1. 飛鳥山の窓から -TOKYO NORTH MOVEMENT-
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2023-12-07 19:09

#1-1 城北信用金庫理事長に至るまで。地域創生の考えとは|ゲスト:大前孝太郎さん


【今月のゲスト】

城北信用金庫理事長・東京北区観光協会会長 大前孝太郎さん


【今週のテーマ】 

・ 学生時代にも経営を…?

・「鯖江のめがね」プロモーションの背景



東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思うさまざまな人たちが遊びに来ます。情熱とアイディアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から。パーソナリティーを務めます小篠光洋です。
今私がいる場所は、大地飛鳥山にある邸宅の談話室。こちらに北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
それでは、記念すべき第1回のゲストはこの方です。
こんばんは。上北信用金庫、そして東京北区観光協会を運営しております大前幸太郎です。どうぞよろしくお願いいたします。
第1回ということで、このラジオのボスに来ていただきました。どうもありがとうございます。
ありがとうございます。大変光栄です。
そしてこの度は渋沢君FMの開局、本当におめでとうございます。
ありがとうございます。
本当にこの新しい取り組み、地域での本当に大切な取り組みとして、このインターネットラジオ局を立ち上げられたということで、
今日も色々お聞きしていきたいと思うんですけれども、そこに至るまでの上北信用金庫理事長としての非金融の部分のアプローチとか、それからもっと遡って学生時代のこととか、本当にたくさんのことを改めてお聞きしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
早速ですけれども、学生時代の話をちょっとお聞きしたいですよね。
はい。
理事長は中学から開成中学、開成高校に進まれていて、どういう中高時代だったんですか?
うーん、そうですね、あんまり勉強はしてなくて、やっぱり開成中高といえば、やっぱり運動会の印象がものすごく強くてですね。
噂に聞いてますよ、僕たちもね、昔。
中学1年生で入った時に、高校3年生のヒゲ生やした人たちが教室にやってきて、「お前ら分かってんのか?」みたいなことを洞察されてですね、そういう世界観っていうのは初めて味わったのが中高時代だったんですね。
はい。
あの、あれですか、理事長が入られた時は、まだ坊主頭ですか?
いや、坊主ではないです。
それはなくなってました。
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理事長と私、多分6つぐらい、僕の方が上なんですけど、まだ僕が受験する時は、開成中学坊主頭だったんですよね。
ああ、なんかね、そういう噂はありましたけど。
それはなくて、髪の毛は伸ばせるように。
坊主だったらいけなかったですね、正しい。
そうでしょうね。でも、そういう縦系みたいなのは残ってて。
そうなんです。
それは結局、運動会で中学1年生から高校3年生まで色分けがあって、同じ、例えば白組だったら白組の中1から中2から高3まで縦の組織がありましてですね。
それで、2組だと白とか、組によって分けられてるんですけれども。
なんかやっぱり、まずそれにちょっとビビるというか、怖いんですよ。
しないとか思って、なんか突然来てですね。
明日からお前ら運動会の練習だからな、みたいなこと言われてですね。
追っかないんですけど。
でも、そんなこんなやっていくとですね、ものすごくなんか熱くなっちゃってですね。
先輩たちの頼もしさとかそういうのも感じるし、なんかすごい社会の縦関係っていうのをそこで学んだ気がしますね。
もちろん勉強もね、実際されてると思うんですけど。
いやいや、全然勉強はしないんですけど。
で、ムーブムー両党ということで、本当にいいご友人もたくさんできてということで。
慶応大学に進まれて、あの頃地元で塾みたいなのをやられてましたよね。
そうですね。
今でいうと学生起業家みたいな感じですね。
そうですね。そんな大層のもんじゃないですけど。
僕の開示生の一人友人がいまして、松本君っていう例の。
彼とですね、実は中高の時代は特に仲良くなかったんですけど、高校卒業して。
僕がちょっとそういうことやろうかなと思ったときに、一応ビジネスなんで、そういうの得意そうなのは誰かなと思ったときに、松本かなと思って。
電話を突然してですね、あんまり仲良くなったんですけど、ハンティングをしてですね、彼と一緒に共同経営をするっていうことになるんですね。
それから彼とも非常に親しくなって、一緒に遊びに行ったり、大学時代はやってましたけどね。
進学塾っていうカテゴリーだったと思うんですけど、特別に決めたコンセプトとかあったんですか?
そうですね。僕以外は大体東大生を選んだとか。
あれ、赤門なんとかっていう名前?
東経だったかな。東大ゼミナルだったかな。要するに東大に行けますよ的な。だから東大生が教えますよみたいな。そういうのを一つのコンセプトにしたものですから。
あれですか、生徒さんってどのくらいいたんですか?
いやでも4、50人くらいはいたと思うんですよ。生きていて。
それは相当な小遣い稼ぎになりましたね。
そういうある意味企業体験というか、学生の時代にも商売って言うとちょっと変だけれども、そういう社会人としてのことにもちょっと触れながら、実際に社会人だなと。
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今もちろん上北信用銀行の理事長というお仕事をされていますけども、一番最初に入られたのは当時の住友銀行?
そうですね。今のSMBCということになりますけれども、その母体の人の住友の方ですね。
ちょうど1987年の入港ということですかね。
バブルで入れてもらったってことですね。
ありがとうございますけど、でも本当にバブルの光と影みたいなのがありますけれども、ある意味銀行マンが非常にダイナミックに仕事ができた時代でしたよね。
もうめちゃくちゃやってました。
当時、大変厳しい上司にも恵まれて。
そうなんですよ。住友銀行はでも企業風土的にはですね、当時コンプライアンスとかもなかったんで、稼げば自由に生きられるみたいな。
そういう言い場でやるんですけど、ある種非常にシンプルな風土だったんで、そういう意味では面白いといえば面白かったですね。
無効傷は問わないなとね、そういうスローガンもあったりしてね。
それは大変な目にありますけどね。でも入った頃はちょうどそういう頃ですね、いけいけの頃ですね。
そうすると1987年入港で、実際住友銀行では何年お仕事を?
6年ぐらいですかね。
その後は?
その後は政府の方向に行くんですが、とある人のご紹介もあってですね。
銀行の業務も結構詰めてやってたもんですから、まあまあなんとなく、その時はですよ、なんとなくこんな感じでもうだいたいわかったかなみたいなところもあってですね。
そんな時にちょっとそういう政府セクターというか、ちょっとそういう方向ですね、お話をいただいて、実際にはある方の政権構想を考えるみたいなところから入っていくんですが。
その後ちょっと内閣府というところに採用されますが、当時はまだ内閣府がなくてですね、内閣官房というところに所属をしてですね。
かっこよけばポリティカルアポインティーみたいな形ですね。
で、案外やったことは全然なかったし、そういう思い入れも特になかったんですけども、まあちょっと面白いかなと思ったぐらいなんですけど。
意外とやったらハマってですね。
で、それこそ今現在の言葉で言えばまさに地方創生っていうような部分にも携わられる。
そうですね。内閣府に入ってからは、まず小泉総理だったんで当時、構造改革みたいなやってたんですけど、規制改革。
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やっぱりちょっと多少はお金もないとしんどいよねみたいな。
そういう中でですね、地域創生というか、当時地域再生という言葉を使ってたんですが、そういうフレームワークを打ち出しながら、ちょっとバジェット、予算なんかもつけながら地方を盛り上げていこうよと。
ただ、今までのお金の流れだとよろしくないから、少し縦割りを打破するようなですね、いろんな省庁からちょっとずつ刻んで持ってきて、内閣府にプールしてですね。
それで、面白いこと考えてる公共団体にはお金をつけるよみたいな。
そういうのが一つの柱として、地域再生法みたいなですね、枠組みを作っていったっていうことなんですけどね。
どうも、今盛んにね、省庁だとか、帰宅のような自治体でも言われてますけど、組織に横串を刺すみたいなスタートだったってことですね。
内閣府っていうのはやっぱりある意味、もともとそういうお役目でできたところもあったわけですけど、やっぱりそうは言っても各省の画像っていうのがなかなかあるんですが、そこをなんとか。
だから本丸のところはなかなか切り出せないですけど、ちょっとハジパイの予算でもですね、各省ちょこちょこ持ってるやつなんかは全部かき集めてですね、もう内閣府で一本化するよと。
言うような、まずはそういうできるっていうか、それでも結構苦労したんですが、財務省なんかにも後押ししてもらいつつですね、その縦割り要請の打破ということを二式の見当たりにしてですね、そういうのをやり始めて。
実際それが公共団体で結構人気が出てつかれるようになると、そういう流れがですね、だんだん徐々にメインストリームに上がってくるみたいな。
そういうことの少し先鞭というような施策であったかもしれませんね。
前にもね、理事長からエピソードがいろいろあったんですけど、その代表的な例が鯖江市、北池ですかね。
北池の鯖江市のメガネフレームを作る事業について、大変いろいろ力尽くされたというふうに聞いてましたけど。
そうですね、そういう事業の中で、鯖江市というところはもともとメガネのフレーム、サングラスのフレームを作る職人さんが非常に集積している、あるいはそういう会社が集積しているエリアなんですけれども、
今までOEMですね、ヨーロッパなんかを中心とした非常にハイブランドから仕事を受けてですね、それを比較的安い価格でOEMで、かつ質の高いものを作って供給すると。
そういうことで生きてきたエリアなんですが、やっぱりだんだんOEMもですね、例えば中国とか諸外国なんかレベルが上がってきてですね、
価格は日本よりも10分の1で、質は7割ぐらいだけど、みたいなのがだんだん供給されるようになってきて、そうするとやっぱり発注がそっち行っちゃったりするんですよね。
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それでなかなか職人さんも食えないね、会社もやっていけないね、みたいな状況をどうやって打破していこうか。
その打破するのに、さっき言った内閣府の事業のお金も少し使わせてもらいながら、何とかならないか、みたいな話がもともと出発点でありまして。
そのときにいろんな向こうの経営者さん、メガネフレーム屋さんなんかいろいろお話をしてですね。
でも皆さん方向感としてやっぱりOEMはなかなか収益率も低いから、やっぱりブランディングというかですね、ブランド化の方向だよねっていうのはあるんですけど、
僕らも方向はそういう方向だと。
ただやっぱり前、今週の会長とも喋ってた、なかなか供給者サイドが言うブランドと消費者が本当に頭に認識するブランドっていうのはものすごい差があってですね。
みんなが買う側がそう思ってないとブランドには結局ならないのでですね、そこにたどり着くのは結局すごく大変だよねと。
中途半端なブランド品のオリジナルブランドみたいなことはやってもしょうがないと思うっていう議論を散々やってですね。
結果的には実際には目に見えるOEMっていうのをやったんですね。
目に見えるOEMというのはOEM一般にハイブランドだとどこが作っているか、どこの職人が作っているかっていうのはマスクされるというか、世の中に出してはいけないということになってるわけですが、
そこを出してもいいよっていうハイブランドではないけど、結構売れ線のセレクトショップとかそういうところのコラボ商品を作ることによって、
だからブランディングまではいかないんだけど、サバエのプロモーションとして目に見えるOEMっていうんだったらできるなということでですね。
どういう層にまずは訴求したいのというと、聞くとサバエの方はやっぱりF1層、30代くらいまでの女性みたいなことを言うもんですから、
それだったらそのF1層をある程度抱えているというかお客さんとして持っているようなセレクトショップさんに理解を求めて、何とかかけるサバエみたいな形で商品を出していくと。
その出し方も普通のやり方だとあんまり知ることができないから、当時結構流行っていた東京ガールズコレクションっていうファッションショーがありますけれども、
あそこのチームにちょっと相談をしてですね、何とかサバエアイウェアコレクションっていうコマを作ってもらって、
それでそのセレクトショップさんと一緒にモデルさんを使ってアイウェアコレクションのショーをできないかということをちょっとご相談してですね。
結果的にはやっていただいてですね、多分公共団体であれじゃないですかね、東京ガールズコレクションの舞台、公共団体の首長さんが立ったのは多分あれが初めてだと思うんですけどね。
そんなことで多少ですね、ブランドにはできないんですけどサバエが作ってるんだよみたいなことは、そういったF1層の方も少しずつ知ってもらえるようになったというところまでを僕はやりましたね。
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OEM生産とか、例えば下請けとしてのお仕事とかっていうことで言ってみれば売り先は決まってて、そこからの要望に応えていくっていう風にしてたビジネスモデルを、
自らのお客様を意識して、そしてものづくりをしていくっていう風に転換されたということですよね。
そうですね。
一言で言うとあれなんですけど、本当にあの時代でそれを、しかも地方でやるっていうのはすごいことだったように思いますね。
そうですね。でももちろん僕が全部考えたわけではなくて、いろんなチームのメンバーがいましたんで、
あとそういった協力してくださる東京ガールズコレクションのディレクターさんとか、いろんな方がいろいろ知恵を出してくれてですね、できたっていうところだったんですけどね。
そういう経験を踏まえられて、その後2006年には母校の慶応義塾大学の当時助教授、今は準教授というお仕事もされてますね。
そうですね。この辺は、そんな動きをしてた時に慶応大学のほうから、一個は法律、地域再生ってさっき申し上げましたけど、一応新法、地域再生法っていうのを作ったものですから、
その法律っていうのは実際どうやって作るのかというような、ちょっと固めの立法政策みたいな、そういうお話をしてほしいというのが一つと、
それからそのまさに今お話をした地域政策とか地域のブランディングとか、こういう方向の話をしてほしいということ。
その辺でまずはオファーをいただいてですね、その辺で少し授業を持つようになったという感じですね。
僕、一番よく覚えてるのは、比叡利の株式会社っていうもので、日経新聞に結構大きく李徴のお写真も出て、
というので、今李徴、当時はあれですから、小太郎さんは今これやってるのかっていうんで、気がついた思い出があるんですけど。
そうでしたね。地域再生法には税制もあって、結構コミュニティビジネスをやってくださる方は税の温点がありますよみたいな、そういう税制を作ったんですよね。
だから多分そんなようなことは日経新聞とかはそっちの方を取り上げてもらったかもしれないですね。
そこでその比叡利の株式会社っていう、僕の頭の中にはなかった熟語が出てきて、それがすごく印象的で。
考えてみれば信用金庫っていうのは株式会社ではないですけれども比叡利なんですよね。
その後そういったご経験を踏まえて、2009年現在の上北信用金庫に入港されるということですけれども、
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ここからは上北信用金庫の理事長としての様々な取り組みも含めて、自主お聞きしたいと思いますので。
今日は本当に久しぶりにサバエのお話を聞いて、今私たちが地元でやらなきゃいけないことのまたヒントをいただいたような気がしました。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
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