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            永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書
2022-07-19 54:11

永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書

■あらすじ1945年、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦した。連合国によって戦争犯罪人を裁く軍事法廷が開かれ、スガモプリズンではA級戦犯7人のほか、捕虜虐待などでBC級戦犯53人が処刑された。そのうちの1人、藤中松雄は現在の福岡県嘉麻市の出身だ。海軍に入隊した松雄は終戦の年の4月、沖縄県の石垣島で米兵捕虜3人の処刑現場に立ち会っていた。亡くなってから70年経って、法廷での松雄の姿が初めて確認された。松雄はどのような戦争犯罪に問われ、裁かれたのか。公文書によって明らかになった裁判の経過と、28歳で命を絶たれた青年が遺した言葉を伝える。■スタッフ取材・構成・演出大村由紀子選曲・編集寺岡章人音声篠原圭ナレーション山崎夕希子朗読佐藤 巧茅野正昌

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00:09
東京池袋のランドマーク。サンシャインシティに隣接する東池袋中央公園。
木陰に永久平和を願ってと刻まれた石碑がひっそりと立っている。
かつてこの場所にはアメリカ軍によって管理されていた施設があった。
スガモプリズン。入所していたのは、戦争犯罪人として裁かれた人たち。
その一人、藤中松尾。BC級戦犯として、1950年4月、処刑された。
28歳で命を奪われた松尾は、21枚7センジの遺書を残した。
ラジオドキュメンタリー、永遠の平和を。あるBC級戦犯の遺書。
福岡県の中央に位置する釜市。藤中松尾のふるさとだ。
松尾の次男、高行さん。74歳。父の死から70年たって、ある写真を見せられた。
初めて見たときは分からなかったけど、兄貴が見つけた。
初っ端に見たときも、これは親父ってすぐ分かった。
5歳年上の兄、高行さんが確認したのは、当時26歳だった父の姿。
日付は1947年12月3日。場所は横浜軍事法廷。
法廷の被告人席にずらりと並ぶ囚人服姿の元日本兵。
一番奥の段に坊主頭、涼しげな目をした痩せた青年がいた。
03:01
高行さんと高行さんの父、藤中松尾だ。
裁判のときの写真でしょ、これ。
皆さん全部追ってある中で、やっぱり親のそういう部分に、
ジェムと一緒に裁判かけられるのかなと思った。
1945年8月。
日本はポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏した。
この中には、戦争犯罪人の処罰が含まれていた。
日本が裁かれた戦争犯罪は、A級宣判とBC級宣判に分けられている。
極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判では、
東条秀吉、日本の指導者がA級宣判として裁かれた。
この裁判では、28人の被告のうち、7人が公主刑となった。
一方、BC級宣判は、日本が占領していたアジア太平洋地域の7カ国、49法廷で裁かれ、
捕虜や住民への虐待などで、およそ5700人が被告となった。
処刑されたのは、920人に上る。
しかし、このことは、戦後76年となる今でも、よく知られていない。
こんにちは。
私は役なのですね。あの人たちもいくつだって同じ組織だからね。
坂本博之さん、100歳。
藤中松尾と同じ年、同じ村に生まれ、現在もここに住む。
ここは、いろいろなお祭りがあるからね。
藤中さんは、よく人物だった。
人の先頭に立って指導するような立場の人だった。
20歳の時、松尾と一緒に村から3人招集され、佐世保海兵団に入団した。
藤中さんは18分隊ですね。私は16分隊。
藤中松尾の生家は大きな農家で、
06:02
四難だった松尾は太平洋戦争が始まる前の年、
19歳で藤中家に無子養子に入った。
嫁の話はよく知っていた。自慢話を聞いていた。
お前、無子養子やれかやっちやれかしたら、
俺が行くかよか、やれやれと言って。
嫁さんのことをよく褒めようと言って。
綺麗な奥さんやったもんね。
終戦後、ふるさとに戻り、近くの炭鉱で働きながら、
農作業に汗を流していた松尾は、
1947年6月、米軍に捕らえられ、
須賀もプリズニーへと連行される。
高幸さんが生まれて、わずか半年後のことだった。
3歳の時亡くなった父の記憶はない。
葬儀は盛大に営まれた。母光子はこの時27歳だった。
父のことはあまり話さなかったと高幸さんは言う。
お福はね、もう長年一緒に居たかった。
そういう話は全然やっぱりしない。
親父の話は。
ただあんたを送って、面会に行ったっていう話ぐらいしない。
高幸さんも、父が戦犯だったことを自分から話すことはなかった。
俺が18の時、18の時、事歴書を書いた時にね、
その時、親父の恨みがあった時、
戦死地を俺は書いた。戦死地。
俺は年が半年。
20年に終わってやるじゃん。俺は20年に生まれやから。
それからね、聞かれたことがあって、その時に初めて
戦犯で亡くなったっていうことを、
相手の面接を受けた人に俺は言ったことがある。
松尾がまだ幼かった2人の息子宛に書いた遺書がある。
父が忘れることのできない可愛い小市。
高幸ちゃんに最後の言葉として最も強く残しておきたいのは、
父はなぜ死んでいかねばならないかということであります。
そうした結果をもたらした原因は何でありましょうか。
09:07
それは全世界人類がこぞって嫌う忌々しい戦争なのです。
藤中松尾が問われた戦争犯罪。
それはどんなものだったのか。
高幸さんは沖縄県の石垣島で起きた捕虜殺害事件に関わったとだけ聞いていた。
行くときね、笠本くんももうすぐ帰ってくるから、
もう大丈夫というような言い方して行ったらしいよ。
それで、親父もそこまで深くね、
そういう石垣島のことで自分がそこまであれされるんじゃなかろうかと、
ああ、ないとはないかなというような考えで行ったんじゃないかね。
母三つ子は13年前85歳で亡くなった。
高幸さんは私たちに父のことを知りたいと話した。
横浜地方裁判所。
日本で唯一BC級戦犯を裁いた横浜軍事法廷はこの場所にあった。
有罪を主張しますか。無罪を主張しますか。
無罪を主張いたします。
この選判裁判では51人の死刑が確定し執行された。
戦争犯罪に詳しい、
警戦所学園大学の宇住愛子名誉教授はこう解説する。
戦争犯罪人というところだけがクローズアップされるので、
戦争における犯罪とは何かという、
そういうふうに考えるともう少し問題が見えてくると思う。
横浜裁判で被告を裁いたのは日本に進駐したアメリカの第8軍だった。
法廷を開いたアメリカの第8軍にとって日本の戦争犯罪を裁きますから、
捕虜虐待、それが裁判の中心になってきます。
12:02
特に横浜法廷は捕虜虐待に特化した法廷だと思います。
やっぱり捕虜虐待に対する怒り、それはちょっと私たちの想像を超えます。
こういうふうに薄くなっているんですけれども、これを全部読み取ってリスト化したんですね。
横浜裁判の法廷写真を調査している日本大学の高沢博明専任講師。
遺族に確認し、藤中松尾の特定に至った。
こういう写真が残っているということ自体が、
よく日本では知られていない可能性がありますので、
できればこういう資料をたくさん発掘して、
こういった過去の出来事を日本の人に知らせるというのも一つの役割かなと思っています。
アメリカの国立公文書館に保存されている写真の裏には、
キャプションが貼られているという。
これ、キャプションに藤中さんのお名前は入っているんですか?
一切ないです。全くないんです。
藤中のフの字も出てこなくてですね。
一応名前が出ているんですけれども、
これはこの写真のキャプションなんですね。
これの裏側に、こういうキャプションが添付されているんです。
これに撮影年月日とか、被撮影者の氏名が書かれているんですけれども、
石垣島事件は全部ですね、名前がずれちゃっている。
だからどうしてもこれ、誰が写っているかというところは具体的には特定できないということで、
ご遺族と関係者しか分からないという状態だったんですね。
藤中松尾が関わった石垣島事件は、
被告が46人、うち41人に死刑が宣告されたという事件だ。
傍聴席まで埋め尽くした被告たち。
最年長50歳の大佐から、下は19歳の二頭水兵まで、
なぜこんなに人数が多いのだろうか。
太平洋戦争末期、沖縄戦の最中、
石垣島は連日、連合軍からの無差別爆撃に晒されていた。
15:00
ふるさと福岡から離れた石垣島で、
松尾が先般に問われる事件が起きたのは、
1945年4月15日、
アメリカ国立公文書館で見つかった米軍資料。
日本軍の対空砲撃が命中したグラマンキが海に墜落した。
その瞬間を捉えた写真があった。
海上に小さな雲のように煙が上がっている。
米軍の空母、マカッサルストレートから編隊を組んで、
午前6時に飛び立ったグラマンキのうちの一機だ。
撃墜されたグラマンキに登場していたのは、
パイロットのティボ中尉、27歳。
砲撃担当のタグル兵装、20歳。
そして通信担当のロイド兵装、23歳。
いずれも20代の若い兵士だった。
3人はグラマンキから脱出し、パラシュートで降下。
大浜海岸の沖に降りたというところまで、
米軍は把握していたが、結局救助は間に合わなかった。
米軍の報告書では、3人は行方不明となっている。
日本海軍に捕らえられた3人は、
石垣島警備隊の本部に連れてこられ、尋問を受けた後、
夜になって近くの荒れ地に連行された。
そして大勢の兵士が取り囲む中、3人は処刑された。
空襲により多くの戦友を失っていたため、
仇討ちの様相だったという。
27歳のパイロット、ティボ・チュイーと20歳のタグル兵装は、
軍刀で首を切られて殺害。
長身で体格が良く、口ひげを生やしていた23歳のロイド兵装は、
杭に縛られた。
そして40人から50人の兵士が、銃剣で刺したという。
最初に刺したのが菓子官、一刀兵装の藤中松尾だった。
18:01
12年前亡くなった、元BC級戦犯のインタビューが残っていた。
石垣島に住んでいた小浜聖将。
2001年の取材当時、72歳。
事件に遭遇したのは、海軍に入ってわずか2週間後。
小浜は事件の前日、輸送船からの物資を受け取りに港へ出て、
目の前で同じ小隊の3人の仲間を失った。
降ろしている最中にグラマンに発見されて、みんなはせみ打ちで攻撃された。
船の中で右に行ったり左に行ったり、逃げ回りながら上陸したわけですよね。
その中で戦友が3名やられましたから。
戦友がやられたから、復讐だという気持ちもないわけでもないし、
僕ら小隊は、石小隊は全部みんな参加したわけですよ。
事件の処刑に参加したということになるわけなんですよね。
小浜も悔いに縛られたロイド兵装を銃剣で刺した1人だった。
死刑の宣告を受けたのは19歳の時。
その時の小浜の写真が見つかった裁判長を見つめるあどけない顔。
どんな心境で聞いていたのだろうか。
これは言葉で表現できないんですよ、はっきり言って。
あんたはどういう心境であったか、どういう気持ちであったか、よく質問されましたよ。
表現できないんですよ、この心境というのは。これは本当に正直な話ですよ。
ただ、自分でまさか死刑になるとは考えていなかったから、びっくりしたことは間違いないんですよ。
年は若いし、まさか兵隊に入って入隊して何年しかやってないし。
死刑から銃労働5年に厳刑された小浜は、地元に帰ってきてから役場の助役まで勤め、
退職の日、職員を前に初めて戦犯だった体験を語った。
みんな戦争によって人間は狂っている。正常な人間はおらない。
すなわち、これは殺すか殺されるかという中に位置が置かれていますから、だから人間は狂っています。
21:05
戦争ということについてはとにかく、絶対にどんなことがあっても起こしてはならない。
東京の国立公文書館。
ここにはBC級戦犯に関する法務省の資料が収蔵されている。
石垣島事件に関して公開されていた7冊のファイル。
この中から藤中松尾に関する資料が見つかった。
取り調べ段階の聴書や裁判でのやり取り、陳述書などだ。
父のことを知りたいという、手加行さんに資料を見てもらった。
これがですね、昭和22年の2月3日、
だから連れて行かれる前に福岡で呼び出されて聴取を受けたというのの聴書です。
これ公文書館になりました。
70人ほどが取り囲む中、
杭に縛られたロイド兵装はすでに何人もから殴られていた。
飛行士は殺されることになっており、
逃れられないのに殴るのは悪いことだと自分は思った。
その残酷なありさまを見るに絶えなくなったので、
飛行士を苦から救い出してやるのが一番良いと考えた。
松尾は命令も指示も受けずに、
ロイド兵装を自発的に刺したと供述している。
自分の元いた位置に帰り、
全く目が眩み、気が遠くなった。
指揮官の命令なしに自分が行動した事実と関係なく、
自分はある人の貴重な命を奪った。
24:05
こうして自分は人道の上に許すべからざる重大な罪を犯した。
しかし、9ヶ月後始まった横浜軍事裁判で、
松尾は命令があったと供述をひるがえす。
自分は中尉からつけと直接命令を受けた。
松尾は処刑の現場を指揮していた中尉の世話になっていた。
自発的にそばにいた人の銃を取ってついたと書いてあるのは、
当時中尉に迷惑をかけてはいけないと思って嘘を言ったのである。
石垣島では中尉からよく面倒を見てもらい、心から信頼していた。
41人の死刑宣告から2度の原刑が行われ、
最終的に死刑が確定したのは7人。
司令の大佐と副庁の大尉、松尾に命令した中尉、
そして直接手を下した2人を含め、将尉以上が5人。
ロイド兵装の視察については、2人の科士官、
松尾とその次に刺した20代の若者、2人が死刑になった。
命令だったと主張した松尾の死刑は覆らなかった。
高行さんは深いため息をついた。松尾につけと命じた中尉。
軍歴23年、40代半ば、3人の子がいた。その遺書が残されている。
27:11
仕方がない。戦争における犠牲だ。
個人として人殺しをするような心持ちは、私には未人もなかった。
子供は軍人にはなすな。
時勢が変わってもだ。これは死死存存に伝えよ。
必ず悲しき運命に遭遇することがあることを思わねばならぬ。
戦争がいかに残酷なものであるかということは、
みなよく知ったと思う。
死刑になる被告がいる一方で、
原刑された戦犯たちには、
菅野プリズンを後にする日が訪れた。
また一人、写真の人物が特定された。
高死刑から重労働40年に原刑され、
寸出のところで死を免れた兵総長、隅徳静夫。
見たときにすぐ親父だと分かりました。
もう親父の顔ですから。
鹿児島市に住む隅徳静夫の次男、ケンジさん、73歳。
法廷に並ぶ被告たちの中から、くっきりした太い眉、
丸い眼鏡をかけた父の姿を確認した。
静夫が菅野プリズンに就管されたのは、
ケンジさんが生まれる直前のことだった。
ケンジさんは、集団で面会に行ったときの記憶があるという。
座っていて、あれ誰かと言われたら、
おじさんと私に答えた記憶がありますから。
お父さんなんだよと言われても、ピンとこないというか。
静夫は17歳で志願して海軍に入隊。
30:01
海軍兵学校で教官も務めた職業軍人だった。
10年余りを菅野プリズンで過ごし、
1957年帰ってきてから、3男と4男に恵まれた。
事件については一切語らず、
27年前、78歳で亡くなった。
ケンジさんと10歳年下の弟、3男のヒロシさんに資料を見てもらった。
裁判で証言をしたときの記録。
外務省が保管していたものだ。
事件の日、墨床静夫は空襲で亡くなった隊員2人を火葬していた。
火葬中に午後8時頃、
作業員1人をやって10日後調べさせたら、
処刑のために穴を掘っていると言ってきた。
現場に着くと一人の工種が柱に縛られているのを見た。
他の2人は既に処刑されていたということは後で分かった。
裁判前の聴取では、
静夫は縛られていたロイド兵装を模範を示せという命令に従って、
20人ほどが着いたところで1回着いたと述べている。
これが死刑宣告を受けていらっしゃるときの写真です。
米軍の警察官MPと日本人の弁護人につき添われ、
まっすぐ裁判長に顔を向ける住徳静夫。
この時31歳。
通訳が通訳してやろうから。
残念ちゃう残念やっただろうな。
死刑を判決を受けた時は何でいいと思ったかもしれないけど、
だから戦争じゃしてはいかないですね。
思います本当。
誰も幸せになった人は残殺されたアメリカの飛行士も
33:05
当然家族が持っていられて、
なんでこんなところに出てなるでしょうしね。
アメリカの殺された家族から考えれば本当、
殺してもみんな殺してくれてなるでしょうね。
そういうことだろうけどな。
父親も一切喋らんかったはずで、
後から30年を過ぎて焦げな話に。
もう間もなく30年ですけど。
石垣島事件は、
GHQ宛ての匿名の当初から発覚した。
終戦後、遺体を掘り起こして燃やし、
灰を海に捨てる隠蔽工作もしている。
墨戸子・静雄がまとめた石垣島事件の裁判概要によると、
井上おとひ子大佐ら、
上官たちが責任を逃れようと命令を不明瞭にしたため、
共同暴戯で殺害した者とみなされ、
多くの者が被告とされたのだという。
後に法務省が行った元先般たちへの聞き取り調査によると、
井上おとひ子大佐は裁判の直前になって、
被告全員を前にこう言ったという。
事件のことについては何も知らなかったと答えてあったが、
今ははっきり私の命令によって処刑したものであることを認める。
しかし、それは遅すぎた。
藤中松尾の妻、美津子の遺品の中から、
写真が見つかったと連絡があった。
押入れの中、衣装ケースに入っていた写真の束。
36:04
次男、高行さんの妻、陽子さんが探してくれた。
大事というか、おばあちゃんが直してた洋服とかですね、
それとか、このまままだ直してるんですよ。
処分はしてないんですよね。
その中に一緒に、この中に、
これ、こんな感じですね。
ここに入ってたんですね。
結婚式の写真なんかも一回も見たことないですよ、私。
主人も見たことないとか言ってたりするもんね。
これ、お母さんって言って私、
お袋は何?って言ってますもんね。
大事にしてたんですよね。
松尾19歳、美津子17歳の婚礼写真。
二本髪に黒留袖を身にまとった、ういういしい花嫁。
一緒に暮らしたのは、わずか3年足らず。
若き日の夫との思い出を、美津子は誰にも見せずにしまっていた。
初めて見たの、この写真やら。
これはあんまり見た人おらんじゃないかな。
うちのあれで。
この時まだ苦労してらんかったんやろうな。
膨らんでた。
松尾が連れ去られて以来、美津子は農作業に加え、
石炭の工場にも行って働き詰めだったという。
かなり無理して働くようだったもんね。
まだ私たちが小前じゃないですか。
学校やらないといけないし。
今で言う残業か、あれして帰ってきたもんね。
真っ黒な手描いてくれたやつ。
汚れてから。
豆団子を焼いて。
死刑の宣告後、松尾が美津子へ送った手紙が残っている。
1949年、夏。
そう、今日は7月19日だな。
ふるさとの方は旧暦のお盆だから。
青年少女らは夜遅くまで盆踊りの稽古に余念なく、
39:03
踊りまくっていることでしょう。
と、呑気に思っているが、
ただ一人で朝早くより、
炎天下に助走に苦闘するお前のことを思うと、
何もかも忘れて、
天候のごとく脳裏をかすめるのは、
いかに愛情を注いでも注ぎ尽きせぬ、
可愛い二人の子を見守りつつ、
我が家のため大しく働く、
たくましい、けなげなお前の笑顔です。
美津子、本当に、すまないな。
そして、この翌年、4月。
降りしきる、雨のあぜ道、
かようらん、
悪を思いつつ、
遺書を書きており。
死刑の執行を宣告された松尾は、
菅野プリズンに雨が降り注ぐ中、
ふるさとと家族を思い浮かべながら、
遺書を書き始める。
当時、同じ死刑囚として、
菅野プリズンにいた福岡出身の
陶寺健太郎。
処刑の2日前、
石垣島事件で死刑を執行される7人が、
別の棟に移される際、
挨拶に来た様子を日記に書き留めていた。
5人目は藤中くん。
これも笑顔で坊の前に現れた。
とうとう行きますよ。
仕方がないです。
どうせ行く先は一緒です。
再会を楽しみにしていますよ。
あなたたちは助かってください。
いや、どうせやられます。
元気でお行きなさい。
ありがとうございます。
じゃあ、遺書。
三つ子。
長い間苦労と心配をかけてきたね。
心からすまなく思っております。
これが遺書となることを自覚して書いているが、
42:04
あれ思い、これ思い、
まったく何から書いていいやら、
さっぱりわかりません。
それでも浮かんだままを書いていこうと思っています。
今日、ただいま、私がこのような環境で、
こうして君への意思を慕めていることも知らず、
ひたすら夫の身を案じつつ、
一生懸命麦の手入れに励んでいるであろう君を思うと、
胸をえぐられる思いがします。
夫の死、
それは君にとっては片腕切り取られるより、
まだまだ悲しいことだろう。
それらは過ぎるほどよくわかります。
だから、三つ子よ、
悲しいのに泣くな、嘆くなとは言いません。
むしろ、悲しければ、
泣いて、泣いて、泣き通せと進めたいほどです。
だが、悲しさ、苦しさに溺れ、へこたれてはなりません。
苦しみ、嘆き、悲しみによって、
心の底から滲み出る涙の中にこそ、
尊い御仏は宿っていてくださるのです。
静かに君思うとき、
誰かが書き残していったように、
母のような、妹のような、
また、我が娘のような心地がしてなりません。
1950年4月7日、午前0時半ごろ、
七人の死刑が執行された。
13の数字が書かれた鉄の扉の奥に、
公衆代があったという。
2ヶ月後、朝鮮戦争が勃発。
スガモプリズン、最後の処刑となった。
45:11
宇住愛子名誉教授が解説する。
もう処刑はないだろうと思って、
みんなスガモの中が割合とほっとした雰囲気の中で、
最後の処刑が石垣島なんです。
だからそれが与えた衝撃は、ものすごく大きいと思います。
宇住愛子名誉教授によると、
石垣島事件、七人の処刑には、
アメリカ軍の激しい怒りが読み取れるという、
戦争の矛盾を背負わされた一人が、松尾だった。
結局、戦争犯罪、
あの人たちが悪いことをしたんだ。
だから犯罪になったんだ。
こんな単純な問題ではなくて、
誰でもが藤中さんになるし、
誰でもが陶寺さんになるんです。
それは戦争という極限状態の中で、
やはり選択の幅がないでしょ、判断するときに。
だから、自分がそこに置かれたら、
私もやったかもしれない。
もしそれを私たちが学ぶとすれば、
そういう戦争状態、極限状態を作らない。
戦争というのは必ずそういう問題を引き起こす。
松尾は、二人の息子へ宛てた遺書で、
こんな言葉を残している。
父は今となって、
上官の命令云々などという時間の余裕がありません。
戦争さえなかったら命令する人もなく、
父が処刑されるが如き事件も起こらなかったはずです。
そして戦場で幾百、幾千万という多くの人が戦死もせず、
その家族の人たちが夫を子を奪われ、
父を兄を弟を奪われて泣き悲しむ必要もなかったのです。
だから父は、
高一、高幸ちゃんに願ってやまないことは、
いかなることがあっても戦争を絶対反対。
48:06
お、命のある限り、
そして子にも孫にも叫んでいただくとともに、
全人類がこぞって願う、
世界永遠の平和のために貢献していただきたいことであります。
松尾の次男、高幸さん。
親にも死刑に、やっぱり戦争、
死刑になるときやっぱりそういう思いで、
戦争を絶対反対とか、そういうことを思いながら、
私たちに伝えたいなかろうかと思う。
それと、やっぱり戦争さえなければ、
こういう雰囲気も起こらないし、
戦争はもう二度としたくないというのは、
本当になかろうかと思う。私もそう思う。
戦争は憎しみの連鎖を作り出し、
戦いが終わっても、なお多くの命を奪い続けた。
あなたは、松尾と同じ立場になったとき、
抗うことができるだろうか。
松尾が残した言葉は、私たちに訴える。
永遠の平和を。
茅野 正義 音声 篠原 圭
選曲・編集 寺岡 晃
取材・構成・演出 大村 幸子
制作・著作 RKBラジオでお送りしました。
落語家の立川 翔氏です。
一週間のニュースの中から気になる話題を題材に、
新作落語をお送りしているポッドキャスト番組、
立川翔氏のニュース落語、もう聞いていただきましたか?
政治家の問題発言や、動物たちの微笑ましいエピソードなどなど、
51:01
落語の世界でお楽しみください。
Apple、Spotify、Amazonの各ポッドキャストで、
立川翔氏で検索してフォローお願いします。
また、YouTubeでも聞くことができますよ。
さらに、生放送でいち早く番組をチェックしたい方は、
ラジコでRKBラジオ、立川翔氏キーサイトを聞いてください。
毎週金曜朝6時半から10時まで、生放送中です。
さらに、この立川翔氏ニュース落語は、本で読むこともできます。
お近くの書店、ネット通販でお買い求めください。
本と音声、両方で立川翔氏のニュース落語、どうぞご引きに。
54:11

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