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清野翔太の個性のカラクリラジオ。このラジオでは、その人がなぜその人なのか、個性のカラクリについて研究している清野翔太さんにお話を聞いている番組です。
翔太さん、今日もよろしくお願いします。お願いします。 翔太さん、今日のテーマは私、とても興味深い。
はい。 心と意識の違いについて教えてください。
はい。心と意識の違いについてということで、心と意識って結構、何だろうな、一緒くたには使われていることが多いんじゃないかなと思うんですけど、
ここは違うものだなっていうことが、とても自分の中ではっきりしていて、結構大事だなと、どういう意味で大事なのか、どういう意味で大事なんだろうとは思ったりするんだけど、
違うものだよっていうことを話したいなと思っています。 意識って言った時に観察者に近いんですね。
意識って言った時に主観は存在しないんですよ。
主観は存在しないって言うと、存在することもあるかもしれないんだけど、純粋な意識っていうのは、
ただの観察者みたいな感じ。私は今怒っているって言った時に、怒っているのは心の話。でも、私は今怒っているっていうことは、どこから見てるんですか?
私を見ている私がいなかったら、私は今怒っているとは言えないんですね。
私はどこから見ているかの観察しているところにあるものが意識みたいな感じなんですよ。
心って言うと基本的には感情の話になるわけですよね。その嬉しい、嫉妬、哀楽、
私は今嬉しい、私は今喜んでいる、同じことを言っている。悲しいとか寂しい、それは心の話なんだけど、
意識ってなると、フォーカスしたものが入ってくるというものが意識なんです。意識ってカメラの画面を向けたものをカメラで撮るのと一緒で、
意識っていうのは、フォーカスしたところの情報が入ってくるというものが意識なので、悲しみにフォーカスを向けると悲しいということを受け取ることができる。
けど、じゃあそこであなたは何を受け取って、その学びによって将来どうなりそうですか、例えば問いによって、今回の学びによって素晴らしい未来っていう意識を向けたとき、
そこに入ってくるのは例えば可能性とか喜びとか感謝かもしれないですよね。
そこのどこに意識を向けているのっていうところのフォーカスが意識という話で、でもその向けている先を変えても別に悲しい私はずっとそこにいるわけですよ。
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悲しい私は消えないです。でもそこに意識を向けなければ、自分の体感として入ってこなかったりするわけですよ。
思考に意識を向ければ、意識の中は思考でいっぱいになるし、心に意識を向ければ心でいっぱいになる。だから意識っていうのはどこに向けるのかというカメラの話。
意識はコントロールできる。
どういう文脈で使っている意識かによりますけど、どこに向けるのかはある程度コントロールできますよね。
問いとかを使って、問いとか質問って何のためにやるのかっていうと、意識の矛先を変えるために質問というものはあるわけですよ。
なるほど、確かに。
そうそうそう。
言葉自体には力がなくて、実際言葉を使って意識の向け先を変えることによって変化を起こすっていう話なんですね。
言葉が相手にピンとこなかったら、外国語で質問されても意識は変わらないから、分かる言葉で質問しないと相手に変化を与えられないわけですね。
これはだから言葉自体に意味はなくて、言葉によって相手の意識の向け先を変えることが本質なので、そういうことが起こる。
だから思考がうるさいときどうするみたいな話で、体に意識向けましょうとかあるじゃないですか、聞こえていること何、見えているもの何、今肌で何感じているみたいなことをすると思考が落ち着くっていうのは、
思考が落ち着いて、その意識を体に向けることによってそこに意識って目いっぱい使っている、カメラの範囲でしか捉えられないわけですよ、自分の体感というか意識の枠の中でしか感じられないわけですよね。
そこが互換に使ったときに、思考っていうところから外れるので、ざわつきを感じなくなるってことなんですよね。
分かるんだけど、まだ染みてない。
構造理解と状態理解の話しましたけど、今の私っていう状態理解の話は、意識を向けてそこに向けたときに、
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化学反応というか、起こることがあるわけですよね。心に起こること、頭に起こること、体に起こることっていう、今の反応のことを状態理解っていうふうに呼んでいて。
例えば、傷、トラウマっていうものはずっと残ってるわけじゃないですか。ずっと残ってるけど、いつもトラウマに囚われている人は少ないわけですね。
24時間ずっとトラウマに意識が取られているってことはなくて、何か出来事があったときに、傷に触れるとすごく動揺するみたいなことがあるわけじゃないですか。
なぜかっていうと、トラウマはずっとある。でもそのトラウマに意識が向いたことによって、そこにアクセスすることによって表面化するわけですね。
表面化するっていうのは、いつ表面化するのかっていうと、意識を向けたことに対してバーコードリーダーみたいな感じで、バーコードはずっとそこにある。
そこにリードすることによって、この商品はいくらですみたいな感じが出るのと一緒で、心っていうのはずっとそこにあるけど、いつも全てに対して蠢いてるわけではなくて、いつ蠢くのかっていうそこに意識を向けたときに蠢くわけですよ。
心と意識はそういう意味で別で、意識というのは観察者。どこに合わせてるのっていう話。
そこで起こってくることの中の感情的なことは心と呼ぶっていう感じなんですよね。
同じ説明を、なんとなくわかってもそれを説明してって言われたら全然できないけど。
だから、この世界を見るレンズみたいなものが意識みたいな感じなんですけど、意識自体にもレベルがあって、どういうレンズで世界を見ているのかの、ここのバージョン自体が人が生きていると上がっていくわけですよね。
それが意識レベルって言ったりするんですけど、意識レベルが高いと、それこそ神の視点みたいな、全てがワンネスみたいな感じで世界が見えるし、この意識レベルが低いと、この世界、戦いの世界とか、血みどろの世界、空が喰われるかみたいな世界に見えるっていうことなんですけど。
だから、どんなレンズを自分が持っているかによって見える世界が全部変わっちゃうみたいな感じなんですけど、これはだから、まあまあそんな感じですかね。
世界の見え方とかも意識のバージョンというか、そういうことなのか。
そうなんですよ。だから、意識のバージョンが低い人のワンネス体験と意識のレベルが高い人のワンネス体験は違うんですね。
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ワンネス体験って言うと変だけど、そうね、なんかその世界と一体化するような体験っていうことがどのレベルの人に起こったのかによって、例えばレベルが低い人、まあそのじゃあバージョンが低い、意識レベルが低い人っていうのは呪術の世界だったりするので、その時の体験っていうのは精霊とかそういう話になってくるんですね。
精霊とか、あの、何だろう、そういうすごい存在が私に与えてくださったみたいなそういう話の体験としてはその人の目には映る。
そこのレベルが高い人、まあそのバージョンが高い、意識レベルが高い人だと、そもそもまあ愛の世界に住んでいる人がよりそこの次元が変わるような体験を例えばするみたいな。
それはなんかあの、なんだっけ、スパイラルダイナミックスっていう意識レベルの変化によってどう見える世界が変わるのかっていう、あのまあこのラジオでもだいぶ昔に喋ってるんですけど、あれは意識の話であって心の話ではないんですよね。
ああ、意識は客観。なんとなくちょっと最初の私は怒っているに戻ると、なんかわかってきた気がする。
私は怒っているという自覚をしているのが意識。で、おーっと怒っているのは心。
うん、まあそうですね。
あのーそうだから、私ってのは対象物に見ている。私という、私そのものとしてじゃなくて、私は今怒っている。その怒っているってのはどこから言ってるのっていうときに、あのー、私、私って何?どこから見てるの?っていう話。
私を見てるってことは私じゃないものが見てるんですよ。
まあ、それ、なんかどっかで聞いたこと。うん、混乱したやつです。
そうだよね。こうだったら、わかんないってことでしょ?
私そのものだったら私とは言えないわけですね。私っていう一人称を、私は対象物としては持っているから私って言うんだけど、それがなかったら怒り、怒りという感覚は感じているかもしれないけど、感覚だけなはず。
じゃあ、自覚するってこと自体が、その意識があるっていうことなの?
客観的な言葉を使っている時点で、意識が観察した結果としてあるわけですよね。
はあ。
この意識の軸っていうのが、発達段階によって変わっていくんですね。
赤ちゃんは、私と私以外の差別がない世界に住んでいるんですよ。
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お母さんと自分は別れていないという世界だから、私っていうものの範囲が、五感が私って感じなんです。
肌感覚を私と言っているんだけど、どうやら私には手があるんだ。手があって、手の外は私じゃないんだって。
意識が育ってくると、この体が私になるわけ。
でも、体が私になるけど、体の内側に心というものがあって、心が私なんだ。
腕を切っても、私は残るよね。私って心なんだっていうのが次の段階として、例えば、私っていう範囲が変わってくるんですね。人って発達していくと。
この心になるんだけど、心って言っても、心の奥にニーズというものがあって、私っていうのは、本当はそっちのより純粋な願いみたいなものがあって、それが私なんだ。
っていう感じで、私の範囲が変わっていく。これが人間の意識の発達であったりするわけですけど、意識が発達していっても、心っていうのはずっとそこにあって、心さんはずっと嫉妬・哀悪の世界で生きているんだけど、
心そのものが私だった世界から、心が私の一部であるっていう世界に、今度は発達するとなっていくわけですよ。
それが私の範囲はどこなのかっていうのは、意識の起き所の話で、それが意識の発達っていう話なんです。
私の範囲。 それが発達していくと、人類は私なんだ、みたいになってくると、自分というものの範囲で動かなくなってくるわけですね。
私という、自分の肉体は私じゃなくて、人類は私だって思えた、本当に思えた人っていうのは、
私と他者の、ある意味、子供の頃、赤ちゃんの頃とは別の意味で、私の範囲が広がっている世界にいるから、
理化的にいられるというか、だってもう私という範囲が肉体じゃないから、
いう話でございます。 すごい、なんかあれだったね、私怒っているからなんか、
全世界私までのこの幅より、これ何回か聞いたほうがいいね、何回か聞いたほうがいいね、私これ。
はい、翔太さんありがとうございます。 これ、リスナーの皆さん、何回目でわかったかコメントしてくださると、
嬉しいです、サトウも、いっぱい聞こう。
はい、すごい興味深かったね、面白かったです。 ピンとくる人、ピンとくる途中の人いらっしゃるのかなと思います。
はい、ではこの話が面白かったな、別の話もまた聞きたいなという方は、ぜひ高評価、チャンネル登録していただいて、
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次の話も楽しみにお待ちください。ではありがとうございました。 ありがとうございまーす。