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巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯
2025-08-28 1:02:26

巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯

福岡市の川端通、博多商人の家に生まれた冬至堅太郎は、終戦の年、陸軍主計中尉として西部軍にいた。6月19日、福岡市の中心部を焼き尽くした福岡大空襲で、堅太郎は母を失う。翌日、母の棺を作りに西部軍司令部の大工小屋にいたところ、九州内で墜落したB29爆撃機の搭乗員たちが処刑されているのに気づき、「自分はその役に最もふさわしい」と自ら志願して、借りた刀で米兵を斬首した。あわせて4人を手にかけた堅太郎は、戦後、BC級戦犯として米軍に捕らえられる。

1946年8月30日、東京・池袋にあったスガモプリズンに収監された堅太郎は、その日から日記をつけ始める。死刑を覚悟していた堅太郎は、自分の行く末を案じながら、内省的に自分をみつめた。堅太郎は妻や幼い二人の息子を想って手紙に涙し、面会を心待ちにする一方で、殺害した米兵にも家族が居たはずという妻の言葉を重く受け止める。2年後、堅太郎に宣告されたのは絞首刑だった。

番組では、冬至堅太郎の日記を軸に、戦犯裁判、死刑囚の日々をたどりながら、スガモプリズンで10年を過ごした堅太郎が福岡へ帰ってきたあとの足跡もたどる。

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00:03
福岡市に住む、陶寺克也さん。71歳。
戦時中、召集されて陸軍にいた父の記録を、福岡県庁に受け取りに来た。
こんにちは、陶寺でございます。
おはようございます。
いつ軍隊に入られたか、それとかあとは、いわゆる階級ですね、が記載されております。
学校卒業ですね、東京小課大卒業で、その後、教練に合格という記載があって。
13年に大学を卒業して、もうすぐその年の12月ですかね、には入隊しているという。
日本が戦争に負け、父が軍隊から離れた後も、記録は続いていた。
連合軍に拘束されたという部分、その記載がありまして、それの厚生省の方に紹介をしたというものが残っておりましたので。
父の名は、陶寺健太郎。
働き盛り、32歳から過ごした場所は、菅野プリズンだった。戦犯、戦争犯罪人として囚われた。
陶寺健太郎は、1946年の入所から、6年分の日記を残していた。
8月30日、金曜、晴れ。
午後2時入所。
所持品検査、健康診断、予防注射等を済ませ、独房に落ち着く。
室内設備の広さ約3畳。
机の蓋を取れば洗面台。
椅子の下は水洗便所。
家族と隔てること300里。
ふるさとに同じ虫の音を聞きつつ、第一夜の眠りにつく。
ラジオドキュメンタリー、菅野日記。あるBC級戦犯の生涯。
父が書いたものはですね、この辺りに並べておりました。
もっとたくさんあるんです。
本棚の一角を占めていた、陶寺健太郎の日記。
03:02
健太郎の産男、克也さんは、父が日記に何を残したかったのかを推測する。
残された人たち、家族も含めてですね。
特に子供たちに対して、父親がどういう人だったのかと。
何をやって、どうやって、死刑で自分の命が失われるということはもう覚悟していたので、
どうやって死んでいったのかということを伝えたいという気持ちが一つあったと思います。
それともう一つはですね、事実、何があったのかということを残しておきたいというものがあったんじゃないでしょうかね。
陶寺健太郎は1918年、福岡市で和文具店を営む博多商人の家に生まれた。
母歌にとっては大事な一人っ子だった。
母の愛情を一心に受けて育った健太郎は、東京商科大学、現在の一橋大学に進学。
大学時代は剣道部の首相としてならした。
卒業した年に招集され、1939年、結婚したばかりの妻、靖雄を残し、中国へ出生する。
途中、陸軍経理学校を挟み、3年を中国で過ごした。
福岡城の跡に置かれていた西武軍に、守警中尉として臨時招集されたのは、1944年2月。
そして、運命の日が訪れる。
1945年6月19日、深夜11時過ぎ、福岡の街を米軍機が襲う。
飛来したB29爆撃機は221機。
投下された焼夷弾、およそ1500トンが、市街地を焼き尽くした。
死者、行方不明者、合わせて1000人以上。
この中に、当時ケンタロウの母、歌がいた。
翌日、遺体が安置された小学校で、ケンタロウは母を見つけた。
その場に立ち会った消防団員が、記録を残していた。
06:01
当時氏は、お母さんと一言軽く声をかけられ、右膝をついて、男泣きに泣き崩れました。
西武軍司令部には、九州一円に墜落したB29の搭乗員たちが集められていた。
司令部の大工小屋で、母の棺を作っていたケンタロウは、庭の隅が騒がしいことに気づき、
様子を見に行くと、そこで搭乗員たちの処刑が行われていた。
私は処刑者として最もふさわしいものだ。
自ら処刑を志願したケンタロウは、刀を借り、アメリカ兵一人の首を切った。
すると、次も、次も、と命令され、結局、合わせて四人の命を奪った。
ケンタロウは終戦の翌年、1946年、戦犯、戦争犯罪人として連行される。
福岡から東京都市幕へ、アメリカ軍が管理するスガモプリズンに就管された。
9月20日、金曜、曇り、私のことをお知りになって、お母さんはどんなにか心を痛めておられましょう。
何もかも私の罪です。
お詫びのしようもない大きな罪です。
お母さんはよく私に、おまえは親思いで高校だから、私は本当にうれしいと言っておられました。
それにもかかわらず、親も妻子も不幸のどん底に突き落してしまいました。
お母さん、教えて下さい。
私はどうしたら憎しんを思うこの苦しさから救われるのでしょうか。
どうしたら家族は決して苦しんでいないと信じられるでしょうか。
お母さん、教えて下さい。
お願いいたします。
どうか、どうかお導き下さい。
スガモプリズンまで面会に行った記憶がある、けんたろうの次男、しんやさん、80歳。
09:10
よくは詳しくは知らなかったから、時々、親父ともあまり会ってないし、小さい頃はですね。
だって校長にいましたから。
死刑囚だったので、そういう状況の中で、なんか僕を連れてですね、私の母が、
私、しんやって言うんですけど、しんや行こうって言って、親父に会わせたかったんだと思うんです。
母の気持ちとしては。
入所からおよそ1ヶ月。
けんたろうの元へ、妻やすよが、1歳の次男を連れ、面会院を訪れる。
9月26日、木曜、晴れ、やすよ面会に来る。
しんや同行。
やすよ、ありがとう。
遠い福岡からはるばると子供を連れ、汽車の混雑にもまれての旅は、どんなにかつらかっただろう。
私はただ、君の顔を見ただけで、ありがたさに涙がこぼれそうになった。
君が面会に来てくれたら、あれも言おう、これも尋ねようと、かねていろいろ思っていた。
しかし、君の顔を見たら、何も言えなくなった。
君やしんやの顔をはっきりと見たかった。
しかし、私たちの間にはられた金網が光って、かすみがかけたようだ。
まだ幼い二人の息子のことを思って、けんたろうは日記を書く。
十一月二十一日、木曜、晴れ、徹夜へ。
てっちゃんはこのごろ、夜寝床の中で母ちゃんに、
「坊やの父ちゃんは?」と尋ねるそうだね。
坊やがお父ちゃんを忘れないでいたことを知って、父ちゃんはほんとうにうれしいよ。
しばらく見ないうちに、すっかり兄ちゃんらしくなった写真を見て、
父ちゃんはついしっかり胸に抱きしめたよ。
かわいいかわいい坊やたち。
父ちゃんは遠い遠いところにいるのだよ。
12:00
どんなに坊やたちのところへ帰りたくても帰れないほど遠いところへ、
しんちゃんはめったに泣かないってね。いい子だ。
でも時々はすねて泣くだろう。
そのときは畳に打ち伏して泣くそうだね。
それを見てみんなが大笑いするので、
深夜はいっそう悲しくなるんだろうと思うよ。
でもおかしくて笑うのじゃないよ。あんまりかわいいからだ。
父ちゃんもしんちゃんが打ち伏して泣く姿を想像してやはり笑ったよ。
笑いながら涙がぽろぽろ出たよ。
二人とも仲良く暮らすんだよ。
病気やけがをしないよう、いつでも笑って元気にしているんだよ。
そしたら父ちゃんは帰ってくるからね。
世界いちかわいい坊やたち。
さよなら、父ちゃん。
夫がいない中、
康代は家業である福岡の文具店を新総開店し、
商売を続ける。
十二月一日、日曜、曇り。
康代へ新店書を書く。
君との結婚が私にとって最大の幸福であったのに、
君にとっては最大の悲しみであったと思う。
思うと苦しい。
だからといって思わずにはいられない。
私たちには二人の子供がある。
君と私の愛の結晶であり、
私たち二人の生命と精神の延長である。
君は私のため、子供のために必死の戦いをしている。
私も戦わねばならぬ。
君は世の荒波と戦う。
私は静かに自分自身と戦う。
いずれもこの運命との闘争である。
1945年8月。
日本はポツダム宣言を受諾して、
連合国に降伏した。
この中には、戦争犯罪員の処罰が含まれていた。
東条秀樹元首相ら、日本の指導者が問われたのはA級戦犯。
15:05
東寺健太郎が問われたのはBC級戦犯だった。
BC級戦犯を日本で唯一裁いた。
横浜軍事法廷。
法廷を開いたのは、日本に侵中したアメリカの第8軍だった。
無罪を主張しますか。無罪を主張しますか。
無罪を主張いたします。
アメリカ軍は何を裁いたのか。
戦争犯罪に詳しい、宇住愛子、
慶専女学園大学名誉教授が解説する。
法廷を開いたアメリカの第8軍にとって、
日本の戦争犯罪を裁きますから、
捕虜虐待、それが裁判の中心になってきます。
特に横浜法廷は捕虜虐待に特化した法廷だと思います。
やっぱり捕虜虐待に対する怒り、
それは私たちの想像を超えます。
捕らわれて1年が経った1947年。
ケンタロウは、戦争犯罪を問われるべきが、
本当は誰なのかを考えていた。
兵の外では、連合国による占領政策の下、
戦後復興が進められていた。
9月2日、火曜。
日本の敗戦は政府や軍閥の罪であるが、
この政府や軍閥は国民の政府軍閥であった。
だから、国民の罪である。
さらに言えば、
敗戦そのものよりも、かかる戦争を誘い、
あるいはもっと早く終わるべきを
いたずらに引き延ばしたことに対しての責任である。
こんなふうに考えると、
我々は当然追うべき山のような責任があるのだ。
それなら、日本人全体の罪ではないかという人もあるだろう。
しかし、現在戦犯が問われているのは、
そのような一般的な問題ではなく、
個人的な事件のみである。
1948年。
ケンタロウの裁判が始まった。
18:02
ケンタロウの弁護を担当したのは、
横浜弁護司会の桃井刑事だった。
9月14日。水曜。晴れ。
午前中、桃井弁護司と会う。
前から横浜裁判の仕事に携わった人だそうで、
中年の働き盛りという感じだ。
私の弁護について非常に困難で、
処刑者中最悪の条件にあるという。
そのことは十分承知しています。
承知しました。
死願されたのが致命的な悪条件になっています。
私もそう思います。
私は処刑者としての責任は喜んでおりますが、
殺人者としての罪はきたくありません。
ごもっともです。
あなたがやらなくても誰かが処刑したのですから、
その点はご希望に沿うようできるだけの努力はします。
証人台に立って、自分の口から真実を述べようとしたケンタロウ。
桃井様、証人台に立ちたく再度お願い申し上げます。
せめて自分の言いたいことを言って判決を受けたいと思うのです。
しかし、ケンタロウのような処刑の実行者たちは、
証人台に立つことが叶わなかった。
重い判決を予想したケンタロウは、
面会に来た妻やすよには、あえて楽観的な見通しを伝えた。
12月19日。日曜、晴れ。
やすよよ、私を嘘つきと君は責めるだろうか。
どんなに後で責められても、
私はそうするより仕方がなかったことをわかって欲しい。
私が君を愛すれば愛するほど、私には真実が言えないのだ。
それは君とても同じだと思う。
君はいく度か、早く帰って来て下さいと言い、
帰ってらしたら洋服を慎重なさらなくてはとも言ってくれた。
しかし君は、私の運命が風前の灯火であることを
よくよく承知していることを私は知っているのだ。
それを努めて隠そうとするのは、君の私に対する愛ゆえと私は信ずる。
21:03
やすよ、明日法廷では軽い気持ちで別れよう。
判決間近。
スガモビリズンの若いゼーラー 監守との会話
12月22日、水曜、晴れ。
私たちのいる6号棟に来る十数名のゼーラーの中で、
特に私の親しい一人がいる。
君の気持ちはよくわかれ。
君がお母さんを殺されて怒ったのは当然だ。
もし僕がそのような立場に置かれたら、君と同じことをやったに違いない。
君もそう思うか?
僕にとってあまりに自然で、そうするより仕方はなかった。
今でも君はアメリカ兵に対して怒りを持っているか?
いや、全然持っていない。
今は母はアメリカ人に殺されたのではなく、
君が戦争のために死んだとしか思っていない。
4人処刑した時はどんな気持ちだったか?
死難するまでは本当に怒っていたが、
処刑の位置に着いた時には、
ただ立派に処刑を遂行することより他は考える余地がなかった。
後で私の妻にこの処刑のことを話したら、
妻は、その飛行士たちには奥さんや子供があったでしょう?と言った。
僕は言葉がなかった。
しかし、これが戦争というものだ、と思った。
日本が降伏するなどとは夢にも思わなかった。
アメリカが上陸してくれば最後の一兵まで戦うつもりだった。
だから私は妻に、もし米軍が上陸して迫ってきたなら、
お前も坊やたちも殺した後、私も敵中に切り込んで死ぬ、と言ったら、
妻は、ええ、と答えた。
当時はそのような気持ちでいたのだ。
君はアメリカ兵たちが女や子供を殺すと思っていたのか?
そうは思わない。
しかし、敵に捕虜となることは、日本人としては非常に不名誉なことなのだ。
その不幸を見せたくなかった。
24:00
なぜ捕虜になるのが不名誉なのか?
それは日本人の道徳で、君たちには理解できないだろう。
理解できない。
それでいいんだ。
僕は君が死刑にならないよう祈っている。
この翌日、A級戦犯7人の死刑がスガモプリズンで執行される。
死への恐れと緊張が高まっていた。そして、
12月29日、水曜。
ついに来るべき判決の日は来た。
公主刑。これが私に与えられた判決である。
ケンタロウに宣告されたのは死刑だった。
当時ケンタロウの弁護を担当した桃井刑事弁護士。
晩年までずっとケンタロウの裁判資料を手元に留めていた。
法務省に渡さなかったの。出してくれって言われたんだけど、出せなかった。
神奈川県弁護士会の真部俊明弁護士は、桃井弁護士から資料を託され、
横浜裁判の検証をしてきた。
非常に難しい事件ですよね。当時、処刑者の数が多いわけで、
それを何とか弁護したいという情熱を持ちだった桃井先生が、
こういう弁護方針の依頼の手紙をもらってやるぞと思っていて、
それができなかった。できなくて最悪の判決が出ちゃった。
そこの弁護人としての責任感って言いますかね。
当時の裁判自体、十分な審理が尽くされていなかったということなんだろうと思いますね。
真部弁護士は、裁判の審理に不備なところがあったとしても、
先般裁判には意義があったと話す。
危ういところで、戦争犯罪人が裁判にかけられないで処刑されるということがあり得た。
27:08
裁判があることで何が裁かれたか、
どういう犯罪をこの軍人はやったかというのが記録されることになったんですね。
これだけでも非常に歴史的意味はあったと思うんです。
つまり検証ができる。何が起きたか。どういうひどいことをやったか。
死刑の宣告を受けた、当時ケンタロウ。
まだ34歳だったケンタロウは、気持ちを切り替え、最新に原刑の望みをかける。
安代も探案書を集め、署名活動に奔走する。
そうした中、死刑囚の党からは刑を執行される人々が旅立っていく。
戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判。
そもそも日本を無差別爆撃していた米軍機の搭乗員は、戦争犯罪には問われないのか。
横浜裁判でそれを争った人がいる。
岡田タスク中将。
名古屋市に置かれた東海軍の司令官だ。
B-29爆撃機の搭乗員を処刑したことについて、岡田中将は、
米軍機の無差別爆撃は国際法違反であり、処刑は正当と主張する一方で、部下をかばい、一人だけが公主刑となった。
日蓮州の信者だった岡田は、死刑囚たちの心の拠り所となる存在だった。
岡田タスク中将の長男の妻、純子さん。97歳。
純子さんは横浜裁判の法廷で、岡田に結婚の報告をした。
1948年のことだ。
言葉はもうかけられないんで、ニコニコして、ちゃんとこうやってうなずいてくださって、うれしそうにしてくださった。
30:00
ちゃんと座っていらして、きちんと。いろいろ聞かれても、ちゃんと堂々と言っていらっしゃいます。立派でした。
若い監修のアメリカ兵が騒いだりすると、お父さんは英語で叱ったりしたようですよ。
20日後、純子さんは死刑の判決を法廷で聞いた。
ちょうどその日はね、もうこっちは緊張しているだけで、
それでもう、お父さんはお部屋を出ないんだけど、見送るだけで、もう言葉も出ないです。
本当に緊張して、何ていうのかしら、そんな判決が出るってね、ならないようにってずっと思ってたのにね、やっぱりちょっとショックでした。
当時、けんたろうの日記には、岡田との別れが記録されていた。判決の翌年、1949年。
8月15日、木曜。やっぱり誰か処刑されるようですよ。足音は一人のようです。
棒を一つ一つ音ない挨拶するらしく下駄の音が近づいてきた。
誰だろう、声が低くてわからない。
私たちの部屋の前に来た人を見て、思わず、あっと言ってしまった。
岡田閣下である。
君たちは来なさんな。
閣下は水のごとき静けさでそう言われた。
閣下、私たちのことはご心配なく。
うんとうなずいて、そのまま廊下を消えて行かれた。
まもなく各棒から、招待の声が聞こえ、それが次第に大きくなった。
私も立ったまま大きな声で唱える。
閣下の声が一際高く、階下から聞こえる。
まもなく大廊下との境の鉄の扉が閉まる音が響いた。
33:00
とうとう、閣下は去られた。
岡田の遺書には、こう記されていた。
こんなように、特に葬式法要一切不要です。
おまんだらの前に写真や俗名を並べてくれたら、それで結構です。
菅野プリズンで、当時ケンタロウが見送った人を知る人が、大分県佐伯市にいた。
沖縄の石垣島で、アメリカ兵の捕虜を殺害したとして、26歳で死刑になった歌詞家。
成坂忠邦、武田幸さん、96歳。
成坂は、戦死した武田さんの兄の友人だった。
武田さんは、死刑の宣告を受ける成坂の写真を見て、おえつを漏らした。
武田さんは、死刑の判決後、探案書を持って菅野プリズンを訪れたという。
しかし、禁止医者しか会えないと言われた。
2、3歩入り出したら、サープと言われて、カビ銃で押し返されたのです。
ああ言っても、どうしても、この部屋の向こう側にいるのに、
ああ言ってくれたらよかったのに、ああ言っても、情けないので、わんが泣いたんですよ。
背中に、女兵隊が村城の正面部を担いでいたと言ったのですが、
武田司令は優しい人だった。何と何ともせず、家を向こうへ。
石垣島事件では、3人の米軍機搭乗員が殺害された。
36:00
2人は首を切られ、1人は縛られた上、大勢から銃剣で刺された。
死刑になったのは、全部で7人。
その中に、成坂と同じく菓子館で死刑になった藤中松尾がいた。
福岡県釜市出身、28歳で命を絶たれた松尾には、妻と幼い息子が2人いた。
次男の高行さん、78歳。
父が亡くなった時は、まだ3歳だった。
母は、父のことはあまり語らなかった。
高行さんも、父が戦犯だったことは、自分からは話さなかった。
自歴書を書いた時に、その時、親父の欄があったけれども、
戦死地を書いたのよ。戦死地。
もっと年が上がるのよ。
20年に終わった野郎じゃない。俺は20年に生まれたから。
それから聞かれたことがあって、その時に初めて戦犯で亡くなったということを、
面接を受けた人に言ったことがある。
藤中松尾は、幼い息子たちへ遺書を残した。
父が忘れることのできない、かわいい小市。
高行ちゃんに、最後の言葉として最も強く残しておきたいのは、
父は、なぜ死んでいかねばならないか、ということであります。
そうした結果をもたらした原因は、何でありましょうか。
それは、全世界、人類がこぞって嫌う、いまいましい戦争なのです。
松尾は、命令によってアメリカ兵を銃剣で刺したが、
調べの段階では、自主的に刺したと供述していた。
しかし法廷では、
自発的に、そばにいた人の銃を取ってついたと書いてあるのは、
当時、中尉に迷惑をかけてはいけないと思って、嘘を言ったのである。
39:04
石垣島では、中尉からよく面倒を見てもらい、心から信頼していた。
証人台に立った松尾は、本当は命令があったと証言したが、判決は死刑だった。
慶専女学園大学の宇住愛子名誉教授は、
戦争犯罪人には、誰もがなり得ると指摘する。
結局、戦争犯罪、あの人たちが悪いことをしたんだ。
だから、犯罪になったんだ。
こんな単純な問題ではなくて、誰でもが藤中さんになるし、
誰でもが藤次さんになるんです。
それは、戦争という極限状態の中で、やはり判断するときに選択の幅がないでしょう。
だから、自分がそこに置かれたら、私もやったかもしれない。
もし、それを私たちが学ぶとすれば、そういう戦争状態、極限状態を作らない。
戦争というのは、必ずそういう問題を引き起こすでしょうね。
石垣島事件の7人に、慶の執行が告げられたのは、1950年4月5日。
藤次健太郎は、別れの挨拶に来た7人の様子を、日記に書き留めていた。
4人目は成坂くん。これもニコニコと笑っている。
やあ、お世話になりました。いよいよ行きますよ。
残念だが仕方がない。すっきり死んでください。
ええ。
私もすぐ追っかけますからね。
いや、あまりいいところじゃありませんからね。慶上へ行くことだけはやめてください。
そう言っても、どうせ行かなくてはならんでしょう。
しかし変ですね。なんともありませんよ。
そうですか。結構です。じゃあ、行ってらっしゃい。
さよなら。行ってきます。
5人目は藤中くん。これも笑顔で坊の前に現れた。
42:02
とうとう行きますよ。仕方がないです。
どうせ行く先は一緒です。再会を楽しみにしていますよ。
あなたたちは助かってください。
いや、どうせやられます。元気でお行きなさい。
ありがとうございます。じゃあ。
1950年4月7日、7人の死刑が執行された。
その後、スガモプリズンの状況が変わる。
6月25日、朝鮮戦争を勃発。
北朝鮮の軍隊が北緯38度線を越え、南部への進撃を開始。
アメリカとソ連の冷戦構造の下、アメリカ軍を中心とした国連軍が韓国を支援する。
ケンタロウの日記。
7月11日、火曜。西武軍全員厳禁の法。
隣室より西武軍事件7名無期に厳禁の法あり。
おめでとう。都市編が来た。
あまり突然なので信じられず、そのまま仕事をしていると、
海下の一般機決のリーダーが皆さんに申し上げます。
今朝のラジオニュースによれば、西武軍事件7名無期に厳禁の旨発表されました。
とアナウンスし、それに応じて大勢の拍手が聞こえた。
石垣島事件の死刑執行から3ヶ月後、ケンタロウは終身刑に厳禁された。
その3日後。
7月14日、金曜。
米兵出発。
艦首から、近日中にここは日本政府の管理に移され、
米兵は全部朝鮮へ出動すること、すでに一部は出発したことを聞いた。
当初に艦首として勤務しているのは、大部分が二十歳前後の若い兵で、
45:00
米国から渡ってきて間もない未教育の者もだいぶいる。
これらの兵が北朝鮮軍の重火にバタバタと死ぬのか。
と思うと、私は可哀想でならない。
彼らもすっかり憂鬱な顔をしている。
戦争は嫌だ。
石垣島事件の処刑を最後に、
須賀もプリズンでの死刑執行はなくなった。
ケンタロウが見送った死刑集は、
26人を数える。
この頃、こんな言葉を残している。
私は死刑から原刑になった。
しかし、いつかは死ぬ。
人間の一生で死ほど確実なものはなく、
刻々に死が迫っている。
全ての人は生まれながらにして死刑集なのだ。
1952年、
サンフランシスコ平和条約が発行し、
須賀もプリズンの管理が日本に移管された。
少し自由になった所内で、
ケンタロウは処刑された戦犯たちが残した遺書を
まとめることを思い立ち、
補給人となった。
ケンタロウの産男、勝也さんが
父の心の内を想像する。
やっぱり、命が流れて、
流れたために精一杯やらなくてはいけない
という所もあったんじゃないでしょうかね。
亡くなった方々のためにも、
自分たちが精一杯やらなくてはいけない
という所もあったと思いますよ。
翌年、1953年に刊行された
正規の遺書。
須賀もプリズンだけでなく、
アジア太平洋で戦犯として命を絶たれた
701人分の遺書が収録された。
成坂忠邦、海軍上等兵装、26歳。
48:03
お母さん、
忠邦は死ぬるということを知らないものになったということです。
だから、永遠に生きているということになります。
お母さん、おやすみなさい。
海軍隊医、45歳。
仕方がない。
戦争における犠牲だ。
個人として人殺しをするような心持ちは、
私にはみじんもなかった。
子供は軍人にはなすな。
時勢が変わってもだ。
これは、死死存存に伝えよ。
戦争がいかに残酷なものであるかということは、
みなよく知ったことと思う。
成坂忠邦、海軍一等兵装、28歳。
父は、今となって、
上官の命令を云々などという時間の余裕がありません。
戦争さえなかったら、命令する人もなく、
父が処刑されるがごとき事件も、
起こらなかったはずです。
そして、戦場で幾百、幾千万という多くの人が、
戦死もせず、その家族の人たちが、
夫を、子を奪われ、
父を、兄を、弟を奪われて、
泣き悲しむ必要もなかったのです。
だから父は、
高一、高幸ちゃんに願ってやまないことは、
いかなることがあっても、戦争を絶対反対。
夫、命のある限り、
そして、子にも孫にも叫んでいただくとともに、
全人類がこぞって願う、世界永遠の平和、
のために、貢献していただきたいことであります。
1956年、10年をスガモプリズンで過ごしたケンタロウは、
仮出所し、福岡へ帰る。
そして、妻が守ってきた文具店を手伝い始める。
51:05
1958年、スガモプリズンがなくなる際の式典の映像が残っていた。
ケンタロウの次男、信也さんと三男、克也さんに見てもらった。
式典会場の一番端に控えめに座る44歳のケンタロウ。
親父やん。
最後の18人の出所式。
若いね。
これ面会室って書いてあって、ここ行ったんやね。
行ったよ。面会室行ったよ。
嬉しそうだね。
嬉しそや。ほんと嬉しそや。こんな顔。
花束を渡され、晴れ晴れとした表情のケンタロウ。
死ぬことを覚悟したはずだもんね。やっぱり経験ないことよね。覚悟したはずなの。
だから僕を連れて行ったんや。
60歳を過ぎたケンタロウが地元のテレビ番組に出演した映像があった。
ケンタロウはアジアから来た留学生たちを支援し、留学生の父と慕われていた。
いつもお世話になっています。優しい人ですね。
ケンタロウはここで戦争について触れた。
軍人として大東亜戦争に参加した人ですけれども、
その当時日本の軍隊はアジア諸国に大変な迷惑をかけていますよ。
やはりおじさんたちが、おじさんが日本の軍隊に殺されたという人がありましたし、
自分の昔の家、うちの昔の家は日本の軍隊に焼かれたという人もおります。
奥の方から問いかけたらそういう答えが出てきたんです。
それに対して決して言いません。何にも言いません。
そういうことを考えますと、私は日本人として個人的に、
アジアの人々に対してやはり責めを感じますね。
この翌年、1979年、戦争体験を伝える番組に出演したケンタロウは、
アメリカ兵を処刑したことについて、自分の口から語った。
私はね、いかに戦時中であると言っても、無抵抗な人間を自ら支配して、
54:05
4人も斬るなんて言うことは言語道断だと。
そして、日本の加害について持論を述べた。
日本国民はね、被害者意識が非常に、それを世界中に訴えようとしておりますけど、
加害者としての反省が、国民的な反省がないと思います。
実は本当の愛国心というものは、自分の国が周囲の国々から愛される国にすることだと。
だから我々が持っておったかつての愛国心というのは、間違ってたんだと。
1983年、ケンタロウは自宅で倒れ、
心不全で68歳の生涯を閉じた。
東京駅、丸の内口にある駅前広場。
その片隅に、駅に向かって両手を広げる男性の像がある。
この像は、ケンタロウらが戦犯たちの遺書を集めて編纂した、
正規の遺書の収益金で作られたものだ。
しかし、そこには何の説明もなく、ギリシャ語でアガペ、愛とだけ刻まれている。
産男のカツヤさんは、その意味を考えた。
史上の愛という意味でしょうかね。
戦争というものに対してですね、愛というもので応えていくと。
ということを、この像を作った人たちが思ったのでしょうかね。
でも愛というのはね、世界共通の大事なテーマであって、
誰とでも愛については語れる。どこの国の人とでも語れる。
そういう意味合いがあるんじゃないでしょう。
当時ケンタロウは、自分が行くべき道を見つけ、その道をまっすぐに歩んだ。
父親は真実に生きたんでしょうね。自分の真実に生きたんだと思いました。
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死刑から終身刑に厳刑されたケンタロウは、1952年、こう記した。
死に向かった刻々の業が永遠の命を形成していく。
私は常に最善に生きねばならない。
いかに。それは他の一切の命へ何らかの形で貢献することより他にはない。
そのためには、残る人生を私はどれほど忙しく、また苦しく過ごすことであろう。
しかし、その生き方の中にこそ、私の安心も救いもあるのだ。
小ドキュメンタリー スガモ日記
あるBC級戦犯の生涯
ナレーション 山崎ゆき子
朗読 茅野正義 佐藤匠
田中智秀 佐方秀大
植草俊 高見新太郎
編集 音響効果
寺岡昭人 ディレクター 大村ゆき子
制作・著作 RKB毎日放送でお送りしました。
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