活版印刷の世界へようこそ
ここは町の小さな印刷所。 軒先から聞こえてくるリズミカルな音に誘われて工房に足を踏み入れると、
出迎えたのはインクの匂いと黒く輝く年代物の印刷機。 壁一面に置かれた棚には膨大な鉛の活字がぎっしりと詰まっています。
ここはまるで時計の針が巻き戻ったかのような場所。
印刷機の向こうから鼻歌まじりに現れたのは小柄な店主。 薄いブルーのボタンダウンのシャツ。
首元までボタンを留めた紳士的な佇まい。 山田芳幸さん、84歳です。
文人堂です。
多分そうだろうと思って。いいよいいよ。でもそのくらい思い切ったことをした方がね。
面白いものを作りましょう。よろしく。
指先でなぞると感じる言葉のくぼみ。
インクのかすれさえも独特な味わいに変わる活版印刷。
新聞、雑誌、書物。
幕末からおよそ100年にわたり、日本の紙文化を支えてきました。
鉛の活字を一つ一つ拾い、版に組み。
インクをのせて紙へと写しとる。
気の遠くなるような手間と時間のかかる手仕事です。
効率が優先されるこの時代、活版印刷はほとんど姿を消しました。
それでも活版の持つ力を信じ、その灯火を守り続ける人がいます。
福岡市城南区にある小さな印刷所。
文林堂の店主、山田よしゆきさん。
工房に流れる、ゆっくりと温かな時間を追いました。
職人の一日:朝のルーティンと仕事への向き合い方
インクと活字と山田さん、朝。
インクで黒ずんだ指先でレコード盤にソフトハリをのせ、
大好きなコーヒーを薄めに入れる。
山田さんの一日が始まります。
工房にあるキッチンで朝食を作るのが日課。
今日のこんだては、グリルでこんがり焼いた食パン。
おかずは、残り物の小松菜の煮付け。
忙しいでしょ。
朝食を済ませたら、さあ仕事。
使い込まれた黒いエプロンをかぶり、腰でぎゅっと紐を結ぶ。
背筋がしゃんと伸びて、山田さんが職人の顔に変わります。
山田さんの相棒は、アルビオン型と呼ばれる年代物の手引き式印刷機。
真っ黒な鉄製の支柱や足は彫刻で飾られ、華やかな風格を感じます。
鉄の重みと人の力だけで紙をプレスする、とてもシンプルな構想。
計算できない独特のムラと凹凸が、深い味わいを生み出します。
版画と一緒ですね。だから一枚一枚、いい作品を。
印刷と言いながら、一番簡単なシンプルなだけに奥が深い。
だから面白いというか、危うい面白さがある。
今日の印刷は、イラストが描かれたポストカード。
北欧生まれのムーミンと、その仲間たちが森で戯れる様子を、あえてモノクロで。
深い森の闇や、謎めいたキャラクターたちの世界観を表現します。
この辺の石が乗って、今にもここに落ちてきそうなのに、ここでのんびり遊んでる。
ああいう機械じゃ、こういう風な雰囲気の出方はしない。
この機械ですることの意味がはっきりしましたね。
この機械の出番ということですね。
文林堂に集う人々:スタッフと常連客
これを拾った後、どっちでもいいです。とにかくこの箱に。
山田さんの隣で仕事をサポートするのは、スタッフの吉田陽子さんです。
子供みたいですよね。
少年のように本当にカツジが好きで、本当にそれだけをやっていきたいんだけど、
寝るのを忘れて、ご飯を食べるのを忘れて、仕事をやっている感じですね。
おはようございます。おかわりなく。
文林堂には、朝からお客さんがひっきりなしにやってきます。
注文の相談が終わったら、始まるのは山田さんとの愉快なおしゃべり。
その居心地の良さに、誰もがついつい長居してしまいます。
今日の訪問客は、仲良しの写真家、木村美由紀さんです。
どんな時でも受け入れてくれるんです。夜来ても朝来ても。社長は必ずいるから。
よく遊びに来ています。歳は全然違うけど、友達でもあるし。
同じ思いになって考えてるっていうこと。
私は社長はアーティストだと思ってるんで、職人さんだけど、職人さんってその通りに作るのが職人さんであって。
でも社長は、より良くしようとする方だから、本当にアーティストだと思ってて。
名刺を作りたいと、初来店のお客さんがやってきました。
名刺作りの挑戦:活字の配置と職人の工夫
デザインの仕事をしている、中村博之さんです。
これは古い形で作った、私の名刺で。
かっこいい。
工夫して。
素敵。
いつか作りたいなってずっと思ってて。
名刺ってバラ撒くもんなんですけど、やっぱり貰った時の嬉しさとかが、
やっぱりカッパンの名刺貰った時、やっぱり嬉しいんですよね。わっ!って思うし。
せっかくオリジナルで作れるなら。
何もないとこから始めた方が手間取るけど、やっぱりその人らしいものができるかな。
早速、名刺作りが始まりました。
工房にずらりと並んだカツジの棚。
ひらがな、カタカナ、漢字、数字、記号、フォントも大きさもそれぞれ。
名刺に載せる小さな小さなアルファベット。
山田さんは虫眼鏡を覗き込み、ピンセットで一粒ずつ慎重にカツジを並べていきます。
最高に難しいですね、この組み方。
歯医者さんの手術みたいですね。
配置一つで野暮ったくもなれば美しくもなる。
わずかなズレが全体の表情を大きく変えてしまいます。
注文に来られた時は注文を聞いただけで、
僕の中にはどうしたらこれができるだろうかという回答はまだないんですよ。
それをやりながら自分で工夫して、はい、これができましたと言って、
それを見てお客さんはびっくりするという感じなんですよね。
だからここに来たら、僕のやっていることを見ていたら、
周りの人がいろんなインスピレーションを刺激されるって。
父から受け継いだ誇り:九州文学と活版印刷の道
幼い頃から印刷所を経営する父の背中を見て育った山田さん。
その父が誇りを持って作っていた一冊の雑誌を、今も大切に手元に残しています。
毎月発行していたのかね、これ。
家で印刷した九州文学、昭和30年。
セピア色に変化したその雑誌は、九州文学、
日野足平や劉寛吉など早々たる作家たちを排出しました。
文林堂は戦後日本の近代文学を支えた、この雑誌の印刷を任されていました。
ページをめくれば、父が組んだ美しい活字の世界。
少年だった山田さんにとって、父の仕事は何よりの憧れでした。
手で覚えた感覚、美意識というか、
そういうものは子供の頃にしっかり、それこそ専門学校に行ったようなもので。
あまり説明はしないんですよね。
バランスがいいというのは、
余白を見るとバランスがいいというのが分かるって、
文字ばっかり見たって分からないんだよと。
丁寧な仕事をしなさいということですよね。
だから、それともう一つは、気に入る仕事をしなさいってお客さんが気に入るね。
成長した山田さんが、父と同じ印刷の道を選んだのは、ごく自然な流れでした。
独立し文林堂を開業しますが、時代は70年代。
コンピューター制御によるオフセットが瞬く間に主流となり、
手間のかかる活版印刷は衰退の一途をたどります。
時代の波には逆らえず、山田さんは活版の印刷機や膨大な活字を処分します。
それは、父から受け継いだ誇りを手放すことでもありました。
最新の設備を整え、一時は事業も拡大しますが、時代はバブル崩壊へ。
経営難に加え技術革新のスピードにもついていけず、山田さんは疲弊していきます。
そんな時、かつて父が残したある言葉が胸をよぎりました。
やっぱり人間の出番があるこの手仕事っていうのはね、これから必要なことだと。
お前は今やっていることを大事にしなさいって一言ぼつりと言った。
父の言った一言っていうのはものすごく、そういう何年も後になって思う。
あ、そうだ、活版印刷だって。
一度は手放したはずの父の誇り。
活版印刷で再び勝負を挑む60代の山田さん。
第二の人生を賭けた挑戦でした。
夢の印刷機ハイデル:70年越しの挑戦
ご機嫌が悪いですよね。
今、文林堂の真ん中に鎮座するのは、大きな漆黒の鉄の塊。
ドイツ、ハイデルベルグ社製の活版印刷機です。
印刷が始まると蒸気機関車のように側面の大きな車輪が回り、
まるで生きているかのよう一度に大量の印刷物を力強く擦り上げる。
その圧倒的な存在感はまさに活版印刷の王様です。
山田さんにとってこのハイデルは少年時代からの夢でした。
中学生のころ、この機械がカタログを見て欲しくて、
欲しいからどういう機械か実際に見たいと思って、
ある印刷所に行って窓から覗こうと思ったけど、
それが小さくて覗けなかった。
それかと言って扉を開けきられなかった。
あるところ、この機械を売っているところに手紙を出して、
いくらしますかって聞いたら、どうじゃ買える値段じゃなくて。
届かなかった窓の向こうの夢の機械。
それから70年。
思わぬ縁であのハイデルを譲り受けるチャンスが巡ってきます。
しかし、いざ目の前に現れた眩しいほどの黒い輝きに、
山田さんは立ちすくみます。
この年ではもう使いこなせない。
その時、山田さんの背中を押したのが文林道スタッフの吉田さんでした。
ごちゃごちゃ言ってあったんで、社長が。
年がどうのとか言ってたんだけど。
わかんないじゃないですか。
明日死ぬかもしれないし、20年後、30年後かもしれないし。
だから私が買いましょうって言って。
でも私が出したハイデルのお金より、
これを移送するお金の方が何倍も高かった。
諦めたという悔やみよりは、その一言がやっぱり強かったですよね。
少年時代の夢が叶った。
あふれる喜びを山田さんは自作の歌に託しました。
あらま、あらま、あらあらまま、あらあらまま。
あちゃらかほいほい、しちゃらかほいほい、しちゃらかべちゃらか、あちゃらかほい。
とっても楽しいことですね。
デザイナーの中村さんが完成した名刺を受け取りにやってきました
完成した名刺:活版印刷の魅力
これが出来上がりです
めっちゃいいじゃないですか
バランスよく配置された文字とその文字を引き立てる余白
指先でそっとなぞれば
活版印刷ならではの柔らかな凹凸が伝わります
活字の持っている力っていうのが
どこかに隠されてるっていうか
分からないけど
なんかやっぱあるんでしょうね
すごくいい
よかった
最愛の妻との出会いと二人三脚の経営
この潰れそうで潰れてないところがさすがだなと思う
見ていただいてやっぱりデザイン通りが良かったです
山田さんのビジネスパートナーであり
最愛の妻 美代子さん
山田さんが30歳の時に出会いました
白いものを着てたっていうのもあるし
ひらりと列車から降りてきたっていう感じも
向こうのあの人やなと思ったら
天使みたいに見えたから
そしたら翌日結婚式しようっていうこと
会ってから24時間経ったか経たないか
出会った翌日に結ばれた二人
二人三脚での分輪堂がスタートします
美代子さんは天性の経営手腕で
経理から受注業務までそのすべてを一手に担い
夫が心ゆくまで活版の世界に没頭できるよう
影で支え続けました
僕の時間を生み出すために
簡単な印刷は自分でやってくれて
たとえ1日に1時間ぐらいの節約できたとしても
すごいメリットですよね 僕にとってはね
そういう工夫をする人でした
山田さんの仕事を心から理解してくれた
かけがえのない美代子さんでしたが
妻を亡くしてからの日々:工房での寝泊まりと新たな挑戦
2021年の秋
帰らぬ人となりました
僕が先に行くんだと思ってたら
家内の方が追い越して先に行っちゃって
それがショックでね
もう辞めてもいいかなと思ったんですよ
営業自体をね
でもそれも一つのバネになったっていう
せっかくね 彼女がこれだけ僕がやることに
表現して支えて
自分の得意先のこととか全部排除して
注文があったらそこを収めるような
体制を敷いてたのはね
そんな山田さんの様子を見ていた
スタッフの吉田さん
社長自体は大変だったんでしょうけど
仕事はむしろ奥様がされてたことも
社長がしないといけなくなって
ますます仕事をなさっていった
それはもしかしたら寂しさを紛らすためだったり
とかもしたのかもしれないけど
最愛の美代子さんを失ってから
山田さんは夜遅くまで仕事に没頭するようになりました
自宅には帰らず
寝泊まりするのは工房の片隅
今日の文林堂は朝から何やら慌ただしい
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』書籍化への挑戦
この日出版社から大きな仕事が舞い込みました
あの宮沢賢治の代表作
銀河鉄道の夜を前編
活版印刷で書籍化できないかという相談です
山田さんにとって銀河鉄道の夜は特別な存在
中でもお気に入りは
活版印刷書を描いたこの章です
小さなピンセットで
まるで泡粒ぐらいの活字を
次から次と拾い始めました
序盤には何遍も目を拭いながら
活字をだんだん拾いました
六時が打ってしばらく経った頃
序盤には拾った活字をいっぱいに入れた
平たい箱をもう一度手に持った紙切れと
引き合わせてから
さっきのテーブルの人へ持ってきました
これはよく状況がわかるんですよ
小学生の頃ね
名刺の注文を取りに行って
持って行ったら今度はお金も払ってくれて
雨玉でもくれるような世界があったわけです
銀河鉄道の夜
前編の書籍化は
高齢の山田さんにとっては
無謀ともいえる仕事です
ページにしておよそ100ページ
活字は4万本が必要です
文林堂の在庫だけではとても足りません
それでも
怖いけどやりたい
完成できるかどうかわからないぐらい
条件っていうのは整ってないわけなんですよ
でもあえてそれをやることによって
私が亡くなっても
印刷物は残るっていうぐらいの思いで
山田さんは書籍化をやってみたいと
出版社に伝えました
店をお休みして
山田さん
古い活字との出会い:山口印刷所からの譲渡
今日は珍しくお出かけです
向かったのは
久留米市にある印刷所
古い活字を山田さんに譲りたいと
連絡が入ったのです
長島町でおよそ100年続いた山口印刷所
後継者が見つからず廃業を決めました
仙台から受け継いだ大量の活字が
倉庫に大切に保管されていました
これはまた特別の
今まで見たことない古い時代の
ワンダーランド
宝の山を前に
少年のように目を輝かせる山田さん
印刷所を傾け継いをした
店主の山口雅子さんは
その様子を少し寂しそうに見つめていました
愛用、ひらがな、カタカナ、数字、語軸、民著
対象と並べたことを経験してますからね
捨てられんですよ
まさかこんな田舎に活字を
これを私も待ち望んだわけですか
よかった、とっとんでございましたね
託します、こちらのお方に
ありがとうございます
眠っていた古い活字たちが
文林堂の棚へと仲間入りしました
銀河鉄道の夜の物語に
新たな命を吹き込む
その出番を静かに待ちます
活字への想いと未来への希望
活字がこんなのがあるけど
もう使うわけないんですけど
やっぱり取っときたい
ずらっとみんながどこからでも取り出して
自分が好きな文字を組んで
生きるような場所にしたいとは思っています
さあ宝になってくれりゃいいけど
よくぞ取ってくれたっていうようになればいいけど
制作・著作 RKB毎日放送でお送りしました