で、マンジローと仲間たちが漂流した鳥島なんですが、
実は江戸時代にはマンジローたちと同じように突然の突風で船が流されて、
鳥島に漂着するという例がかなりたくさんありました。
この頃記録が残っている例だけで、
12年に一度くらいのペースで鳥島への漂着が発生していたようです。
記録に残らず島でひっそりと亡くなった漂流者も少なくなかったんじゃないかと思います。
鳥島は東京の都心から約600キロ南に位置する火山島で、
僕が今年行った伊豆諸島の三倉島は都心から約200キロなので、
三倉島からさらに400キロも南にある島ということになります。
三倉島も都心から船で7時間半もかかるところなんですけど、
そこよりもさらに遠いんですね。
三倉島は10キロほど隣に三宅島が見えていたりするんですが、
この鳥島というのは周囲に他の島がない絶海の孤島で、
一番近い友人島である伊豆諸島の青ヶ島からも200キロ以上離れています。
しかもこの島、池とか川とか命をつなぐための水が飲める場所が全くないんですよ。
江戸時代に帰る手段もなく、この島に漂着した人たちの気持ちを想像すると、
背筋が寒くなるようなうすら強いものを感じます。
江戸時代に使われた戦国船という船がありまして、
この船、日本近海を航行するには問題ないんですが、
ひとたび風で流されて外洋に出てしまうと、
大きい波に対する耐久性がほぼなく、舵が壊れて漂流するしかなくなってしまうという欠陥を抱えていました。
なんですが、これ、当時、鎖国政策をとっていた幕府にとっては都合が良かったんですよ。
外洋まで流された時点で航行能力を失うということは、乗っている人にとっては命に関わることなんですが、
幕府の目線からすると、日本から人材や情報が他国に流出することを防ぐ効果があるわけです。
そういう政治的な理由もあって、江戸時代の日本の船の性能というのは改善されることがありませんでした。
このことが江戸時代、多くの漂流事故を発生させる原因になりました。
そして日本近海を流れる流れの速い海流である黒潮の存在も鳥島への漂流の原因の一つでした。
近場の海で突風にあい、外洋に出てしまい、高波によって舵が壊れ、船を安定させるために歩柱も切ることになり、
そして黒潮の流れに乗って鳥島の近くまで流れ着く、そういう一定のルートがあったんですね。
そうやって鳥島に流れ着いた何人もの船乗りのうち、取り分け強い存在感を放つ人がいます。
それは徴兵という土佐の船乗りです。
長いに平らで徴兵と書くんですけども、この徴兵を主人公にした小説、漂流という作品がありまして、吉村明という作家が手がけています。
吉村明は他に有名な作品で言うと、三家別事件を題材にした熊嵐を書いた作家ですね。
私立をベースにした作品を多く書いた人ですが、今回漂流を読んでみて、本当に説得力のある骨太な作品を書く人だなという印象を改めて持ちました。
徴兵の漂流記についてはたくさんの資料が残っていて、もちろん吉村明もそれを参考にしてたと思うんですが、
その場に一緒にいましたか?タイムリープ能力を用いて?と問いかけたくなるくらい説得力をもって描いています。
吉村明の漂流は今年読んだ本の中で、自分の中で一番強い印象を受けた作品です。
私立に基づいた小説ということで、この漂流の内容をまずはご紹介していきたいと思います。
この作品を通じて江戸時代に鳥島に漂着した人たちの生活や直面した問題についてお話しできればと思います。
漂流の内容についてはネタバレありでお話ししていきます。
私立に基づいたものなのでネタバレとはという感じではあるんですが、
調平は江戸時代の法暦12年、西暦で言うと1762年に戸左藩赤岡村、今で言う高知県江南市赤岡町に生まれました。
そして天明5年、つまり西暦1785年、仲間3人と一緒に乗っていた船が突風によって流され、鳥島に漂着することになりました。
4人が鳥島に上陸した後、乗っていた船は岩場に激突して砕けてしまい、彼らは自力で帰ることができなくなってしまいます。
彼らは島を探索し、白い大きな鳥たちが雛を育てている場所までたどり着きます。
この鳥は数十年後にジョン・マンジロウも目にしたアホオドリですね。
アホオドリにとっては災難ではありますが、アホオドリのおかげで調平たちは命をつなぐことができたんですね。
煮滝をするための道具はすべて船と一緒に海に沈んでしまっていたので、アホオドリの肉は基本生で食べていたようです。
海水につけると塩味がして少し美味しくなるみたいな感じでですね。
生水が飲める池や川は鳥島にはありませんでしたが、
雨水をアホオドリの卵の殻などに貯めることで命をつなぐことができました。
本当にアホオドリ様様という感じですよね。
不自由ながら当面の生きていくための食料や水は確保できた調平たちなんですが、
最年長であり先導であるゲンエモンが調子を崩してしまいます。
ゲンエモンは元々持病持ちで島での過酷な暮らしに大きく影響を受けていました。
そして島中に何万羽とアホオドリがいるので、
食料が不足することはないと思われたんですが、
調平たちは遠くに飛び立ったまま帰ってくることがないアホオドリがいることに気づきました。
彼らはアホオドリのことを大鳥と呼んでたんですが、
もしかしてこの鳥渡り鳥なんじゃないかと気づきます。
アホオドリが渡り鳥であるというのは実際その通りで、
鳥島というのはアホオドリにとって繁殖や子育てをするための場所なんですね。
調平たちがやってきたことで彼らに駆られて食料にされるアホオドリも出てきたわけなんですが、
本来鳥島には陸上に住む危険な天敵というのは皆無で、
安心して繁殖や子育てができるアホオドリにとっての楽園、隠れ家だったんです。
そして子育ての時期が終わると、
餌が豊富な北の海、ベーリング海やアラスカ周辺の海に移動していました。
そういう北の海にはアホオドリの餌になる海産物が豊富に生息しているんですね。
5月くらいに鳥島を飛び立ったアホオドリは9月頃までそういう北の海で過ごします。
その間鳥島にアホオドリはいなくなるわけです。
最初の渡りの時はいつまたアホオドリが帰ってくるか、
見当もつかないわけですから、
徴兵たちはこれはまずい、鳥のひものを作って備えなければ、
という感じでアホオドリを飼ってアホオドリのひものを大量に作り始めました。
アホオドリがいない期間はその日干しにしたアホオドリの肉で食いつなごうと考えたんですね。
徴兵たちの予想は的中して、
アホオドリは5月になると市は残らずどこかへ飛び立っていきました。
ただその頃には大量に作ったアホオドリのひものがあったので、
徴兵たちは植えることはなかったんです。
なんですがこの頃体調を崩していたゲンエモンが息を引き取ります。
一行は徴兵と幼なじみのオトキチ、
2人より年長のジンベエの3人になりました。
鳥がいない時期、徴兵たちは鳥のひものだけを食べて暮らし、
飲み水は住まいとしていた洞窟の天井から滴る水でことたりるということになり、
わざわざ洞窟の外に出ることもなくなりました。
食べるのに困らなくなった3人ですが、
どういうわけかこの頃から急速に体の調子が悪くなっていきます。
栄養の偏りや運動不足、日照量の不足、
当初3人には見当がつきませんでしたが、
それらが徐々に体を蝕んでいました。
そんな中でも唯一立ち上がる体力や気力があった徴兵だけが洞窟からどうにか這い出して、
磯まで行ってカニや魚をとって食べ、
持ち帰って仲間2人にも食べさせました。
なんですが徴兵の世話の甲斐なく、
オトキチとジンベエは相次いで命を落としてしまいます。
自力で脱出もできない、救出船が来る当てもない、
そんな絶対のことに徴兵はたった1人取り残されてしまったんです。
這いずりながらも洞窟から抜け出して磯まで往復していた徴兵は
体力が戻り海産物を食べることで栄養の偏りが解消されてただ1人生き延びることができました。
ですがそこからは恐ろしい孤独との戦いが待っていました。
鳥島に漂着した多くの船乗りのうち、
たった1人で島で暮らしていた人というのは徴兵以外に確認されていません。
仲間もすべて死に、こんな誰にも知られていない島で1人生きて何になる。
いっそ海にでも入ってしまうか。
そんな風に幾度となく考えたんじゃないかと思います。
徴兵を支えたものが何だったのか。
僕はそのことをよく考えます。
一つは漂流の作品中にも記載がありますが念仏でした。
自らが消えする仏に一心に祈る。ひたすらに祈り続ける。
それが心の支えになりました。
人一倍体力があったことももちろん一つの要因だと思います。
だからこそ仲間が動けなくなった時も生き延びることができました。
また過酷な島での暮らしを維持するため今雨水がこれだけ貯めてあるから
1日に飲める量はこれだけという計算をして
もっと飲みたいという欲に負けずに自分を立することができた。
そういう先々のことを考えて行動できる
頭の良さや意思の強さも徴兵を支えたと思います。
でもたった一人でこの鳥島で生き延びた徴兵の強さは
今言ったことだけでは説明がつかないようなそんな気がしています。
そしてまたそれが徴兵という人物のそこ知れない魅力なんですよね。
僕はごく最近まで推しっていう概念がよくわからなくてですね。
推しキャラとか推しのアイドルとかあまりそこまで引き付けられる対象がいなかったんですが
ここに来て推しができました。徴兵ですね。僕、徴兵推しです。
今回の鳥島会も徴兵をめでるための推し活の一環ということになります。
で、そんな徴兵は服もズタボロになって着れなくなってしまったので
アホおどりの羽を服代わりにまとって髪もヒゲも伸び放題という見た目になってましたから
美女も当時の日本人離れしていてかなり独特なんですよね。
で徴兵が仲間を失い一人ぼっちになってから約1年半という月日が流れました。
仲間たちを死にいたらしめたのは栄養の偏りや運動不足だと考えた徴兵は
食料をアホおどりだけに頼ることなく毎日のように魚やカニなどの海産物を獲ることに精を出してました。
その甲斐もあって徴兵はたった一人鳥島で生き続けていました。
徴兵一行が島に漂着した時から数えると3年の月日が過ぎていました。
そんな天明八年1788年のある日徴兵は島で人の姿を目にします。
幻ではありませんでした。
それは徴兵たちと同じように漂流し鳥島に流れ着いた船の乗組員たちだったんです。
彼らは大阪の船で仙堂の岐阜郎をはじめ11人の男たちが乗り込んでいました。
彼らも徴兵たちと同様島に着いたばかりの混乱期に船を失い帰る手立てを失っていました。
徴兵と話し、ここが絶海の孤島であることを知った大阪船の船乗りたちは青ざめますが、
徴兵と力を合わせて生きていくことを決意します。
そしてそのまた2年後には、今度は薩摩、現在の鹿児島県渋滞市の船に乗った英英門一行6人が漂着しました。
彼らもまた鳥島への漂着直後に船を失っていました。
そして鳥佐の徴兵、大阪船、薩摩船の船乗りたちの鳥島での共同生活が始まったわけです。
徴兵は生きるためのアドバイスを後から島にやってきた人たちに伝えたんですが、
それを守らず衰弱してしまう者、また島での暮らしに絶望し、自ら命を絶つ者もいました。
また徴兵たちは鳥島の洞窟で過去の漂流者についての情報を得ることができました。
洞窟の中にあった板からは江戸潮町宮本全八船17人、そして遠州、つまり現在の静岡県の船乗り3人がかつてこの島にいたということを読み取ることができました。
実はこれらは徴兵たちよりも数十年前に鳥島に漂着し、そして脱出した人たちから、後にこの島に漂着するであろう人たちへのメッセージでした。
この板切れの存在は徴兵たちに希望を与えました。
きっとこの板に文字を書いた人たちはどうにかして島から脱出したに違いない、自分たちも諦めなければきっと方法はあるという感じでですね。
そして彼らは鳥島へ漂着した人の中では他に例のないほぼゼロの状況から脱出のための船を一石組み上げるという途方もない計画を立案します。
さつま船の乗組員たちは船を建造するのに使える大工道具を持ってはいましたが、釘を作るために必要なふいごなど足りない道具も少なくありませんでした。
そもそも島には貧弱な木しか生えておらず、船を作るための木材が全く足りませんでした。
このうちふいごに関しては鍛冶屋に勤めていたことがある大阪船の給仕地の力によって製作することができました。
これによって船を組み立てるための釘を生産する目処が立ったんです。
そして足りない木材については時折島に流れ着く木材を決して見逃さず島に引き上げていきました。
この流れ着く木材というのは実のところ日本近海でナンパして大破してしまった船の一部でした。
大きな良い木材が流れ着くということはその木材を構成していた船が沈没し乗組員が海のもくずと消えたということを意味していました。
そうすると上等な木材が手に入っても純粋に喜べないというところもありましたが、
彼らは故郷に帰りたい一心で木材を集め続けました。
そして船を構成するための木材は十分揃い、あとは組み上げるだけとなった時に一つ問題が持ち上がりました。
釘が足りなくなってしまったんですね。
釘は洞窟で拾ったり流木に刺さっていたものをふいごで焼き直して使っていたんですが、
ここに来て木材はあるのに組み立てるための釘がないという状況に陥ってしまったんです。
船が完成したら海まで下ろすための道作りまで前もって進めてあったのに、
釘がないために計画が進まない。
そういうことになってしまったんです。
徴兵が姉妹漂着してから12年の月日が経ってました。
そんなある日彼らは決定的なものを見つけます。
何人かで磯に出かけて貝を取ろうとしていた時、
岩の間に他の岩とは質感の違う何かが見えたんです。
皆さんそれなんだと思いますか?
彼らが見つけたものそれは船の怒りだったんです。
つまり鉄の塊です。
足りなかった釘を作るために十分な鉄が一気に手に入ったんです。
彼らは神仏のお授け物だと大喜びして足りなかった釘が急ピッチで作られました。
停滞していた船の建造計画が一気に動き出しました。
そして船は完成したんです。
この時点で生存していた14名の漂流者が全員船に乗り込みました。
徴兵は船の上で島で失った仲間たち、
源永門、おときち、神戸のことを思い返していました。
彼らの遺骨の一部は小箱に入れて持ち運んでいましたが、
遺骨の大半は島で建てた墓石の下に眠っていました。
徴兵は島に向かって叫びます。
源永門親父、おときち、神戸、俺は島を離れる。
霊魂よ、この船に乗れ、共に故郷へ帰ろう。
そして大阪船、薩摩船の人たちも口々に島で亡くなった仲間の名前を呼び、
船に乗れ、と叫び続けました。
そして徴兵たち14人の乗った船は約10日間の航海の末、
友人島の伊豆諸島、青ヶ島にたどり着き、
そこから八丈島を経由して江戸で取調べを受けてから、
それぞれの地元へと戻ることができました。
取調べというのは、
鎖国時代の日本では外国へ行くことが重罪だったので、
徴兵たちの漂流がどういうものだったかを調べられたわけなんですね。
徴兵も故郷の土佐に戻りました。
徴兵は漂流時、数え年で24歳でしたが、
故郷に帰った時点では37歳になっていました。
徴兵は無人島での体験談を各地で語って金品をもらうようになり、
結婚し子供ももうけ、
分成4年、つまり生歴1821年4月8日、60歳の生涯を終えました。
彼は野村生を名乗ることを覇に許されたため、
墓碑には野村徴兵、そして彼の通称だった無人島という文字が刻まれています。
徴兵の墓石は今も現存していまして、
高知県江南市にある鏡駅の駅前に徴兵の像と一緒に佇んでいます。
この徴兵の像は徴兵の生還200周年を記念して、1998年に婚留されたそうです。
この徴兵の像、一見銅像風なんですが、
強化プラスチックでできているそうで、
見た目的にはちょっと江戸期の日本人というよりは、
ギリシャ風彫刻の誰かに見えるような掘りの深い造形になってます。
何か資料をもとに造形した像ではなく、
その徴兵の力強さをイメージして作ったイメージ像ということみたいです。
でも、この徴兵の像と徴兵のお墓が隣り合って存在しているということで、
やっぱり徴兵推しの僕としてはいずれは推し勝つの一環として、
この高知県江南市にある鏡駅に行かなければいけないなと考えてます。
語り尽くせないほど深く味わいのある無人島徴兵の漂流譚、そして小説漂流ですが、
一旦今回はここまでとして、
明治期以降、鳥島で起きたいろいろな出来事を時系列でお話ししていければと思います。
江戸時代、島に漂着した船乗りは、ほぼ例外なく島にたくさんいたアホオドリを食糧にすることで命をつなぐことができました。
中にはアホオドリがひなに与える餌の一部をもらって命をつなぎ、
この鳥のおかげで我々は命をつなげた。
決してこの鳥は殺さないようにしようと誓い、
実際島を脱出するまでアホオドリを殺さなかった漂流者のグループもいたんですが、
それはかなり例外的なことでした。
なんですが何十万羽といたアホオドリは、漂流者たちが一人一日一羽というペースで飼っても、
そうするに大きな影響はありませんでした。
雲行きが変わったのは明治期に入ってからのことでした。
以前セミラジオの南大東島の回で玉置半衛門という人を紹介しました。
絶快の孤島である南大東島に製糖会社、砂糖を製造する会社を作り、
労働者を過酷なルールで縛り搾取したあの玉置半衛門です。
実はこの人が南大東島の開拓より前に初めて開拓した島が鳥島だったんです。
玉置は明治20年、つまり西暦1887年、鳥島に開拓団とともに上陸しました。
表向きは鳥島を農地として開拓するという名目で日本政府から許可を取り付けていましたが、
本当の狙いは別にありました。
それはアホ踊りでした。
実は当時アホ踊りの羽毛は高値で取引されていたんです。
玉置と開拓団の上陸以来、年間数十万羽のアホ踊りが乱獲され、
高級羽毛布団の材料としてヨーロッパなどに輸出され、
間もなく玉置の名前は長蛇番付に乗ることになりました。
江戸時代の漂流者と玉置たちがやったこと、
命を奪われるという意味ではアホ踊りにとっては同じですが、
その意味合いや種の存続への脅威の度合いは大きく違いました。
長兵や他の漂流者は生きるためにやむを得ずアホ踊りを手にかけました。
玉置がやったのはアホ踊りという生き物を生きるためではなく、
お金のために後先考えずに虐殺した、そういうことだと思います。
そうして急速に数を減らしていったアホ踊りですが、
明治35年、西暦で言うと1902年、鳥島で大規模な噴火が発生しました。
噴火、そして大規模な水蒸気爆発がほぼ同時に発生し、
開拓者たちの住んでいた集落を直撃しました。
この時、鳥島にいた住民125名のすべてが亡くなりました。
噴火と水蒸気爆発の勢いがあまりにも凄すぎて、
遺骨はあおろか、遺留品も一つも回収されなかったそうです。
この時、島の噴火に気づき、近くを航行していた船が生々しい描写を残しています。
一部だけご紹介します。
明治35年8月16日午前8時ごろ、鳥島の南西にあたり海底火山の高く噴出するを遥かに見たり、
次第に近づくと街頭の中央より黒煙の時々噴出するを見る。
午前10時30分ごろに至り、海岸から1から3回り、過去1.8から9キロメートルの距離において、
気滴をもって住民を呼べども、さらに人影及び家屋を見ず、
ただ海底火山の噴出と山頂の黒煙を見るのみ。
ことに該当、千歳浦の如きは海岸土砂、崩壊、湾形全く変じ、
その惨状、言語に尽くしがたく、実に惨憺を極む。
アホ踊りを虐殺した人たちに怒りを覚える自分も、この亡くなった方たちを気の毒だと思う自分も両方います。
八丈島にはこの明治20年の鳥島の噴火で亡くなった人たちを痛む鳥島理済者証婚費があります。
これは亡くなった125人のうち90人が八丈島や隣の八丈小島の出身者だったからなんだそうです。
八丈島では鳥島の噴火をアホ踊りの呪いと考える方もいたそうです。
ちなみに鳥島でのアホ踊り狩りを主導した玉置半衛門ですが、鳥島が噴火したときは島には不在で難を逃れていました。
玉置は全国から義援金を募り、特に安全対策も打たず、新しい海宅民を島に送り込みアホ踊り狩りを再開しました。
明治39年、西暦1906年には日本政府がアホ踊りを保護庁に指定、昭和8年1933年にはアホ踊りの捕獲を禁止しましたが、
時すでに遅く、かつて数十万羽いたアホ踊りですが、明治初期には百羽から数十羽程度の群れしか確認できなくなっていました。
そして昭和14年、1939年、鳥島で再び激しい噴火が発生しました。
この時、島には数が減ったアホ踊りの代わりにオーストンウミツバメというウミドリの羽毛を採取していた開拓者たちが住んでいました。
この時は明治の大噴火の時とは違って避難が間に合い、開拓者たちは船で鳥島を離れたんですが、開拓者が飼っていた家畜などは全滅してしまいました。
そして激動の昭和期、鳥島も旧日本軍の軍事拠点の一つになりました。
日本海軍は鳥島にレーダー基地を作り、島には軍人が駐留することになったんです。
羽毛を目当てにした虐殺、そして明治昭和期の二回の大噴火、さらに鳥島が軍事基地となり軍隊が駐留する。
そんな中、一体アホ踊りはどうしていたんでしょうか。
当時、科士官として鳥島に駐留していた人が昭和20年、1945年4月に島で白い大きな鳥を見たという証言を残しています。
太平洋戦争終結後の昭和24年、1949年、アメリカの潮類学者オースチン博士が鳥島を訪れ、アメリカ海軍の軍艦に乗り、海上から鳥島を観察しました。
その時、アホ踊りを一話も確認できなかったので、日本のアホ踊りは絶滅したと世界に向けて発表したんです。
島に上陸もせずに海から確認して見つからなかったから絶滅しましたと発表するというのはかなり雑だなぁと思うんですけど、
で、実のところアホ踊りは絶滅してなかったんです。
ここまでアホ踊りとあまり細かく説明せずに呼んできたんですが、このあたりでちょっと話を整理したいと思います。
これまで単にアホ踊りと呼んできた白い大きな鳥なんですが、水薙鳥もくアホ踊り家に属しています。
このアホ踊り家は世界中に22種の鳥が分布していて、日本の鳥島で繁殖するアホ踊りというのはその22種いるアホ踊り家の中の1種類なんです。
当時オースチン博士が絶滅を確認しましたと発表したのは、日本近海の島でのみ繁殖するアホ踊りという種についてのお話だったということなんですね。
ちなみに日本近海ではこのアホ踊り家のアホ踊り以外のアホ踊り家の鳥もいます。
アホ踊りより一回り小さい黒足アホ踊りと小アホ踊りというのがいるんですね。
今回はそれらについては掘り下げず、アホ踊り家のアホ踊りという種についてのみお話しします。
戦時中には軍隊が駐留していた鳥島なんですが、戦争も終わって軍隊が引き上げ、一時無人島となったんですが、戦後また違った属性の人たちがやってきます。
それは気象庁の人たちなんですよ。
日本の領土として末端の地域に位置する鳥島に気象観測所を置くことによって、これまでよりも素早く正確な気象予測が可能になる。
そういう理由からこの絶海の孤島に気象観測所が作られることになったんです。
当時気象衛星などもないということで、特に鳥島の気象観測所の価値は高かったんですね。
そんなわけで鳥島は気象予報の前線基地という意味合いの島になったんですが、
昭和26年、1951年、当時の気象観測所の所長である山本昌司さんが、鳥島の南部、断崖絶壁の下にある場所で、白い大きな鳥を発見します。
山本さんが観測所に帰って図鑑を開いて確認したところ、絶滅したとされるアホオドリに間違いないということになり、研究者による調査も行われ、このアホオドリの再発見は国際的にも大きな話題を集めました。
この辺りのアホオドリ再発見前後の状況は、作家の日田次郎が古党という短編小説として作品化しています。
絶滅したとされていたアホオドリを気象庁の人が再発見したというのは意外ですよね。
さらに鳥島で勤務していた気象庁の人たちは、自らの意思でアホオドリの保護活動にも乗り出しました。
というのはこの頃、島には野良猫が数多く住みつき、アホオドリの雛を襲っていたんですね。
この野良猫は戦時中に軍人が持ち込んだものが島に取り残されて繁殖したものでした。
その頃に気象庁の方が行った保護活動というのは、現在の基準に照らし合わせるとかなり過激なものだったようです。
僕の手元に気象庁の鳥島観測所に勤務した経験のある藤沢至るさんという方の書いたアホオドリという本があるんですが、
その本の中でその頃の気象庁の方による保護活動の内容について触れられています。
それによると昭和31年、ある気象庁の職員は16匹もの野良猫をカレーライスの材料にしており、
その後も見つけ次第牧殺しているので、現在は野良猫の数は激減しているというふうに書いてあるんです。
このアホオドリという本は鳥島に勤務していた気象庁の方が執筆したもので、
そのアホオドリを救いたいという気持ちのあまり、野良猫をカレーライスの具にしてしまった職員というのは同僚なわけですよね。
なのでデタラメを書いているわけではないんじゃないかと思います。
いやー、人間ってアホオドリを殺したり救ったり、猫をカレーライスの具にしたり、何やってるんでしょうね。奇妙ですよね、すごく。
で、初期の保護活動はそういうかなり過激な形で気象庁の職員によって行われていたわけなんですが、
昭和40年、1965年、鳥島で地震が発生します。
地震に続く噴火の可能性が考えられたため、鳥島の気象観測所は閉鎖され、18年の歴史に幕を閉じました。
このあたりの鳥島の地震や気象観測所の閉鎖までの状況も、作家の日田次郎が「火の島」という小説で描いています。
ちなみにさっきお話しした日田次郎の「孤島」という小説に、ちょっと文脈は違うんですが、
野良猫をカレーライスの具にするというくだりが描写されています。
今回、日田次郎の名前がよく出てきますが、彼は映画で有名な八甲田さんの原作者でもありますね。
日田次郎は気象庁に勤めていた経験があり、その経験が作風に大きく影響を与えています。
気象というのは自然の大きな動きのことではありますから、
「火の島」では地震や火山活動、八甲田さんでは荒れ狂う山の吹雪や寒波の恐ろしさと、
その中で奮闘する人たちの心の動きを国名に描いた作家です。
気象観測所の閉鎖後、再び無人島になった鳥島ですが、
70年代からはウミドリ研究者の長谷川博さんと山品鳥類研究所など鳥の研究者や研究機関が中心となって、
アホオドリの調査や保護活動が行われ、一度は絶滅の瀬戸際まで追い詰められたアホオドリもその数を順調に増やしています。
再発見時の1951年におけるアホオドリの生息数は数十羽と見積もられていた鳥島のアホオドリですが、
2020年代の今現在は5000%以上が生息しています。
ただ鳥島というのは今も昔も活発な火山島で、
島といっても海底火山が海の上に少しだけ頭を出しているというイメージに近い、極めて不安定な場所なんですよ。
そしてその活発な火山の8号目みたいなところにアホオドリの集団栄葬地があるわけです。
いつまた明治期、昭和期に起きたような大規模な噴火があるかわからない場所なので、
鳥島以外にもアホオドリの繁殖地を作ろうという試みがされてきました。
その一つが小笠原諸島の無人島、向島という島で、そこはもともとアホオドリの繁殖地だった島なんですね。
この向島でも羽毛を狙った乱獲が行われ、一度は完全に向島のアホオドリというのは絶滅してしまいました。
そこでデコイイと呼ばれるアホオドリそっくりの模型とアホオドリをおびき寄せる鳴き声の音声、
そして鳥島からの雛の移住などあらゆることをやった結果、
今現在小笠原諸島の向島は再びアホオドリの繁殖地として復活を遂げたんです。
日本のアホオドリって世界に22種いるアホオドリ科の中でも目がつぶらで本当に可愛らしい素敵な鳥なんですよ。
鳥島や小笠原諸島の向島というほとんどの人が立ち寄ることのない島で繁殖していて直接目にすることはほぼない鳥ですけど、
江戸時代の漂流者がアホオドリを飼って命をつないだり、明治には羽毛のために乱獲されて絶滅寸前まで追い込まれましたけど、
その後の保護活動で今順調に数を増やしている。
そんな実は僕ら日本で暮らす人々ととても縁が深い生き物なんですよね。
これから鳥島やアホオドリがどういうことになっていくのか不安定な火山島ということもあって楽観はできないんですが、
鳥島はこれまでもこれからもいつまでもアホオドリの楽園としてあってほしいなと思いますし、
鳥島に漂着し極限のサバイバルを強いられた江戸時代の漂流者たちの物語とともに、
鳥島はずっと気になる場所として僕の中にあり続けるんじゃないかと思います。
今回資料にした本についてはセミブログの方にまとめていますので、ご興味があれば概要欄からチェックしてみてくださいね。