚するなりして、
枠を開けてあげればいいのに、なんかその枠は取っておきたいけど、
なんか自分の気持ちはもう冷めてますみたいな人たちが結構厄介やなって思った。
うーん。
本心ではどうかわからへん。その人が態度を改めるんやったら、
いやでもそれもかなり上からか、なんかその人が態度を改めるんやったら、その枠に居続けてもいいのになって思ってるみたいな。
結局合わせろってことやろ、だって。
そうやな。無言な圧力で合わせようとさせてるから、やっぱモラハラなのかもな、それって。
モラハラって言葉も正直よくわからんっちゃよくわからんけど、
でも要するに自分ルールの強制ってことやろなっていうと定義するならばまさにそうかなって思って。
そうね。
だからね、なんかあんまり結婚とか子供とかにね、積極的じゃないんよね。怖いから。
あーそうなんや。
今生活というか、一人でさ生活してて、精神的に余裕があるから。
だから何もないけど。
これがさ、歳いってきてさ、どんどん自精神が効かへんようになってきた時が一番怖いよね。
その自分がモラの部分って思う部分の由来ってどこなん?
やっぱ人に対して、若い時やけど。
まだ若いよ。
それこそさっき。
一応言っとくけど。
一応ね。
一応言っとくけど、まだ若いよ。
もっとね、もっと。
幼い頃ね。
もっと弱肺モネやった時。
弱肺モネね。まだまだ弱肺よ。
まだ弱肺か、そっか。
全然弱肺よ。
もっとなんかこう、幼い時に、やっぱその、自分の、さっきのこの回避型の人たちっぽいことがやっぱあったわけよ。
うーん、はいはいはい。
まぁあの、そこを別に、人間関係を今まで、もういいわって言って、リセットしたりとかっていうのはなかったけど、こういう関係が狭いからね。
だからまぁ、そのチャンスが少なかったっていうのはあるっちゃあるんやけど。
なんか、不機嫌を振りまいたりとか。
不気払ね。
別にそれでどうして欲しくなかった、どうして欲しいとかっていうのは別になかったけど、分かって欲しかった、自分が不機嫌なこと。
そう、みたいなのがあるし、やっぱそういうのって今思い返したら、あれは多分モラハラの一種なんやろうなっていうのはすごい思うからさ。
なんかそれって、今はそれが抑えられてるけど、何かの表紙に余裕がなくなってしまった時とかに、戻ってくるところなんじゃないかなっていう気がしてて。
うーん。
それってさ、たとえばもともと持ってる気質っていうわけでもきっとないと思うのよ。実は、モラハラって。
サイコパスはまた別やと思うんやけど、結構それはもう性質の問題やと思うんやけど、思考の。
結局モラハラみたいなニュアンスって、私が自分の経験値として思うのは、人のルールを強制されてることに対するストレスの反発やと思ってて。
無意識のね。防衛反応とかに近いのかもしれへんけど。
私の場合はそれこそ父親から父親のルールを押し付けられてたわけやん、要するに。
いろんなニュアンスの、いろんなパターンの。
でもそれって自分が本質的に納得して理解して自分のものとしてそのルールをやってるわけではないから、
嫌なことをしてるわけやん、要するに。
でも頑張ってやらないといけない環境やからこそ頑張ってそのルールに通りに生きようとしてるわけやん。
でも周りの人間が自分のルールを理解したり納得したり、自分のルールじゃないことをやってる。
自分のルールっていわゆる父親から与えられてるルールの部分ね。
やってない人を見ると、なんで私こんな頑張って嫌なことやってんのにお前らもやらへんのっていうのの裏返しじゃないのかなって最近思ってて。
自分がやりたくないことやらされてんのになんでお前らだけノーノーとやりたいことやってんね腹立つなお前らもやれみたいなぐらいのニュアンスに実は近いんじゃないかなと思ってて。
回避型も要するに自分のルールを押し付けてるというよりは自分も本当はしたくないことを自分も頑張ってやってんのに理解してくれない。
なんなんもういいわみたいなことをするならば今言ったみとりちゃんが言った私もそれもしかしてやるかもしれへんって思ってるってことは
どっかにだからみとりちゃん自身じゃないルールをいまだになんかこう例えば親から与えられたものとか社会的にすり込まれているものとかそういうこう自分の中から分け出しているものじゃない
外から強制されているルールがに基づいて自分が動いているからこそのストレスの裏返しなんじゃないかな。
だからそれを子供とか夫ができた時に感じるんじゃないかなって思ってるんだよね。
誰かと暮らしていくとか誰かと一緒に人生を共にしていくかなり近い距離に人がいるっていうのってさ自分のルールだけじゃ生きられへんやん。
それこそこっちが自分のルールを相手に共有しないとそうはいかへんやん。
でそこのやっぱそのすり合わせみたいなところはやっぱ必要やと思うんだけど結局そのすり合わせても誰かのルールの中に生きてる時は絶対にあるやん人生の中で。
そのストレスからすべて解放されるっていうのはないと思うねん。
なんかそれはその相手のルールに自分で決めて従っていれば別にストレスじゃないと思うねん。
なんか嫌やけど嫌嫌そうせざるを得ないからしんどいのであって無意識でね。
私はでもこうしようって自分で決めたっていう納得感があればあんまり実はストレスじゃないんじゃないかなと思って。
選ばされることが嫌なだけであって選ぶことにあんまりストレスはない。
それもさっきの話と一緒で自分の形がわかってればそれはある意味揺るがへんわけやん。
でも相手の形もあるわけ。だからじゃあ今回はこうしようねっていうのを2人で決めるとかって別にストレスじゃないと思うのよ。
自分が決めるから。でも自分が決めてないことっていう無意識の部分にそのストレスがあってモラが出てくるんじゃないかなって私は思う。
自分の経験上やけどねあくまで。
それさ相手が大人やから言えることじゃない?相手も自分も大人で自制心がある年齢やから言えることなんじゃないかな。
相手も情報できて自分も情報できてお互いすり合わせてお互いが納得したところで決着をつけるっていうのって
お互い大人で自制心があって思いやりがあってっていう人じゃないと無理じゃない?
もちろん。
子供とかさ自分が自制心がなくなった時とかさそれができない状況になる時ってあるやん人によっては。
子供に関して言うとそこになんか子供だからっていうのがあるのかなって。
私の場合さっき言ってた子供やからどうとかってあんまないから。
対等に喧嘩するから。
喧嘩っていうかそこもでも自分の問題で結局。
この子の言うことに従おうとかこの子を優先しようって自分で決めてたらあんまりストレスはないと思うね。
でその大人じゃないいわゆるモラみたいな人を自分が選んでこの人の言うことを聞こうって
自分で選んでるって本当に心から納得できていれば正直別にいいんじゃないって思う。
どっかに何かこう違和感だったり矛盾だったり自分にとって何かちょっと気持ち悪いなって思うことがあるから腹立ったりするんじゃないかなと思って。
でも相手のことがどうにもならへんから人間関係悩む人がこんなにいっぱいいるんじゃないの?
全員が悩んでるやろ。
それはだから相手を変えようとするからやん。
でも相手にも変わってもらわないと。
相手を変えようとするから悩むんやん。
いやいやいや相手変えるのは無理やから自分が変わるしかないのよ。
お互い歩み寄ろうとしたら相手も自分も変わらなあかんやんそれって。
そうじゃない?だってそういうことやろ。
相手を変えようとするからしんどいやん。
相手を変えようとはしてない。
でも自分を尊重してもらわないとしんどいやん。
だって自分ばっかり相手に合わせて納得してても相手に合わせて変えていくって無意識にストレス溜まっていくと思うよ私。
いや相手に合わせて変えるんじゃなくて、相手のなんでそこが腹立つのかを理解して自分の中で納得するっていう話どっちかって。
別に相手を自分に合わせて変えるっていう意味じゃないよ。
その人と一緒にいたいと思うんであれば相手のそこをなんで腹立つのかを自分の中で整理しようねっていう話どっちかって言った。
そうすればその人の言うことを聞くか聞かないかも選べるやん。
だから今それはできるよそれはね。今ね。今はできるよ。
ただこの例えばさっき子供って言ったけど赤ちゃんの時はさ言葉も何もないわけやん。
何にもこう意思表示をするのってさ決まったことばっかりやんか。
泣いたりとか。泣いたりがほとんどか。
わからん。育てたことないからあんまわからへんけど。
だから言葉が通じひん。向こうもどう言っていいかわからへん。
っていう相手の時と自分が自制心がない時。
だからその相手がこうやからこうやからこうでこういうことが嫌なんやなっていうのを噛み砕いて納得する自制心がない年になった時が怖いなっていう話をしてる。
うーん自分のね。
そう。今は自分が嫌なことを相手に話して。
で相手からもこういうことが嫌やったっていうのを聞いて。
であじゃあこういう時はこうしたらいいよね。私もこうしていくねっていう調整ができるやん。
それを相手としなくてもいいよって話。自分の中で調整すればいいだけの話っていうこと?
いやそれじゃあね飲み込めない時ありますよやっぱり。
ありますよ飲み込めない時が。
それだって程度によるやんそんななんか。
親殺されてさこの人、いやもうめっちゃ極端な話でごめんな。親殺されてこの人こういう気持ちやったから親殺したんやって思って自分の中で納得できる?
それはだって相手に合わしてるもん。そういうことじゃなくて自分はなぜ親を殺されて悲しかったのかっていうことを理解するって話。
それでじゃあ納得して風に落ちていける?なんか何も抱えずにストレスを。
それは納得した時にどう自分が感じるかを大切にすれば意外とそうじゃないと思うよ。
だからこそなんやろ。親殺されるはちょっとあれやけど。
ごめんごめん極端な話をしたこれは。
まあでも実際問題だってずっと恨み続けるのかって言われる話やん。
まあ恨み続けるのも。
相手を理解するというよりは自分がなんでそれにとって悲しいと思ってるのか。
殺されたことなのか親が死んだことなのかどういう気持ちを自分が持ってるのかっていうことを解読するみたいな。
ただその悲しい部分は正直どうしようもないやん。悲しいんやもんだって実際。
でも悲しいんだなって自分で自分を受け入れれば一旦悲しいんだなっていうことは落ち着くと思うのよ。
殺した相手に対しての気持ちはまたそれとはまた別の話で。
なんか腹立つっていうのもそうやけど腹立つ。
どうやろ親殺されたらどうかな。
結構なんで殺したんやろうってめっちゃ考えるかも向こうに。
それをめっちゃ聞くかも。
ただただなんとなくやったら、でもなんとなくの奥にも理由があると私は思ってるから、
そこをお前、それを死ぬほど考えることがお前の食材やぞって思うかもしれない。
じゃあ例えば。
なんとなくで終わらすなよっていうか。
なぜこの人たちを殺してしまったんだろうって自分と向き合えみたいな。
例えば災害やったら?両親が災害で亡くなってしまったら。
災害?それは今私何聞かれてる?
コミュニケーションの話してるのに災害コミュニケーション関係なくない?
そうだから結局さ、なんか自分がなんていうの。
いやだって今人対人の話やから、災害はちょっとまた別の話やったもんね。
言葉が通じない人だっているわけやんか。
人っていうか、ちょっと待って。
言葉が通じない人は災害扱いなんやっていう。今ちょっと面白かったけど。
なるほど。
まあ災害やろ。災害やろ。
まあでも確かにそう思わずやってられへん時は実際あるよな。
うちの弟が喋ってて、ほんまなんであいつら日本語通じてへんやろとか聞いてたら確かに日本語通じてないなって思う時は
もう相手は妖怪だと思った方がいいよって言ったことあるもん。
そしたら納得できるんじゃない?みたいな。
最悪納得できひんやったら相手は妖怪だったんだなって思えばいいと思うよって。
弟もそっか、妖怪かって言ってたけど。
そこ納得するんやとか思いながら。
結局、殺されたことに対するのってさ、あるその出来事なわけで。
その出来事を通じてすばみちゃんはいろんな人とまだまだ関わっていかなあかんわけやんか。
他からの抑圧に対して必ずしも同じところに自分の不満が、不満というかコミュニケーションが変えていくとは限らへんやん。
違うところに分散される可能性だってあるし、人との繋がりっていうのはこれからも続いていくわけやからさ。
それをやったときに、犯人に対してのコミュニケーションを取るのはじゃあそうなんやとして、誰かの規範に。
すごい雑なこと言っていい?
うん。
あんまりどうでもいいかも。
どこが?
犯人がどうなるかが。
犯人がどうなるかとかじゃなくて、自分の中の納得いくかどうか、納得いかないかどうかみたいなところってさ、他にも影響が出るわけやん。分かる?
うん。だからそこをどう自分の中で折り合いをつける。結局だから人と人とのコミュニケーションのときに、
今の話で言うと、じゃあ犯人が反省したら私は納得するのかって言われたら多分せえへんし、
でも犯人が反省せえへん、反省したらから許せるのかって言うとまた別の話やんか。
結局自分自身の中でどう折り合いをつけるかってだけの問題じゃないのってことを私はずっと言いたくて、相手がどうであれ。
その自分自身の中の折り合いって人の規範の中でつけなあかんくない?
いやだからそれがストレスの元やんってまさに。
うんうんうん。だからそれって。
それを取っ払おうぜって話。
それって、じゃあそのどうしようもなくない?だって人の規範の上でしか。
例えば、人の規範って例えばじゃあその上で言うと何がある?具体的に。
え、だってもうすでに人殺されてるんで。
でて私がどう思わなあかんってこと?悲しまなあかんのに悲しんでないってこと?
あ、違う違う違う。だから、え、なんて言ったらいいかな?なんか、その、え、何々しなあかん何々しなあかんってさ、別に自分の中のモラル、モラハラを引き出すものじゃないやん。
うん、ちょっと待って、具体的な話をしてわからへんくなってきたから、その人、お父さんが殺された話で全部言って。
私の話でいくと、社会的規範がストレスだとか人に与えられたルールがストレスのもとだっていう話で例えるならば、私は本当は悲しんでないのに悲しまなきゃいけないって強制されることがストレスっていう話をしてて、
実際悲しんでれば別にそれでいいのよ。でも悲し、例えば悲しくなければよ、わからん、もちろん悲しいは悲しいと思うけど、例えばね、悲しくないのに悲しまなきゃいけないって周りにそう見られなきゃいけないってなるその部分がストレスよねっていう話。
そこさえ取り除いてしまえば自分が悲しもう悲しまなかろうが別にどっちでもいいやんってなるやんって話。
- それってモラハラの話じゃなくない?自分のモラを引き出すみたいな話ではなくない?
- だからモラハラ、モラを引き出すっていうよりは逆にそれをできればモラにならなくて済むよねって話。相手にだってそれを強制しなくて済むから。
自分が悲しまなきゃいけないって強制されてるとするやん。無意識にもちろん。でも目の前に悲しんでない人が現れてたらなんで悲しまへんのよってなるよねって話。
でも自分は実は悲しんでないのに悲しまなきゃって思ってるからこそそのストレスの裏返しで悲しんでない人を見るとなんで悲しまへんのよって攻撃をしちゃうって話。
- だからってことは悲しまなきゃいけないって思い込んでる部分さえ自分の中で理解して納得してて、
あ、私は悲しまなきゃいけないって周りから思わされてるんだなってことさえ理解してれば悲しんでない人を見ても別に何も思わないじゃんって話。
- あれかも。
- なんや?
- 私がモラやと思ってる立場と違う立場の話かも。