脱構築の背景
ストーリーとしての思想哲学
思想染色がお送りします
前回、脱構築とはパラダイムを揺さぶるための方法論だという話をしました
それで脱構築はその性質上定義することができないという話もしました
でも普通の感覚としてそれじゃ納得できませんよね
理論上定義ができない理論をどう理解すればいいか
ここはもう誤解を恐れずに話を進めていきたいと思います
脱構築の方法論とは、二項対立を意図的に操作することだと言えます
二項対立とは例えば、真理と虚偽、精神と身体、本質と見かけ、善と悪、自然と人工みたいな感じです
人間が物事を論理的に考えようとすると必然的に二項対立を使うことになります
他にも、正常と異常、真面目と不真面目、オリジナルとコピーなど、二項対立は無限にあります
そもそもとして人間は二項対立を用いて物事を考えているし
哲学もこの二項対立構造を使用しています
で、二項対立というものは絶対普遍のものではない
ヒエラルキーの転倒
むしろ操作することでアップデートしていくことができるというのが脱構築の考えです
方法論として二つやり方があると思うんだけど
まず一つ目がヒエラルキーの転倒
二項対立にはヒエラルキーが存在します
真理と虚偽だったら真理の方が偉い
精神と身体なら精神の方が偉い
本質と見かけなら本質の方が偉い
善と悪なら善の方が偉い
自然と人工なら自然の方が偉いみたいな感じです
このヒエラルキー異界秩序を意図的に逆転させるというのが一つ目の方法です
そうすると何がいいかっていうと
ヒエラルキーが上の偉いとされている側を批判できるようになるんです
例えば善と悪なら間違いなく善の方が優れていると思うじゃないですか
でも脱構築的に考えると
物事に絶対の本質はないから
本当に悪は善よりも劣っているの?と考えます
この前、悪とは何かの回で場体をやりましたけど
人間にとって悪は必要不可欠だということでした
馬太夫の回でも言いましたけど
善しか存在しない社会って実際結構怖いじゃないですか
リアルな現実世界では
本当にちょっとした悪いことや
いたずらを共有できる友達ってすごく仲が良くなるし
夜深しは悪いことだけど夜深しもしたいし
食べ過ぎ飲み過ぎだってたまには必要です
要は、悪とは人間性の厳選であるというところに行き着くという話でした
日本の哲学者の千葉雅也先生の言い方を借りると
二項対立はあくまで仮固定なんです
善と悪なら善の方が優れているって絶対普遍のものじゃなく
人間が物事を理解するために
そんな風に仮固定する形で捉えているだけで
別の読み方もできるよねっていうのが
一つ目の方法論
あえて違う読み方をするためのヒエラルキーの点灯です
屋台骨の組み替え
次に二つ目の方法論
屋台骨となる骨組みの組み替え
僕は個人的にこっちの方が大事だと思うんですけど
そもそも概念には屋台骨となる大黒柱があるという風に考えます
例えば人間の意識とは何かっていう問いは
哲学で伝統的に議論されてきたテーマです
ここでは意識イコール人間の精神と考えてください
それで伝統的に精神と体という二項対立がずっと長いこと使われてきたという歴史があります
これは直感的に理解できますよね
善と悪みたいな感じで精神と体を並べるというのは至極真っ当な発想です
至極真っ当であるだけに疑いようのないようなすごく良い二項対立のように見えるけど
これだって脱構築の考えではあくまで仮固定なわけだから
場合によってはもっと良い
もっと良い感じの二項対立にすることだってできるんです
例えば意識と無意識です
精神と体つまり意識と体という仮固定された二項対立をずらして
意識と無意識という骨組みに組み替えることができます
これはフロイトがやった最も見事な脱構築的なやり方だと思うんですけど
従来は人間の意識というものを理解するために
肉体と対峙させることで理解しようとしてきたんです
でも精神と肉体を対比させているだけだと
無意識という概念にはちょっとたどり着くのは難しいじゃないですか
2025年現在の僕たちからしたら
無意識って普通に使う概念ですよね
でもそもそもこの無意識って概念にたどり着いたのって
よーく考えると超すごくないですか
だって無意識って人間の理性では知覚できないんですよ
知覚できてしまったらそれはもう無意識じゃない意識です
知覚することができないから無意識っていうわけで
知覚できないものにたどり着くのがいかに離れ技であったか
例えるなら自分の肉眼で
自分の目で自分の眼球を直接見ようとするようなものです
この離れ技をやってのけるための方法論として
概念の屋台骨を組み替える脱構築があると言えると思います
すごく砕けて言うとこの2番目の脱構築っていうのは
最初に関心のある概念
例えば人間の意識とか自分が関心のある概念があって
その概念に対する二項対立を用意します
この場合だと精神と肉体ですよね
次に従来の二項対立よりももっと見事な
感動するくらいめっちゃいい他の概念につなぎ替えます
今の場合だと意識と無意識ですね
無意識って人間に知覚できないものなわけですけど
まるで無から有を生み出すかのような見事さで
無意識という概念と言葉を生み出して
意識という概念とつないで
新たな二項対立にしてしまいました
二項対立を組み替えるっていうと
本当に無限なパターンの組み替えが考えられるわけですけど
だから脱構築といってもいろいろあって
もうこれは本当に見事な素晴らしい脱構築だっていうのもあれば
もう全然そんなん脱構築じゃないよみたいなのもあるし
実際レベル感というか難しさとか見事さっていうのは
いろいろなパターンがあり得ると思います
それで言うと脱構築の難易度とかレベル感で言うと
この無から有を生み出す的な
例えば無意識みたいな
今まで誰もそう思ってなかったけど
言われてみればそうだみたいな
何もないところから新しい概念を生み出して
で、その何もない無から有を生み出して
そこに繋ぎ替えるっていう
こういう2番目のやり方の脱構築のやり方が
レベル感で言うと最上級のものであり
最難関のものだと思います
同じような例だと
空気という概念に真空という概念を繋いで
新たな二項対立にしたっていうのも
フロイトと同じ
無から有を生み出す系のアプローチでした
これは1650年にゲーリケという人が
真空ポンプを発明したという形で
歴史に残ってますけど
むしろ誰も真空という概念を
受け入れてなかったところから
真空という概念を生み出して
空気という概念と繋いだっていう
こういう無から有を生み出す系の
最難関の脱構築的なアプローチに
成功したという形で
歴史に記録された方が
その偉大さが伝わるんじゃないかという気がします
ここで一旦切って
次回2番目の脱構築について
もうちょっと補足を続けていきます
次回に続きます