芥川龍之介の『蜘蛛の糸』について、僧侶・宗教学者の釈徹宗(しゃくてっしゅう)さんの言葉が、響きました
曰く
「我々がより所にしてるのは、まさに雲の糸のような、かそけきものというか、かすかなものであって、あっという間に転落もすれば、あっという間に成功もしちゃう。それは本当に偶発的な部分も多い。
雲の糸の冒頭、お釈迦様は池の淵をぶらぶら暇だから散歩してて、たまたまカンダタをみつけるんですよね。
だってすごくなんか残酷な表現じゃないですか。たまたま見つけて糸をたらす気まぐれのようなですね。
そういういくつものこう偶発性のかすかなものを我々はよりどころとしてるし、かすかではあるもののそこにしか寄りどころがない
で、それは一歩間違うとあっさりと転落へと行くことは、なるんだっていう芥川の、人間観とでも言いましょうか、世界観みたいなもの」
ここからわたしはおもいました
1、人生は偶発性に左右されざるを得ない
2、我々の拠り所は、かそけき一本の糸
3、善人か悪人かを分けるリップルモデル
1、人生は偶発性に左右されざるを得ない
お釈迦様は、ただ散歩していて、たまたまカンダタを見つけた。そして、たまたま糸を垂らした。
この「たまたま」で、人生が動いてしまう。
それはある意味、どれだけ努力しても、最後の分岐は偶然に委ねられると諦めてしまうのか
または、その偶然があるからこそ、諦めないのだ、という希望に向かうのか
イノベーションはセレンディピティを信じて探索し続ける、そんなマインドセットが重要となるということにも通じるなとも思いました
だからこそ、偶然を待つのではなく、
偶然に出会ったときに動ける状態でいること
必ず訪れることがあると信じて諦めないこと
それが、とても大切なのかもしれないと思いました
2、我々の拠り所は、かそけき一本の糸
運命を握るのは、蜘蛛のたった一つの糸、ということがとても、儚さを感じさせてくれる気がします
実は、私たちの足場は、岩盤のように強固なものではなく、一本の、かすかな糸のようなものに過ぎないのだと
自分の命でさえも、いつ尽きるのかもしれない、という、かそけき命なのだなあと思います
だからこそ、一本の糸が生きているうちに、できることはなんでもやっておきたい
かそけき一本だと意識することができれば、その瞬間主観を充実して生きることができるのかもしれないと思いました
いつ、なんの理由で、自分の糸は、切れて、落下するのかわからない
それに怯えるのではなく、だからこそ立ち向かう。そんな気持ちをいただきました
3、善人か悪人かを分けるリップルモデル
カンダタは、蜘蛛を助けた、他のものを思いやる善も持っていた。
でも同時に、「これは俺の糸だ」と叫んでしまう、自分勝手な悪も持ち合わせていた
つまり、人は、誰もが善にも悪にも変容するのであり、善人悪人がいるわけではない
イノベータリップルモデルで考えたら、パッションの源は、極めて個人的なところから始まるので、自分勝手な思い込みかもしれない
でも、それが、仲間と触れあうことで、みんなが喜ぶ方向性にするためには、どうすればいいのかを考えることで、大義に到達していく
カンダタの糸は、まるで自らのパッションの源が生み出しだ独善的な糸だったかもしれないけれども
下から登ってくる仲間がいる、と思えたのだとしたら、
そこにイノベーションが起きる可能性が産まれたのかもしれない
そんなことを思いました
蜘蛛の糸は、児童文学として書かれたとのことですが、
人の心理の闇と光をえがき、そして、答えを誰もが問いとして語りたくなる、凄まじい名作だなあと改めて思いました
ということで、一言で言うと
蜘蛛の糸ノベーション
そんな話をしています
参考:NHK Eテレ東京 こころの時代〜宗教・人生〜
ファンタジーに秘められた宗教 (2)『蜘蛛の糸』初回放送日 5月4日(月)https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/RKN54N84G2
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