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「油注ぎ」2026年7月12日のメッセージ
2026-07-12 39:38

「油注ぎ」2026年7月12日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2026年7月12日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

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(聖書) 詩編,11  神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 
メッセージ題:油注ぎ (詩編,11)
*教会は聖霊降臨日をきっかけに聖霊様について分かち合っています。今日は油注ぎについて一緒に分かち合いたいと思います。油注ぎって何でしょう?油注ぎと聖霊様について・・・

1.聖書で油注ぎはどんなところで用いられたでしょう?
*旧約時代、神殿で使った器、道具に油を主ました。それは聖なるものとする為でした。聖なる=区別する!
*神様が特別に用いられる人に油注ぎました。王、祭司長、預言者を立てるとき!油注ぐとき特別な力が?
#油注ぐとき、信仰のすべてが上手く働くようになります。まるで車のエンジン・オイルがあるときとない時の違いのように。人間的の特別な努力なし、自然に行われる力が油注ぎです。超自然的なことが自然に行われるのであれば、油注ぎが来ていることが分かります。牧師の説教も?賛美も、伝道も、油注ぎがあるのであるなら
=エリヤの天から火が降られたことも、紅海の海が分かれたことも、足が使えない人が立ち上がったことも、宗教改革者たちの働きも・・・油注ぎがやったことなのです。→では、油注ぎは、どのように来るのか?一定な公式がありません 
1)神の御顔を求めるとき?2)聖霊様と油注ぎを大切に思うとき、自然に
#また、Ⅰヨハネ2:20,27には、油注ぎを聖霊様と表現する場合もあります。 油注ぎ=聖霊様?

2.この油注ぎは、新鮮さが一番大事です。従って、昨日の油注ぎ、今日の油注ぎ、明日の油注ぎという話も。
*油注ぎは新鮮でなければ。料理をするとき新鮮な油を使うように・・・その新鮮さは?神様から来ます
それによって昨日の、今日の、明日の油注ぎがありますが・・・そのすべての油注ぎが同時代存在したのがサムエル記・・・

(1)サムエル記で、昨日の油注ぎの代表的な存在は?エリ祭司長とサウル王でした。
昔は祭司長と王として油注がれ、上手く用いられたと思いますが・・・今は?神様との関係性がなく・・・
古い油注ぎで過ごしています。神様は祭司長と言われるエリの代わりに、サムエルにお話しされます。
また、サウル王は神様から退けられたのに、自分自身も知らないで、民たちも知らない状態です。サムエル上16:1相変わらず王の地位にいるし度々戦争に出ても勝利するから民は知らない。ローマ11:29
なぜ、そうなってしまったでしょう?1)妬み、嫉妬でダビデを殺そうと。2)越権、高慢で油注ぎを超えて

(2)現在の油注ぎ、熱心に神様と親しみの中で御声を聞き従っています。神の御心を良く知っています。サムエル上16:1サウルによって心痛んでおられる神様を考えながら夜通し泣き祈っている預言者
今日の油注ぎがやるべきお仕事は?昨日の油注ぎと決別し、明日の油注ぎを見つけて立てることです

(3)明日の油注ぎはダビデ。現在、神様からの訓練を受けている人。訓練中と言っても、油注ぎによってゴリアトを石一本で倒し、詩編の半分を書きました。訓練の中で、詩23:1何にも欠けることが無いと?
*神様が一番愛された人に。使徒13:22,23メシアをダビデの子孫から! #明日の人が注意するべきことは・・・1)聖霊様を悲しまないこと。 2)自分が、自身が立てず、神様のときを待つことです!
*ところが、明日の油注ぎとして主を愛し、主の御旨を求め、従っているのに、その期間が長くなる場合

3.昨日の人になったと思われる人・・・ 回復は可能なのか? 特別な神の計画が・・・
*神様は必ず悟りを与えて下さり、機会を与えてくださいます。そのとき、どうするのか?エリ祭司長の場合は?怠慢、無意欲。サウル王の場合は?高慢。 後のダビデの場合は?詩編51徹底的悔い改め
@私は、いつも!エリ祭司長のような者ではないかと思います。皆さんはどうですか?しかし機会はあります。詩編51:12ダビデのように、徹底的に悔い改め主に求めましょう。新鮮な油注ぎを、新しい心を

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今日は、「油注ぎ」について 一緒にメッセージを分かち合いたいと思います。
教会は、6月の聖霊降臨日をきっかけとして、 聖霊様についてずっと調べているところであります。
今日は、聖霊の働きと関連して、「油注ぎ」について 分かち合いたいと思います。
油注ぎは皆さんご存知のことですから、 復習の気持ちで聞いていただければと思います。
油注ぎが何なのか。 本当に難しい言葉です。
理解しにくいところです。 ですから、油注ぎが何なのかということよりは、
油注ぎという単語が聖書でどこで用いられたのかを 考えることが大事でしょう。
まず、油注がれるということは、 何か神様の特別な働きのために、
区別する、清別する意味として、 ある人に油を注ぐというような働きがありました。
最初、預言者を任命するとき、油を注いだんですね。
同じ人間だけど、ある人に油を注いで、 あなたは神様からの最秘書だと、
神様からの預言者だと、イスラエルの王だと、 神様はこれを認めて任命する。
この意味で、油を注ぐということは、 任命する、信任する、これにいろいろな意味があるんですね。
また、旧約聖書では、神殿で使うすべての器、道具、器具、
そのところには油を塗って、 それで、これは神様のものだと清別する意味で、
油を塗ったこともありました。
また、なぜ油という言葉を使うのか。
油を塗ったら、油を注いだら、すべてがスムーズになるんです。
例えば、車のエンジンがあります。
車のエンジン、エンジンオイルということがあって、 エンジンがうまく回るようになるんですね。
すべてがうまく、スムーズに回るようにできる。
もし、エンジンオイルがなくなったら、もうこれは大変になってしまう。
火災になってしまうかもしれません。
じゃあ、この油があったら、すべてがスムーズに回るように、
私たちの人間の特別な動力がなくても、
自然にすべてがうまく回るようにする、 このような力が油注ぎ。
超自然的な働きが、自然に行われる。
ああ、これは油注ぎの力ですね。
03:00
牧師がメッセージをするんですけど、
油を注がれて、クククッとメッセージをするなら、
下手なメッセージだとしても、みんなが理解し、 みんながその見言葉によって生きるでしょう。
ところが、油注ぎがない状態でメッセージをするなら、
もう汗をかきながら、自分なりに精一杯頑張るんだけど、
何の感動もない、何の効果もない、 見事なメッセージになるかもしれません。
これはお祈りの中でも同じだし、伝道の中でも同じです。
賛美の中でも同じです。
油注ぎがあるときに、すべてがうまく働きます。
皆さん、エリアが祈るときに、 天から火が地上にグダーッと下がりました。
これは誰がやったんですか?
これは油注ぎがやったんです。
海の前でモーセが、後ろはエジプトの兵士たちが、
前は海、この200万人のイスラル人はどうしようかと。
その時、神様が、あなたが持っている杖を 海に向かってクーッと差し伸ばしなさいと。
それで海がシャーッと分けられました。
海を分けるこの働きは誰がやったんですか?
これは油注ぎになっています。
また、ペテロが神殿の美しいものの前に座って、 いつも座っている足が使えない人。
その人に、私は金、銀、お金はないけど、 私が持っていることをあなたに与えよう。
イエスシュー、イエスキリストの名でて立ち上がりなさい。
これを命じたら、足が使えない人が立ち上がった。
誰がやったんですか?
油注ぎと言うんです。
ルーター・カルビンとか、宗教改革者たちが、 宗教改革という命を懸けるものすごい怖い、
皆さん、裁判の中で一番怖い裁判が、 宗教裁判と言うんですけど、
そのような働きをやった、素晴らしい、 人間が素晴らしいと思うかもしれないけど、
事実、彼らは油注ぎによって、 宗教改革ができた、と言うんですよ。
油注ぎ、すごいでしょ。
私たちにも、ぜひとも、ぜひとも、 油注ぎが豊かにあれればいいなと思います。
では、油注ぎはどうすれば来ますか?
これは分かりません。
一定な公式、また決められた何かルールがない。
油注ぎがいつ来るのか、どのように来るのか、 誰も分からない。
ただただ、考えられるのは、 神様の御化を求めることは良い。
神を愛して、神様を切に求める間に、 自分も分からないうちに、
06:04
油注ぎを共にやって、全てが働く。
方法があるとしたら、神様を愛すること、
神様を切に求めること、かもしれません。
ですから、現代の預言者の中で、 一人であるポール・ケインという人が、
初めも二番目も三番目も、 油注ぎを大切にしましょう。
大切にしなさい、と言う。
アルフィ・ケンドル先生は、
救いの次に、キリスト者に一番大事なのは、 油注ぎだ。
そう思って、精霊様と精霊の油注ぎを 大切にしなさい。
愛すること、大切にすること、 ずっとそのような心を持っていくこと、
これが方法であるかもしれない、 ということです。
また、ヨワネの第一の手紙の2章を見たら、
この油注ぎを精霊様と言うんです。
だったら、精霊と呼べばいいのに、 なぜ油注ぎと言うのか。
これは、油注ぎと言うしかない、 特別な役割、
特別な働きがあるからではないでしょうか。
とにかく、この油注ぎという単語は、 非常に意味深い、大事な単語です。
ですから、私たちは、 私たちのすべての働きのところに、
油注ぎが与えられるように、 祈っていかなければなりません。
ですから、私は子供学校の先生たちの上、 油注ぎを、
また、私たちのこの礼拝の上、
お祈りでも賛美でもメッセージでも、 すべてのところに、油注ぎを祈ります。
油注ぎがなければ、もう私たちの礼拝、 何の意味があるんですか。
油注ぎによって、すべてがうまく回って、
そして、必要な方、必要な方に、神の御言葉が、 これで一人一人に力を与え、癒し、
もう本当に神様の素晴らしい御業を成し遂げる、 このような働きができるでしょう。
このすべてが、油注ぎだ。
これを考えるときに、 油注ぎ、素晴らしいと思われるんですね。
ところが、油注ぎの中で一番大事なことは、 新鮮な油注ぎです。
私たちは油で揚げ物を作ります。 デンプラーとか。
しかし、もう古い、たくさん使った古い油で揚げ物をしたら、 この揚げ物はどうなるんですか。
これは賛成以下にしてしまって、何か健康に、 何かあまり良くないかもしれないと言うんです。
新鮮な油を使わなきゃいけない。同じです。
09:03
ここも同じ。新鮮な油が一番大事。
ですから、油注ぎと言ったら、いつも、 昨日の油注ぎ、今日の油注ぎ、
明日の油注ぎをよくよく考えて、 分別しなければいけない。
この人は、昨日の油注ぎなのか、 今日の油注ぎなのか、明日の油注ぎなのか。
この新鮮な油注ぎは、どこから来るのか。 神様から来ます。
ですから、私たちは、いつも神様から、 今日、今の油注ぎを頂いて、
これから、神の御業を行わなければなりません。
じゃあ、ここで、昨日と今日と明日の油注ぎが、 油注ぎのものが、
いっぺんにある時代で、 一緒に現れている時代があります。
これが、サームウェルキーに現れている、 この神仏なんです。
じゃあ、はじめに、サームウェルキーで、 昨日の油注ぎと紹介されている人は、
エリサイショとサウル王でした。
昔は、エリサイショ、サウル王、 サイショと王として、よく用いられたかもしれません。
ところが、今は、神様との関係がない。
油注ぎを、今日の油注ぎを、 送ってもらっていない。供給してもらっていない。
ただただ、昔々の、古い古い油注ぎで、 それで、今も働いている。
これが、昨日の油注ぎという。
神様が、今、最初、エリがいます。
エリがいるのにも関わらず、 その人を使わない。
わざわざ、幼いサームウェルどころにいて、 サームウェル、サームウェル、呼ばれています。
どんな意味ですか?
もう、エリサイショは、神様は、今、使っていません。
神様から、見捨てられたかもしれません。
しかし、今、エリサイショは、 サイショとしてのポストに、ついています。
また、みんなが、エリサイショ、 ああ、偉い方として、尊敬しています。
これは、何か間違えている。
また、サウル王は、神様が彼を、 サウル王を知り除けられたのにも関わらず、
自分自身も知りません。
なぜなら、もう、この王いいということで、 自分はもう座っているし、
また、戦争に出たら、たびたび勝つんですよ。
だから、神様が自分を信任している、 もう、認めておられると思っているんです。
また、世の中の人々も、ああ、やっぱり王様だから、 神様の特別な何かがあるんだと思っています。
しかし、神様がサウルを捨てたということ、 見捨てられたということは、
12:05
自分も知らないし、民たちも知らない。
私たちも、ここで学んだでしょう。
なぜ、知り除けられたら、 すべての力を奪わなきゃいけない。
また、権力から下ろさなきゃいけないのに、 なぜ、そのまま置いておくの。
これが、ローマ書11章29節。
神の賜物と招きとは、取り返されないものだ、 ということです。
だから、神様をすぐ奪うことではない。
皆さん、悪魔が今も、悪魔、サタンが働きます。
悪魔、サタンは力があるように見えます。
この力は、いつ、どこからもらったんですか。
サタンが堕落する前、天使城だった。
天使城の時、神様から頂いた力を持って、 今、悪魔の働きをやっているんです。
奪えばいいでしょう。奪ってください。
でも、神様の賜物と招きとは、 取り消されないものだ。
そのまま置いておくんです。
最後の時に、全部奪ってしまうでしょう。
ですから、私たちが、霊力の分別力がなければ、
今、この方は、神様が今使っている方なのか、 もう神様を使っていない方なのか、
この分別がよくつきません。
これを、どこを見たら分かるかと言いますと、 神様との親しい交わりがあるのか。
神様がその人に語りかけてくださるのか。
神様が用いてくださるのか、見てますと、
昨日の人なのか、今日の人なのかが分かります。
ところが、なぜ彼は昨日の人になってしまったのか。
まず、妬みなんです。
皆さん、妬みは怖いんです。
サウルを王にいる時、もうダビデが現れました。
ダビデが戦争に出たら、勝ちます。
また、世の中の人々からは、 わあ、素晴らしい、素晴らしいと。
もう人気が、本当にサウル王よりはるかに 上の人気をもってもらっています。
だから、サウル王は心配になります。
もしかして、ダビデが王になったら、 私どうするという心配が出てしまう。
だから、サウルはダビデを殺さなきゃいけないんだと、 殺さなきゃいけないんだと思うんだ。
サウルは自分が王になったのは、 特別な資格があったからではありません。
神様が一方的に王として油を注いでくださったから、 王になったのにも関わらず。
ダビデが王になるかと恐れて、 自分の王位を守るために、ダビデを殺そうとする。
このような働きが、神様が見られるのにふさわしくない。 王としてふさわしくないと思われる。
もう一つは、越見と言います。
15:01
自分の権力より上の何かをやろうとする。
神様が王と最初と予言者として定められた油注ぎがあります。
この油注ぎの範囲を超えたら、 これを越見ということで、神様に逆らうものになります。
サウル王は、サムエルが来ないから、 サムエルの家へ戦争に出なきゃいけないのに、
礼拝を捧げて出ようとしたら、サムエルが来ない。 じゃあ、私が礼拝しましょう。
王が最初の代わりに、自分が礼拝をしてしまいます。 神様が見られるのに、それは正しくない。
サウル、サムエルは来るまで待つべきなのに、 待たなかった。
とにかくサウルは自分のわがままで、 神様が決められたルールを超えて、自分勝手に働く。
これが、神の前で傲慢ということになります。 神様の前で傲慢になって、
サウルは、これから神様との関係性がダメになり、 昨日の油注ぎとして転落してしまいました。
今日の油注ぎは、サムエルです。 今、神様と親しい関係性の中で、神の見こえを聞いて従っているところです。
サムエルは、神様の見心をよくよく知っていました。
イスラエルの王であるサウルが、神様が傲慢になって、 神様を逆らい、自分勝手に振る舞っている。
このサウルを見ている神様の見心がどうなるかと思って、 サムエルはよくしなきます。
神様がどれほど心を傷んでおられるかと考えたら、 神様の痛みが自分の痛みになって、よとし泣きながら祈るんですよ。
そのような心で、神様がサムエルに、 あなたはいつまで泣くつもりか。
じゃあ、これから油を用意して、私が示すところに行きなさい。 私が示す人に油を注いでおうとしなさい。
この役目をいただくようになるんですけど、 今日の油注ぎがやる一番大事なことは、神様との親しい関係性。
また、昨日の油注ぎと決別して、 明日の油注ぎの人を探さなければなりません。
そしてサムエルはタビデを選んで、 そしてタビデを王として決めて、
それでタビデをずっと支えていく。 これが今日の油注ぎの大事な働きです。
じゃあ、私が今日の油注ぎだとしたら、 私がやるべきことは何ですか?
神様と親しい関係の中で、見声を聞き従うことはありますけど、 明日の油注ぎの人を探さなければいけない。
18:01
そして、明日の人を神様の前によく育てて、それを立たせること。
これが今日の油注ぎの人がやる一番大事なことです。
じゃあ、私たちの教会、この働きができていますか?
明日の油注ぎはタビデです。
明日の油注ぎは、今の状態では神様から訓練を受けています。
取り扱われています。
ところが、訓練を受けていると言っても、彼には神の油注ぎが共にありました。
サムエル中6章で、サムエルがタビデに油注いで、 そして次の王として任命します。
そのところから、神様の精霊の力がものすごい彼の上に共におられたんですけど、
16章で油注がれ、17章ではペリシテの力持ちであるコリアテを石一本で倒します。
すごいです。石一本でペリシテの一番力強いものを倒してしまいます。
また、タビデは神様との取り扱い、訓練の中で、
彼は自分が神様との交わりを心から表現したんですけど、これが詩編として表現した。
みなさん、詩編でタビデの詩が、どのくらい?半分くらいがタビデの詩。
150の中で半分くらいがタビデの詩です。
それほど神様との自分の中で、この色々様々なことがあって、それを全部詩として表現した。
これが本当に今私たちに伝えられているものですから、素晴らしいことですね。
それほどタビデは神を愛し、神を求め、本当に神様に従っていこうと、彼はずっと神様と共に歩んだものでした。
タビデには神様と知恵と油注がいつも共にあって、彼は詩編でこれを表現しました。
詩編23の1節。
主は七次会、私には何にも欠けることがない。
何にも欠けることがない、乏しいことがないと言いながら、タビデは神様との間の中でずっと過ごしたんですけど、
彼が神様にどれほど素晴らしい礼拝を捧げたのか、
神様が今の時代、新約時代のふさわしい礼拝の形式として、
タビデの幕屋の礼拝を捧げなさいと言われたことも、これは大きな意味があるのではないかと思います。
神様の告白がここに、タビデに対する告白がここにあります。
使徒行伝中3章22節を見ますと、
私はエッサイの子である、私の心にかなう者、タビデを見出した。
21:01
彼は私の思うところをすべて行う。
そしてタビデの子孫を通して、神様はメシアを送ってくださった。
これは本当に神様の一番大事なメシアを、タビデからタビデの子孫から送ってくださった。
これはすごいでしょう。
じゃあ、明日の油注ぎの人、本当に明日の準備のために、
私は明日の油注ぎは誰ですかと、神様にずっと祈っていること。
天道一さんと私の働きは、明日の油注ぎを探して、油注いで、
それから私たちはこの後ろで、祈りで支えて、
この次の働きができるように支えていくこと。
これが私たちの、年寄りの私たちの役目ではないかと思いますけど。
明日の油注ぎの方が一番気になることは何だと思いますか。
神様がいつ私を王として立たせてくださるのかということではないでしょうか。
神様が私を立たせてくださるまで待つこと。
これが明日の油注ぎの人がやる一番大事なことです。
これを待つことができなければ、
自分自身が王になってしまう。
自分自身を王として立たせてしまう。
ですから、明日の油注ぎの方が一番気をつけるべき、
神様が私を立たせてくださるまで待つこと。
ここで一番気になるのはサウルですね。
サウル王はタビデを殺そうとします。
タビデを殺そうとする、これは間違いです。
これは悪いことだとわかっています。
世の中の全てがわかっています。神様もわかっています。
だったら皆さん、タビデはサウルを殺すチャンスがあったら殺してしまって、
自分が王になれればいいでしょう。
しかし、タビデは絶対サウルを殺さない。
なぜでしょう。
神様が油注がれて立たせてくださった方を、
私が手を出したらいい。
これがタビデが神様から認められた一番素晴らしいことです。
神様が任命して立たせてくださった方を、私が殺すなら、
これは私が神様を反覚するようになるでしょう。
だから、神様がサウルを知り避けるまで、
タビデはずっと待つのです。
ずっと待つのです。
これがタビデが一番難しい場面ではなかったかなと思います。
第1ペトロ5章6章でこう言います。
だから、神の力強い御手の下で、自分を低くしなさい。
そうすれば、かの時には高めていただけます。
私は明日の油注ぎとして、主を愛して、主の御胸を従い、
24:05
とにかく神様の御御礼があるなら、
何か神様の御胸を通りに行こうとして頑張っているんだけど、
神様のこの取り扱い、訓練が長引く。
いつまででしょうか。私を立たせてくだされないですか。
これを忍耐してずっと待っているところに、
神様の特別な計画があるということを教えてください。
ですから、忍耐して我慢していくなら、
神様が必ず、かの日、神様はその日を立たせてくださるんですけど、
その時からの神様の美愛者、素晴らしい働きは限りがない。
ですから、今、聖書の中で皆さん、一番何か羨ましい、
また神様一番愛された、一番素晴らしい働きをした人、
一人を選ぶとしたら、私はタビデではないかと思います。
タビデは神様が私の心に敵うもの。
私は彼を通して私の全てを行おうと言われたものですから、
タビデの働きは本当に本当に素晴らしい。
それほどタビデは訓練の期間が長引いた。
それをタビデはずっと我慢して、最後まで待ち続けた。
これがタビデの素晴らしさではないかと思います。
今日のメッセージを通して、私がぜひ皆さんと分かち合いたいことがあります。
皆さん、私たちの中で、私は昨日のもので油注ぎです。
私は今日の油注ぎです。私は明日の油注ぎです。
と言った時に、皆さんはどっちに私は当てはまるんじゃないかと思われますか。
私は昨日の油注ぎではないかと思います。
そして、昨日の油注ぎになってしまった私が、
今日の油注ぎとして神様に持ち入れることができるか、
この部分を一緒に考えていきたいと思います。
神様は一度謝ったということで見捨てられることはありません。
神様は一度ではありません。
また、捨てる時には必ずあらかじめ警告されます。
それを受け取らなければ、神様の働きがありますけど、
必ずチャンスをくださるということです。
その時に謙遜に認めて、悔い改めながら取り戻すことさえあれば、
神様は絶対見捨てられることはありません。
かゆくしてくださるんです。
ところが、昨日の油注ぎになってしまったエリ最澄とサウルは、
27:01
少し私たちの予測と違います。
エリ最澄の問題は何だったと思いますか?
最澄なのに、最澄の働きにはあまり関心がない。
あまり自分がその働きを大事に思っていない。
また、サウルエリ最澄の一番の問題は何かと言いますと、
自分の子供たちを神様よりもっと大切にしたということです。
皆さん、今日の手法をご覧ください。
今日の手法、マタイの十章三十七節、一週間最も気になった聖書。
これ私のことなんですけど、
新教導訳では何と書いてありますか?
私よりも父や母を愛する者は私にふさわしくない。
私よりも子供や息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。
事実、これは私のことみたいに思われるんですね。
私はいろいろ考えるときに、あなたは牧師でしょ?
神の下辺と言われる者が神様をもっと大事にするのか、
あなたの息子を一番大事にするのかと言われたら、言葉が出てきません。
私は私の息子をもっと大事にするのではないかと思われます。
その意味で私はエリ最澄と似ているものだなと。
エリ最澄は自分の息子が神殿の中でいろいろ悪いことを、
もう聖書を読んでいますとたくさん悪いことをします。
しかしエリ最澄はその子供たちに、
まあ叱るは叱るけど、これをなんとかかましていきます。
神様に対してあまり自分の心、何か熱情はありません。
その部分がエリ最澄が神様から見捨てられたきっかけになるのではないかと思います。
またエリ最澄は神様は自分に言わないで、幼いサムエルに言っていることを見ても、
まあそうかな、神様勝手にしてくださいという気持ちなんです。
皆さんだったらどうしますか?
私が牧師ですよ。
神様は私に今日の教会のことを言わないで、
あゆみちゃんに神様は言っています。
だったら牧師である私がどう思いますか?
神様はなぜ私に言わないで、あゆみちゃんに言いますか?
サクちゃんに言いますか?
私に言ってくださいよ。私が教会のリーダーじゃありませんか?
これを神様は見せてくださるんです。
30:00
これはサムエル上の3章8節9節。
サムエルに神様がサムエルと聞きます。
サムエルは今まで神様の見声を聞いたことがないから、エリのところにいてお呼びでしょうか?
いや私は呼んでいない。
3回目にサムエルがまた私をお呼びでしょうかと言ったら、
サムエルのエリが何と言うのか?
あ、多分神様があなたを呼んでいる。
だったらこれから戻っていって、もう一度神様が呼ばれるときに、
シムベはここにいます。お話ししてくださいと言いなさいと。
そう言いながらシムは寝てしまう。
私だったら、サクちゃん、神様、私ここにいます。私に言ってください。
言いなさいと言っておいて、私は隣に座って、ずっと神が見声を聞くときに待って、
神様、私にも言ってください。私は牧師ではないでしょうか?
私を捨てないでください。私を使ってください。
私はそれを言いたいんですけど、エリはそう言わないんです。
まあそう言いたいなら、神様、どうぞ。
神の見笑いには熱情がない。
神様の働きに対して、私はイスラエルという国の最長なんですよ。
宗教の責任者ではありませんか?
しかし、神様は自分に何も言わないのに、全然平気。
神様に対する熱情が全くない。
だから何回も何回も神様がその働きを見て、
エリ最長を神様が使わないようになっているのではないかと思います。
またサウルで、サムエルを通して3回も悟らせてくださり、警告してくださったんだけど、
彼は言い訳ばかり、そして自分を立たせようとする。
サムエル帳15章、11節、12節。
神様が私がサウルを追うとしたのは、私は後悔している。
そして神様が本当に痛い心をサムエルに表します。
だからサムエルはこの神様の見声を聞いて、よとし泣きながら、
おーしおーしおーと言いながら、神様の痛い心がもう自分が感じられるから、
だからよとし泣きです。
そのところで、サウル王は何をしたか知っていますか?
神様の前でサムエルが泣いている、このところでサウル王は、
どこですか、場所はどこか、キルガルというところに行って、
自分のために何か戦争記念日を作るんです。
33:01
自分は勝利したという記念日を、神様が泣いていらっしゃるのに、
自分は自分のために記念日を立てて、
私は神様から認める素晴らしい王だとして帰っていきます。
そのようなチャンスを神様が何度も与えたのにもかかわらず、
神様を無視し、神様の油注ぎを無視し、軽んじて軽んじて、
結局サウルを神様がしきしり除けられます。
神様が悟らせる何か色々なきっかけをくださったのにもかかわらず、
悟らなく悔い改めない時に、神様をイスラエル国のために捨てるしかないでしょう。
もう一人がタビデです。
後に神様がタビデを王として油注いで使ってくださるんですけど、
タビデが罪を犯します。
自分の忠実な下人であるウリアという将軍の妻を交換し、
そしてそれを隠すために夫ウリアを殺しました。
その時ナダン預言者がタビデの罪を指摘します。
これがサムエル経営の中二章に現れるんですけど、
ナダン預言者を通して自分の罪が指摘された時、
タビデはそこでひざまずいて神様の前で泣きながら悔い改めます。
この悔い改めの内容が詩編の51編で現れています。
51編の中4節から中2節。
神よ、私のうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
タビデが一番気になったのは、神様の聖なる霊を私から取り上げないでください。
また私をあなたから退けないでくださいと言って、節に節に泣きながら悔い改めます。
その1節話を聞いたら、彼はベッドが臭くなるまで泣き続けたと言います。
神様はこのタビデの悔い改めの姿を見て笑って、彼を回復してくださいます。
私はいつも私自身がエリ最初と同じだと思います。
その証拠として今日、マタイ中書の37節を皆さんに申し上げました。
皆さんはどうでしょうか。
ところが、私は申し上げたいのは、
私たちが何かによって今まで昨日の油注ぎで転落されたとしても、
私たちは今日の油注ぎでもう一度神様から回復されるチャンスがあるのかということです。
私が前の宣教団から見捨てられたと言いましょうか。
36:00
何か使わないようにされた時に、私は私なりに信じたことがありました。
私が悔いを改めるなら、神様は必ず私を取り戻してくださるはずだということ。
神様は絶対私を見捨てることはなく、悔いを改めることさえできれば、
私を絶対取り戻してくださり、もう一度使ってくださるはずだということを信じました。
それで、徹底的に悔いを改めて、神様、もう一度私を使ってください、切磋に切磋に神様に祈りました。
私は神様が私をもう一度使ってくださるのかないのかわからなく、
今教会をやっているところもありますけど、しかし神様がいろいろ印を持って私を使ってくださることを信じています。
私は神を愛し、神を求め、神の御化を求め続けているのにもかかわらず、
神様が私たちを立たせてくださる力が段々と伸びていくなら、
今日メッセージでありましたよね、神様の大きな計画があることを信じなさい、悟りなさい、私はそれを信じています。
皆さん、この世は百年、天国地獄は永遠です。
この世の百年の中で一番素晴らしいこと、一番祝福されることは、神様に用いられることなんです。
神様から用いられた人が天国でいただく報いは限りがあります。
ものすごいものすごい大きい、永遠のものです。
ですから私たちも、ダビデのように神様に切に祈りたいと思います。
支援の51編中2節、神よ、私のうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
見前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
もう一度私を使ってください。もう一度私を回復してください。
皆さん、神様に用いられることよりもっと素晴らしいことは世の中にはありません。
しかし私の力でできるものはありません。
油注ぎ、油注ぎ、油注ぎが全てを成し遂げられます。
ですから油注ぎが私たちに与えられるように、私たちは神を求め、油注ぎを大切にし、
神を、神を求める働きをしていきたいと思います。
そうするなら、私たちも知らないうちに油注ぎが豊かに与えられ、
私たちの全ての働き、回復とリバイバル、大収穫が、
自然に、超自然的な働きが自然に行われるようになると信じます。
油注ぎ、主よ、豊かに与えてください。
39:02
お祈りいたします。
主よ、今日は油注ぎについて分かち合いました。
理論的には難しいけど、私たちはただただ、
聖霊様を愛し、油注ぎを大切にし、
いつも共に働いてくださることをお願いします。
来てください。いつも私たちを共にいてください。
イエス・キリストを皆を通してお祈りいたします。
アメン、アメン。
39:38

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