1. スポットビュー -その場所から社会を見る-
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#2 「社会問題の根っこにあるものとは?」(ゲスト:『オヤビンとコブン』制作者 麦わらさん、リリーさん)
2026-09-14 1:03:49

#2 「社会問題の根っこにあるものとは?」(ゲスト:『オヤビンとコブン』制作者 麦わらさん、リリーさん)

今回のゲストは、アニメ・漫画作品『オヤビンとコブン』を制作されている麦わらさん(原作・脚本・絵)リリーさん(映像)のお二人です!

本業(学童保育職員/依存症回復支援施設の看護師)の傍ら、二人三脚で作品を生み出し続けるお二人。作品の制作背景をはじめ、依存症支援の現場から見えてきた「生きづらさの根っこ」、本音を語り合う「分かち合い」の重要性、そして厳しい現代社会を生き抜くための「遊び」と「ゆとり」について、たっぷり語り合いました。

パーソナリティ|Yama
群馬県。空き家を改修した地域コミュニティスペースを運営。


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サマリー

今回のエピソードでは、「おやびんとこぶん」の作者であるむきわらさんと、作品を映像化しているリリーさんをゲストに迎え、「社会問題の根っこにあるもの」をテーマに深く掘り下げました。むきわらさんは、自身の経験から社会問題の解像度を高める作品を執筆しており、リリーさんは看護師・助産師としての経験を活かし、依存症回復支援施設での活動や、作品の映像化に情熱を注いでいます。二人は、作品制作の裏側や、社会問題の根源にある「生きづらさ」や「心のあり方」について語りました。特に、依存症回復における「分かち合い」の重要性や、現代社会における「愛」の希薄さ、そしてそれらを乗り越えるための「神様の愛」という概念についても触れられました。また、信仰に対する日本人の抵抗感や、それを乗り越えるプロセス、そして「遊び」が持つ社会問題解決への可能性についても議論が展開されました。最終的に、心のあり方や、互いを許し合える社会の重要性が強調され、作品を通じてこれらのテーマを伝えていくことの意義が語られました。

ゲスト紹介と「おやびんとこぶん」制作の背景
スポットビュー、このポッドキャストは、様々な活動をしている人にスポットを当てて、
その視点で、その方が感じていること、その方が見ている景色を話してもらうポッドキャスト番組です。
本日のゲストは、おやびんとこぶんの作品を作っていらっしゃるお二人です。
作っていらっしゃるリリーさんとむきわらさんをゲストとしてお呼びしております。
本日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お二人に自己紹介をしてもらいたいんですけど、
最初、むきわらさんから自己紹介をお願いしてもいいでしょうか。
はい、むきわらです。
今日はお呼びいただいてありがとうございます。
そうですね、自己紹介ということなんですけれども、
おやびんとこぶんにおいては、原作を書かせていただいていて、
脚本と絵を描いているというような感じです。
今、仕事は児童館で勤めて、学童保育と児童館が一緒になっている感じなんですけれども、
そこの職員として働いています。
もともと営業とかゴールセンターとか、いろいろ関係のない異業種で働いていたんですけれども、
おやびんとこぶんでいろいろと社会問題のあれこれを勉強しながら、
共通点としてやっぱりご家庭の中でのいろんなことが絡んでいるなということが見えてきたので、
そこでちょっと意を消して仕事を変えて、保育士の資格を取って、今働いているというような感じになっています。
今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
本当に作品を読むと社会問題の解像度がぐっと上がる。
かなりやっぱり実体験があってのいろいろと問題定義されているんだなというのを作品から感じています。
本日は三原さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
続きまして、リリーさん自己紹介お願いします。
ありがとうございます。リリーと言います。
私はもともと看護師、助産師として仕事をずっとしていたんですけれども、
仕事をしている最中に麦わらさんの作っているおやびんとこぶんという作品に出会って、
今はファンが工事で製作者側に回っているみたいな感じなんですけれども、
麦わらさんが主にストーリーと絵を描いて、
BGMをやってくださっているんですけど、
私は麦わらさんが作られた素材たちを集めて、
映像ソフトに落とし込んで映像化するっていうところをやらせてもらっています。
ちょっと岡戸違いというか、もともとの仕事からするとだいぶ違う分野ではあるんですけど、
もともと創作とか作品作りとかすごく好きだったのもありますし、
今日きっとね、そのおやびんとこぶん初めて聞くからね、
そもそもどんな話ですか、それみたいな感じだと思うんですけれども、
私はすっかりファンでファンクラブ会長と勝手に言ってるんですけど、自分のことを。
そこからやっぱり私も麦わらさんと同じ感じで、
普通に助産師をやっていたところからやっぱりもっと社会問題に近いところで仕事がしたいなと思ったので、
今は依存症の回復診をしている施設で、
一応看護師という形で雇用してもらってお仕事をしています。
結構そこでやっぱり学んだこととか感じたこととかも、
おやびんとこぶんももちろんそうですけど、そこから派生した、
おそらく今日お話しするであろういろいろな話の部分につながっているなと思いながら、
生きております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
作品の映像化と制作活動の時間
動画で原作をアニメにするって相当大変な動画編集だと思うんですけど、
仕事を普通にやりながら、正社員で働きながらどの時間帯で編集してるんですか?
一番最初はもうとにかくこの作品が好きで、
アニメ化しようっていうのは別に麦わらさんから頼まれたわけではなくて、
私がとにかくしたかったっていうのが大きかったんですよね。
麦わらさんが原作で文章として書いているものがメインだったんですけど、
文章だからこそ読めるっていう人もいらっしゃるし、
私も文章すごい好きだったんですけど、
もっといろんな人たちにこの作品を知ってもらいたいなっていうところから映像化したいっていうのがあって、
私も当時の映像技術的には不慣れなソフトを使うことになるっていうのが想定されてたので、
ちょっとどうなるかなっていうところがあったんですけど、
それ以上にこれはアニメ化してもっとみんなに見てほしいって思うのが勝ってたので、
もうなんかとにかく手探りでやりますみたいな感じで、
本当本職は違うので、YouTubeでチュートリアル調べたりとか、
2人ともなんて専門用語知らないながら、
これはちょっと右から知っておいてほしいとか、
それをネットで調べてとかそういうやり方をして、
とにかく楽しくやっていたので、
本当休み、文字通り休みの日はずっとやってましたね。
助産者だったのでシフト制で夜勤を1ヶ月に4,5回は確実にやってたんですけど、
夜勤終わって帰ってきて、いろいろやることをやり終えたら、
当時帰っている教会のパソコンを借りて作ってたんですよね。
そのまま夜、教会の近くの家に泊まらせてもらって、
翌日も朝っ端から教会で、
本当は朝の5時、6時くらいから夜の9時くらいまで、
ずっと本当にパソコンの前で作業してっていう。
そうですそうです。夜勤の翌日だいたい休みなので、
全部親指に作る時間に当てて、
普通に仕事行って、平日は基本的にやらないんですけど、
夜勤明けからの休日は全部本当文字通り使ってって感じでやってましたね。
どのぐらいの頻度で2人でミーティングとかしてるんですか?
でも一番最初はもう、私の休みになれば、
ずっと電話を繋ぎながらやり取りする感じで、
私は喋れる状況なので、
ここってこうします?ああします?とか言って、
画面をリモートで繋ぎながら、
麦わらさんは出勤する電車の中で、
それを聞きながらLINEで全部返してくるみたいな、
そういうやり方を。
うらやましいです。
そういうパートナーというか、
一緒にやっていける2人組って憧れますね。
ちょっと最初から脱線しちゃいますけど、
漫画を作る漫画があって、
それも2人組で作ってて、
まさにお二人がやってることって、
本当に二人三脚で作品作ってるんだなっていうのをすごい感じて、
最初からちょっとなんか、うらやましいなっていう思いが。
ちょっと本題に入りたいと思います。
テーマ「社会問題の根っこにあるもの」について
今日のテーマが、社会問題の根っこにあるものはというテーマで、
話していこうと思うんですけど、
そもそも今回のテーマを持ってきてもらったのは、
麦わらさんになるので、
麦わらさんからこのテーマを扱いたいなと思った理由を、
ちょっと最初伺ってもいいでしょうか。
正直、絶対にこれですっていうものが、
めちゃめちゃ見えてるわけではないんですけれども、
でもなんかやっぱり共通点みたいなものはあるよな、
と思ってはいるところなのと、
今この3人だからこそ、
より深められるものがあったら、
話しながら広げていけたらなっていうのもあります。
あとは、今親指のところから派生して、
心の根っこっていう企画をさせていただいてるんですけれども、
高齢者とか児童福祉分野とか、
いろいろとその分野の方をゲストでお招きして、
お話ししてもらうようなものを今やってるんですけれども、
今そこで一番すごく大事にしているのは、
分かち合う時間っていうのを取ってるんですね。
リリーさんが依存症の回復診施設で働いているんですけれども、
そこで事情グループという集まりがあって、
分かち合いっていうのをやられてるんですね。
そこでは基本的には言いっぱなし、聞きっぱなしっていうようなスタイルみたいなんですけれども、
すごく自分自身のちょっと言いにくいようなこととか、
正直なこととか、こう感じたとかこういう出来事があって、
こう思ったっていう、
普段の社会生活では話せないような内容も分かち合える。
でもそれでいて、言いっぱなし、聞きっぱなしなので、
何か批判とかされることもなく、
すごく安全な場所は作ってないといけないんですけれども、
それを通じて、やっぱり自分自身の心と向き合える、本音と向き合える。
また、話している人の話を聞きながら、
自分もそうだったなとか、なんか気づける場ができて、
すごくいい場所だなと思って、
心の根っこでもそれを活用させてもらっているというような状況です。
はい、という感じなので、結構心にフォーカスを置いて、
社会問題と絡ませて、
お話しする場を持つような場を作っている状況なんですけれども、
ここでは、心だけでなく何か感じたことがあれば、
それも聞いてみたいですし、
より心っていう面でも、
つながりが見えるような話もできたら面白いなと思って、
そのお題にしてみました。長くなりましたが。
「分かち合い」の継続性と依存症回復
ありがとうございます。ここは結構大事なテーマだし、
今回3人で話す中で、
それぞれの視点でこのテーマを見ることで、
新しい角度で見れたりとか、
理解が深まったらいいなと、リスナーの方に届けられたらいいなと思っているので、
最初に冒頭で、
麦わらさんがやっている活動、分かち合いであり、
普段の生活で言えないことが言える、
安心して言える場っていうのが、
誰しもないと、
社会問題に実際に入っている人たちも言えないですもんね、
普段の生活の中だと。
理論というよりは活動されているからこそ、
感じることもあると思うんですけど、
実際そういう心の根っこで、
心をある意味打ち出せる場所を作っていく中で、
麦わらさんが見えているものを感じたことっていうのは、
どんなことがあるんですか。
そうですね。見えているものを感じたことですけれども、
実際にやってみて、
一つは、継続し続けるっていうことは、
結構難しいんですよ。
というのは、
永遠に、同じこのグループで、
永遠に活動を続けるっていうのは、
なかなかあまりニーズがなくてですね。
分かち合い自体にって感じですよね。
分かち合い自体にですね。
イベントというよりはね。
そうですね。イベントというよりは分かち合い自体なんですけれども、
リリーさんが一番詳しいとは思うんですが、
依存症の方がまず、
始められた事情グループっていうところの分かち合いなので、
本当にお酒だったら、
もうお酒がないと生きられないぐらいの人たちだったり、
結構切実な方々だからこそ、
この話す場っていうところが、
すごい貴重な場所なんですよね。
話すことによって、
お酒を飲まないで住むっていう感覚なんですよね。
だから、話す場っていうのがすごく切実なんですよ。
その方々にとってはよりね。
なんですけど、私たちって言えば変な言い方。
そのものすごい何かに依存していて、
それを少し離れるために分かち合うっていうわけではなくて、
その時に感じたものをお互いに分かち合ってるっていうところなので、
その切実さ度合いは違うんですよ。
なので、どんなに私たちが場を作ったとしても、
継続して生き続ける方っていうのは、
そんなに多くはないなっていう印象はあります。
ですが、
お酒だったら、お酒で依存症になっている人たちが、
同じお酒のテーマで、
同じ課題を持っている人たちが集まったら、
もうちょっとそれが継続しやすくなるとかあるんですか。
そうですね。
依存症のレベルになってくると、
命に関わってくることになってくるので、
お酒をやめるためだったら、
なんだってするぐらいな気持ちで、
自助グループに皆さん来るんですね。
自分がお酒をまた飲んだら、
依存物をまた使ったら、
人生がめちゃくちゃになる。
だから分かち合うことで、
それをストッパーとして、
自分が飲んでいた頃の話をしたりとか、
飲んでいた頃のひどい話を、
他の人がしてくれているのを聞いて、
だからやっちゃいけないんだっていうのは、
自覚する場所になるんですよね。
ただ依存症ではないっていう方になってくると、
そこまでの切実さが、
分かち合いに対してもてなく、
どうしてもなってしまう。
別に分かち合いに参加しなくても、
無難に生きていけるし、
ある程度しんどくてもっていう、
やっぱり感覚があるので、
そういう意味では目的を持って、
長く参加し続けるっていうところは、
やっぱり難しいんだなっていうのは、
私たちも心の根っこの活動をしながら、
分かち合いっていうものを提供しつつも、
やっぱりメンバーが定着していくかっていうと、
そこまでではない。
自助グループはそこも見越した上で、
分かち合いの中で結構役割っていうのを、
臨盤で回すっていうシステムが導入されていて、
ただ自分が行くだけっていうよりは、
今日は自分は司会をやらないといけないとか、
今日はタイムキーパーをやらないといけないとか、
そういう役割を皆さんに持ってもらうことで、
かつそれを臨盤にすることで、
誰かがリーダー的にまとめるっていうよりは、
主体的に参加していくっていうサイクルを作ることで、
離脱を防ぐっていう機能も一応あるはあるんですけど、
私たちがテレビを見たらどちらかというと、
こちらが主催側で参加していただくっていう形に
どうしてもなっちゃうので、
やっぱり定着率は一般的な自助グループよりは、
やっぱりちょっと下がっちゃうかなってところはありますかね。
あれですか、参加して依存症がある方って、
そこでいろんな人の話聞くことによって、
依存症から自分のまずは思いとして抜け出したいという思いと、
それが今度は生活に戻った時に、
あとはもう本人が一人で頑張るしかないみたいなことになるんですかね。
そこで得たエネルギー、決心を持って生活に戻っていくという。
そうですね、そういう部分もゼロではないんですけれども、
一番大きいのは、
割合で得られる大きな部分っていうのが、
耐性ができるっていうところが一番大きくあるんですよね。
依存症って生き方の問題が結構絡んでるっていう風に
よく言われるんですけど、
ちょっと皆さんどういう印象かわかんないんですが、
私は依存症っていうのを今の職場につくまでには、
いくつかある精子疾患のうちの一つっていう認識で結構見ていたんですね。
鬱病があって、統合失調症があって、
阻力性障害があって、依存症があるっていう横並びのイメージだったんですけど、
現場に入ってみて思ったのは、
ちょっと依存症ってやっぱり精子疾患の中でも少し異質だなっていうのを思ったんですよね。
どういう風に異質なのかっていうと、
依存症って何かしらの生きづらさが土台になって、
後発的に起こる病気っていう色が結構強いところがありまして、
よく依存症にどうしてなるのかっていう理由として、
自己治療仮説っていうのがあるんですよね。
何か良くしようとしたくて、
リカバリーしようとして依存症になっちゃうっていう考え方があって、
単品で依存症に健康な人がなるっていうよりは、
何かしら生きててしんどいとか病気がつらいとか、
何か元となる別のものがあった上に起こるのが依存症っていう形が結構多いんですよね。
なので、単純に依存物をやめればいいというよりは、
依存物を使うに至ってしまった自分の生きづらさの部分を
見ていくっていう作業が必要になってくるんですよね。
なので、依存症にまで行ってしまうと、
その依存物を摂取すると、
体がもっとお酒を欲するとか薬を欲するっていうのは、
機能上そうなっていってしまう脳みそがあるので、
私たちの施設でアプローチをしているのは、
飲むことをやめるってもちろんそうなんですけれど、
飲むことのその土台になっている生きづらさを変えることで、
飲みたいが発生する効率を下げていくっていうやり方をしていく必要があるので、
自助グループでいろんな方たちが、
例えば自分はすごく寂しくて飲んでいたんだとか、
仕事のストレスがすごくたくさんあって飲んでいたんだとか、
家庭内の不安が原因で、
理想の家族っていうのをやらなくちゃと思って、
そのプレッシャーで飲んでたんだとかっていう話をしていると、
だんだん自分もそれで飲んでたかもっていうヒントが
いろいろ得られるようになっていくんですよね。
それを基にして実生活に戻った時に、
また今仕事でうまくやらなきゃっていう自分を思ってるぞとか、
またなんかこれ他の家より家庭的にちょっとどうなのかなって気にしちゃってるぞとか、
そういったところを気づいていく、
自分の原因となっている生きづらさに気づいていくってところが結構要素としては、
今締めとか決心っていうよりは、
もっと大きなところでは、
内省して自分の生きづらさに気づいていくっていうところが
一番大きなポイントかなというのは思いますかね。
だいぶ理解が深まってきました。
さっきの心の根っていうのがまさにその根っこにあるところ、
心の根っこにあって、
そこが原因で依存症が引き起こされているっていうところに根っこがあるとして、
その根っことやっぱり社会がつながってるし、
いろんな環境ともつながってるし、
結局それによって社会問題っていうのも紐づいてくるというか、
社会、今の生きてる世界がつながってくるということですよね。
いやー、それを今話した内容をすべて、
「おやびんとこぶん」に描かれる社会問題と愛
親指にとこぶんで確かに描いてたなっていう、
自分も今作品を思い返しながらフラッシュバックしたんですけど、
そこをやっぱり描いてるっていうのはすごいことだなと思うんですけど、
これは作っている原作者の麦わらさんに聞いてみたいんですけど、
こういうところを漫画でまず描くことによって、
狙いというか、描きながら思っていることとか、
ちょっと聞いてみてもいいですか。
そうですね。まず知らないことが多すぎたっていうところで、
私もほぼ独学であらゆる本を読みむくったりとか、
当事者の方のお話を聞く機会もあったりとか、
その積み重ねで知ったことが多すぎて、
あまりにも社会に対して無知だったなって思ったんですね。
なので、やっぱりその知ったものをまずは知るっていうこと、
知ってもらえる機会を作るっていう意味では、
やっぱりこの作品が一つ自分にできることなのかなっていうところはありますね。
まずは一つ目はそこかなって感じですね。
あとは、そうですね、社会問題と、
もう一つ描いてるのが神様の愛とか、
そういう、ちょっと宗教的かとは思うんですけれども、
そういう愛っていうのも伝えてるんですが、
結構この愛っていうのは、現代社会においてかなりキーワードになるのかなとは思っています。
なぜなら、やっぱりみんな生きていて、
愛って何だろうって思うところはあると思うんですよね。
で、今は各家族のね、だんだんコミュニティが狭くなってきていますし、
地域の人に支えられて生きているっていう感覚が持っててない方もすごく多いと思うんです。
そうすると、家族の中でその愛を知ることがほとんどの人だと思うんですね。
なんですけど、家族の中でも今愛って何だかわからなくなっちゃってるところも多いと思うんです。
お母さんからの愛とか、お父さんからの愛とかもそうですし、
お母さん自身、お父さん自身も愛されたいと思っちゃってるところもあるし、
夫婦関係がうまくいってない方ももちろんそうですし、
で、その愛を子供からもらおうとする、そういう親もいたりもしますし、
それによって子供が疲れちゃって、いわゆるアダルトチルドレンとか、
そういう愛着障害とか、ちょっと関連するワードにつながっていくと思うんですけれども、
やっぱりそうやって人の愛っていうのはやっぱり無限ではないですし、
やっぱりコロコロ変わってしまうというのが正直そうだよなって思うんですよね。
でもそういう時に私は教会で神様の愛というものに触れるようになって、
神様っていうのは、私たちさえ変わらなければずっと無限に神様を愛して接してくださるんですよね。
そういう愛っていうのは、現実世界で生きていて感じられるかっていうと、
なかなか難しいことだと思うんですよね。
それだけ超人的なね、例えばマザーテラサとかね、すごく思い浮かんだりとかするかもしれないんですけれども、
やっぱりそういう一人の人がずっと愛し続けてくれるっていうような状況ってやっぱりなかなかないと思うんですよ。
夫婦関係だとしてもやっぱり難しいことだと思うんですよね。
なので、この現代社会において神様の愛を伝えるっていうのは、
一つ必要なものなのかなって私は思うんです。
ただ神様の愛で一番ネックなのは見えないっていうことなんですよね。
見えないからその見えない神様の愛はどうやって伝わるんだろうって思うと、
教会に通っていればね、見言葉は聞けると思うんですけれども、
言葉をね、聞く人もね、いろいろだから、
神様の愛を本当に全員が同じ言葉を聞いて完璧に受けられるかって言ったら、
それもまたいろいろあるんですけれども、
だとしても、やっぱり神様の愛っていうのは知ったからには、
それを見えるように伝えたいなって思って、
現代社会の問題と神様の愛っていうのをうまく繋げ合わせて書いているのが、
というような作品になっています。
信仰と日本社会の抵抗感
すごい壮大な作品ですね。
本当神様の愛を伝える作品って。
今話し聞きながら確かにそうだなって思ったのは、
マザーテレサがもしいたら近くに、
多分それを愛を受けられると思うんですよ。
マザーテレサを通して神様の愛を。
マザーテレサも神様を信じてて、
神様から愛をもらっているから人々に与えられている偉大な方ですけど、
マザーテレサが本当に自分の近くにいたら、
マザーテレサを通して無償の愛を、
マザーテレサが神様から受けた無償の愛を自分が受けながら、
その愛で満たされて生きられるなとは思ったんですけど、
いないですからね、普通の人には。
マザーテレサが。
だからやっぱりそういう人たち、
多くの人、近くに、
無償の愛を与えてくれる人がいない人こそ、
神様と通じ合える、
本人の心に向き合うところが必要だし、
それを気づかせてくれる作品として、
親身と孤文があるっていうのは、
すごい今話し聞きながら、
確かになと、今マザーテレサに会いたい人は、
マザーテレサを通して会えるんだなっていう風に、
神様につながれるんだなっていうのを思いましたし、
あとは、なかなか今、
3人とも今クリスチャンだから、
神様のことを知ってる、
分かって学んで、
今知れてますけど、
日本人ってクリスチャン少ないですもんね。
結構世界的に見たら、
当たり前にやっぱり教会行くとか、
聖書の話とか神様の話で出てきたりしますけど、
日本人だと少ない、数も少なければ、
むしろ逆に怪しいとか、
反対的な意見を持つ人の方が、
日本人だと多いのかなって思うと、
なかなかそういう話も、
普通の社会の中ではしづらかったりとか、
お二人もしてるかもなとは勝手に思ったんですけど、
どうですか、リリーさん。
普段の社会の中で、
おっしゃる通りですよね。
それこそ私は全然無理な人だったので、
神様とか宗教とか、
私の時の学生時代の座右の銘みたいなのがあるんですけど、
それが何だったかっていうと、
宗教を使わずにどこまで精神年齢を上げられるかっていうのが、
座右の銘だったぐらい、
すごい、反対。
反対でしたね。
偏見がすごいはなはなしい感じで、
宗教を頼る人は心が弱い人で、
私はそんな弱い人にはならないみたいな、
そういう気持ちの人だったんですよね。
すごいその感覚は理解できますし、
だからこそオヤビン・ドコブンが好きなところがあるんですよね。
若干ファントークみたいになっちゃって大丈夫かな、
みたいな気持ちもあるんですけど、
オヤビン・ドコブンの中でも、
神様とかちょっと低よね、
わかるみたいなのを表現している描写が何箇所かあって、
すごい大好きなんですよ、私がそこが。
なんかどうしてもわかんないですけれど、
私のかつての感覚だと、
何か信仰を持っている方っていうのは、
もうその信仰の距離一本になってしまっていて、
他の考え方は相入れないといったらいいんですか。
そういう考えを持っている方が多そうな印象、
私は持ってしまっていたところがあったんですよね。
だけど蓋を開けて、自分も実際にクリスチャンというか、
信仰を持つという立場になってみた時に、
それで全然完璧になったとは思わないですし、
さっき麦わらさんが言ってた感じで、
社会問題のことをいろいろな映画だったり、
本だったりとかで学んでいけばいくほど、
知らないこと全然いっぱいあるなって言ったらいいんですかね。
なんて言ったらいいんだろう。
謙虚になるしかないと言ったらいいか。
いい意味でクリスチャンになったり、信仰を持ったりしても、
自分普通の人間なんだなと感じると言ったらいいか。
そういう部分があると言ったらいいんです。
思ったより柔軟だなと思ったんですよね。
自分の中に軸はあるなっていう部分で、
安定してるなっていうのは自分自身見てては思いますけど、
そういう抵抗感みたいなのは全然ありつつ、
依存症支援における信仰と「神様依存」
ただ一つ、
そんなに抵抗感がないと言ったらいいか、
私がちょっと一つ驚いたのは、
今私職場に行って結構神様の話を職場でしてるんですね。
これが何でかっていうと、
依存症の回復の方法として言われてる一つのやり方っていうのが、
平たく言っちゃうと神様依存に変わっていくっていうやり方を取っているんですよね。
すごい私はなので驚きだったというか、
自分が神様を信じるようになって、
信仰というのを持つようになってから、
依存症の現場に来たんですけど、
来てみたら言ってることちょっとわかると言ったらいいんですかね。
なんか大変なことがあったりとかして、
こんなことがありましたっていう話が出た時とかに、
うちの職員さんとか、それちゃんと祈ったのとかおっしゃるんですよね。
最初衝撃で、あれここ教会だったっけみたいな感覚に、
ちょっと落ちる部分はあったりはしたんですけれど、
依存症っていうのが私は結構、
生き方に問題があったりとか、そこで苦労したがったりって話したと思うんですけど、
人生にすごく関わり合いが多いのが依存症なんだなっていうのを、
今現場で結構感じている部分があるんですよね。
その依存症から回復するために、
神様というか、自分よりも信頼できる、
頼れる大きな力っていうところで神っていう言葉を使ってはいるんですけど、
そういったものを使うことによって回復していける、
かつ回復してきた人たちがいるっていうのが、
今の現場にいてとても感じる部分があるんですよね。
実際働いている方々のほぼ大半が当事者スタッフで、
うちの職場は回っているので、ほとんどの方が自分自身も神様依存になってくることで、
回復してきたっていう方々がたくさんいらっしゃるんです。
依存症者って聞くと皆さんちょっと怖いなとか、
暴力的そうだなってイメージがあると思うんですけど、
すごく皆さん人格的な方とかで、
職場でいろいろ話し合いとかをしていても、
ちょっと今私すいません、傲慢になってました、
ちょっと表現間違えてましたとかって、
素直にすっと謝れるぐらい謙虚な方々なんですよね。
それって本当に自分自身はそこまでの人間ではないけれども、
自分にできないことは自分を大きな力が助けてくれるっていうその謙虚さと、
自分の無力さをちゃんと認めた上で、
大きな力を頼るっていうことができてるからなんだなっていうのは感じる部分があって、
すごく頻回に現場で神様が神様がって言うわけではないんですけれども、
でも何か私が信仰を持つようになって感じている、
この大きな力に頼る自分はすごく何でもできるわけではないっていうこの謙虚さ、
っていうこの感覚っていうのが、
実際支援の現場でも根付いているというか、
雰囲気としてというか香りとして感じられるなっていうのをすごく思っているところはあって、
なんか今の現場に来る、依存症の支援の現場に来ることで、
神様を信じるとか大きな力を信じるっていうことについての認識感は結構変わった部分は、
ちょっと個人的にはあったなっていうのは思うところはありますかね。
かなりオープンですね。なかなかオープンにできる人の方が、
なんか日本だとか珍しいのかなって思ったので、
すごいオープンに働かれてるんだなっていうのを率直な感想として見られたんですけど、
信仰への道のりと聖書
麦わらさんはどうですか、普段の生活の中で、
信仰とか神様のこととかって。
そうですね、普段の生活の中での信仰ですか。
いやもうなんか、今とかそうもう生活になっちゃってるっていうところがあるんですけれども、
でもリリーさんのお話した通り、
私も本当に宗教だけはごめんですみたいな人だったし、
友達がキリスト教言ってますとか、なんか信じてますっていうふうには全然、
ああそうなんだねって言えるのに、
自分がどうですかって言われたらすごいうってなっちゃうタイプね。
本当に極力避けたいっていうところはありました。
私が子供の時にオム心理教とかね、
すごくメディアでも盛んに報じられていたことがあったので、
やっぱり抵抗感がすごい多い方でした。
なんですけれども、リリーさんが話してくれてましたけれども、
何か大きなものに頼るっていうのは、
逆に心が弱かったらできないんですよ。
だって目に見えないものを信じるわけなので、
それこそすごい強い力がないとできないんですよね。
でもそんな見えに見えないものを信じるって、
どうしてできるの?っていうので、
私は聖書っていうものをまず勉強させてもらったんですけれども、
聖書で納得させてもらうことがすごい多かったので、
かつ先ほど話したように、
現代社会と結構つながるものがいろいろあって、
何で虚しさを感じるんだろうとかね、
何で生きてて一生懸命頑張っている人が、
何であんな風に自殺しちゃうんだろうとかね、
何か芸能人でケラビア化だった人が何でこうなっちゃうんだろうとかね、
自然といろいろ浮かび上がるニュースとかが、
聖書を学んでいると、これがこうだからこうなのかなみたいな感じで、
ちょっとひも付くところもあったりして、
ちょっとずつ私の中で、
聖書って何か思ってたのと違うなっていうのが積み重なったんですよね。
それがちょっとずつ信じる土台になっていって、
でも究極的にはお祈りとかしながら、
本当にすげーやーみたいな体験とかすると、
信じる大きな勢いにはなると思うんですけれども、
祈るっていうのは結局挑戦しないとわからないし、
やってみないとわからないことだらけなんですよ、信仰って。
だからぶっちゃけというか、
私は聖書の一通りのお話聞いたら、
教会とはさよならして、
自分はその当時大学生だったんですけども、
作品いつか自分で書きたいと思ってたんですよ、当時。
聖書っていうのは世界の人たちが基本的に知っているような知識であり、
そういうことを知ってた方がいい作品に書けるかなと思って。
それが本心だったんですね。
それが思ったことになって。
ちょっと横島な心だったと言いますか、
そういう部分から聖書を聞き始めた部分もあったので、
いろいろあるんですけど、
その中の一つとしてはそういうのもあったので、
まさかね、信仰がね、生活になってね、
教会に通うことになるなんてっていうのは、
本当に驚きなことだなと思っています。
日本における宗教観と「インザメガチャーチ」
最初から抵抗感を持った人たちの集まりですね。
最初にこの3人の感じだと。
みんな最初から神様大好きとかじゃなく、
むしろ抵抗感を持った人たちの集まりじゃないかぐらいの、
最初の入り口からだんだんスッキリになるっていう感じですけど、
それもなんかやっぱ日本人には多そうですよね。
最初抵抗感あって、実際知ってみたら思ったのと違ったみたいなところが。
多分海外、ヨーロッパとかだと、
もうちょっと最初からの抵抗感はない人が多いと思うし、
子供の時に絵本とかで学んでるんじゃないですかね、
多分モーセとかノアとか。
なんなら日本人もその話ぐらいはしてそうですもんね、
モーセ、ノアとか、ハコムペの話とかは。
だから多分それがつながってない、
なんか日本って結構宗教を形だけ取り入れた感ありますからね、
クリスマス、誰の誕生日かわかんないけどあるみたいな。
そういう国だから、なんか表面上の知識はあったけど、
その深くに聖書があったとか神様があったみたいなのは、
知らない人が多いのかなって思うと、
なんかそこの理解が、それこそ親身古文という、
漫画という最初の入りやすい入り口から少しずつ知られていったら、
なんか日本の抵抗感ある人たちが、
ちょっとナチュラルに接することができそうな気はしたんですけど、
ちょっと自分からもう一個だけ、最近の出来事というか、
流行りの一つに、本で賞を取った、
インザメガチャーチっていうものがあるんですけど、
読んだりしました。まだあれですかね、読んでないですかね。
なんか相当あれですよ、冒頭のタイトルから、
インザメガチャーチって、
一番有名なのはアメリカにある大きな教会に、
今若者が集まってて何千人も教会に集まってるっていう、
そのタイトルになっているインザメガチャーチ、
メガチャーチというものがあるんですけど、
それを題材にした日本のファンダムを描いた小説で、
ファンコミュニティ、ファンがどういう風な心理で動いていくのかっていうのを、
結構こと細かに描いた小説、浅井亮さんの作品なんですけど、
浅井亮さん自身が今まで作った作品は結構、
その時代その時代を切り取ったような、
かなり解像度が高い作品を作っている作家さんで、
その作家さんが今最新作で作ったのが、
インザメガチャーチの中のファンダム。
ファンダムとファンダム経済が違うっていう話をされながら、
ファンダムは純粋に本当に心の救いを、
そこの誰かを推すことによって自分の、
さっきの話で言うと心の根っこの問題が解決されるであろう、
環境に触れていくっていうのがファンダムなんですけど、
ファンダム経済っていうのは完全に資本主義とつながった、
それをちょっと言い方が悪いですけど、
それを利用したファンの心、心理状態を利用して、
運営元がグッズを作って稼いでいくっていう、
全然ファンダムとファンダム経済って全く違うものを、
うまく一つの作品で描いていて、
なんかそれが流行っている現代っていうのも、
やっぱすごい人々の心に本当に求めている、
何かこう足りないものが各自感じられているからこそ、
その作品がなんか自分ごととして受け取って読んだ人が多いのかなって思って、
自分も今見てたんですけど、自分も作品読んでみたんですけど、
そうなんか今お二人の話聞きながら、
本当に今日本人の根っこには、
そういう何かを求める、すがる、
また心の拠り所を探すっていうのが、
結構大きなテーマとしてあるんだなっていうのを、
今本当感じましたね。
そこで言うと、お二人が今その活動をしながら、
今後の展望:心のあり方と「分かち合い」
今後なんか展望というか、こんなことをしていったらいいんじゃないかみたいな、
ちょっと今後のアクション的なところで考えていることも、
ちょっと聞いてみたいんですけど、
リリーさんよかったら最初に、
こんなことをしたらいいんじゃないか、
個人のしていきたいでもいいし、お二人でしていきたいことでもいいですし、
社会としてこんな風になったらいいでもいいですし。
ありがとうございます。
今、インザメガチャーチをちょっと検索しながら聞いてたんですけど、
作中のキーワードとしてAIが拾ってきた言葉が、
神がいないこの国で人を養つるには物語を使うのが一番いいんですよ、
っていう単語にちょっとなんか、
ちょっと思っているところはあるんですけど。
ゾワゾワしますよね。
そうですね。
でもここでやってる活動で何をやっていくか、
正直ちょっと固まりきってない部分はあるはあるんですけど、
でも私自身があんまり、
もともと社会問題全く興味がないわけではなかったんですけど、
でもそこがメインではなかったところから、
親身と子分を作るようになって、
社会問題に触れるようになって、
職場も変えてみて、
より依存症という分野を通じて、
いろんな社会問題と向き合ってみながら、
感じてきてっていうところを見てみて思うのは、
何度か出てきてますけれども、
心をどう作るかっていうところがやっぱ大事だなっていうのは、
教会でもよく聞く話でもありますし、
そこはやっぱり大きいなっていうのは感じてるところがあるんですよね。
特に今心の根っこでたくさんやってる分かち合いっていうのは、
まさにその心を見つめていく作業だなっていうのを感じてますし、
私も依存症の現場でも分かち合いっていうのはやってはいるんですけど、
やっぱりそこで自分でも見て気づかなかった、
自分の心の内面を言語化することで気づいていったりとか、
自分は見えないけれども、見えていなかった心の部分は、
他人の人が他人の人事として、
私はこういうことが実はあるんです、心の中で、
っていうことを話されてるのを聞いて、
私もそういうところあるかもって気づいていくっていう過程が、
すごく大事だなというのは感じるんですよね。
さっき麦わらさんが言ってた感じで、
どんなにいい言葉だとしても、
受け取り側がどう認識するかっていうので、
いくらでもそこが変わるっていうのは、
実生活でも感じますし、
支援の現場でもすごく感じるんですよね。
同じ言葉を伝えてもすごく納得して分かりましたとおっしゃる方と、
それは私用のことをバカにしているんですか、
ひどいですっていうふうに受け取る方と、
やっぱりいろいろなんですよね。
そう思うと、もちろんこのおやびんとこぶんという作品で伝えている、
神様の愛とか社会問題のこととかっていうのはあるんですけど、
それを受け取る側の心の質っていうのも、
やっぱり何か必要と言ったらいいか、
ちょっとうまく言葉が選べないところがあるんですけれども、
それは皆さんがどうっていうよりは、
私自身も含めて、
私は自分のことはアダルトチュードレーだなと思っているところがあるので、
そういう部分も含めて、
やっぱり人の心を作っていくっていうこともしていかないと、
社会問題、それで全部解決できるかっていうと、
ちょっと分からない部分でもあるんですけれども、
でもやっぱり現場にもいながら感じるのは、
少なくとも何割かは心がどう作られているかっていうところの部分はあるなっていうのを感じているんですよね。
なので何かしらその心を作ってあげますとはとても言えないですね。
私も作っている過程なので、
なのでお互いまだ作りきれていないところがあって、
当然っていう前提の上で一緒にこう作っていけるっていう場所があったらいいなっていうのをすごく思っているところがありますね。
特にこの若茶屋すごく、私自身すごく気に入っているものなので、
それを定期的にやれる場所があったらいいなと、
依存症の分野では結構当たり前の取り組みではあるんですけれど、
あまり依存症以外の世界では、
もちろんピアサポートのグループ、
例えばご家族が自視された方の会とか、
いろいろそういうグループもあったりはするんですけど、
特に何にもカテゴライズされていないけど、
なんか行きづらいとか、
本当の自分の気持ちがなかなか分からないとか、
人とのよく思われたいとか評価されたいとかっていう、
そういうものが何にもない良い悪さを全部さらけ出して、
ありのまま出せて、
分かる私もそうだよって言ってもらえる場所っていうのが、
もっとあって、
かつそこで人がそういう気持ちをもっとアウトプットしていけるなら、
社会もうちょっと生きやすくなるんじゃないかなっていうのは、
すごく感じるところはあるので、
何かそういう場所も作っていけたらいいなというところはありますし、
この作品を続けて作っていくことも同時に、
私は必要なことというか、神様の愛と社会問題って、
なんかちょっとすごく相反するイメージを持つ方もいらっしゃると思うんですよね。
神というすごく見えない抽象的な概念と社会問題という、
なんかもう手のつけようがない、
どっちも触れたくないものだよねって、
麦わるさんとよく言ってたりもするんですけれど、
でもやっぱりそこをちゃんと噛み砕いていけば、
やっぱり繋がりがあると言ったらいいんですかね。
どちらも見たくないものではあるんですけれども、
でもここはやはり自分自身も教会に通ってみて、
私も社会問題だらけの自分自身がそういう人間でもあったので、
それが実際解かれてきた自分自身が今いて、
こういうふうに活動したいと思っていること自体がちょっと私は正直自分でも驚きな、
そういうもともと人間だったっていうのもあって、
やっぱり心を作ることはもちろんそうなんですけれど、
神様を知ることで自分自身は変われたからこそ、
神様を伝えていきたいっていうところで、
この作品は続けて作っていきたいっていうところはありますかね。
ちょっと質問してもいいですか。
心の変化と成長の事例
本当に向き合う仕事ってやっぱり珍しいと思うんですよ。
普通の仕事だと向き合う機会が少ないと思うので、
ちょっと聞いてみたいのが、
心って本当に水のように変わっていくじゃないですか、
その中でも決心したけどできない、
決心したけどできないってことが誰しも続くと思うんですけど、
それを乗り越えた人も見たりもするんですか。
この人なんか心のレベル上がったというか、
なんか今までだったら挫けちゃうところを、
この人なんか今回は挫けずに続いてるとか、
なんか肌から見ても乗り越えてるなっていうのが、
なんか目に見えてわかるみたいな、
そんな事例というとあれですけど、
そういう人がいたりとか。
そうですね。
なんかちょっと今パッとこういうのがあっていうふうに、
ちょっととてもこう閃いて出てくるわけではないんですけれど、
なんか小さなレベルのものから大きなレベルのものまであるなという気がするんですが、
例えば今まで自分は嫌な人に挨拶をされたら絶対に挨拶を返さないみたいな、
そういうポリシーを持っている方がいらっしゃったりとか、
した時にも挨拶を当然返し合うものというか、
お互い心地よく過ごすためにそれは必要なことだよねっていうのをお伝えして、
それでも私は返さない返さないっていうふうにおっしゃってる方とかもいらっしゃったりはするんですけれど、
そういう方が自分自身ストレスが溜まるとか、
嫌な人に対して反発し続けてる自分でいると、
結局もう嫌だこの気持ちどうにかしたい、
お酒飲んで忘れちゃえっていうふうにやっぱ言っちゃう。
だからそういうふうに自分がこの人嫌だなと思ったとしても、
そこで一旦挨拶を返してみるっていうことで、
人間関係が良好になれば自分の中に溜まるストレスが減るんじゃないかっていうのを考えて、
挨拶を一旦形からってよく言うんですけど、
うちの現場では心をすぐ変えるのは難しいから行動からまず変えていきましょうっていうのをよくやるんですけど、
そういうところで行動をまずし始めた方っていうのは、
ちょっと変わってきたなっていうところやっぱ思ったりもしますし、
あとはお話ししている中で、
昔どうしてお酒を飲んでたんですかって聞いたときに、
分かんないけどとにかく飲みたかったっていうようなことをおっしゃってた方とかが、
なかなか自分の生い立ちのこととかご家族のこととか本当なかなか言えなくて、
なんとなく飲んでましたっておっしゃってた方とかが、
自分は家族関係の中で両親のプレッシャーがすごく苦しくて、
いい子でいなくちゃ頑張らなくちゃって、
そのプレッシャーがすごくしんどくって飲むしかなかった。
それを飲むことですごく自分が自由になれる感じがして、
解放されて、何かいいんじゃなくていいって完璧な自分でいなくていいって、
自分を許せるあの感覚があったからやっぱり飲むしかなかったんですよねっていうのを、
淡々と語られている姿を見るときとか、
なんて言ったらいいんですかね、なかなかちょっと言語化が難しいんですけれど、
でも見ているとすごく胸が熱くなると言ったらいいか、
分からないんですけれども、
その分かち合いの中とかでも、
これはすごい印象残っていることではあるんですが、
結構、私の職場ではクリスマス会とかそういうイベントをよくやるんですね。
で、なんでこう、
うちは18歳から65歳の人が利用する施設なので、
割と寝れそう、高めと言ったらいいか、
大人と言われる部類の方たちが通っているところなんですけど、
お花見行ったりとか、海行ったりとか、結構遊ぶんですよね。
なんでこんな風に遊ぶんだろうって思ってた時に、
ある方がクリスマス会に参加をされた後に、
私は人生で初めてこんなに静かで穏やかなクリスマスを過ごしました、
っておっしゃってる方がいたんですよね。
すごくなんか私考えさせられて、その一言に、
この方は今までどんなクリスマスを人生の中で送ってきたんだろうって思った時に、
やっぱ、うちのペデラの職員さんとかもおっしゃってるんですけど、
ここは生き直しをする場所なんだっていうことをおっしゃってるんですよね。
やっぱり自分自身が経験してこられなかったことを、
この場所で生き直して、やり直して、
それで上書きをしていくといったらいいんですか、傷ついてしまった。
それはご本人の責任というわけでは出てなくて、
周りのいろいろな状況だったり、さまざまな家内の中で、
そういうふうに過去を過ごしてこられたっていう部分を、
健康的な安心できる場所で、
もう一度作り直していくっていう作業をされていかれる、
その方々の姿の変化って言ったらいいんですかね。
過去そんなことはとても言語化できなかったような方とかが、
今そういうふうに過ごせてますって言われている姿っていう、
胸が熱くなるような、
そういう感覚になるときに、
皆さん変わっていかれてるなっていうのは感じる部分がありますかね。
人生に寄り添う職場ですね、すごいですね。
遊びを通じた社会問題へのアプローチ
心を変えるために行動を変えるし、
行動を変えるために、行動が変わりやすい環境を作ってるって、
本当にすごいですね。
本当に聞きながら、
確かになと本当に心を自分で変えようと思っても変えられないですもんね。
周りの方とかって、
すごい環境が大事なんだなっていうのを改めて、
その環境を自分で選べないで生きてきた人たくさんいますもんね。
本当にそうなるしかなかった環境で生きるしかなかった人たちもたくさんいると思うと、
すごいありがとうございます。貴重なエピソード。
ちょっとじゃあ麦わらさんも聞いてもいいでしょうか。
遠望ですよね。
はい、これあの、
今まで作品作ってきたこと自体が何年間ですか、すごいことですけどね、もう続けて。
ね、もう今年の11月で8年目みたいな感じになってしまうんですけど。
8年はすごいです。
そうですね。
個性的に皆さん得意なものと不得意なものとかいろいろあると思うんですよね。
外向けな人とちょっと内向きな人とかいらっしゃると思うんですけれども、
私はやっぱどちらかというと内向きな人だなって思うんですよね。
なので本当はね、もうその山さんみたいにね、それこそ、
ちょっとその秋夜問題に対してはこういう、なんだろうね、ビジネス的な視点でもこういう居場所を作れないかって言って、
本当にお家をね契約とかして実質的に動くっていう、私はそれはすごく憧れてもあるし、
毎回そのエネルギー持たれてすごいなって思うばっかりの人なんですけど、
なのに社会問題のことこんな勉強して、なんだろう、
だからと言ってすごいすぐ動き出せるわけでもないのに、
こんなにいろんなことを学んで何やってんだろうなって毎回思ってるのに、
今社会福祉士の勉強しちゃってるんですけど、
なのでその伝報と言われても、何か今勉強して今作品を書いてるからといって何かすごい社会を動かせる何かができるのかっていうと、
私には正直そんな力ないと思っているからこそ、ないんですよ。
いい意味で。
なので、ただ今やってることが一つ一つがもう私にとっては大事な活動であり、
作品作るなり心根っこをね、やる。
まあしかもいろんな方がね協力してくださってやれているっていうこと自体がもう、
私にとっては大きな一歩一歩を歩んでいることだなと思っているので、
今やっていることを続けてね、できるときまでやろうかなと思っていますし、
今後社会福祉士の資格を取れたとして、今の職場もすごい私は好きなんですね。
遊びを提供する場所で子どもたち、本当に個性様々な子どもたちに遊びというもので通じ合えるっていうのは、
その子たちのエネルギーを遊びで引き出したりとかもできるし、
好奇心とか意欲みたいなものが、教育っていうなんかすごい学習とかっていう視点ではなく、
遊びっていう視点で関われるっていうのはなかなか面白いし斬新だなと思っているんですね。
子どもたちにとっては遊びってもう生活の当たり前かもしれないんですけど、
大人になるとなかなか遊ばないじゃないですか。
遊べない、遊ぶってなんだろうな、スマホで動画見るか遊ぶかわからないんですけど。
何して遊んでるんですか、普段子どもたちと。
本当にボードゲームもそうだし、工作もそうですけれども、
最近職員と勝負ができるっていうイベントをやってたりして、
これはもう完全にオリジナルでやれるんですけど、私が作れちゃうんですよ、ゲームを。
いちから作るんですか。
いちから作るんですけど、
例えば最近やったのは、国語辞典の早引き対決みたいなことをやって。
楽しそう。
1年生は1年生に分かるような、分かるというか、3文字ぐらいで収まる単語で、
くじを引いてもらって、
用意どんで2人一緒に見て、さーっていくみたいな。
年齢が低いければ低いほど職員はちょっとタイムロスっていうんですかね、
ちょっと30秒待ってあげてから引くとか、
なんかそういう単純かもしれないんですけれども、
アナログのものを使いながら遊ぶっていうのも、なかなか面白くてやってますね。
本当はこういう遊びっていう、ちょっとこういうユーモラスな、
幅の余白のあるこういうもので、
社会問題というものと絡ませたら、なんかもっと楽しい、
なんか暗いじゃないですか、社会問題って。
基本的に暗いし重いし硬いしみたいな感じがあるんですけれども、
なんかもうちょっと砕けた、柔らかいものを絡ませることで、
なんかもうちょっとほぐせないかなみたいなことは思ったりはしてますけど。
確かに、作品だけ見てると、親身と子分だけ読んでる人は多分、
イメージは普段の生活でも社会問題にめっちゃ向き合ってる。
常にそれが24時間起こってる、
頭の中で思ってるのかなと思いきや、
遊びっていう、なんか全く軸が違うところに普段仕事でやってるっていうのは、
なんか意外性もあるし、それを確かに繋がっていったら面白そうですね。
でも、なんかただの遊びじゃなくて、
子育て時点に繋げたりとか、なんか子どもたちからしてもちょっとこう、
ただ遊んで楽しかったというよりは、
普段の学習道具がこんな楽しいものなんだみたいなのに繋がってそうですし、
なんかいいですね。
それはもう本当今回たまたまそれが思いついてやったんですが、
結構本当いろいろですよ。
鉛筆をひたすら立てるとか、
ひたすらこの、なんだろうね、洗濯バサミを体に何個作られるかとか、
なんかそういう。
なんかそれ共通ですね。
それ僕もやりましたよ、なんか。
なんで同じ時代は変わっても同じことをするんですかね。
そう、でもやっぱね、素朴なものを使って、
素朴だけれども、なんか一生懸命になれるものっていうのが、
やっぱ身近には結構あるんですよね。
なんかそれが今ちょっとスマホとかゲームが結構ちょっと、
今大きくなっちゃってますけれども、
でも人ってそういう単純なものでも十分遊べるというか、
大人でもしりとり一つでも全然楽しく遊べたりもするし。
本当ですね。
超お金かけて高いゲームとか買わなくても、
なんか本当に自分たちの頭の中から生み出したもので楽しめるって。
なんかあれやりませんでした?
なんかこの、なんだっけ、白い線から出たら死亡みたいな、
その線歩く、ジャンプしたりとか。
ああ、やりませんでした。
あれもお金かかんないですね。
そうそう、横断歩道のね、白いの。
ミリーさんもやってました?
なんか子供の時、自分ルールの遊びとか。
えー、ちょっと明確には思い出せないですけど、
でも線からはみ出たらはもうオーソドックスですよね。
あれはもうみんなやってるんじゃない?
やってない子いるかなって感じがしますけど。
すごいですよね。地域変わっても時代変わってもみんな同じことやるって。
なんか面白いですね。人間の本能性を感じますね。
そうですね。
もうボール一つでもね、全然遊べるし。
何でも。
確かにそういう遊びが、もしかしたら、
新しい最先端のものばっかり触れてると思い浮かばなくなっちゃったりとか、
逆にそういう、外から教えて一緒に遊ぼうよみたいなのが必要なのかもしれませんね。
親も忙しくて、ゆっくり遊んでる暇なかったりする家庭も多そうですし。
そうですね。本当にそうですね。
遊びの普遍性と心の余裕
一緒に遊ぶっていう機械自体がやっぱりもう下手くなっちゃってきてると思いますし、
親も親で忙しいから、子供は子供で一人でやれる。
つまり、スマホとか動画とかでこっちでやってもらって、
親は親で働くみたいなね、方もね、多いでしょうから、
一緒に遊ぶことも少ないだろうし、子供たちも遊び方わかんない子が多いですね、やっぱり。
無理やりつなげるわけじゃないんですけど、
遊びってもしかしたら社会問題の解決になるかもしれないなって思ったより、
遊びだなっていう、自分も幼少期の思い出って、
正直な話、忙しく働いてる両親よりは、
学童を自分も通ってたので、
学童児童館で遊んだ思い出とかが、やっぱり心の畑になってるというか、エネルギーになってるし、
家帰ってからはおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らしてたので、
結構そこで遊びを、昔遊びとか、
あとおじいちゃんおばあちゃんの心に余裕があったから一緒に遊んでもらえたりとか、
それが回り回って今の自分にもつながってるって思うと、
社会の問題に触れたときに耐えられるかどうかっていうのも、
実は遊びが結構重要な役割を果たしてるのかもなとは思いましたね。
面白い視点ですね、それは。
子供の遊びってあんま研究してる人いなさそうですけど。
どうですかね、でもなんか結構遊びを通して結構社会を学んだりとかもするじゃないですか、
なんかルールを守ったりとか、なんかちょっとずるとかしたりとかすると怒られたりとかしながら。
ルールの中でどう遊ぶかって大事ですもんね。
そうですね。
遊びを通じた社会勉強にもなるし、
山さんがさっき言ったね、何かを乗り越えるときでのなんかこう、
心の豊かさみたいなものって結構大事なのかなって、
なんか何でもやっぱ真面目に真面目にってやりすぎちゃうと、
結構切羽詰まって苦しくなっちゃう方って多いと思うんですけれども、
なんかちょっとその遊びって思うとちょっと心に余裕ができたりとか、
まあまあまあみたいな、これはこんぐらいだからしょうがないみたいな、
なんかちょっとそういうね、豊かさ、心の余裕みたいなのにつながるならすごくいいですね。
これ子供だけじゃなくて大人も大事ですね。
なんか今自分もふと今話しながら思ったのは、
結構自分もなんか問題にぶつかった時に、
なんか深刻にこうぶつかり、問題にやっぱり挑んじゃうけど、
なんかもうちょっと遊び要素入れてもいいのかなって個人的に思いましたし、
ちょっとやってみたいなっていう、なかなか自分の中でここうまくいかないなとか、
結局いつも決心してもくじけちゃうんだよなみたいなことを、
なんかゲーム性にして自分でやってみたりとか、
なんか確かに抜けて欠けてますね。
自分もだし多分今のなんか周りの大人たちとか見ても遊ぶ、
遊んでる人って言ったらなんか怒られそうだし。
どうですかリリーさんとかなんか職場とかで、
結構やっぱり深刻な真剣な場にいると思うんですけど、
遊び要素とか普段あれは。
すごい大事だなと私も現場いて思いますね。
さっき言った通りそうやって結構遊ぶ現場だなというのは、
本当そこが大きいなと思ってて、
結構周りの方になんか面白いねって言われるのが、
例えばアルコール依存の方とかが何かこう物を持ってて、
落としちゃったっていうことがあった時に、
ちょっと離脱症状出てない?大丈夫?みたいな。
昨日飲んできたの?みたいな、
そういうこう話が出たりとか、
ちっちゃいこうなんかジップロックみたいな、
あのこう入れてたら、
あ、ちょっと懐かしいわこれ、
パケ思い出すわみたいな、
ちょっとあの覚醒剤使ってた方とか、
ちょっと言ってみちゃったりとか。
めっちゃブラックジョークで面白いっすね。
いやもうそうなんですよ。
なんか笑いに変えると一気になんか頑張りそう。
そうなんですよ。
いや本当になんか、
なんだか不思議。
分かっちゃうと似てるなって思うんですけど、
いけないものとか触れちゃいけないとか、
タブーとかっていう風に、
なんかこう規律があって、
一本のラインがあって、
その線から越えたらもうそれは許されません、
みたいな温度が強すぎちゃうからこそ依存物って、
手出したくなるって言ったらいいんですか?
その規範が嫌になっちゃって、
一回ちょっとぶち壊したいみたいな、
なんかそういうところがあって、
あえてちょっとアウトローな方に行っちゃうっていう部分は、
やっぱ多いにあるなと思うので、
結構あの飲んでたお酒の話とか、
あの現場では、
私は中輩だったなみたいな、
あれあれはやっぱ良かったよねって、
社会の厳しさと許し合いの重要性
職員も当事者なので、
職員も混ぜこぜで、
みんなであれが良かったよねとか、
これが良かったよねとか、
飲んでた時こんなヤバいことをやらかしたよねとか、
なんか本当遊びというか、
そこを固く考えすぎないで、
柔軟に、
むしろ語り合ってしまうと言ったらいいか、
オープンにしていってしまうというところが、
すごく私の職場では、
よく見る現場だなっていう気がするので、
私とかも平気で、
行っちゃったりしますね。
大丈夫離脱かなとか、
話題にすると、
また頑張ろうって思えるし、
なんか記憶にも残って、
楽しい思い出として、
頑張ろうって思えるから、
なんかバランス必要そうです。
今の多分より、
全部笑いでも良くないと思うんですけど、
今あまりにも真剣な社会すぎるのかもしれないですね。
うまくいかなかった人に対しての、
厳しい目線が、
SNSとかもそうですけど、
どれだけ間違ってる人を叩くか、
間違ってない人を探すかみたいな、
そういう、
監視の目が強いですもんね。
本当に行きづらいですよね。
その枠にはまらなくちゃって、
やっぱなっちゃうのでどうしても、
その分のシワ寄せっていうのが、
何かしらでやっぱり出ちゃうというか、
鷹を外したくなるどこかでとか、
完璧な自分で居続けるしんどさとか、
そういうのはあるよなーっていうのは、
とっても感じますね。
もっとお互いがお互いに、
いや、完璧なわけないじゃん。
人間だしさ、
うちらみたいな感じで、
許し合える。
もちろんミスがあっちゃいけない現場もあると思うんですけど、
重大な命に関わるようなものでないものに関しては、
そういう互換用さをお互いに持って、
何だろう、もっとシンプルに謝り合ったりとか、
そういうとこあるよねって言い合えたらいいなーって、
確かにそれには遊びはすごい重要そうだなと。
気持ちの部分での。
はい、思いましたね。
なんか今日すごい思いもよらない、
もう1時間経っちゃうんですけど、
なんか話の、
深いもんだけど結構深刻なテーマの話の前半から、
だいぶ最後は遊びというちょっと面白い着地点もあり、
まあでもこれがどう社会に定着していくのかというか、
広がっていくのかは、
また考え続けていく余地があるなとは思うんですけど、
エンディングと今後の展望
とても面白い議論を1時間もさせてもらって、
どうもありがとうございます。
ありがとうございました。
またちょっと続き、
また今後また別のテーマでも話していきたいので、
ゲストとしてお呼びさせていただきたいです。
よろしくお願いします。
ぜひともお願いします。
一度ここで番組は切りたいと思います。
リスナーの方々最後までご視聴いただきありがとうございます。
また次回もよろしくお願いします。
01:03:49

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