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#7_自他境界_身体知的哲学
2026-09-17 10:20

#7_自他境界_身体知的哲学

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サマリー

今回は、自分と他人の違いを捉える「自他境界」について、日常・ビジネスの世界と哲学・東洋思想の世界という二つの見方から語る。前者では「自分が嫌なことを他人にしない」という道徳に加え、自分の快・不快が他人にも当てはまるとは限らないという価値観の違いが重視される。後者では、仏教や西田幾多郎、ユングの考えを例に、自分と他者は本当に別の存在なのかという問いが扱われる。現実には自他を分けて対処する必要がある一方、哲学的に考えるほど境界のない世界に近づくという緊張関係が示され、両方の世界を往復できる人への驚きで締めくくられる。

日常とビジネスにおける自他境界
田舎社労士さだきちの路傍観察日記、第7回、訳あって、都会の会社を退職したさだきち、よくさだきちゃんって呼ばれるんですけど、日々をごわっと観察して考えたことをお話しする、今日のテーマは、自他境界、自分と他人が違うってことがわかる自他境界、
2つの世界線があると思ってて、ビジネスだったりとか、普通の世界の自他境界の分け方と、もう一つは、どっちかというと哲学的というか、
東洋思想的な自他境界の
分かれてなさんみたいなところがあって、その2つの違いについて話したいと思います。 まず、ビジネスとか普通の世界の自他境界について。これは2つ軸が主にあると思ってて、
1つ目の軸が、 私がやられて嫌なことは他の誰かにしない。
私がしてもらって嬉しいことは他の誰かも嬉しい可能性が高いに違いない。 これが一つの軸です。
要は、小学校とか、もっと言うと幼稚園、保育園で習うような道徳の世界です。 これが一つ目の軸。
中学生になったり高校生になったり、大人になると必ずしもそうではないということがわかってきて、
これが2つ目の軸なんですけど、私がしてもらって嬉しいことでも他の誰かは嬉しくないかもしれない。
私がやられて嫌なことでも他の誰かは嫌ではないかもしれない。
価値観はそれぞれ違うみたいなところが、これが2つ目の軸です。
BGMが切れちゃいましたが続けます。
これと全く同じことを、というか、もっと詳細に言っているのがケンスーさんのポートキャストであって、
本当に簡潔というかわかりやすくお話しくださっているので、そちらを参照してほしいんですけど、
これが多分、ビジネスの世界とか普通の世界でのある種の常識というか、
ここがわかっていないと人間関係がうまくいかないよね、みたいなところだと思います。
それに対してちょっとその世界観というのが違うのが、
哲学・東洋思想から見た自他の境界
哲学とか東洋思想とかその辺りの世界線での私と他の誰かは違うのか?みたいな話です。
ビジネスとか普通の世界では、私と他の誰かははっきり分かれた別の存在であるからして、
というところになりたっていました。
これがAとします。
哲学とか東洋思想とか、私たちの意識の根底には実はBが存在していて、
それは私と他の誰かは実は別の存在ではないかもしれないっていう世界線です。
これは、例えば仏教の言葉で言うと、
文が一如とか、もっと言うと識則是空だったりとか、
例えば西田北郎なんかだと主客身分とか主客同一とかいう考え方になります。
西洋の考え方で最も近いのが、おそらく集合的無意識、カールグスタフィングみたいな話になってくると思います。
他の誰かと私っていうのは実はそんなに違わないかもしれないっていう結論に、
哲学の世界ではたどり着いた人が複数いて、
それが例えば仏教だったりとか、
あえていろいろあると思うんですけど、仏教哲学的なところです。
あと西田北郎とか、あとはユンルとか、そういう世界線も実はあります。
これは精神医学だと、どちらかというと統合失調症的というか、
どんどん自他教会が曖昧になっていって、
何が何だかわからなくなるみたいな世界線でもあります。
二つの世界線を往復すること
これを多分すごくわかりやすく表しているのは中上賢治の小説とかだったりすると思います。
私と他の誰かははっきり別れた別の存在であるっていうAの世界線と、
私と他の誰かは実は別の存在ではない、分かちがたいかもしれないっていうBの世界線があって、
現実の世界は必ずAとして対処しなければいけないんだけど、
哲学的にどんどんどんどん考えていくとBの世界線に近づいていくみたいなところがあります。
もちろん西洋哲学の多くはAの世界線からできているんですけれども、
東洋哲学とかは割とBの世界線に近づくような感じがします。
そして残念ながら、このBの身分分かちがたいっていう世界線は、
先ほども言いましたが、とても統合主張症的な世界観に似ています。
なので、ある程度頭が良くても、その世界に入り込んでしまって、
抜け出せなくなる人っていうのは結構いるイメージです。
まるに西田みたいな天才とかユムみたいな天才がいて、
その両方の世界、自他教会がはっきり分かれた世界と、
自他教会が分かれていない世界を行き来できるような人が現れて、
その人が哲学とかを更新していったりするんだと考えています。
道徳の先にある自他境界
少なくとも私は。
この世界線を往復できる人っていうのはやっぱり限られていて、
一部の天才的な人だけのような気もしますし、
その上に人間的な深みっていうのもやっぱり必要になるので、
すごいなっていつも思っています。
難しい話?
自他教会、自分と他者の境界線の話。
ただ単に人にしてもらって、
嬉しいことを相手にもしようみたいな、
雑な道徳の世界ではない世界で、
その先に実は何かがあるんだよなっていうことを言いたかったです。
道徳は実は雑ではありません。
田中正郎氏、佐田吉のロボ観察日記。
第7回?だったっけ?
回数はもはやカウントできなくなりました。
10回未満なのにこれかよ。
この話の続きはまた明日。
またね。
10:20

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