この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。
哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。
「何を知っているのか」
「それは本当にそうなのか」
「確信はどこから生まれるのか」
人はなぜ何かを信じるのか。
なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。
私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。
信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。
意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。
人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。
意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。
結論よりも、考えている途中の揺れ。
完成された思想よりも、変化していく認識の記録。
自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。
虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
00:00
これから、倉木さんのラジオ収録始まります。
現在、朝です。
前回も話しましたが、昨日もですね、
手洗うときに、自動化されているので、
でも無意識ではなくて、だから、
ちょっとどういう意識の状態なのか、わからないけど、
どれくらい手洗ったのか、しっかり洗ってるのか、わからなくなるときあるんですね。
でも、回数は決めないんですよ。
回数決めてしまうと、回数を数えることに意識いってしまうんで、
こんな手洗うごとに、集中する人ってあまりいないと思うけど、
後から不安になってしまうんですよ、ちゃんと洗えてたのか。
というか、そうするルールなんですね。
なぜか最近、続いて、わからなくなってしまって、
でも、そうやって、どれくらい洗えたのか、
ちゃんとそれも一応意識して、ある程度はするっていう、
それ自体が習慣化してるはずなんですよ、もう10年以上やってきたから。
でもここ最近、うまくいってないですね。
では次。
最近、家にいるようになってから、近所の人に避けられてるなっていうのは感じてきました。
特に隣の人もそうだし、裏の人はすごい優しい人なんだけど、そんな感じして。
たまたま目が合ったのか、で、すごい避けられたのとか、
あと、逆のほうの隣の人からも、なんとなく嫌われてるのがわかるし、
引っ越した前の人は、完全に、自分が自分の部屋に行って、したら裏庭に行くとか、
あとは、家に来たら、ピンポン鳴らしてて、自分と目が合って、
母親が出て、自分が間違って出るのかと思ったのか、
すごい安心した感じで話してたり、
あと日光に当たってるときに、すごい嫌そうにこっち見てきたり、
で、隣の人は家から、こっちの家の中をずっとじろじろ安心に見てたり、
で、昨日はですね、自分が窓のほうに行ってしたら、
03:04
こっち見えたのかわかんないけど、すぐパッと行って、また避けられてるなって感じました。
あとはですね、不思議なもので、隣の家には迷惑かけてるしと思ってたけど、
こういうことがあると、さらに迷惑かけてればよかったっていう気持ちになってしまいますね。
最近、ラジオで聞くのができたんだけど、
このペースで行けば聞くのなくなるかなと思って、
昨日いろいろ探したんですけど、
以前は暇つぶしで、
乃木坂の動画見るのなくなって、それから行き地獄でしたんで、
今は逆に見るのがありすぎて困ってますね。
あと昨日ちょっと確認っていうか、
確認っていうのか、体に違和感があって確認するので、
今までやってないことなんでルーティンが崩れるし、
でも不安になるんで、それで後から何もしないで確認もしないで、
ただ不安になることもあるんですよ。
では次、昨日ですね、裏のバカ息子が言ってきて、車の音うるさくてで、
夜中起きた時に車の音が鳴ってる気がして、
そこまでずっと寝れなくて、やっと寝れたのにそれで起こされたのかと思ったら腹立ってきてですね。
あと知り合いがラジオやっててそれで過去の聞けないなら別に聞かなくてもいいかと、
ラジコで聞けるけど途中から聞かなくてもいいかっていうそういう完璧主義で、
で昨日なって公開するんですよ。
結局でも今までの聞けるわけじゃないしと考えて、
で結局聞かないんですよ。でまたどうせ後から公開するんです。
今朝ですね親と話してて、小さいけどホタテ生えてた料理があってで、
ホタテの出汁のもらったんでそれ入れたって言うんですよ。
いやホタテから出汁出てるのに、
なぜそのタイミングで出汁入れたんだと。おかしくないかって言ったんですよ。
06:04
別にしたらどう、別の機械でそれ使ったらどうなんだって言ったらですね。
最初は確かにねっていう風に言ってたんですよ。
でも後から分かったのが、
一番言ったんですよ。ホタテから出汁出てるでしょと。
やっぱり親も分かってて。
昨日のホタテ出汁出ないからそれで使ったんだと。
だから自分は最初それ言ってるんですよね。
で今までもそうやってタイミングおかしいだろって時あったんですよ。
新米の時に限って黒ごめん入れたり。
新米に近づいてきて黒ごめん使うようになってきたなら分かるんだけど、
なぜか新米の時に黒ごめん使ったり。
もしそれがたまたまなんだとしたら。
でどんな脳内回路してるんだろうと思う時ありましたね。
あとですね、トレーニング部屋の窓とかを開けて、
風強い時音うるさいから挟んでもらうんだけど、
今ではなぜか窓閉めてるのに、
戸も閉めてるのに挟んでたり。
それが何回かあったんですね。
何パターンかであって。
でこの開けてて今回だけ開ければいいのに、
戸に挟めばいいのに。
こういう時に限って挟んでないんですよ。
で聞いたら、いや挟まなくていいと思ったんだって言うんですよ。
忘れてたなまだしも。
なぜ、しかも前挟まなくていいだろうと、
今は風邪入ってくるわけでもないしっていう説明もしてるんですけど、
じゃあ今回挟めるに決まってますよね。
あとここ最近はですね、
例のメモを取ったらいいのか、
それともやめるべきなのかっていうところで悩んでますね。
あとポッドキャスト内でも、
割とここで話してることは普遍的なテーマ。
誰にでも通じるテーマだと思ってるけど、
その考えて一人よがりで、
実は哲学的な話なんて実際どうだろうと考えたり、
でもそもそも哲学の話なんてしてるつもりもないんですが、
ただそういう風に聞こえるだろうし、
一貫して自分が疑問に思ったことを話してるだけとも言えるし、
このまま変な余計な変化して少しずつ崩れていくのを防いだ方がいいと思うし、
09:06
今、ラジオ聞くのないって言ってたけど、
別の方法だと聞くこともできるけれども、
こだわりとか理由はわからないし、なぜこう思うのかわからないけど、
これは違うっていう考えによってできることは狭めてしまっているから、
こだわりによって助けられてもいいんですね。幅広げすぎなくていいし。
あと違和感があるかどうかが変化するかしないかの判断材料なんですね。
あと、今日は海洋で性大腸炎についても調べてました。
どうも他の病気じゃないかと思う症状もあって、
これだから性格もそうですけど、はっきりしないですね、本当に。
性格も身体的にもはっきりしないんですね。
こういう属性だとはっきり言えないんですよね。
この部分ではこうだけど、この点は矛盾といった感じなんですよ。
あとアプリのことで、もっといい方法あったのにそれができてなくて、
それ何か問題があったからそうしてなかったのかわからないんですけど、
とりあえずできて、だいぶ今までより効率的になったなってタイミングで
別の問題が起きて、するのも意味ないなと思ってしまうんですね。
せっかくいい方法を見つかったのに問題が出てきて、できなくなった時にうまくいかなくて、
いい時にうまくいってもと思いますね。
なぜかいい方法でない方法をやってた時、見落としてたのか、何か問題あったのか、
あったからあえてやってなかったのかわからないけど、そういう時ってどうしようもないんですよ。
12:08
思い出して確認作業の時、意識的に思い出して大丈夫だとか確認するのが無意識になってしまってるんですね。
意識するのが無意識になってるんです。こういうことってあるんですよ。
だから確認したのかわからなくなるんですね。
あとですね、端っこにいても輝ける、センターではなくても輝けるという人いますよね。
人気かどうかの記事を設けておいてみんな同じを輝けるっておかしな話だと思うんですよ。
それぞれの違った輝き方あるという考えが成り立つのは
人気かどうかの基準を設けていない場合だと思うんですよ。
設けてしまうと優劣が出てきてしまう。
センターは一番輝けるに決まってる。そうでないんですよね。
そうでないと思うのは、自由だけど物理的に無理があると思うんですよ。
昨日そうやって言ってる人いたんですよ。芸能界で端っこにいても輝けるんだって言ってる人いましたけど。
端っこに入れるとか言ってる時点でもそういう記事を設けてしまってるんですね。
予定調和はいけないと言ってる人の多くは余計な変化を起こしてるだけだと思うんですね。
直前になり予定壊して混乱させてるだけ決められたことをやった方がうまくいく場合がほとんどだし、
決められたことをやるかどうかと、その時にしか生まれないものはあるかどうかは別だと思うんですね。
当たり前のことやベースとなる進行が成り立って初めてそこでしか生まれないものがあるのに、
ただ無実情予定調和と、予定調和じゃなくて素晴らしいと称賛するバカって言いますよね。
あと最近ですね。
昨日メモしてたことを効率化しようとして、前とは違うやり方で貼り付けてたりしたら、
15:03
逆に効率化できるところからやっぱり失敗するんですよ。
こういう時は本当に相当時間かかることだったから、
これもしかしたらもうできないかもしれないと。
写せないかもしれないとなり、結構絶望しかけました。
最近は暇つぶしにも追われてて。
それさっき言いましたね。
あとですね、歯痛くなるからちょうどこの時期なんですけど、今時期窓開けれなくてでも暑いし、
これ悩みどころなんですよ。暑いのに慣れたいし。
でも無駄に暑いのも、暑いのを経験するのも変な話もするし、
暑いのに慣れたいしストイックにやりたいでも無駄に暑い思いをするのもどうかと思うし、
普通の感覚から言えば、開けるべきなのも開けるべきなのに開けなくて、
強迫性障害の自分が嫌になった時を思い出すんですね。
後悔、学びあると言うけど、後悔の正体って、
過去の自分には現代の自分と同じ否定が欠けていたという気付きなんですね。
今の価値もその時の価値もどちらも絶対的な正解でないんだから、
そしてですね、否定が違うから見えてくるものですよね。
それなら後悔する必要ないし、学ぶことなんてないし、
なぜなら過去の基準で見てるだけだから。
それどころか過去の視点で何かやってもうまくいかないと思うんですよ。
18:05
反省しても意味ないと思うんです。あらゆるものが変化してるから、
学びなんて活かせないし、大きな改善点は意識せずとも気づいてるわけですね。
直前だとしてもその時、どんな状況で、どんな理由でそうしたかなんてわからないから、
反省しても無駄だと思うんですよ。学ぶことなんてないと思うんですよね。
後悔ってのはですね、昔の自分が間違ってたというよりも、
今の自分が持ってる視点を昔の自分が持ってなかったという発見に近いんですよね。
つまり価値観って時間によって変わるから、
過去を今の基準で捌くこと自体がずれてますよね。
だから後悔ってのは絶対的な失敗の証拠じゃないんですよ。
視点の差が見えただけなんですね。
今の自分がどんな視点を持つことになったかがわかるけども、別にそんなことわかる意味なんてないし、
もちろん過去の自分を責める意味もないし、
視点が更新されたことをわかって意味がありますかね。
変わってしまったなっていうのは気づくかもしれないけど。
では次。文学っていうのは何か伝えたいけどいろんな解釈できるのなら元々のものの成分もあるし、
しかしほとんど他の不要なものが混ざっているということだと思うんですよ。
何でそんなことをするのかと思うんですよ。直接伝えればいいのに。
何か伝えるということでないなら解釈する必要はないし、
何か伝わるもの、あといい表現だなと楽しめればいいけどそんなことでもないように見えるんですね。
もちろん受け手はその時の感情とか、もちろん経験とかが混ざるからですね。
21:07
あと表現の活用は正確に意味を伝えることではないですよね。
そしてそれが表現の広がりになるわけですけど、じゃあ伝えたいこと漠然としすぎじゃないかと思うんですよ。
伝える気ないだろうと思うし、どんなおかしな解釈が混ざっていてもいいなら書きますけど、
あとは受け手がご自由に受け取ってというスタンスですよね。
それなら伝えたいことないだろうと思うんですよ。
受け手ごとに別の反応が起きていいですよ、別のいろんな意味で受け取っていいですよって言うなら
伝えたいことあるって言っていいのかなと思うんですよ。
他人の解釈に依存してしまってるし、ある程度受け取られるようにそれっぽいこと書くけどみたいなスタンスに見えるんですよ。
伝える人は伝えたいことなくても、読み手に何か探っていけば何か惚れるかもしれない。
何か見つかるかもと思わせる、つまり騙し合ってるのじゃないかなと思うんですね。
そもそもフィクションだから別にそれでいいわけだし。
でもこの文章は、この文豪がここでこう言っておられるとか言う人がまた出てくるわけです。
たくさんいるわけですよね、評論家でも素人でも。
でもですね、それ登場人物のそもそもセリフだしと思うし。
25:29
次はスパイスの組み合わせ。運でしかないと思うんですね。
2種類混ぜるとしても好き嫌いの問題だし、いいかどうかは好き嫌いの問題だし。
どの料理もそれは同じではあるけど。
3種類混ぜたら他の条件の変化もあるし、料理人の変化。
他の材料、調味料の変化。食べる人も違う。
だから運だと思いますね。
このパターンはどうだろうと研究するのは無理ですね。
無数にパターンあるから、どうしてこのパターンは美味しいかなんて分かるわけないんですよ。
3種類以上だと。ましてや細かいことは分からない。
だから毎回実際に食べて感性を頼りにやっていくしかないから無理ですよね。
インドの人は工夫はするけど、個性も出そうとするだろうけど、後は受け手が決めるんだと理解してるみたいなんですね。
食べ物以外でもこんなことあるかもしれない。混ぜて複雑にすることで個性を出そうとしてるけど、無理だってことは。
個性出すどころか、ただ難しくしてるだけですよね。
全くその人でなくていいし、サイコロ振ってるだけだと思いますね。
27:37
人に注意したり悟ったり叱るのは全て正解。
理解できる枠に押し込めて、そして否定されたくなくて。
安心したくて、自分を守るためのものだと思うんですね。
そういう場面は見たことあると思います。
自分が否定されているのは気がして、相手に正解を押し付けるということ。
だから表向きの理由で相手に注意したりするんですよ。
実際には自分の不安を減らすためとか、自分の正しさを守ったり、正しいと思い込もうとしたりですね。
あとは秩序を保ちたいという場合もあるし、体育教師とかでは多そうですね、こういう人は。
正解を押し付けるというのは、自分の理解可能な枠に入れて安心したいんですよ。
よく理解できない、何のためにこんなことをするのか分からない人に正解を押し付けるんですよ。
自分はそんなことをされたくもないし、そんなことをしようとする発想にすらならないですね。
純粋に危険から相手を止めたいという場合は、親が子供に注意する場合はそういうことはあると思いますけど、基本はないと思います。
だから防衛と支配の混ざった行動なんですね。
極めることできなくなったが直近はあるみたいに、人って都合よく視点を切り替えているんですね。
極めることできなくなったけど、でも直近はあるしみたいに、老後楽しいしみたいに、そうやって視点を切り替えるんですよ、都合よく。
その柔軟さへの違和感がありますね。
極めるという生き方は年齢とか体力、環境でも続けにくくなるからその時に都合よく別の見方へ移れる人って多いし、いろんな職業。
やっぱり定年とか早い人だとエンジニアなんかが30歳くらいでも中間管理職に移されたり別の職場に移ったりしますからね。
30:08
その切り替えみんなできてるんですよ。
できてるかできてるかと思い込みたくて何かするって場合もあるし。
今までも切り替えできる人が多いのかな。
切り替えできなかったら、でもこの道進んでよかったとは思いたいわけです。
もちろん視点の切り替えは裏切りではないってのもわかるんですけど、
一つの視点を深く保持する人の方が生きづらいなと思うけど共感はできますね。
自分がですね、動画見てる時飽きて快感が出ないとは戸惑うんですけど、快感出るべきだと思ってる。
つまり楽しまないという義務感が出てしまう。
何か学びがあるわけでもないし、しかし楽しめてもいないのであれば何でこれやってるのかわからない。
しかし暇つぶし他にすることないし、これまでも他にいい方法探したけどないし。
飽きたからといっていちいち変化してられないんですよね。
そもそも暇つぶしなんだし楽しまなくてもいい。
しかし飽きに対して頭では放っておけと思ってるけど、飽きたもの続けるのはしんどすぎるんですね。
アイドル見ててこの人たち一人一人でないと、この人たちの一人一人ではないといけない。
誰がかけてもいけないなという見方をするとですね、してしまうんです。
33:00
もしこの人たちじゃなかったらこの人に匹敵する人っているのだろうか。
ルックスが似ているとしてもこの性格は面白い性格はないのではと考えるけど、この人基準に似てるんですね。
これって不思議な心理なんですよ。
その人と全く違う魅力の子入ってたはずなんですよね、その子でなくても。
つまりですね、一人を強く見ると変わりがいないように感じるんですね。
劣ってるか、あとは似ているかで見てるんですけど。
でもこの個性ってこの子じゃなきゃなって思うんだけど、その子じゃなかったら別に他の人がいたわけですよ。
だから有名人についても同じかもしれないです。
学者はちょっとまたアインシュタインがいなければと考えたところで、
ちょっとこの話とは別の話だけど、もちろんそれは別の方向で研究は進んでただろうけど、
タラレバの時、あの時ああしてなければ結婚できてなかったみたいに考えるけど、
あらゆることが変わっていたわけだから、一つの部分取り出せないんですよね。
科学の研究なんかも同じかもしれないです。
話戻りますけど、だから本人の絶対性なんていうのはないんですね。
この人でなければどうなってたんだろう、想像がつかないっていうことはないんですよね。
逆に言うと、グループでこの5人がいなければみたいなこともないってことですよね。
だから本人の絶対性というより、見ている側の基準の固定によって、
その人でなければダメってなっちゃってるんですね。
だから全てにおいては言えると思います。
自分の担当の先生でないといけない、この先生が自分の先生にとってこの人でなければダメみたいな。
希望に満たされるのも絶望になったり、うまくいかなくてもがいたり、
希望の状態、絶望の状態、どちらも全て温かい世界だと思うんですね。
自分は虚無にいるからそう感じるんです。
何かを信じてる世界の感情って温かいんですかね。
36:04
何かを信じてるってだから温かい感じしますよね。
この人を信じていけば大丈夫みたいな。
うまくいくことに期待するのも、失敗してもがいているのも、まだ意味を感じてるんですよね、対象に。
虚無にいるってことは意味付けが働かないってことなんですよ。
意味を前提にしない場所にいるんですね。
無理に希望とか、希望を信じる必要もないんですけど。
20歳以外だからそんなに人間らしさもないし、だから二重のことですよね。
人間として当然だと思える反応ってありますよね。空気を読むなんかもそうだけど。
そのズレが人間らしくない、たらしめてるんですよ、残念ながら。
全く嬉しくないレッテルだけど。
その人間らしさが欠如というより、個性として見ることができたらいいですけど。
何かの理由、例えば誰かがノーベル賞を取った理由、いくつかあると言うなら、たまたまノーベル賞を取ってると言ってるようなもんだと思うんですね。
理由は一つなんですよ。
はっきり決定的にこれがこの人にはあるというもの、あるという方を理解しやすいですよね。
しかし全てのもの、運だとも思ってるんですけど。
こんなこと言っときながらだけど、結局ノーベル賞を取れるぐらいの研究をしてる人っていうのはたくさんいるんだけど。
運だと運ですよね、だからそういう意味では。
あと単純にその人がいい環境に巡られたとかそういうのもあるし。
だから何て言うんだろう、船に例えて言うといいクルーがいなきゃいけないわけです、研究室には。
その意味では確かに理由は複数要因の積み重ねだとも思うんですけど。
でも単純に運が良かっただけの話に済むかなと思うんですよね。
成功するなんてのは環境だったりタイミングだと思うんですね。
能力ある人なんて山といるし、この中から選ばれるかどうか。
ただノーベル賞ともなればどうか。同じく大量に取れる人いるから、運次第。
しかしですね、はっきりここが違うというものあるはずだし、そうでないなら
39:06
どこにでもいる優秀な学者がたまたま歴史に名を残したことになってしまう。
次、今日もまた自分たちが生物として。
生物としてポッドキャストってやる必要ないけれども、でも続けてられるんですね。
自分は人生に意味を感じてないけど、生きるために必要なことをとりあえずやってるって感じなんですね。
食べる、寝る、話す。
話すもそうかもしれない。
生き物としてやらざるを得ないから生きていくためにするわけですよね。
ポッドキャストの活動っていうのは生活維持に絶対必要でないわけです。
ただ何かをつなぎ止める役割を持ってるんですね。
生活の規律なんかもそうだけど。
規律、ポッドキャスト、暇つぶしは生活維持に必要でないけどつなぎ止めてる。
ポッドキャストはネットビジネスを始めてその流れで続けてるんですね。
変化しないことではMODだから理にかなってる。
これは続けなければならなかったんですね。
過去の後悔と厳格義とは当たり前だったしやらない選択なかったし。
ブログ辞めても発信し続けたんですね。
つなぎ止めてるというか呼吸みたいなもんですね。
だから生きていくための生活維持のために必要なこととか今までやっていてやらない選択がないもの。
完成の法則、強力なものを続けてますね。
物語を書かないためにこの瞬間に存在しようとすることに集中するけど
しかし存在の実態がないから存在と言ってしまう時点でも物語を書く行為
42:10
物語を書かないためにと言ってるものの逆のことをやってるだろうと思うんですよ。
つまり物語をやめようとする行為そのものが別の物語を作ってしまってるってことですね。
あとは目指してる時点でもすでに物語になってるわけです。
だからできるのは自覚することだぐらいですよね。物語を作ってる自分を自覚することなんですよ結局は。
物語を書いてる自分との差をつけようとしたらそこなんですよね。
飲み込まれるかどうかなんですよね結局は。
物語を書いてると分かりながら物語を書くかどうかの話になってくるんですよ大事なのは。
虚無に言って物語を書かないのに
物語を書きたくて自分が作る生命を作られたらどうなるのかっていうのは
おそらく人は知りませんよね。
自分が作っている世界の中で、ここで自分が何を作るのかというトラブルがあるんですね。
自分が作っている世界の中で人が何を作るのか。
何を作ったら物語になっちゃうんですね。
自分の人生、生き方、自由さが他の人と比べて全くないなと思ってました、学生時代。
そこに劣等感というか間違いだなとは思わないけれども、
何だろう、欠如しているとも思わないけれども、
人と違うなとは思ってました。
この考えが凝り固まっているんですね。
だからその残響がまだあると認められるかどうかですよね、大事なのは。
10年たった今でもまだ残響はあるんですよ。
ただ宗教に対する思いは全くないんだけど、
救いにすがる逃げる思いは一切出たことはないけど、
45:05
意味の名残はあるんですね。
何か集中すべきことがあると、
あるとき、意識しているとき、
何か集中すべきことがあるとき、
意識しているときもそうだし、意識しすぎないように、
忘れようとしているとき、
それでも問題ないんですよ。
問題は意識ゼロになったときなんですよね。
意識しすぎるとどうかというと、
それも問題ですね、確かに。
だから必要なとこだけ見れればいいんですよ。
物語を書いて正当化しているとき、
物語を書いて正当化しているとき、
物語を書いているのを意識して悩んだ時点で、
正当化は終わっているんですね。
だから本当に意識ゼロになったときだけなんですね、
問題なのは。
でも意識ゼロのときって、
意識ゼロだとは気づけないですよね。
だから本当にちょっとそれが気づいて、
もう悩んでいる時点で意識している証拠なんですよね。
頭の中で考えて悩んでいることは、
問題ないのかもしれないです。
問題になり得るのは、
全く意識に昇っていないこと、
つまり悩み始めた時点でも問題ないんですね。
今何のためにやっているのか、
何をやっているのか分からなくなって、
宙に浮いている感覚になる。
そんな時、整理するんですね。
つまり意味づけですね。
自分もそういうことがあるんですよ。
特に何か集中しているときなんかそうですね。
もう神経研ぎ澄まされて、
逆に集中しすぎて今何をやっているのか、
さえ分からなくなるときがあるんですよ。
だから本当に集中していれば、
行動に目的なんかなくなるわけですよね。
何かに集中できていれば、
行動と目的の繋がりって切れるんですよ。
つまり目標となることにたどり着くよう、
計算するとき、目の前のものに没頭できてないんですよね。
48:05
でも何かやっていると、
何のために始めたのか、何をやっているのか分からない。
何のためにやっているんだって、
分からなくなるときってありますよね。
何でこんなに頑張ってきたのか分からないみたいに。
一応現在地を確認することぐらいは必要なんですよ。
ただ意味付けってのはやっぱり心理じゃないんですね。
その意味って心理ではないんですよ。
自分なんかだと最初の動機をやっぱり欲しくなりますね。
思い出したくなりますね。
現在地というよりも自分の場合は動機ですよね。
現在地を確認するというと、
どの程度のレベルにいるかということですよね。
自分はそれより動機のほうが必要ですね。
次、物語に書かず事実は事実として
捉えようとしても不快が伴うんですね。
事実ならこれ。
不快が伴う事実なら難しいんですね。
プラスに捉えようとしてしまうんですよ。
物語を書くというのはそもそもそういうことだろうけど。
宗教に入っているとき、何の疑いもなく全てに意味があると思っていたんですね。
しかし申しもしていないので
結局現実は残酷で無意味なことの連続じゃないかということを肌で感じていたんですね。
宗教をやっていたからこそ意味のなさを感じていたんですよね。
で、進路を探すとき意味を感じる。
別の進路を探してまた無気力感。
この道を進んでも意味がないと。その連続だったんですね。
だから宗教的な意味づけが弱まるから現実の無意味さが肌感覚として残るんでしょうね。
進路を探すとき宗教的な意味づけが弱まっていたのかもしれないです。
どう選んでもこれも意味がないのではと感じやすかったんですね。
もしくは宗教的な意味づけが強かったのかもしれないですね、逆に。
51:12
でも宗教時代、進路を探すとき宗教的意味を感じすぎて正解に終われ進路を悩んだのか。
宗教的な意味づけが余って現実の無意味さでどれを選んでも意味なく感じる。
確かにどれを選んでもなって感じではあったんですね。
でもさっき話しましたね。宗教に入っているのに虚無な部分もあったと。
だから単純に虚無感だったのかもしれないし。
だから人生の意味から切り離して、そもそも切り離していればよかったんですよね、当時。
まあ宗教入っていたんでそんなの無理ですよ、でも。
だからカオスな状態、意味を感じていたり虚無だったり、宗教的な意味が弱まったり。
54:04
コメント
スクロール