1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #500 祝500回!「志賀十五の壺..
2022-12-03 10:06

#500 祝500回!「志賀十五の壺」の言語学 from Radiotalk

所有表現の関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/547283
https://radiotalk.jp/talk/551057

主要参考文献
『基礎日本語文法 改訂版』 (益岡隆志・田窪行則、くろしお出版)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:06
始まりました、志賀十五の壺。
こんにちは、ディレクチーターです。
野球が上手くなるには、練習内容が大切です。
今日は、僕がお勧めするジップヒットをご紹介します。
今回のこのエピソードが、この番組の500回目のエピソードということになっております。
めでたいですね。
500回をお祝いするメッセージやら、お祝いの品やらはいつでも随時受け付けております。
今回は何をテーマにしようかなと思ったんですけど、
節目なので、この番組名、志賀十五の壺。
これを少し言語学っぽく考えていこうと思います。
この500回やっている中で、番組名は変わってなくて、タブタイトル的な?
この10分言語学みたいなものがついたりとか、多少ありましたけど、志賀十五の壺っていうのはずっと変わらずやってきております。
そのまんまですよね、志賀十五の壺。
僕の壺にはまったものをご紹介していくということで、たまたま言語学の内容が多くなっちゃいましたけど、別に当初はそういうつもりもなかったんですよね。
この志賀十五の壺、これは何を表しているかというと、
所有関係っていうのが一番しっくりくるんじゃないかなと思います。
志賀十五の所有している壺。
番組名なんでね、ある程度比喩的なとこはありますけど、この日本語ののっていうのは所有者を表していると。
そういった例ってこの番組名に限らずたくさんありますよね。
私の本、私の車。
当然私の以外でもあなたのでも彼女のでも、所有を表すっていうことがよくあるんですけど、
ではこののっていうのがいつでも所有者を表しているかというと、必ずしもそうではないんですね。
どうだろうな、まあ典型的には所有者を表して、専門的に属格みたいな言い方をされることがよくあるんですけど、
例えば、甘色の髪の乙女、これは所有物の所有者っていうような語順になってますよね。
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まあ当然乙女の甘色の長い髪っていう風に、
所有者をのが表すこともありますけど、逆転するようなこともしばしばあります。
青い目の少年とか、ひげの親父とかね。
まあどういった時にこういう所有物の所有者みたいな言い方ができるかっていうのは、結構面白い研究があるんですけど、
その話はまた別の機会に譲るとして、
今回はこの日本語ののについて考えていこうと思います。
この日本語ののっていうのは非常に多義的で、所有関係以外のこともよく表すんですよね。
こののの機能は大きく2つに分けられて、
一つは限定就職するの、もう一つは補足後ののっていう風に、特に日本語学では考えられます。
限定就職ののには、今ずっと言ってるシガジュウゴの壺みたいな所有関係を表したりとか、ある意味壺っていうのを限定就職してるわけですよね。
あるいは部屋の窓とか、これも一種の所有関係かもしれませんけど、全体部分関係みたいなもの。
朝の番組みたいな時間を限定するようなものや、札幌の球場みたいに場所を限定就職するものもあります。
まあ何でもかんでものが使えると言えば使えるんですね。
でこういったものが限定就職ののと言われるもので、もう一つは補足後ののと言われるもので、どういったものかというと客の到着とか、
日本語の研究みたいに、こののの前の名詞が主語とか目的語に相当するようなものです。
客の到着だと客が到着するだし、日本語の研究だと日本語を研究するっていう風に、
何というかな、文に直した時に主語や目的語に相当するものがので表されることがあります。
こういう補足後ののっていうのは主語か目的語に大抵限定されて、他のものだと各助詞も一緒に現れるんですね。
どういうことかというと、ハワイへの手紙みたいにAが出てきたりとか、彼との待ち合わせみたいに党が現れたりとか、
がとはのと一緒に出てこれないんですけど、他の各助詞はよく一緒に出てきます。
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まあこういうふうにのって非常に多義的なので、当然曖昧性が出てくることもあるんですよね。
まあシガジュ語のツボぐらいだったら別に曖昧性は出ないんですけど、
俺の話って言った時に、これは少なくとも2通りの解釈があります。
一つは俺が話す話、俺が語る話っていう解釈と、
もう一つは俺にまつわる話、まあ文言伝なりなんなりっていうことですね。
日本語の俺の話はこの2つを区別することができません。
同様に彼の絵といった場合も、
まあ所有者を表しているのか、彼が所有している絵なのか、彼が描いた絵なのか、
逆に彼の姿を描いた絵なのか、まあかなり多義的なんですよね。
改めて考えてみると日本語ののっていうのは非常に便利だけど、
その分曖昧性もあるっていうことがお分かりいただけるかと思います。
日本語のので表すようなものをかなりきっちり使い分ける言語もあります。
例えばフィジー語っていう、フィジーっていう国で話されている言語では、
まず、上と不可能所有と上と可能所有っていうものを分けるんですね。
上と不可能所有っていうのは、まあそのまんまですけど、簡単に人にあげることができないようなもので、
私の顔とか、私の母とかいう場合、
日本語の場合は普通の所有と同じようにのを使いますけど、
フィジー語の場合は、これを設備字で表します。
例えば顔っていうのはまたって言うんですけど、
あるいは彼女の、彼彼女の顔っていう時はまたなっていう風になっていう設備字がくっつきます。
それに対して上と可能所有、普通にやりとりできるようなものの所有の場合は、
彼の彼女のっていうのは、のなっていう独立した所有代名詞を使います。
例えば彼の家だったら、のないえみたいな言い方になるんですね。
フィジー語の面白いところは、この上と可能所有に食べ物の所有と飲み物の所有っていうのがあって、
例えば、彼の魚はけな魚。
彼のお茶だったら、めなお茶みたいに、
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食べ物や飲み物の所有の時には全く違う所有代名詞を使うんですね。
これは英語と対照して考えた方がわかりやすいかもしれないですけど、
今のは全部英語だったら、hisあるいはherで済ますんですよね。
一方フィジー語の場合は、
上と不可能所有なのか、上と可能所有なのか、
さらに食べ物か飲み物かで全く異なる所有表現を使うということになっています。
まあこれに比べると日本語ののっていうのがいかに緩いっていうかな、
そういったことがより一層感じられると思います。
というわけで今日は一応500回記念のエピソードとなりました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
それではまた次回お会いしましょう。
お相手はシガ15でした。
またねー。
10:06

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