長い首の聖母の奇妙さ
こんにちは。今回は1枚の絵画をじっくりと見ていきましょう。
タイトルは、パルミジャニーノ作、長い首の聖母。
このタイトルを聞いただけでも、なんかこう、ちょっと不思議な絵を想像しませんか?
えー、しますね。もうタイトルがある意味ネタバレというか、作品の奇妙さを隠そうともしていない感じがまず面白いなと思います。
そうなんです。今日はお手元にある資料を道しるべにして、この絵がなぜこれほどまでに奇妙で、それでいて見る人を強く引きつけるのか、その謎に迫っていきたいなと。
基本情報だけ先に、作者はパルミジャニーノ。1534年から40年頃の作品で、今はフィレンツェのウフィツ美術館にありますね。
はい。そしてこの絵は、マニエリズムという美術様式を代表する傑作と言われています。
皆さんもきっと、レオナルド・ダ・ヴィンチとか、ラファエルとか、ルネサンスの巨匠たちの調和の取れた完璧な美しさってご存知だと思うんですよ。
はいはい。安定感のあるあの美しさですね。
この絵を味わうコツは、まずその完璧な美しさを頭の片隅に追いつつ、どこが、そしてなぜ違うんだろうっていう、ちょっと探偵みたいな視点で見てみることなんです。
探偵の視点。
そうするといろいろな発見がありますよ。
面白いですね。ルネサンスとの違い探しと。では早速、捜査開始と言いましょうか。
まずはこの絵の主役、聖母マリアから。資料にも非常に長く優雅な首とありますが、これはもう本当に長いですよね。尺長みたいで。
ええ、解剖学的にはまああり得ないんでしょうけど。
でも不思議と下品な感じが全くなくて、むしろ高貴な雰囲気を漂わせています。
そうなんです。そのあり得ない、でも優雅。この矛盾した感覚こそが、この絵、引いてはマニュアリズムという様式を理解する鍵になりますね。
なるほど。
現実をそっくりそのまま映すんじゃなくて、ある特定の感情とか概念、この場合は優雅さですけど、それを表現するために、あえて現実の形を歪ませる、引き伸ばす、そういう手法なんですよ。
ああ、計算された歪みですか。そしてその聖母の膝にいるオタコイエス、この子もなんだか普通じゃない。
天使と空間の描写
ええ。
資料には赤のにしては大きく不安定な体勢と、確かに赤ん坊というよりはもうちょっと大きい子供くらいのサイズ感で。
そうですよね。しかも聖母の膝からこうつるんと滑り落ちてしまいそうじゃないですか。
そうなんです。普通の聖母思像なら、もっとこうお母さんががっしり抱きしめてるイメージがありますけど。
ええ。普通なら愛情とか安定の象徴であるはずのポーズが、ここではどこか緊張感をはらんでる。まるで重さがないようにも見えるし、逆にずっしりと重すぎて支えきれないような不思議な存在感ですよね。
ああ、確かに。
神聖な存在であるイエスを、あえてこんなにも人間的で危うい瞬間に置いている。ここに画家の意図を感じますね。
聖母とイエスの関係だけでも不思議ですけど、その周りもすごいことになってます。
なってますね。
左側見てください。天使たちがものすごい密度で集まってて、これ一体どういう状況なんでしょう。
ぎゅうぎゅう詰めですよね。
一人の天使が持ってる壺を、みんなで何入ってるのって覗き込んでるみたいにも見えます。
空間の奥行きもなんかよくわからなくて、まるでコラージュ写真みたいに人物が配置されてる。
ああ、そうですね。
これもルネッサンス的な整理された空間構成とは全く違います。
そして資料にある通り、この天使たちは両性偶遊的、つまり性別がはっきりしない、中性的な顔立ちをしてるんですよね。
確かに。少年にも少女にも見えますね。この世のものじゃないっていう感じがすごくします。
こうして見てくると、長すぎる首、大きすぎる赤子、ぎゅうぎゅう詰めの天使、不自然な天のオンパレードですけど、これらは全部パルミジャーニーノが意図してやったことなんですね。
その通りです。
絵が下手だったわけではもちもないと。
ええ。パルミジャーニーノはラファエルの後継者とまで言われた天才でしたから、技術はもう完璧でした。
つまり彼が目指したのはルネサンスが完成させた調和とか安定、それから自然な写実性といった理想からの意図的な逸脱なんです。
計算された不自然さ、ってことは見る人を心地よくさせることだけが目的じゃないと。
まさしく。
むしろ少し戸惑わせたり考えさせたりすることを積極的に狙っていたんでしょうか。
ええ、そうなんです。
鑑賞者との対話
心地よい調和の世界から一歩踏み出して、余儀主観的で知的で洗練された美を追求したのがマニエリスムなんですよ。
だから聖母の長い首は優雅さの概念そのものを、イエスの大きさは神聖さを、天使の曖昧さは神秘性をそれぞれ極端にデフォルメして表現しているわけです。
なるほど。観賞者にこれは何だろうって考えさせる知的なゲームを仕掛けているようなものですね。
全てが計算された不自然さだったと。いや面白い。その視点で見ると、次に注目したい色彩も単に美しいだけじゃ何かを感じます。
聖母がまとっているこの青い服、現実の布というよりは何ていうか、ラピスラズリーの宝石そのものみたいなこの世のものではない輝きを放っていませんか。
非常に感動的ですらある色彩感覚ですよね。人物たちの肌の表現も血の通った人間の肌というよりは冷たくて滑らかな磨き上げられた磁器のようです。
磁器、確かに。
これもまた現実をそのまま映すんじゃなくて、理想化されたある種人工的な美を目指したマニュエリスム的な表現なんです。形だけじゃなく色や質感までが画家の頭の中で再構築されていると。
形も色もすべてが画家の美意識によってコントロールされているんですね。
と、左側の華やかで高密な世界に目を奪われてましたけど、ふと右側に視線を移すと、余りの対比にドキッとします。
左側の混雑が嘘みたいに右側はガランとしていて、すごく謎めいた空間が広がっている。
その感覚、非常に重要です。私たちの脳って、無意識に絵の中に安定した構図とか意味のつながりを探そうとするじゃないですか。
はい、しますね。
でも、この絵はそれを意図的に裏切ってくる。
左の豊かさと右の空虚さ、この強烈なコントラストによって、私たちの視線は絶えず左右を行きさせられて、どこか落ち着かない、心をかき乱されるような感覚に陥るんです。
うわ。
それこそが画家の狙いであり、見るものを絵の世界に引きずり込む力なんですね。
まんまと画家の術中にはまってたわけですね。
で、そのガランとした右側で、さらに謎なのが、右下にポツンと描かれたこの小さな人物です。
はい、いますね。
資料には、生きた人間か醸造か判別しにくい、予言者セイヒエロニムスという説があると書かれてますけど、なんだかこの絵の他の道場人物たちとは明らかにスケール感が違いますよね。
ええ、遠近法を完全に無視した大きさです。
左の精母たちがあれだけ大きく描かれているのに、すぐ近くのはずのこの人物は極端に小さい。
まるで違う次元にいるみたい。
そうなんです。
セイヒエロニムス説が有力ではありませんが、確証はない。
重要なのは、彼が何かを指し示し、何かを創作している、その謎めいた役割そのものなんです。
私、この人物を見ていると、なんだかこの不思議な光景を眺めている私たち鑑賞者の姿が、絵の中に描き込まれているようにも思えてくるんです。
ほう、面白いですね。
絵の外からこれは一体どういうことなんだろうって覗き込んでいるみたいな、そういう解釈はできませんかね。
いや、それは非常に面白い視点ですよ。十分に可能な解釈だと思います。
この人物が、私たち鑑賞者と同じように精母子の出現という奇跡の目撃者であり、その意味を解き明かそうとする案内人のような役割を担っていると。
ああ、案内人。
ええ、鑑賞者を絵の世界に引き込むための媒介的な存在とも言えますね。
そしてその案内人の背後には、これまた巨大な円柱が一本だけ唐突にそびえ立っています。
唐突ですよね。
普通なら神殿みたいに何本も並んでいそうなのに、なぜか一本だけ。しかもどうも絵がきかけというか、未完成な印象を受けます。
まさにこの円柱も大きな謎の一つです。資料にもある通り、これには面白い説があって。
はい。
中世の聖歌に、聖母マリアをたたえて、「あなたの首は象下の塔のようだ。」と歌う一節があるんです。
つまり、聖母の長い首、ラテン語でコルムと言いますが、それとこの円柱、コロンナを言葉遊びのように描けているんじゃないかと。
首と円柱、なるほど、ダジャレみたいでもあるんですね。
ええ。
そう言われると、聖母の首の形と円柱の形が何だか似て見えてきました。
そうでしょう。マニエリスムの画家たちは、そういった知的な言葉遊びとか、隠された意味を絵に込めるのを好みましたからね。
未完成の神秘
ただ、どの説が正しいかということ以上に重要なのは、やはりこの構図そのものが持つ力です。
構図の力。
豊かで感動的な左側と空虚で知的な右側。このアンバランスこそが、この絵をただの美しい聖母像ではない、忘れがたい一枚にしているんです。
そのアンバランスさが、かえって心に引っかかるんですね。
そう考えると、この絵が生まれた背景、作者パルミジャーニーノ自身にも興味が湧いてきますね。
はい。
資料によると、この絵はパルマの貴族からの依頼で、教会の礼拝堂のために描かれたものだそうですね。
ええ。しかし、パルミジャーニーノは依頼された期日までにこの作品を完成させることができなかった。
ああ、そうなんですか。
そして、彼の死によって結果的に未完成のまま残されたという説が有力なんです。
先ほどあなたが指摘した右側の円柱や人物が描きかけに見えるのはそのせいかもしれないと。
未完成。でもこれだけの傑作が未完成だというのは、なんだか不思議な感じがします。
もし本当に未完成だとしたら、その事実はこの絵の評価にどう影響しているんでしょう。
そこがまたこの作品の面白いところでして。
はい。
この未完成である可能性がかえって作品の神秘性を高めているという見方ができるんです。
もしこの絵が完全に仕上げられていたら、右側の空間にはもっと多くのものが描き込まれて、
謎の人物の正体とか円柱の意味ももっとはっきりと示されていたかもしれない。
そうなっていたら解釈の幅はぐっと狭まっていたでしょうね。これはこういう意味の絵ですって。
でもこの曖昧さのまま残されたことで、構成の我々がここには何が描かれるはずだったんだろうとか、
この空白が持つ意味は何だろうと無限に想像を巡らせる余地が生まれたわけです。
時代背景とマニエリスム
なるほど。
未完成だからこそ永遠に解釈の扉が開かれ続けているとも言えますね。
画家の死によって止まった時間が絵の中では永遠に動き続けているような。
そうですね。そしてその未完成という事実を当時の時代背景と重ねてみることもできるんです。
時代背景ですか?
はい。マニエリスムという様式自体が社会が安定していたルネサンスの時代が終わり、
宗教改革などでヨーロッパ全体が大きく揺れ動いた不安の時代に生まれています。
絶対的と信じられていた調和とか秩序が崩れ始めたその時代の空気感。
パルミジャーニーノのこの複雑でどこか落ち着かず、そして完璧に閉じられていない作品は、
まさにそうした時代の精神を映す鏡だったのかもしれません。
画家個人の独創性だけじゃなく、時代の空気そのものがこの一枚の絵に凝縮されている。
そう思うとこの絵のアンバランスさがなんだかすごく腑に落ちる気がします。
というわけで今日はパルミジャーニーノの長い首の精母をじっくりと見てきました。
不自然なほど長い首、滑り落ちそうな大人ご、謎めいた人物と空間、
一つ一つの奇妙に見えた要素が、実はルネサンスの完璧な調和とは違う、
マニュエリスムという新しい美意識の計算され尽くした表現だったんですね。
ええ。完璧な美しさからの意図的な逸脱。
それによって生まれる知的で洗練されていて、時には少し見るものを不安にさせるような美。
それがマニュエリスムの、そしてこの絵の合間がたい魅力です。
最初は変な絵だなって感じたかもしれないものが、意味を知ると途端に知的で刺激的なものに見えてくるから不思議ですよね。
ええ、本当に。
この独特な構図と人物描写は、見る人に強烈な印象を与えて、
パルミジャーニーノという画家の才能と独創性を示す傑作として美術史に名を刻んでいると、
たとえそれが未完成だったとしても、もしかしたら未完成だったからこそより一層ということなのかもしれません。
そこで最後にあなたに一つ考えてみてほしいことがあるんです。
はい。
資料にもあった通り、この作品は未完成であるという説が有力です。
ではそもそも、芸術における完成って一体何なんでしょうね。
完成ですか。うーん、深い問いですね。
作者がこれで終わりだと筆を置いた瞬間でしょうか。
それとも注文主が満足してお金を支払った時でしょうか。
この絵のように、作者の死によって製作が中断されてしまった作品が、
何百年もたった後世に傑作と呼ばれ、世界中の人々が美術館に足を運んで簡単のため息をつく。
はい。
この事実そのものが私たちに、芸術の価値はいつ誰が決めるのか、
というとても興味深い問いを投げかけているように思えませんか。