1. 哲学以前の違和感
  2. 第5900回 意味なんてないただ..
第5900回 意味なんてないただの日常の断片
2026-07-24 1:09:41

第5900回 意味なんてないただの日常の断片

この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。

哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。

「何を知っているのか」

「それは本当にそうなのか」

「確信はどこから生まれるのか」

人はなぜ何かを信じるのか。

なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。

私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。

信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。

意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。

人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。

意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。

結論よりも、考えている途中の揺れ。

完成された思想よりも、変化していく認識の記録。

自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。

虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。

感想

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サマリー

このポッドキャストでは、人生における意味の探求や、矛盾を抱えながら生きる人間の認識の仕組みについて深く掘り下げています。かつて宗教に傾倒していた経験から、意味を強く持つことの危うさや、逆に意味を外に置くことで機能し続けることの対比が語られます。また、思考の鋭利さを鈍らせて「丸くなる」ことの是非、ハングリー精神の喪失が創作意欲に与える影響、そして「世間は狭い」と感じる出来事の確率論的な説明についても考察します。 さらに、時間の認識が予定との差分で計算される脳の仕組みや、音楽を聴く際の過去の記憶との結びつき、そして「絶対的な意味」の不在について語られます。個性を出そうとすることの難しさや、他者との比較の無意味さ、そして「漂流」と「能動的な選択」の違いについても議論されます。最終的には、物事の実体は関係性とエネルギーの集合体であり、人間の認識はそれを便宜的に固定化しているに過ぎないという、仏教的な視点も交えながら、存在の仕組みを静かに探求していきます。

00:04
これから、倉木さんのラジオ収録始まります。
ここ撮っております。
意味への執着と機能性の対比
以前はですね、宗教やってた時は意味を強く持ってたんですね。
で、極める職業でない人に疑問だったんですよ。
例えば内科医と外科医でも違うわけだし、検査するだけのお医者さんというのもいるんですね。
それは淡々とこなすだけだし。
ただ、今振り返ってみて思うのは、熱量を強く持って極めることをする人は、
自分の中にそれを取り込んでるんで、対象を取り込んでるんで、
意味が消失された時、不安定になるんですね。
その意味と格闘し続ける必要があるんですよ。
逆に外側に置いてる人、つまり淡々とこなすだけの人っていうのは、
意味が消失しても機能し続けることができるんですね。
では次の話です。
思考の柔軟性と矛盾の許容
息してると矛盾に出会うけど、または柔らかく許容する癖つけると継続するという脳の機能が停止するんですね。
頭が柔らかく生きるって、摩擦を減らして生きるための戦略ですけど、
まずは思考の鋭利さを鈍らせますよね。
簡単に言うと、丸くなっていいんだけど、その人らしさもなくなるし、
だから矛盾を矛盾のまま保持していくことで、
特に自分なんかは原動力になったりするんですね。
許容しすぎると穏やかですけど、考えることを放棄することになるんですね。
頭が柔らかくして憂鬱を利かせて丸く収まると変化許容するつまり鈴がないし、
思考の鋭利さなくなるし、つまらなくなるし、個性なくなるし、
悪くなってしまうし、ありきたりになるし。
成功後の創作意欲とハングリー精神
では次ですが、売れた歌詞その後やりたい音楽とかやったり、
一般受けしなくなったからテレビはあまり出ないのかなと思ったけど、
ハングリー精神全くなくなっただけなんじゃないかなと思うんですよ。
特に歌詞で多いですね。売れて、その後全然出てこなくてでもまた最近出てきたみたいな。
そういう人多いんだけど、wikipediaを見ても特に何も活動してないみたいだし、
数曲ミリオンヒット出してる人とか多分暮らしてきるから、
もうそれでいやーもったいない気もするけど、でも別にそれで生活してきるし、
やっぱり人間もとはいえ動物だからそうやってハングリー精神がなくなると
創作意欲なんかもどうしてもなくなっちゃうんでしょうかね。
それについては、
いやわからないですよ。わからないですけど、
この20年何やってたのって結構多いんですよ。では次。
「世間は狭い」という偶然と認識
世間は狭いということ?ってよく起きますよね。
確率的にたまたまなわけではないけど、説明つかないし、
どうですかね。世間は狭いなこんなこと起きるんだなっていう時ってどう思いますかね。
特にあんまり考えないか、でもスピリチュアルに走るかオカルトに走るか、
何か神秘的なものを感じるか、
人間ってネットワークでつながってると思うか、
ただ残念ながら明らかに奇跡だろうと思うことでも確率的に別にそんな低いわけじゃなくて、
そういうことってあるみたいなんですよ。
なんか非常につまらなく感じて、自分も感じてしまうし、
でも自分としても結構残念なんですよね。
時間の認識と予定との差分
では次。嫌な1日の作業?早くにやると、次の日も早くやることになって、
次の日も同じ時間にやれば、
例えば、いつもより5時間早く何かやりたくないことをやって、
次の日も同じ時間にやったとして、
もともとの本来やるべき時間と早くなったように思うんですね。
逆に見たいドラマを見るのを数日遅らせると、次のを見るのが後になってしまう。
月曜見るのを水曜にしてたとしたら、次の週も月曜、あれ?今日見るはずだったのに2日後だってなっちゃう。
予定通りのものと比べてしまうから遅くなったように思ってしまうんですね。
それはうちらの脳が、人間の脳が予定との差分で時間を計算してるからですね。
だから体内時計みたいなもんですよね、これ。
それは週においてもそうだし、1日においてもあるんですよね。
やっぱり比較してしまうんですよ。
本来ならその作業にかかるはずだった時間っていうものがあって、
あとはでも予定を持たないしかないですよね。
興味による認識の変化と音楽の記憶
では次。歌番組見てて意識してみるのと興味なかった時の
興味なかった時の認識するものって全く違うんですね。
前は認識できてるけど、ある意味見てないし、今はある意味見てる。
しっかり、逆に今は何かを付け足してるんですよね。
間違いなくフィルターがどっかにあるんだろうし。
音楽聴く時によくあるのは、当時の自分を思い出したり、
これって結構あるみたいなんですよ。
もちろんドラマなんかもあるだろうし。
でも音楽で当時思い出すあっても、
ドラマで青春思い出すはないですね。
でまぁ多少意味を付与して、意味を付与することになるんですよね。
だから何か、音楽に何か付け足してるんですよ。
探求と発見、過去へのこだわり
では次。絶対的な意味なんてないから。
気づくことはあっても探求してるつもりはないんですね。
どうですかね。ここでいっつもポッドギャストで話してること。
探求してる感じしますかね。
だからこそ、メモとっておけばなぁと思って悔しいんですよね。
最近もですね、メモやこれも、
こうやって話すときに修正できればいいんだけど、
それが順番的にできないし、
自分もせっかちなんでね、
一回一回修正してればよかったなって今になって気づくんですよ。
しかし探求までいかなくても、新たな発見を大切にするなら、
過去はあってもなくても、
過去のことにこだわらなくて良くなるんですね。
探求っていうと、どこか一つのゴールに向かって正解を積み上げるような
建設的な作業ですよね。
自分はその時に感じたことをただここで話してるだけ。
鮮度があればいいかなってくらいの感覚なんですね。
メモって難しいですよね、メモ。
記憶っていうのは、過去の写真とかで記憶するのと違うわけですよ。
感情が乗ってしまうし、
そのまんま取り出すわけじゃないんですよね。
再構成することになるし。
そういう意味じゃ、プラスで忘れてしまうこともある。
記憶がおぼろげになることもあるから、
メモとはだいぶ違うんですよね。
メモはそのまんまだし。
新たな発見という意味では後者。
精度が高いのは前者、メモの方ですよね。
次、音楽聴くときは二重人格なんですよ。
音楽鑑賞における二重性と懐かしさ
こんなものダサいから聴きたくないっていう自分とは。
なんか聴いたことあるから、
ネット番組懐かしくて聴いてしまうっていう自分もいるんですね。
懐かしさに流されているってことですよね。
できれば不要な感傷なんか排斥したいし、
あえて否定する必要もないと思いますけど、
音楽の話なので、
理屈で別に抑え込もうとする必要もないと思いますけど。
でもそうやって分裂が浮きぼんよりになることもたまにありますね。
あとですね、
宗教時代と虚無感、価値観の氾濫
宗教時代から虚無感はあったけど気づいていなかったんですよ。
改めて考えてみたけど、
どうしてあれだけ意味を、
意味という意味を強く感じ、
毎日意味のなだれというか、
それはみんな同じことなんですよ。
意味、世の中価値観にあふれてて、
いろんな価値観にあって、
宗教時代っていうのは、
意味の感じる度合いがちょっと違いますね。
度合いと信念のある感じとは。
価値がはびこっているから誰もが意味のなだれに
合いますけど、宗教に入っているとまた違うんですよね。
では次。
他者とのずれと偽りの調和
あまりにもひとつずれているから自然にしていた。
あまりにもずれすぎて進まないから偽の道長をするんですよ。
ゼロだけ、周りに合わせようとしたことはないんですね。
だから無意識の偽の道長をせざるを得なかったんですよ。
他者を完全には無視できる、
人もいるけど自分はそうはならなかったですね。
つまり我が道を進むことが完全にできていたとは言えないということです。
個性を足そうとか人と違うことをしようとしてすると、
基準を見失うんですね。
理由は後で言います。
自分という核を隠しながら、
人の評価もある程度は気にしなければいけない。
でも人と違うことはしたい。
人と違うことをしようとすると、
そんな気持ち見舞えると、ただでさえ人とずれすぎているのに
個性を出そうとした結果、やっぱり混乱するんでしょうね。
基準を見失い何もできなくなるんですね。
偽の道長ですからあくまでも。
道長する気もないし、
結果的に道長できていたかわからないけど、
空気も読めていたかわからないけど、
でもそれをやっている人間に見せていたんですね。
感情の声に従うことの不在
次、自分の感情の声や興味に従うのが良いと。
自分にとっては、
学生時代であれば、
もっとこういうことをやりたいなとか、部活をやりたいなとか、
もっとこういう、今は数学を勉強しているけど、
本当は英語を勉強したいんだよなとか、
そういう風に感情の声、
耳そば立てて、
それに従って生きるっていうことが今まで一度も発生したことがないんですね。
ポッドキャストをやるにあたっても。
はい、次行きます。
無意識の調和と自己の抑制
さっきの話なんですけど、人とズレすぎてて、自然にしてたらとても回らないので、
自然に一見道長できているのかなという感じだったんですね。
あまりにズレたことはしないよ。
自分の道長を無意識にやってたかもしれないです。
道長もできないし、自分を消すのはプライドを許さないんですね。
道長を意識的にする気はないし、自分の意見いちいち言ってたら拉致はあかないので、
押し殺していたんですね。自分でない感じ。
でも、人前で自分出す気はできるわけないし、
その場を壊すので精一杯でした。
その場をこなすので精一杯でしたね。
では次。
ポッドキャストの意味と存在証明
ポッドキャスト少しは意味を感じているけど、
撮ることに意味があるならもっと早くからやってた方がいいという理論上になりますよね。
矛盾するけど全くそんなことないんだろうなというのも分かっている。
どこで間違っているのか分からないんですね。
意味を感じていることなのか他なのか。
直感的にはそんなことないんだろうな。
理論的にはもっと早くからやっていけばよかったんだろうな。
一つ言えるのはポッドキャストは何かを蓄積すべきもの。
でも本能的にはここにいたという実存を確認できればいいという儀式みたいなもの。
つまり存在証明できればいいというもの。
ちょっと無理がある考え方かもしれないけど、
自分という存在を確認するためだったら、
その時に今もそうだけどポッドキャストという存在があればいいということになりますよね。
ただもちろんそんな目的なわけはないし、
ポッドキャストを撮っている意味って何のためとかでもなく、
ものすごく中等的な話にはなってしまうんですが、
撮っていること自体に意味があるのかなみたいに思うことがあるんですよ。
基準のずれと他者比較の無意味さ
一つ違うことをしようとすると、
普通の人の基準はこうだからこういうことをしたらずれ生まれると思っているけど、
そもそも普通の人の基準がこうだからこういうことをしたらずれ生まれると思っているけど、
そもそも一番ずれているからそれを達成したところでとも思うんですね。
分かりますかね。
だから基準が同じじゃないから、基準から遠くに行ったところでそもそもの基準がずれているということなんですよ。
だから努力しなくても個性を演出しなくても、
既存の世の中のもの差しからはみ出しているんですね。
ちなみにそんな自分が人と比較する場合、
本来比較不能なはずの自分をですよ、
社会という土俵に上がってですよ、
自分は人とどう違うか、優れているか踊っているか、
測っても意味ないですよね。
人と違うことをしようとすると当然比較が必要なんですよね。
しかし、人と根本的に基準が全く違うんで、
同じ人間という種なのかと思うくらい違うんですよ。
だから優れているか、優れていないか、普通かどうかいろいろな点で比較しても、
世の中の人との、普通つまりボーダーとの距離で見ても意味がないんですよね。
だから比較不能なんですよ。
他者を通じた自己確認と個性の演出
人と違うことをしたいという欲求が内側にあるから個性で勝負しようとすると、
今度は他者との比較が入るわけですよね。
比較しようがないのに。
なぜ人と違うことを目に見えてしたいというかというと、
自分の存在というものは、
他者を通じて確認したいし確定させたいからなんですね。
だから個性を出すのとズルをさらけ出すのって別なのかなと思います。
演出された個性を出すと、ある意味普通になると思いますね。
結果そういうマジョリティーのものになってしまうってよくあるパターンだと思いますね。
ズレそうなものを突き詰めるってことは、比較対象がなくなるってこれ、
言ってみれば宇宙人みたいなもんですけど、誰にも理解できないというわけですから。
もはや理解されるのは無理かもしれないです。
引きこもり経験と理解の限界
この17年間の引きこもりから抽出されているいろいろな体験談というのは、
他者と比較の土俵に載せたところであまり意味ないし、
普通の人の物差しでは測れないですよね。
だからあまり理解されることに注力するのもどうかと思います。
人と違うことの難しさと価値観
そうですね、個性というのも学生時代はテーマでしたね。
人と違うことをしようとすると、人との比較がある時点で普通になってしまう。
人と逆のことをしてもその発想がありきたりだし、
誰とも合わないのが究極。
しかしですね、すでにそれまでの間に価値観をつけているし、
言葉を使っている時点でどうなんだって話なんですよね。
人と違うことをしようとすると、自分はそもそも人とズレているから、
人と比較しようがないからどうなるのかって話です。
あと、普通と違うことをするのが人と違うことって、
普通の人にとっては今までの自分と違うことをすればいいわけですよね。
それってすごいですよね。
今までととりあえず違うことをしておけば、
人と違うことになるわけですね。
考えたこともなかったですけど。
じゃあ次。
漂流と能動的な選択の違い
漂流していると固定しない、結論を出さないというのは違うんですね。
漂流というのは目的にも地図も持たず流されている自動的な状態ですよね。
固定しない、結論を出さないというのは能動的。
あえてそうしているという状態。
自分は後者だと思いたいんですけど、
というか、自分が宗教に入った時、
人間は生まれてきて、漂流して、
音楽の歌詞でもそういうのがたまにありますよね。
生まれた意味もわからず、
漂流しているんだみたいな。
そもそもそんな人いるんでしょうか。
つまり、漂流していない人もいないということを言いたいんですよ。
漂流していないということはつまり、目的とか地図とか持っている。
でも人生の目的なんてないですよね。
あるいは、百歩譲って言うと目的。
わかっている、確信を得た人はいるかもしれないけど、目的を得た人は人類で、
一人たりでもいませんよね。
ということは、漂流していない人はいないんですよ。
じゃあみんな漂流しているのかっていう定義上そういうことになるけど、
そもそもこの世界には目的なんてないですからね。
絶対的な目的なんて。
だから漂流しているという幻想、漂流していると思いたいんですよ。
で、さっきの話、みんな違うから人と比べても意味ないという人たち。
踊っていると決めつけ、踊っているとは決めつけれないと言いたいんでしょうね。
あまりにみんな違いすぎて基準点なんか存在しないというのが理由だろうと思います。
で、それは無理があると思いますね。
そもそも人と比較して優劣つけるのは本能だから、
それ否定しても何も変わらないと思うんですけど、やることは。
関係性としての世界と論理の崩壊
次、あらゆるものが関係性であると。
あらゆるものって関係性でできてますよね。
人とワークでできてるわけですけど、
時には支え合っているように見えたり、
時にはそうでなくなって見えたりするんですよね。
この関係性って、
誰がどれを支えているとかじゃなくて、
お互い支え合っているような風に見える時もあるし、
次に、人の考えって、ある理由があって、その理由にも理由があり、
そのどれか忘れると、数式の論理性を変えてしまったように感じるんですね。
ある考えが崩れ落ちるんです。しかしその自分の考えの体系、すべて記憶してられないし変化してるし、無意識に
でもこうやって話してると あれこの考えおかしくない?なんでこう思ったのか?
で理由を 遡っても遡っても
切れないし忘れてる部分もあるし。次ですが普通の人って 個性出しても出さなくても
普通の人の個性と服の着替え
大して他の人と変わらないんじゃないかなと思うんですね。 なぜかというと普通だから。普通の人は
普通なのが個性っていうのか普通の人にとって普通なのが個性。 他人との差異がないってことは普通の定義
他人との差異がないことが普通の定義だから 普通の人は
個性出しても出さなくても大して変わらないんじゃないかなと思うんですね。 あと多くの人の個性って服を着替える程度のもんだと思うんですよ
それを個性と呼んでると思うんですね。 だから滲み出たものではなくて世間の人の個性っていうのは
着けた服着替えたら個性出たみたいなもの。 いや今着替えただけだろうみたいなこと
では次。物事は見方で全く変わったものになる。 例えば悪い噂も良い噂も
見方による変化と変化への向き合い方
良い噂も悪い噂も話題になっているという意味では同じになったりするんですよね。
次いきます。変わることが素晴らしいか
変わることが素晴らしい。変わらないと停滞だという決めつけ。 いかに動物にとって変わることが問題あるか考えるべきだと思うんですね。
社会で生きる人としても変わる問題は相当なものだと思うんです。物事は無数の関係性でできているから
一つの変化をするとあらゆることが変化する。 そして人は変化に弱い生き物で変化すればリスクもあるし、だから
称賛するべきことでも
するべきことでもない、するべきでないことでもないと思うんですよ。 現代社会のそれは脅迫観念だし
生物学的に見れば変化とは
リスクそのものです。
自分自身もそうだし、この物理空間すべてのものが 無数の関係性で構成されているわけですよね。
そういう意味で一つの変化を起こす 波及効果ってもう予測可能なんですよ。
でも変わらなければならないって煽る社会。 宗教でも言われてました。自分が変わりなさいと
挑戦、よく言われますよね。挑戦しなさいとかも。 向上しなさい。変化しなさい。
成長しなさい。
腑に落ちる瞬間と他者との違いの認識
変化には対象があるから変わらないという選択
でいいと思うんですよ。 では次。前から認識してるし意味も分かってるけど改めて見てると
腑に落ちるってことがあるんですね。 まあそれって多分自分の
経験してたものと
このフィットした 瞬間に起こるもの
起こる現象っていうのかな。 抽象的な
ものでしかなかった自分によって。それが
実感に変わったっていうことなのかな。 もう一度見ますけど
えー 認識してるし意味も分かってるんですけど
腑に落ちる。まあこれまあ当たり前だけど あんまり前までこんなことなかったんだよな。
まあいいや。ある程度人間こういう時どうしてこうなるのか。 人間こういう時どうしてこうなるのか
ってまあ人間の仕組みを知ると
自分のことを分かるというよりも 人とこう違うのかって分かるんですね。
だから人間理解は自分にとって自分を知るためではなくて 他者との
違い、自分のがいかに異質かを計測するための道具なんですね。 人はこういう時こう動くなっていう
テンプレートみたいなものが分かると 自分がずれてることが分かるんですよね。
過去のトラウマと後悔
今日トラウマの思い出したことがいくつあったので話していきたいと思います。
ついさっきですね、空き部の奴ら 先生インチ来ることもあったし
廊下で悪口言ってくることもあったし、まあチームメイトなら もうちょっとなんとかならないのかと
今でも思いますね。 あと宗教の奴がなんであんな自信あったのか
いつも上から目線で
というかもう自信もたっぷりのあの あれまでなんなんだと
でもまあだからといったら いつまでも気持ちの中で争いあっててもしょうないし
ほっとくしかないのかなとか考えてました。 あとなんの宗教なんかいかないで
例の彼女と付き合っていたら
よかったなと。なんで宗教に行っていたのかと。 あとですね
宗教の人に愛想よくしていた時も なんであのおっさんに愛想よくしてたのかと。
でもボランティアで役員みたいなのをやってて まあボランティアみたいな
それ やってるからまあしょうないんだけど
なんで笑顔を振りまいっちゃうのか。 今でも悔しくてしょうがない。そんなことしてる場合じゃないだろうと
受験生なんだからそんなことしてる場合じゃないと思ってました。 えーっとですね
当時はもちろんそんなこと思ってませんけど だからこそタイムマシーンに乗って過去の自分に行ってやりたいですね本当に
では次
部活、世代間の認識、感情的になること
えー
部活に 辞めた後行った時
ラブレス組んでた奴がなんで来るんだって表情してて そんなことも思い出してました
またあいついやそうにしてるよって
まぁ実際は言ってなかったけどそうやって 話しててもよかったかなぁとかあと
ドラゴンボールの例えを使う使うのが
わかるわけないだろうって自分と同世代の芸人さんいてて
そう今日 思ったんですよやっぱり
自分と5歳年下の人も世代だし5歳年上の人も世代だし
ちょうど自分は世代じゃないんだけど自分はドラゴンボールだけがアニメの中で唯一見てて
同世代の芸人さんがそうやっていて 自分がその
こうやって主張する人と共感する できたこといっかもないんですね
感情的になると恐ろしいなと思ってました 教師がいつもまあ自分に新しくしてくれてたんですけど
ある時ですね
うつい感情的になったのか いつも思ってたことを言ってきたような形で
感情的になるってのは恐ろしいなと思って振り返ってました あとなんであの先輩は
嘘ついたのか女性の先輩に またクラキが
嫌がってるぞと嘘ついたんですよ 全くその嘘つく必要ないのにただの嫌がらせでしかない
でも後輩に嫌がらせなんかするつもりもないだろうし全く意味不明です 嫌がらせるのがまだ意味がわかります
ラジオ視聴の矛盾と強迫観念
あとですねラジオ昼の聞くと今度逆に
昼聞くのはずの夜聞くとじゃあ昼なんで1回に行ってるんだっていう矛盾が生じるから 今悩んでるんですね2回にでも
ラジオ聞くのできたし あとです昨日は
しっかり集中してるんだけど手 洗えてるか
わからなくなり2回洗うということが2回ありましたね
脅迫性障害というわけじゃないんだけど後から振り返って 考え事してたなって時は2回洗いますね
哲学的な思考とプレッシャー
あと 最近は哲学的なこと
考えてて充実はしてるけど ちょっとコンツメ過ぎですねやっぱり
それでプレッシャーになってるし
で全てメモして それをちょっと貴重面にやりすぎだし
あと 結局昨日ラジオ聞いてたんだけど聞いたまま寝ちゃってっていうのを何回も繰り返し
だからちゃんと寝れてるか心配だし まあそんなことをしてたら
そもそも夜以前と違って暖かいんだから 起きてポッドキャスト
以前と同じように1時ぐらいにもう起きちゃってポッドキャスト 撮り始めるってこともできるわけだし
ちょっと哲学的なことを考えることもできるし
親との糖質量計算の誤解と認識のずれ
昨日 親に
親が結局 毎日の糖質量の計算間違っていってきて
間違ってるよって自分が言いましたしたらですね いろいろ見たというんですね親が
自分がいろいろ見たけど 間違ってるよとどれにもこう書いてあったよってしたら親が
そしたら見てるの違ったんだねって言ったんですよ 自分の主張としてはいろいろ見てるから
あんたの間違ってるよって言ってるのに たまたま見てるのが違うって言ってきたんですよね
で やっぱり親が間違ってたんですよ
なぜ間違ったかっていうと横に糖質と書いてるだけだったっていうんですね
1回目見てる時 あれだけ自信を持って
行ってきてたわけです 2回目見てすぐに
じゃあなんで気づいたんだと 1回目はなぜ気づかなかったんだっていうことなんですよ
1回目見た時何が起きてたんだと思いました 自分は説明しました今までも何回もこういうことがあったから
1回目 適当に見てるとしか思えないですよね
で2回目 見た時にもう一瞬で
30秒もしないで 間違って
糖質って隣に書いてるだけだから 勘違いしたのねって分かるんですよ
だから自分の都合のいいようにして 捉えてるんだなって分かりました だから2回目言われたら分かったけど1回目は
糖質で書いてる ああこれこうなんだろうと
だからもう ちゃんと注意して見なきゃ分かんないって分かってた時にもう油断しちゃってるんでしょうね ちゃんと
今までのミスが分かっていれば 横に書いてるだけで素直にそれを受け入れちゃダメだって
もうちょっと全体見てってなるはずなんだけど だって分かってるはずなんですよ
茹でた状態の量を聞いてるから
そこを間違っちゃいけないから慎重にならなきゃいけないって分かってるはずなんですよ
飛行機の音と脳内ループ
では次 最近は飛行機の音鳴るためにフライトレーダー
見てしまってますね そういう変な癖つけたの
あとキャミオのワードアップって曲 これが気になってカバーを聴いたり
誰でもあると思うんですよ 脳内ループが止まない曲
自分がそういうものに出会うとですね こうやってひたすら調べたり昼間も夜も
地獄耳と右足立ち、足つぼ
あとお腹ガンガンなし では次 いつか
1階の音が聞こえない時 親が寝てるんじゃないかと思って
現状で寝息さえ聞こえてくるんですよ 自分は地獄耳なんで
なんかいろんな音が聞こえてきたんですね あとですね最近は右足で立ってます
もうストイックすぎて いい方法を見つかって
そしたら以前もこんなことやった記憶あるけど やってるわけないし
あと足つぼ刺激しすぎて
逆に体に悪くないか心配だし 夜変化して
筋トレも今まで一回もうまくいったことないし
高中年は 次
ソファの音とファンクミュージックへの興味
昨日ソファーの音が聞こえたんですよ これ親寝てるんじゃないかと
座るのも禁止だし ソファーには
おかしいなぁと思ってました あと
キャミオっていう人の音楽聴いてると
80年ぐらいの ファンクミュージック極めたいなぁと思い始めて
せっかく聞くラジオできたのに タイミング悪いなと思いました
人間関係とコミュニケーションの空想
あと友人の父親と母親もそうだけど
やっぱり 気に入られた方が良かったのかなぁと
思うともうちょっと
コミュニケーション取れたならなぁと思って
散歩の時あった時も ここら辺散歩してるんですかって聞いたり
家行った時も 話しかけたり父親にも
いやー 水泳とかやってるみたいで
でもそうやって負荷があることを
普通やりたくないけどそれをやる それでさやる自由って
人間にありますよねっていう空想とかしてました
何か始めたタイミングで他のものを見つかる時があるんですね
良い方法の発見と課題達成への集中
暇つぶし 苦労してたのに
一つ良い方法を見つかったら
いつもできてしまう つまり良い方法を二つかゼロという時
他のことでも多いんですね
MVいつかいつも1回しか見ないのに興味湧いて
そしたら 全員しっかり見ないととなってしまうんですね
気分かんねえんですね 本当普段は全く興味ないんですよMVって
普段は省エネ物でいてもスイッチが入ると課題ができてしまうんですね
課題を達成しないと落ち着かなくなって
そういう記録癖があるんですかね
別に職業でもないんだけどそういう変な職業病みたいなもんで
では次 絶対的なもの 絶対的な目標
感覚重視の目標設定と行動
大人で生きていると成果はあるかどうかの基準
でなくて 全て感覚次第なんですね
例えば動画を見てないのを見たいけれども
見てないのを見たいんですね ただ
見てることに気づいていなくて 見るのでもいいんですよ
つまり初めて見るかどうかでなく
初めてだと思えるかどうか
これは感覚的なことなんですね
だから目標を持たないわけです だから
焦点は事実かより感覚に行くわけですね
初めて見るかという事実ではなく 初めてだと認識できるかという感覚を重視している
時間は線じゃなくて点として捉えているってことですよね
過去から未来への流れの判断というよりも
その瞬間どうであるか
あとですね 計画的に何かできないし 目標を持ってそれに向かって何かするのは無理なんですね
モチベーションできないし 意味を感じする
かもしくは何のためにこれをやっているんだと 考え始めるってなるんですね
全体見てということも無理なんです 例えば雪かきするとき
無理ですね だから根性論で一つ一つ目の前のことだけ
考えてやる感じなんですよ
だけど切なし気ではないんですね
こうするしかないっていう感じだから
だからものすごく論理的に考えるんだけど
行動自体は 論理的に正しいか考え方 行動
をやすいと考えるんですけど
でも感覚的直感的であるのも特徴なんですね
あと今思いますと基準が無い分 解釈のみで自分の行動が
構成されているのかもしれないですね
ただここで疑問点があって
なるべく物事を解釈しないようにしてるんですよ
あと2つ反する特徴がある場合 2つ行ったり来たりでなくてどっちも
100あるんですね 合わせて200というのはおかしいですけど 共存してるんですよ
老化との戦いと時間の経過
では次 老化と
みんな戦って 受け入れたり受け入れなかったり
してるなってこの前歌番組見てて
思いました うちの親は悲しんでるし
歌番組見ててそれが異様に見えたんですよ 特に
彼らはこうやってテレビに出る存在だから
あるけど世間の人も
多いと相当戦ってるのかなと思ったんですよ
自分の場合は
そういう人 特に親を見ながら
時間の経過を映し出す鏡ですから
親は なぜかというと
自分は もちろん季節の変わりぐらいは分かるけど
1年2年経っても別に変化しないわけです
そういう周期がないんで だから親を見て
時間の経過を知ってしまう
しかもあまり良いイメージにはならないし 老いてるわけですから
例えば知り合いがなくなるとか
時は進んでるのだと気づかされ悲しくなるんですよ
かといってこのままずっと続かれても困るし この時間
ダサかっこいいと狙われたくない美学
ダサかっこいい曲って好きなんですけど
明らかに狙ってるのは好きになれないんですね
意外性がない作られたダサさでなく普通なもの
不要なもの 取ったらちょっとかっこ悪く
見えるかもぐらいがいいんですよ
そしてギャップを感じれないと
ダサい要素があるというより
かっこいい要素とかっこいい要素を合わせたら ちょっと滑稽くらいがいいんですね
明らかに狙ってるのは好きになれないし
意外性がないのも嫌いだし
作られたダサさって嫌ですね
希望の残酷さと幻想
では次 希望の何が残酷かっていうと
可能性を信じてるだけじゃなくて
それに幻想を混ぜてしまってる点だと思いますね
希望ってただの変数のはずですよね
未来って変数のはずなんですよ
いろんな可能性があるだけだから
幻想っていうのは答えなんですね
朝こんな空想してました
友人の親離婚したけど
自分が結婚してたら
お互いを追えることはいいけど
お互いに飽きてしまう
この人みたいに
自分も浮気してしまうのかなとか考えて
子供育てて
家族が崩壊してしまって
なんともったいないことかと思いますけど
過去の行動への後悔と空想
夢でも出てましたね
ADHDみたいなみんなから嫌われてたやつ
子供たちと仲良くしちゃって
喧嘩になって
なんであいつと仲良くしてたんだろうと
完全にあれば不正解な行動だと今でも思ってますね
そのことを思い出して気持ち悪くなって
父親が母親に嘘ついて
役員のお金もらったのはもらってないことにしちゃって
あの時も
話し合った方がいいぞって母親に言ったんだけど
嘘つくのもおかしいし
そういうのも
自分で考えていたんです
お店が無かったことにするのもおかしいんじゃないかなと思って
あとはダンススクールで
自分が進出品で就職してたらって考えてましたね
あと何人か雇ってる人いてあの人たち
別にお客さんいないけど
意味あったのかなと
考えたり
あとこんな感じで練習するんだろうな
すごい明るく振る舞うかなとか
そういう空想してますね
あと乃木坂の方Sコンに来てて
日チャムの選手で応援してる選手いて
もし自分が応援してたら
ベンチでこんな風にして
応援してるんだろうなとか考えてましたね
ペンライト持つかなとかタオル持つかなとか
ベンチから出てくるかなとか考えてましたね
他者の視点からの空想と自己投影
人の立場になって
自分だったらこうするなって考えてしまうんですよ
テレビ見てて自分ならこうするなと
空想始まるんですね変な癖があって
こんな風に思ってるのかなとか
自分がこの人ならこう思われたいなとか
考えてしまいますね
親の行動への不信と糖質量の管理
父親がなぜか
2時くらいかな外出てて
こういう時鍵閉めない
で入ってくる可能性があるからちょっと怖くて
朝聞いてました
どうしたんだろうねと聞いたら
なんか星が綺麗で
見に行ったと言ってたけど
にわかには信じられなかったですけど
あと朝ソファーで
本当にソファーに絶対座ってないか
寝てもいないかって親に
聞いたら
それはないって言ってました
これも信じられないですけど
ある程度は信じなきゃね
やってられないですけど
あと大体自分の中で糖質
の量ですねこれくらい取っちゃいけないなって
いうのがあって
ご飯いっぱい取るなんて足りないけど
でも
2つの理由があるんですね
糖質依存症になりたくないというのと
太りたくないというのと
だからちょっとややこしいんですけど
別にご飯いっぱい取らないんだら
それくらいの
糖質の量ならいいんじゃないかと
なんでそんな気にしてるんだと
また考えがわからなくなりました
でもこれもいちいち
メモしてられないんだよねそんな考え
普通との比較と記憶力
さっきカイラマン渡してきてる人がいて
ご丁寧にありがとうございましたって
父親が言ってるんですよ
でもこれ別に
持ってきてピンポンのらして普通なんですよ
だから
普通と比較してないのに
丁寧なのかどうか
判断しようないってことが
わかんないんですね
なんていうか
あとは自分は誰に似てたのか
父親は記憶力だけはあるんですよ
自分は誰に似てたのかという
気持ちになりますね
幻想と決まった答えの危険性
さっきの話続きでした
会が決まるっていうのは
例えば
幻想を持つと
大学に受かって
幸せになってっていう
その可能性を狭めてしまってる
っていうのも小さな問題ではあるけど
決まった答え
を作ることになりますから
それが希望
という言葉の
自分が感じる問題点なんですね
自分にとっては問題なんですね
変化への適応と安定性の喪失
あと食事中
変化が
食べ方にあると集中
急がれるんですね
変化するのに慣れたらいいのだが
変化になれる代償はあるんですね
で習慣も同じで
融通効くようになるかもしれないけれども
変化をする癖をつけると
でも体調も
イレギュラーあっても
問題なくなるかもしれないけど
変化になれる代償ってあると思うんですよ
ルーティンを変えること
あるいは突発的な変化に
対応できるようになる柔軟性があると
普通は一般的には
いいとされることがありますけど
ただですね
微調整が
微調整じゃなくなると
変化への適応に変わってしまうと
予測可能な日常性って
予測不可能な波に
自分を同調させることになるんですね
安定性が失われるし
脳が常に警戒モードでいることになる
余計な疲労感がたまる
精液を作ることが
いいとは思わないけれども
自然と安定性を求めているんですね
安定性って言うと違うか
崩壊しないためのものですからね
でも状態としては安定性を
失われないようにしている
のは間違いないですね
食事のバランスと後悔
食事中あるものばかり食べていても
あるものの
残りに後悔するんですよ
でもバランスとれているの
これでも自分なりのバランスをとれているのかもしれないけど
でも量を減らしているようにならないんです
例えば豆腐と大豆の件で
いつも大豆が残っちゃってるんですよ
これでバランスとれているなら
量を減らせばいい話で
残ってしまうあたりが
自分なりにバランスとれている状態なのかもしれない
物事の実体と関係性
仏教的な話なんですけど
物って実体がないとは
いうことなんですね
物は関係性でできる
ということなんですけど
よくお坊さんとかが
大地によって支えられているとか
太陽とか土とかあるから
縁があることによって
生かされているみたいな
それは完全に
飛躍がありすぎますね
仏陀はそんなこと言ってないんですよ
あれるものはネットワークの
結節点であるということなんですね
名前も
つけることによって認識してますが
一つの状態を言い表しているだけです
つまり物というのは何かというと
リンゴというのは
食べるという作用によって成り立つものだから
機能とか作用とか
例えば自分という人間も
呼吸をしたり考えたりポッドキャストをとったり
という作用の連続
物という実体があるわけじゃなくて
ことが連続して起きているという
現象が
連なっているということなんですよね
リンゴというのは
単なる
フレームでしかないし
どこからが空気でどこからがリンゴなのかなんて
言えないし
例えば人間もそうですよ
この髪の毛は人間なのかってわからないですよね
だからそういう意味では物とは何かというと
現実を理解するために
認識の対象ですよね
だから影って言ってもいいかもしれないですね
表現しえないながらに
言い表しているんですけど
だから認識上の
認識するために便宜上
置かれたもの
認識上の便宜物とも言えるし
現象が起きていてしかも断片なんですよね
だから人間がリンゴを見ているときは
色が見えてますよね
あと触ったら硬さの感覚があるという
現象があるだけなんですよ
リンゴは硬さの感覚がある
重さもある
それだけなんですよ
いや物はしっかりここにあるだろうって思ってしまうけども
あらゆる物って変化しているわけですよね
だからそんな固定的なのに存在しえないから
ここに物があるというのは間違いなんですよね
エネルギーとしての物と認識の固定化
あと
これもちょっとガルトっぽくなるけど
でも素粒子というエネルギー
ゆる変動と考えると
物っていうのは
エネルギーを
人は察知して
色とか見えているけど
実際は
素粒子の集合体という意味では
エネルギーを見ている物というのは
エネルギーでしかない
とも言いますよね
本流なんですよ
いろんな
いろんなというか
いろんなも何もないんだけど
全ての物
本流なんですよ
それを
カメラのシャッターで
撮るようにですね
これもよく
例えで説明されるのが
カメラのシャッターで
撮っているような感覚
認識するというのは
で固定する
で写真って
ある一時を固定して
その時点の物を
撮るような
そういうことなんですよ
だからここにあるのはリンゴだろうと
さっきのリンゴも今のリンゴも
リンゴだろうと
同じ物に見えてしまうんですよね
だから川を見ても
さっきの川と今の川では違うのに
同じ川だろうと
思って
見えてしまうんですよね
人間の脳では
そういう風に見えてしまうんですよね
物理学的には原子とか分子とか分解していくと
そこに固形物なんてないんですよね
エネルギーの塊があるだけなんですよね
その集合体を
都合よくというか便宜で
リンゴで読んだり
渡して読んだり
してる認識が過ぎないですよね
しかもそれは固定的な物として
認識しているわけですよ
それも便宜上なんですよね
01:09:41

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