132 本棚 | 孫泰蔵『冒険の書』から
132 本棚 | 孫泰蔵『冒険の書』から - TanaRadio
2024.8.1設置。途中経過ボイスメモは2024.8.13までの4回分をまとめました。00:01 ボイスメモ第1回(2024.8.4)08:28 ボイスメモ第2回(2024.8.6)19:03 ボイスメモ第3回(2024.8.10)23:04 ボイスメモ第4回(2024.8.13)孫泰蔵さんが本書で明らかにしたご自身の「探究の旅」を共にしながら,しかし所々スキップしたり,寄り道したりしながら,私なりの「探究の旅」に出たいと思います。探究の始まり:なぜ学校の勉強はつまらないのだろう?「遊び」と「学び」と「働き(仕事)」が分けられたから(p.105)。学校の勉強がつまらないのは,無目的で自発的な遊びと分離し,能力を向上させるという目的を持ち,非自発的に(=強制的に)させられる活動となったから。なぜ大人は「勉強しなさい」と言うのか?子どもが勉強しないと,能力が高まらず,子どもが不幸になると思い込んでいるから(p.162)。格差は,ほぼ偶然により決まり,努力の結果ではない。しかし,学校は,それを努力の結果と信じ込ませている(by 小坂井さん)。→それゆえ,勉強が強制される。早く学んだ方が良い,基礎を先に学んだ方が良い,という思い込みがあるから,子どもが興味をもっていないことを勉強するよう強制することになった(p.92)。禅の修業では,失敗から学ぶことを大切にしている(by 松山大耕さん)。各自が学びたいことを学びたいときに学ぶのがよい(それは人によっていろいろなはず)。それで失敗しても,失敗から学べばよい。学ぶべき内容や時期を一律にして全員に強制するから,学びがつまらなくなる。能力を身につけてなにがいけないのか?能力を身につけられなかった人は,やる気や自信を失い,不幸になるから(p.205)。したがって,やりたくもない勉強を強制し,悪い評価を得て,「能力」の低さを見せつけられ,自信をなくさせるようなことはすべきではない。評価は本当にいらないのか?評価に代わるものとして,相手の良さを認めるアプリシエーションをすべき(p.186)。アプリシエーションこそが,学びを楽しく豊かなものにし,学ぶ者を励ます(p.187)。では,どのような学びが望ましいのか?もし僕が今、君のように生徒だったら、学校には行かないだろうと言うこと。そのかわり、自分が今好きでやりたいことをとことんやるだろうね。(p.13)好きなことがあるなら、なぜそれだけを一日中やれるように環境を変えない?(p.14)ひとつの学校に縛られるのではなく、いろんな学校で好きなように学べたらいいんじゃないか。それも学校単位じゃなくて、あの先生のこのクラス、この内容、と言う細かい単位で選べたほうがいいんじゃないか。もっと言うなら、学びたいものや人が一番集まっている最前線の「現場」や、探究者が一番集まっている「本場」で学べた方がいいに決まっている。(p.20)教師じゃなくて、詳しい人から学んでもいいじゃない。講義もいいけど、プロジェクトを実行することからもたくさん学べるし、学ぶために会社を作ったら、より本気で学べるかもしれない。子どもも大人も、学びたいものは何でも一緒に学べばいいよね。(p.21)本来、学びは大学に行かなくたって、いつでもどこでもできるものなのに、ライフステージの「仕切り」にとらわれて、そう考えることすらできなかったのです。(pp.65-66)学校がつまんないと思うなら、無理して行くことはない。したくもない勉強を無理やりさせられて嫌いになるくらいなら、しないほうがマシ。遊びたいなら遊べばいいし、学びたいなら学べばいい。働きたいなら働けばいい。もしなにかをすることに疲れたなら、休めばいい、と。(p.66)僕が行きついた新しいアイデア、それは現在の小中学校をやめて、そのかわりに新しく「初心者のための学びの場」をつくるというものです。子どもも大人も関係なく、同じテーマに興味がある「初心者」が誰でも一緒に楽しく学べる場をイメージしています。(p.67)生まれて最初の20年かそこらのうちに詰め込み教育をする必要が一体どこにあるのだろう。いつでも興味を持った時に学び始めればいいじゃないか。生涯かけていろいろなことをじっくり学べばいいじゃないか。無理やり詰めこんで、わざわざ学びをつまらなくするくらいなら、むしろ、本当に興味がわくまではあえてまったくやらないほうがいいんじゃないかとすら僕は思います。 学びの楽しさや喜びを追究するなら、「早い教育」よりもむしろ「遅い学習」のほうがいいんじゃないか。(p.75)なにかにたどりつく道は無限にある。 それはつまり、「どれが基礎でどれが応用だという境目はない」ことを意味します。(p.79)なにはともあれ、初めは自由に遊んでなれ親しむ。その後、深く極めたいと思った時に初めて「自分が基礎だと思うこと」を徹底的にみがく。このほうが、よっぽど自然で、その世界に入りやすいと僕は思うのです。(p.81)それよりも「自由に遊んでいる中で、気がついたら学んでマスターしてしまっている」という状態が最も理想です。そういう学び方なら、学んでいる本人は楽しいので、長続きします。何かを習得する最良の方法は、長くずっと学び続けることです。その観点からも「遊んでいるうちに学んでしまう」というのはとても理にかなっていると思います。そして、教師も「教える人」をやめて「一緒に遊ぶ人」になればいいのです。基礎はおもしろくない。なのに、基礎をやらされる。だから、「夢中になったまま大人になれない」。そう、私たちの中にある「基礎」と言う常識がジャマをしていたのです。/「 基礎」という常識の無意味さに気づいてしまった以上、僕はもう「基礎」などという考えにとらわれるのをやめようと思います。そうすることで、学びとともにあった遊びを、再び私たちの手に取り戻すのです。(p.82)つくるべきは、ルールではなく、「試行錯誤できて、失敗から学べる環境」。それは、実は1000年も前から証明されていたのでした。これから僕もこういう場のデザインを心がけていこうと思います。(p.89)教育を変えたければ、まず、子どもの見方を変えるところから始めれば良いと言うことが言いたいのです。「子どもを子どもあつかいしない」のはもちろんのこと、人間にあるのは一人ひとりの個性だけで、ただそれを愛でるだけでいい。そして、同じ分野に興味や好奇心を持つ人たちが、好き好きに集まって一緒に学び合う多様な場があればいい。今、必要なのは、そういう学びの場だと思うのです。(pp.151-152)学びの場は、評価をして自信を失わせる場ではなくお互いが多様なアプリシエーションによって勇気づけられる場であればいいと僕は心から思った。(p.189)学校に行く行かないは全く関係ありません。学びの根底に流れる自由な精神こそ、人間を自由にする技、すなわち「リベラル・アーツ (liberal arts) 」なのだろうと僕は思います。(p.247)僕は、そもそも「専門家」とか「素人」とかいう区別をしなければいいと思います。これまで大人と子どもとか、学びと遊びとか、いろいろ分けたのがいけなかったとお話ししてきましたが、そもそもそうやって分けて考えるからいけないのだと思うのです。少なくとも、専門家だけが発言できるより、素人が本気でおもしろがって次々にいろんなアイデアを出せる世の中のほうが絶対に楽しいし、学術的にも社会的インパクトとしてもよい成果がでるんじゃないかと思います。(pp.263-264)人々を「自立」の呪いから解放するには、実は子どものうちから自分の好きなことを追究できる環境に身を置き、まずは自分を満たすのがいちばんだと確信しています。(p.289)学びの場はどのようにあるべきか。/結論から言うと、「世界を良くするために集まった探究者のコミュニティ」であるべきだと僕は思います。それは志を同じくする人々によって構成された、助け合いながら自分たちだけで運営していけるコミュニティであり、「アンラーンするために集まるコミュニティ」と再定義したいと思います。/これまでの教育機関は「学ぶために通ところ」でしたが、僕はそれを真逆の意味に変えたいのです。正直なところ、ラーニングは一人でもどこででもできます。しかし、アンラーニングは自分だけではなかなかうまくいきません。アンラーンしようとしている人と交わる中で、対話を通じて初めてできるものです。ですから、わざわざ集まる意味はアンラーニングのため以外にないと思うのです。(p.321)大人と子どもはなるだけ一緒にいて、互いにラーニングとアンラーニングを繰り返せるようにしなければならないと思うのです。それが、初等教育の場を「年齢を問わず、新しく探究や学問をしたい初心者が集う場」と再発明する意味です。(p.322)孫さんの考えを活かす方法:【授業】強制はできるだけ少なくする(ライブの授業への出席など)。試行錯誤できる場をつくる。教材は,小出しにせず,最初からすべてアクセスできるようにする。自信を失わせるような評価はしない。教師も,学生と共に学んでアンラーニングを楽しむ。【授業外】教材を細かい単位で公開する(可能な範囲で)。その他『冒険の書』冒頭にある「父からの手紙」のモデルを提供している本。清沢はこの本の冒頭に「序に代へて わが児に与ふ」という子どもへの手紙のような文章を掲載しています。参考:孫泰蔵さんへのインタビュー上記ビデオ,文字起こし記事(ログミーBiz)本書は,愛する人のために遺書のつもりで書いたブックガイド。簡単でもいいので同様のものを書いて残すことを勧める(by 孫さん)。#LISTEN本棚 #孫泰蔵 #冒険の書