こんにちは、こんばんは、おはようございます。カフェインよわおです。この番組は、夫婦とも働きで一緒に子育てに出し向かう一方やカフェインよわおが、育児家庭仕事、ジェンダー、自分自身などなど、日々ぶち当たる立ちゆかなさを背中で語らず、言葉にしていくポッドキャストです。よろしくお願いします。
ポッドキャストウィークエンドから、はや1週間と少し、半端だな。1週間と少し経とうとしておりますね。
1つ気になっていることがあってですね。ポッドキャストウィークエンド、ポッドキャストエキスポと絡んで、ポッドキャストエキスポウィークエンドとても楽しかったです。ありがとうございましたっていうポッドキャスト番組様のエピソードが多数公開されているかと思うんですけど、
ちょくちょくその、「いやーついにポッドキャスト来てます。ポッドキャスト流行ってます。」っていうこう語りをする方々がそれなりの割合でいらっしゃると思うんです。流行ってます?って思っちゃうんですよ。それを聞くたびにね。流行ってるのか?ポッドキャストって本当ですか?そうなんですか?
今年、各地でポッドキャストのイベントは開催されているじゃないですか。そのポッドキャストエキスポッドキャストウィークエンドがあり、その手前では東京の赤坂あたりであったポッドキャストフェスがあり。
で、先週末か神戸の方でうちにゲストで来ていただいたウシワカさんが主催されていたポッドキャストミキサーがあり。まあ、にぎわっているなとは思うのだが、流行っているかと言われるとちょっと正直僕ピンとこないんですよね。
なんかそのポッドキャストに関わっている人、その発信者配信者たちやそのポッドキャストを聞いているリスナーさんたちが相互に繋がりやすい状況になってきているなというふうな気はするんですね。
まあ、そうやって単純にイベントの回数が増えることによって双方が出会う頻度が増えるわけじゃないですか。そのリスナーさんと配信者さんと、あるいはリスナーさん同士配信者さん同士が出会う機会も多いし、話す機会も増えるだろうなと思うんだけど。
なんていうか、僕の感覚的にはね、ポッドキャストっていうふうな閉じたコミュニティの中でやることのスケールが増えていっているのであって、別に広がっているとか流行っているとはちょっと違うんじゃねーのって思っちゃうんですけど。
どうですか?皆様の周りでは。
少なくとも僕は職場の同僚先輩後輩であったりとか、お客さんはね、僕の場合はおおむね高齢者の方々になってくるのでなかなか難しいですけれど、
妻であったりとか、あるいは妻の友人周りとかからポッドキャストってあんま今んとこ聞いたことないんですよね。やっぱもう生活圏の違いとか、職種の違いとかが結構大きいのかなっていう気がするんだよな。
そう、だから、なんかね、流行っているという言葉にずっとしっくりこないなって思いながら、そのポッドキャストウィークエンドの振り返りの配信とかをずっと聞いている日々なんです。最近。
なんだろう、どうなったら流行っていると言っていいと思ってるんだろうな、僕は。
わかんないな、ちょっとGoogle地味に聞いてみよう。
流行っているとはどのような状態ですか?
流行りとは、ある特定の物事が短期間のうちに社会の多くの人々に受け入れられ、急速に広まっていく現象を指します。
単に人気があるという状態よりも、勢いがある、共通言語化しているというニュアンスが強いのが特徴です。
社会的な浸透度
その物事について詳しくない人でも名前だけは聞いたことがある。ニュースやSNSで見かけたという状態です。
共通言語化。日常会話やメディアで説明なしにその言葉が通じるようになる。
視覚的露出。街中や広告、インターネットを開けば必ずその情報が目に飛び込んでくる包囲網が形成されている。
うーん、なんかどうですか?ポッドキャスト。僕はあんまりそうはなってなさそうな気がする。
同調心理。多くの人が選んでいるから自分も選ぶべきだという心理的バイアスが働いている状態。
これを選べば間違いないという安心感と、体験しないと時代に取り残されるという焦燥感が混ざり合っている。
これなんかうっすらある気がするなぁ。
ポッドキャストを聞いている人たちが自分も始めようという方向に、舵を切りやすい方向には傾いていっているような気がしますよね。
文字起こしサービスをやっているリッスンさんが、声日記という1人でマイクなりスマホなりに向かって日々の物事を日記として残すぐらいのところから配信を始めてみませんか?みたいなのをやられていますけど、
ちょっとそういう系統ですよね。私もちょっと手を出してみようかしら?はなんとなくあるような気がするなぁ。
経済・行動の変化。単なる話題性だけでなく、実際の消費行動やライフスタリーの変化を伴います。
ここら辺はちょっと違うような気がするね。
どうなんでしょうね。
かなりインディーズ的な文化というかさ、
誰かからポッドキャストについて聞くか、
能動的にポッドキャストのアプリとかを開かない限りは、勝手に目に入るっていう風な環境にはまだまだなってないと思うんですよね、ポッドキャストって。
それがなった方がいいのかどうかはちょっと僕にはよくわからないけれども、
まあまあなんていうか、つまりそのポッドキャスト盛り上がってますはそうだと思う。僕も。
それはなんか皆さん頑張ってらっしゃるなと思うけど、流行ってるはちょっと疑問を停止したいなという。
めんどくせーなこいつ。我ながら。そうそう思っちゃうなっていう風な話でした。
話変わるんですけど、そうそうだ、そうだよ。
あのー、Podcast Weekendがあったじゃないですか。一生その話を告知り続ける人みたいになっちゃったけど。
Podcast Weekendがあったじゃないですか。
1日目をね、子供たちをギリのお父さんお母さんのご実家に扱っていただいて、お泊まりさせていただいて、その間に僕がフリーになってPodcast Weekend1日目に参加できましたよという感じだったんですよね。
2回前の配信の時に僕はデジカメの紹介をしたと思うんですね。
PIX Pro C1、ディスプレイが180度パカッて起こせるようになっているので、画面で確認しながら自撮りできたりとかして、子供受けがいいよみたいな話をしてですね。
で、これお泊まりしている間にこのカメラを彼らに使ってもらったら、後からその写真を見返した時にすごい楽しい気持ちになれるんじゃないのっていうふうに思って、そのお泊まりの時に預けたんですよ。
カメラをこれ持ってっていいよ、パパ使わないからって預けたんです。
どうやら紛失したっぽくて。
見通しが甘かったですね。
まだまだこう6歳8歳の子とかにああいうものを預けちゃいけないんだなっていう風なことをよくよく学びました。
僕は今回の出来事でそうなくなっちゃったんですよ。
一応そのお母さんの方にもね、こういうの持って行ったと思うんですけど、どっかに忘れてないですかっていうふうに聞いて、
どうやらお母さんも探してくれて、しかも立ち寄ったお店にちょっと問い合わせとかも入れてくれたそうなんですけど、見つかんないみたいっていうふうな状態なんです。
そっかーって思う僕と、そんなに悲しかったり悔しかったりしない僕が今いるんですよ。不思議なもんで。
結構ちゃんとするんですよ。
本体が14000円くらいとかポイント使ってそれぐらいで買って、カメラ用にSDカード買って、ストラップも買って、でプラス3000円4000円くらいはしているはずなので、結構いい値段なんですよ。
そんないい値段のものを子供に持たせるなって言われたらそれまでなんですが、結構いい値段なんですけど、
別に子供にブーブー言う気にもならず、うわー無くなっちゃったーって言って凹む気にもならず、
無。そっかーって言って今のところ終わってしまってるんだよな。
ちょっと良くない気がするんだよな、これで終わってるのって。
なんかちょっと破綻してる感じがするじゃないですか。
何ですかねー。
本当なんか強いて言うなら、本体が無くなったことよりも、彼らがお泊まりの間に撮ったであろう写真が見れないことの方が何だったらもっともっとこう、
あーもったいないなーっていうふうに思っている気がする。
何なんですかねー。
なんか買った、でちょっといい感じの写真が撮れた、で子供に受けた、で、
なんかもうそれで僕の心の中ではオッケーになっちゃったのかもしれないですね。
もしかしたらね。
うーん。
なんかよく言えば、よく言えば、子供に預けたものを無くしても別に怒らない、なんか器の大きい親みたいな感じですけど、
なんかちょっとこう、多分これ悪いところ出てるんだろうなっていう風な気がしています。今自分の中では。
何なんだろうなー。
この前、子供たちのね、またちょっと話が飛ぶんですけど、
マリオの映画を見に行ったんですよ。
The Super Mario Galaxy Movie。
任天堂のゲームスーパーマリオシリーズの世界をアニメーション映画化し、
2023年に公開されて全世界工業収入が13億ドルを超える大ヒットを記録したThe SuperMario Brothers Movieのシリーズ第2作。
まぁ、あれです。
さらわれたお姫様を助けに行きましょう、みたいな感じの内容で、
すごい良かったんですよ。すごい良かったんです。
上映時間がね、99分間あるんですね。
だから、正直ちょっとこう、6歳が座りっぱなしで見るにしてはちょっとヘビーだなという風に思ったんですけど、
結局ね、全然こう騒ぐことなく、
なんかちょくちょくボソッと一言つぶやくみたいなことはしていた気がしますけれども、
まぁでも全然ね、ちゃんと座って、もう釘付けですよ。
99分間。ずっと映画に釘付けて、
エンドロールが流れた時にね、うちの6歳児が、
すごかった。
しみしみ言ってさ、
そんな、こんな6歳の小さな男の子にすごかったって言わせられるコンテンツが世の中にあって良かったなって思ったり、
それをこう見させてあげられて良かったなって思ったり、
すごくね、親としても良い気持ちにさせてくれた、
とても素晴らしい映画だったなという風に思っています。
なんかYouTubeとか見てさ、すごかったとはならないじゃないですか。
多分、ゲームやっててもやっぱなんないですよね。
やっぱ、あの映画館のスクリーンと音響と、
どっしり腰を据えて、
それこそ99分間動かずに1つの作品、物語を見通したからこそ出る感想だろうなっていう風に思うので、
良い経験をさせてあげられたんじゃないかなっていう気がしますね。
映画そのものはね、何回か行ってたんですよ、これまでにも。
パウ・パトロールの映画を何個か見たのと、
トーマスも1個ぐらいはもしかしたら映画館で見たかもなっていう風なぐらいで、
そっちはね、なんか普通だったんですよね。
普通だったっていうか、
それこそ家でユーネクストとかを経由して見るパウ・パトロールとかとトーマスとかとの、
割と延長線上みたいな格好だったので、
よく言えば安心して見れた。
悪く言えば、そこまで大きな感情の入れ動きはなかったみたいな感じだったと思うのですが、
マリオはね、ゲームとしてやっているものが実際に映像になって動いている。
その動いている中で、
本当に映画作品、アニメーション作品みたいな動きをするところからシームレスで、
2Dのファミコン時代のマリオのゲームをやっている姿に移行したりとか、
そこがどんどん切り替わるシーンとかがあるんですよね。
ゲームなのかアニメなのか、
それが境目が曖昧になりながら話が進んでいくのが、子供としては飽きないし、
自分が普段プレイしているゲームの背後にはこういう物語が隠れているのかもって、
もしかしたらこう思うのかもしれないし、
さすが、さすが任天堂はすげえなっていうふうに思わされた感じですね。
クッパとクッパジュニアが出てくるんですよ。
作品の中でね。
すげえふわっと言うと、ネタバレもクソもないような気がするけど、あの映画には。
すげえふわっと言うと、クッパはちょっとマリオたち側の方に、
ちょっと気持ちが傾いている状態で話がスタートするんですけど、
そこにパパを絶対取り返して、なんか世界をズタズタにしてやるぜみたいな、
もうしっかり悪の心を持って育ったクッパジュニアが現れるんですね。
結局そのクッパジュニアがクッパを助け出して、そこの2人で、
じゃあこれからどうしようっていうふうな話をする場面があるんですけど、
クッパはもうちょっとマリオとかピーチとかキノコ王国の綿々たちに対して、
ちょっとなんと言いますか、親しい感情を持ち始めているぐらいのタイミングなんですよ。
対してそのクッパジュニアの方は、かつて悪マッシグラだったクッパから悪になるための教育をされていて、
そのまま順当にすくすく育って、悪のトップに立てますっていうふうな感じの、
すごい大躍動に成長してしまってるんですよね、このクッパジュニア。
ってなった時に、じゃあクッパさんどう立ち振る舞います?っていうところが映画の中で書かれているんです。
なんかどうしよう、俺っていう気持ちになりながらずっとそのシーンを見てたんですね。
なんかこういうところをぶっ壊したくて、ああだこうだみたいなのをクッパジュニアがずっと言ってるわけ。
この武器はこんなスペシャルパワーがあって、これであいつをぶっ壊せるんだとか、
はははみたいなことをこうずっと言ってて、それを隣にいるクッパが、
何を言うわけでもないけれども、それはなるべくしてほしくないな。
でもこうやって育てたのは間違いなくクッパ自身だし、どうする?みたいなそういうシーンがあってですね。
もうずっとクッパの気持ちですよね、こっちからすると。
今後この隣で一緒に映画を見ているこの子がそういうふうになった時に、
僕はどう立ち振る舞えばいいのだろうかっていうのはね、
すごくこう難しい問題だなぁと思ってしまったわけです。
結局なんかこれっていう回答は全然今僕の中ではないんですけど、
極力子供たちの味方であれる状態ではありたいなというふうに日々思うわけです。
だから何だろうなぁ、仮に放課すとか何かしらそういうふうな物事があったとしても、
帰る場所としてちゃんと機能できるような状態になっておきたいなっていうふうな気持ちがあるわけ。
それとさ、甘やかすとか、帰る場所として存在したとしてよ、
そういうふうにまぁ、わかんないけど、何かしらのね、何かしらとてもとても悪いことをしましたという時に、
君が仮に悪いことをしたとしても、
君は僕の子供だからいつでも帰っておいでっていうふうに振る舞うのが良いのか、
それともいわゆる君はちゃんと悪いことをしたのだから、それはちゃんと反省をするべきであるし、
正しい方向に向かねばならないみたいな道を正すべきなのか、難しくないですか?
道を正すってことはあなたの振る舞いは間違っているよっていうふうなことでもあるし、
それを伝えるということは同時に僕は間違いを正す人という存在になって、
帰る場所として機能するかどうかっていうのはちょっと怪しくなってきますよね。
何を優先するべきなのかしら?って、
結局ケースバイケースなんだと思うんですけど、ケースバイケースでもあり、
起きた悪いことのグレードにもよるし、
その時の彼らと僕の関係性にもよりケリーな話だと思うので、
明確な甲斐がある話では決してないとは思うんですが、
でもそうそうそういう時にね、何をしてあげられるのかなーって。
個人的にはね、
脇道に極力反れずに真っ直ぐ、
誠実に育ってほしいみたいなのはもう全然ないんですね。
脇道には適当に反れてもいいけど、
最終的にできたら、
その誠実さとかそういうものをなるべく持った状態のところが、
やっぱりいいなって思える状態でいてほしいみたいな感じなわけです。
僕の気持ちとしてはね。
なので、そういうね、
極悪非道の限りを尽くすクッパジュニアに対するクッパの目を見て、
こういう時にどう振る舞うかによって、
そういう脇道に反れただけで済むのか、
その脇道こそ僕の道であるというふうな認識をさせてしまうのか、
で、今させてしまうっていう表現をしたけど、
本当に実際のところそっちに進んだ方が彼らにとっていいのかどうなのか、
試されるなぁと思ってね。
うーん、なんか、