レクチャーシリーズ「パターンで学ぶ議論の仕方」(全8回)は,議論の仕方を少しずつ学び,充実した議論を行うためのスキルを高めることを目的としています。その第1回となるこのエピソード「議論とは何をすることなのか」では,小説家・片岡義男氏の文章をもとに,そもそも議論とは何をすることなのかについて解説します。
なお,このエピソードは,私(たな)が大学の授業で使っている講義ビデオ「議論とは何か(再論)〜片岡義男氏の文章をもとにして〜」をもとに作成しました。したがって,「このミニレッスンビデオ」といった言い方が出てきます。また,実際の講義では,このレクチャーシリーズ第2回の内容のビデオを観てもらったあと,しばらくしてこのビデオを観てもらいましたので,タイトルには「再論」という表現が入っていますが,このレクチャーシリーズでは,順序を入れ替えました。
講義ビデオでは,スライドを示しながら説明していますので,そのスライドを下に掲載します。下の文字起こし欄に,そこで参照してほしいスライドの番号を【スライド1】などと記載していますので,必要に応じて参照してください。
また,講義ビデオ自体も下に掲載していますので,必要に応じて参照してください。
スライド1

スライド2

スライド3

スライド4

スライド5

講義ビデオ
参考文献
片岡義男「対話しない人」(Romancerで読む)
このレクチャーシリーズを受講する方に是非読んでおいて欲しい文章です。議論をするとはどういくことか,具体的なイメージを与えてくれます。
サマリー
このエピソードでは、片岡義男氏の文章をもとにして、議論とは何をすることかを考察しています。
議論とは具体的に何をすることなのか
【スライド1】「議論」とは何か(再論)〜片岡義男氏の文章をもとにして〜。このミニレッスンビデオでは、議論とは何かということを、片岡義男氏の文章をもとにして考えていきます。
前に、私の言葉で、「議論」とは何かということを説明しましたが、この片岡氏の文章によって、よりわかりやすくなるかと思います。
【スライド2】片岡義男氏の「対話しない人」
この片岡義男氏という人が、「対話しない人」というタイトルの文章を書いています。
この文章は初め、『日本語で生きるとは』という本の中で、その本の第3章として発表されたものです。
1999年ということですから、今からもう20年以上前に発表されたものです。
この文章は現在、インターネットで電子書籍として公開されています。
Romancerというサイトの中で読むことができます。
ちなみに、この片岡義男氏という人は、1939年生まれの小説家の方です。
この文章では、日本人がなぜ対話をしないのか、あるいは、そもそも対話とはどういうことなのかということを論じています。
ここで「対話」と言われていますが、私が「議論」と言っていることとほぼ同じ意味です。
この文章の中でも、「対話」と並んで「議論」という言葉が出てくる場合があります。
【スライド3】ではここから、片岡氏の文章を引用しながら、コメントを加えていきたいと思います。
まず、「議論」とは何か、ということで。
ちなみに、このスライドのタイトルは私がつけたものです。
「対話とは、共通の関心事という問題をめぐって、他者とともに可能な限り言葉をつくし合い、その作業をとおして、問題とされていることについて考えられるだけ考え抜き、もっとも健全な方向を見つけていく営みだ」。
こう書いています。
ここでは、対話とは何か、ここで言う対話というのは議論のことなんですが、したがって議論とは何かということが一文で書かれています。
これだけだと分かりにくいと思いますが、この後に詳しい説明が続きますので、さらに引用をしてコメントしていきたいと思います。
【スライド4】「議論」とは具体的に何をすることか
引用します。
「対話は一騎討ちではないし、わかり合いごっこでもない。
両者のあいだの共通性を可能な限り見つけ出していく作業を、言葉をつくし考え抜くことによって、徹底的におこない続ける。
このことをとおして、両者のあいだに存在する差や違いが、とことん追い込まれていく。
追い込まれれば追い込まれるほど、両者のあいだにある差や違いが、はっきりしていく。
と同時に、両者にとってたがいに了解し合うことの出来る領域が、少しずつ広くなっていく」。
このように書かれています。
まず冒頭で、対話、これは議論のことなんですが、これは何でないかということが書かれています。
それは「一騎討ちではないし、わかり合いごっこでもない」とこう書いてあります。
一騎討ちっていうのは、これは戦いですね。
つまり議論というのは、相手を言いまかすような、そういう勝ち負けがあるような戦いというイメージです。
しかしそういうものではない。
またわかり合いごっこ、つまり相手のことをわかってあげる、受け入れる、それをお互いにする(補足:要するに,わかり合ったふりをして対立を避ける)、そういうこととも違う。
つまり最初の方では相手のことを絶対に受け入れないという考えであり、後の方では相手のことを自分と違っても受け入れるということで、
両極端ですけれども、どちらもこれは議論とは違うものだということが最初に書いてあります。
では、議論とは何をすることなのか。
まず、それは両者、つまり自分と他者の間の共通性を可能な限り見つけていく、そういう作業であるということですね。
つまり、意見が違う人同士でもどこか共通性がある、同意できる点があるだろう、それをまず見つけるということが大事だと。
しかし、もちろん全てが同意できる、共通であるわけではないので、差や違いもあります。
ではどこの点で差や違いがあるのか、これを見極めていきます。
そうすると、当初は考えが全然違うと思われていたような、そういう人同士の間でも意見が一致する部分があるということがわかったりするわけですね。
そして、意見が違うところはだんだんと絞られていくわけです。
それが「追い込まれる」という言葉で書かれていますね。
そして、そうなればなるほど、つまり違いというものが狭い範囲に追い込まれていけばいくほど、両者の間に互いに了解し合うことのできる領域が増えていくということになります。
こういうことをするのが議論をするということの具体的なイメージなんだということですね。
議論のめざすところ
【スライド5】「議論」のめざすところ
ではそういうことをする議論というのは、何をめざすのでしょうか。結果的にそれによって何が得られるのでしょうか。
それが書かれているのが次の部分です。
「了解し合うことのできた共通性の部分と、いまだ共通しない差や違いの部分を、両者は対等に観察し認識する。
両者に共通した価値となるはずの、進むべきもっとも健全な方向というものが、このようにして見えてくる。
対話とは、共通の価値の獲得を目指した頭の中身による対立なのだ」。
このように書かれています。
この文章では、今まで出てきました共通性を見つけるということと、差や違いを見つけるということが書かれていますけれども、重要なのはそれらを対等に観察し認識するということです。
つまり、いろんな意見が出るわけですが、それを自分の意見も他人の意見も差をつけることなく、同じように観察し認識する。
そしてどちらが正しいか、妥当かということを考え、必要があれば自分の意見を変える、相手に同意するということもすることになるということです。
そしてそうすることによって、どんどんと共通点というものが増えていきます。
同意できる部分が増えていくわけですけれども、そうしますと進むべきもっとも健全な方向というものが見えてくるだろうと。
つまり、お互い認めることができる、そういうものが出てくると。
対話、それは議論のことなんですけれども、議論のめざすところというのは、そういった共通の価値の獲得なのであると。
そういうことがここに述べられています。
そしてそれをめざすためにお互い意見を交わすわけですけれども、その意見というものはあくまでもお互いに出し合って、それで協力しながら吟味をしていく、そういうものです。
違った意見というものが出るからこそ議論が深まるわけですよね。
そこで人間的に対立し、けんかをする、そのために議論をするというわけではないわけです。
共通の目的をめざして協力していくこと、これが議論なのだという、そういうことがここから感じられるかと思います。
以上、片岡義男氏の文章をもとにしながら、議論とは何かということについて考えてみました。
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