この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。
哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。
「何を知っているのか」
「それは本当にそうなのか」
「確信はどこから生まれるのか」
人はなぜ何かを信じるのか。
なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。
私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。
信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。
意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。
人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。
意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。
結論よりも、考えている途中の揺れ。
完成された思想よりも、変化していく認識の記録。
自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。
虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。
感想
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00:00
これから、倉木さんのラジオ収録始まります。
はい、現在朝です。
英語回のエピソードを昨日撮っててですね、 まあまともなくいかなくて、
ちょっとやり方変化しようと諦めついたんですね。
でも今まで通りで、
いいと思うことによって変化を避けて、
それによって安心しているところもあるんですよ。
今までもそうでした。
時間が解決するとも思わないし、
結局ですね、今まで通りになろうと思うんだけど、
なるべく変化しないことでエイジェイしてきましたけど、
何度もうまくいかないものは変化させるっていう原価値もあるんですね。
では次。
家にいると何も変化ないじゃないですか。
するとですね、
最近は飛行機レーダーっていう、
飛行機どこ飛んでるかって近く飛んでるとき、
どこからどこに行くの飛んでるかとか、
見れるサイトがあってですね、
それ見て楽しんでるんですけど、
飛行機相当遠くで、
だから何だろうな、
多分10キロ離れてても音聞こえるんですよ。
それを知って感動しましたね。
今まで家の上で鳴ってるのは知ってたけど、
すぐ上を飛んでると思ってたんですね。
では次。
03:03
ここからの話は、
いくつか、
最近思い出したトラウマ、
実際あった話なんですけど、
親友がお菓子渡してきて、
食べないかって言ってきて断って、
図書室でハッカー部がいて、
そいつどうせ、
自分と親友のことをバカにしてるんだろうなとか、
思い出してしまってましたね。
あと、
近所の人が散歩してて、
親子で、
自分たちも親子で散歩してて、
話したくなくて、
無視して歩いて行ってしまったんですね。
あの時は精神的にやられてたし、
しょうがない状況であったけど、
申し訳なかったなと思って。
あとですね、10年間やってきたこと、
自分と同じような境遇で他の人との違い、
分析してきたのに、
メモ全て、
整理できなくて消してしまったんですよ。
それもそうだし、
メモしたりしないでも、
ポッドキャストで話すことだけに集中しようと思ったんですね。
ただそれだと、
ポストってうまく話せなくなって、
余計な不安の妄想が始まるんですよね。
ポッドキャストを全くやる意欲がなくなることが、
一番避けるべきことなんですよ。
あとですね、
英語界なくてもよかったのかなと思ってたのに、
逆に日常の話に集中して、
そしてドイツ語もと考えるようになったり、
とにかくストイックにやればいいんだって思ったり。
やっぱりまた同じ失敗を繰り返してきたんですね。
日常の話がおざなりになってるし。
今はメモ重視してしまって、話すこと軽視してしまってるし。
そうやってやってたとして、過去の話はどうするんだ?
テレビを見て理解できないことの話?
日常の一つとも言えるし。
それをやるんだったら今の延長だろうって思うし、
過去のことを話さないとしても、
そしたら空想の話はどうするんだった?
それがいいんだとしたら、日常も、哲学も日常で行うことで。
では次。
やっぱり家にいるとやることないんで、
06:02
近くで昨日太鼓の音聞こえたんですよ。
あれはイベントもやってないみたいだし、
親と話したらよそこみじゃないかって言ってました。
でですね、朝またこっち向いてきてるような、
向いて新聞読んでる気がして、
食事中全然集中できなかったんですよ。
以前ですね、どうせまたそっちの方少しでも向いたら
うちの親挙動不審だからまた見られてると思って
意識するんだろうと。
だから一切そっち向かないように気を付けて
使ってなきゃいけないんだって以前言ったんですけど、
全く見えてないって言うんですよ。
全くそんなわけないんですよね。
あと食事について話すときは気を使うし、
ゆで卵、味はしなかったけど食感がすごくよかったって言って
語弊を与えないかとか、気を使いますね。
あと父親にこういうドラマを作らされて、
それ以外にもバレてないと思ってるかもしれないけど
いろいろドラマあるからなって本人に言ってる空想をしてましたね。
あと誰というわけじゃないけども、
父親が子供に生きてるだけでありがたいんだと、
幸せなんだとって言ってお礼を言ってるのを空想したり、
迷惑をかけてると思ってるかもしれないけど、
逆に生きててくれてありがたいんだと言ってるのを空想してたり。
もちろんうちの話ではないんですけど、そんなこと考えてました。
うちは100%そんなこと考えてないと思います。
では次。
続きですけど、哲学の話やめたとしても
発達障害の考察止めはどうするんだとなるし、
どのみち矛盾なんですよね。
また興味が変わる可能性がある。
哲学的な話やめるなら、
番組名一から考えなきゃいけないし、
メモを取るならブログでもいいっていう気もなるし、
日曇り中の話、できなくなるの困るし。
でも思ったんですよ。
今日の話を今日しかできない、
今日の感情で、
今日しか伝えられないものもあるし、
とにかく過去は捨てて綺麗さっぱりにしたいっていう気分になるときあるんですよ。
また新たなルールを作って、
あまりルールを作らない方が自由に話したほうがいい気もするし、
09:04
番組を増やさないでいるっていう意味では
今のやり方がいいってことに気づいたり。
今日の話だけだとどうせ余裕があるからそれをメモし始めるんだし、
あそこまで変化させるなら、
英語回なくしてもいいだろうってことになっちゃうし。
あと今メモを記録してるものに分けてるんですけど、
その収納選択が大変で、
例えば今の話もそうだし、
でも参考になるか分かんないですよね。
今メモしてることが全てそうですけど。
では次。
いとこに裏耳のメールを送ったんですね。
後悔してるんですよ。
正気ではあったんですよ。
でもなぜあんなのを送ったのか理解できないし。
でもいとこがいてから自分が生まれて、
親はいとこのおかげで子供が欲しくなって、
このメールを送ってるかなと思ってる。
あのメールもこのメールも理由なんてなくて、
こうすると終わらないんだ。
衝動みたいなものなんだと本人にも伝えられてるし。
実際そうだったんですよ。
実際そのメールは送るのが後ですけど。
裏耳のメールだけ送りましたね。
では次。
アイドル歌詞の不安が、
ファンが嫌いでグループも嫌いになるってことがあるんですね。
だからこの歌詞素晴らしいなと思っても、
ファンの方たちにちょっと影響つかないと思うと、
そのグループのイメージまで悪くなるし、
あとその歌詞も嫌いだし、
課題評価よくわからずしてる雰囲気も好きじゃないし、
これは芸人さんにも言えることですけど、
特に歌詞が多いですね。
あとですね、空想でエキゾチックに感動場面作り出す変なとこあるんですよ。
空想が強い人なんで自分、
実際の出来事にもそうだし、空想、
12:01
一から空想したことにもエキゾチックで劇的な意味を勝手に乗せて、
感動シーンみたいに感じることがあるんですよ。
物語を補完してしまう、あるいは一から考えて、
かっこいい言い方すれば感情豊かで、
ひどい言い方すると孤独が長いからこそ、
頭の中で場面を演出しやすいんですね。
でも現実はそんなことないよって虚しくなることあるし。
ただ空想が希望にはならないんですよ。
だから期待すぎて勝手に理想化してしまうってことはないですね。
あと現実の地味さに耐えられなくなることもないです。
これがポッドキャストに活かせてたらいいですけど。
もし自分が演出家とか、
脚本家、小説家だったらこの力活かせるかもしれないけど。
もしそれができたとしても感動って
そう頻繁に起こることじゃないし、感動しようと思ってやってたら
そのうち慣れてきちゃうんですよね。
感動ってやっぱりたまにしかないし。
では次、過去を振り返って
楽だったか辛かったの判断って当たらないと思ってて
その時の感情あるいは色々上書きしてるわけだし
記憶っていうのはそういうもんですよね。
再構成してるだけですよね記憶って。
だから違う感情であるわけだし
案外集中して辛くなかったけど後からは辛く感じたりってあるんですよ。
過去を思い出した時の辛さって
やっぱりその瞬間の感情そのものじゃなくて
後から再構成された記憶なんですね。
思い出してる時にどうしても意味付けますんで
ちなみに自分がいつも言ってる意味付けをなるべくしないように生きてるっていうのは
ここで物語化しないってことですね。
思い出しはするけどもなるべく物語化はしないってことなんです。
当時案外平気だったのに
今の自分の価値観や作り方で
やっぱりあの時は大変だった、辛かったと感じ直すんですね。
で、このまた新たな作った感情によって
感情が植栽されたこの記憶によって
また後から思い出して
またさらに辛くなったり
逆に美化する場合もあるだろうし
自分はこの美化してしまうことはないですね。
それを避けているというよりはなぜかないですね。
だから集中していて当時は辛くなかったのに
後からじわっと苦しさができてしまうことはあるんですよ。
じわじわとその辛さが感じられたり
15:01
切々とその時の感情だと思ってるけど
その時こういう感情だったんだろうっていう
騒動とはいえそういう感情になったりしてるんですよね。
だから本当はどうだったのかって
考えてもわからないし
逆に人間の成長
完全に正解なんてないと思いますね。
本当はどうだったのかって一つに決めにくいけど
じゃあ実際どうだったのかなんてものは
たぶんないか、あってないようなものだと思うんですよ。
だから感情ってそういうものってきれいなのかわからないけど
そういう閉じ方しかできないですね。
では次。
あの時あれがなければっていうのは意味がないと思うんですよ。
なぜなら一瞬一瞬が人生を作ってる。
この一瞬がみたいなのは
この一瞬が大切だった
この一瞬が人生を作ったみたいなのはないから
だからこそあれがなければみたいなのも意味ないと思うんですよ。
っていうか苦しめてるだけだと思うんですね、自分は。
実際
辛いことがあってその現実に苦しみられるのも辛いけど
勝手に幻想を作り出してそれに苦しみられるのも辛いし
じゃあだから、じゃあ事実を思い出してても
それも空想じゃなくて
まあ再構成された記憶でしかないんですよね。
で、記憶の再構成で感情が乗っかっただけと
言っていいんじゃないでしょうか。
でも自分が宗教やってた時もこういう考え方ありました。
今の受け取り方は変えられる、格好変えられなくても
って言うんだけども
まあ受け取りようがないでしょっていう話ですね。
いやでもこういう考え方あると思うんですよ。
だって一つの出来事にフォーカスを当てても意味ないんですからね。
では次、感情と理屈は別なように
感情と理屈は別ですよね。
で、後悔
おかしな後悔だとわかってるんですよ。
これはだから理屈の部分ですね。
でも結局感情が操作してしまうんですね。
で、理屈では考えても仕方ないとはわかってる。
で、感情の方は勝手にもしもあの時と考え続けてしまうんですよ。
で、後悔って実際の出来事のようで
実は後から作られた別の物語なんですよね。
で、後悔してしまうのは失ったものは大事だったから
ってよく言いますけど
18:01
いや大事だったってわかったところで
もう失ったものは失ってんじゃから
もう遅いんじゃないのと思うけど
では次、番組説明考えてて
自分という物を説明しようとすれば
必ず離れていくんですよね。
しかし言葉は使わないと
自分という物は伝わらないですよね。
言葉にした瞬間ほんのかなり少し離れるけど
同時に言葉にしないと
誰にも届かないんですよ。
言葉にすると薄まるけど形にはなる。
それが入り口になるんですよね。
少しでも輪郭みたいな物を作れればいいなと思って
という番組説明を考えたんですけど
番組名も。
次、人生なんてクソだというのは
物語、描いてしまってるから
縁のない、理解できない考えだと思ってたんですね。
でもですね、脚色したりしないで言うのであれば
単なる人生物語とは
もう限らないなと思ったんですね。
人生が本当にそう感じられてるなら
そういう局面であるならば別にいいだろうと
いいというか別に許可を出しているというより
自分と同じことなんだろうと思ったんですよ。
でも普通は辛い時って意味づけや筋書きを足すんですよね。
でも淡々と苦しいと言ってるだけなら
現実の感触に近いわけですよ。
人生物語にするという場合は
出来事とか偶然だったのが
繋がるってことですね。
ストーリーになるってことですよね。
そうなってない場合もあると思うんですよ。
この人しみじみとは辛いなと言ってるけど
人生クソだと言ってるけど
物語を描いてない場合もあると思うんですよ。
でもですね、偶然を繋げて
偶然でない筋書きを書くものですけど
でも宗教やってた時にですね
あれがあったのはこの時のためだったのか
みたいな書き方ってするんですよ。
あの時の失敗があったからこうなったみたいなのより
はるかに宗教っぽいですよね。
あれがあったのは
この時のために
そういう運命だったみたいなことですもんね。
21:02
では次。
あなたもっとこうしたらよくなるという人っているじゃないですか。
あなたもっとこうしたら幸せになれるよとか
そういう人って何様のつもりと言われるの怖くないのかなと思うんですよ。
自分はそれが怖いんでそのこと絶対言えないし
やっぱりあいつの今の苦しさはあまり見ていないし
気軽に言っちゃってるし
正論でしかないし
勝手になぜ結論出すんでしょうね。
そういうことありますよね。
こうしたらいいと決めつけて
なぜ安心するのなぜかと思うんですよ。他人のことなのに。
自分はいつも分かってもらえない
勝手に決めつけられてると勘違いしてました。
こっちはそんな単純じゃないよとか
ここで傷ついてるのに
なぜ上から言えるのかと思うし
励ましというより切り捨てですよね。
自然だと思います。こういう気持ちになるのは。
次、楽しんでるのは
なんかここで楽しむとかないと
何のためにやってたのか分からなくから
楽しんでるように思い込もうとしてるようにしか見えないんですよ。
楽しんでるように見えて
実は楽しんでないように感じるんですね。
ここで楽しまないと
自分がやってきた意味が崩れる感じがしてしまうのかなって見えるんですよね。
自分の場合どうかっていうと
自分がやってきた意味が崩れるのは怖いですよね。
でも自分が誤魔化すのはもっと怖いですね。
だから義務感で楽しんでるんですよ。
演技をして自分を盛り上げてるんですよね。
怖いですね。演技をして自分を納得させようとしてるんだから。
自分を誤魔化して思い込ませようとするのは
もう切なすぎるから自分はやらないですね。
こうやって極端な人はこうなっちゃうんですよ。
ある程度楽しみ込ませるのはできるかもしれないけど。
では次。
幽霊怖いのに信じるのは死後の世界あると思いたいから。
人が悩むのは人生に意味があると思いたいからではないかという仮説を立ててみたり
こうやって自分は悩んでる
つまりこの世界は虚無でなく良い悪いがあると思えるんですよね。
あるいは悩みを重く見るというのは
人の苦しみに意味があると思いたいから。
もちろん悩むことにも理由がある。
意味の層があると思いたい心が悩むことにも理由があると感じさせていたり
24:04
悩みを見るのは苦しみに意味があると思いたいからというのもあると思うんですけど
でも全般的にその逆もしっかりで
意味はあると思いたくて悩んでるというところもあると思うんですよ。
では次。
良い悪いって考えるのはいけないと言っておきながら
虚無を認めない。
考えたこともないという世間の人たちに何なんだろうと思うんですよ。
良い悪いを口で言うのに虚無や虚しさを見ないふりをしているように見えるんですね。
日常を回すために深い哲学的な問いを避けているのもわかるんですけど
あとよくあるのが、これは虚無を見たくないから
道徳や正しさで埋めているという場合もあるだろうし
きれいな答えを決めてしまっているというのもあるだろうし
でもそうやって虚無を見ないで日常をたまっているんですよね。
良い悪いがないと生きづらいですからねやっぱり。
どうしても社会で生きるにはそういう空白があってはいけないんですよ。
次、食事中集中途切れさす何かがあってですね
とりあえずしっかり味わおうとすると味しっかり味わうだけではですね
それも切ないしというふうに虚無感が出てくるんですよ。
何とも説明し難い不快な感情になるんですね。虚無感ですよねでも。
食事中なのになぜか虚しさだけが立ち上がるんですよ。
ただしっかり味わうモードになって
いろんな余白とか気楽さがなくなって重く感じられるんですよね。
その結果食事がものすごく不快でしかなくなるんですよ。
あとちゃんと味わおうとすると自然さが消えるわけだしそれが起きるんでしょうね。
美味しいという感情がなくなるんでしょうね。
あとは味わうことが目的になってしまうというものもあるし
感覚が鋭くなる分虚しさも強くなるかもしれないし
まあでも他のことを集中してて虚しくなるでもありますねそれ。
自分は虚無に去ってますけど一応誤魔化して生きてますからね意味があると。
27:00
誤魔化してるわけだけど誤魔化してるだけなんだと気付いてしまうんですよ。
本当に感覚鋭くなってるのが理由なのかなと思いますけど。
まあでも感覚を引き締めた瞬間虚無も一緒に濃くなる感じなんですよね。
次ひこもりになって自己分析鮮明になったんですよね。
雑音が減って研ぎ澄まされて内側の声が出るからでしょうね。
これが一番先に思いつくことで
予定で意識がいっぱいだと外からのいろんな変化入力でいっぱいになるのもあるだろうし
外に意識が引っ張られるってことですよね。
日々を回すことで精一杯だし。
まあ暇ではないとはいえ
自分の後悔だったり恐れてるものこだわりみたいなのは見えやすくなるんでしょうね。
あと比較対象は減りますよね。
テレビを見るとはいえ比較対象は減るから
自分の癖、逆に見えづらくなりそうだけど見えやすくなるんですね。
あと感情の反応を観察しやすい。心を見ることができるってことですね。
まあ心なんてないから見てるつもりになってるんだろうけど。
その一方で思い込みも大きくなるからこそ自分のことを分析するのは
お分かりの通り悩ましき事態なんですよ。
では次。アニメ好きな人?
地球を生き残すのも壊すのも
人間になるようになるとするのも
何とかしなきゃとなるのも
人間はいつにせよ自己満足でしかないと思うんですね。
使命感で地球のためと言ってるけどなぜなら
なぜそう言うかというと
自分たちを別に攻めなくてもいいのに
攻めさせてるのも人の特徴だと思うんですよ。
自分たちが温暖感にしてるとか
そうやって自分たちを攻めるのも人間の特徴
だから勝手に壊して勝手に苦しんでるっていう
まあそれが人間の特徴。
動物の頂点に立って人はひどいという人いるけども
こういうやり方をするこの種の特徴というだけで
生物学的に良い悪いなんかないだろうし
こんな風に進化の過程でなっただけだと思うし
そこでですよ
地球が生き残すのも壊すのも
人間になるようになるとするのも
30:02
何とかしなきゃいけないとするのも
人間はいずれにせよ自己満足でしかなくて
使命感で地球のためと言ってるけども
勝手に使命感を抱いてるだけ
地球のためと言うより
人間が自分たちの生き方を正当化したり整えたりしてる面が大きいと思うんですよ。
地球が壊れては困ることはない
どの生物
生物学的に勝手に人間がかわいそうだと言ってるだけで
地球が壊れてはいけないっていうのは
人間の価値かなと思ってるんですよ
どうせ壊れるでしょって思うんですよ
マクロの時間の話だから
何百万年後か何十万年後かの違いであって
じゃあ次
心理学とかメンタルヘルス、精神学で
良く、良くなろうなんて
発想はないんですね
こうやっていろいろ
苦しくてもがきながらやってきた
身からすると
これだけ辛い思いをしてきて
これからもだろうけど
辛い思いをする
開き直りもせず、諦めもせず
救いにも逃げず
この状態を受け入れて
やる覚悟を持つ
以外やることはないと思うんですね
メンタル産業が掲げるんですよ
改善とか適応という安易なゴールよりも
はるかに強靭であると思ってるんですよ
でも強靭であるとは言っても
単なる聞き入れ事じゃなくて
実際にそれを生きてますからね
普通多くの人は
余りの蔓延に兼ね返って
宗教や思想あるいは
神談名という救いの
だから杖ですよね
を使うんですよね、そうやって
主導権は杖に奪われますよね
主導権なんて発想ないけども
主導権が奪われてると
奪われられますよね
宗教に逃げて
いや、本当に宗教の信者って
いろいろ勉強してるとですね
聞く話には
まあ本当に
妄心してしまうからこそ
もう流されて流されてどんどん
ひどい状態まで追いやられる人
ちょっと具体的には思い出せないんですけど
そういう人いるんですよ
散々してしまうとか
教祖に尽くして
家族の命が
亡くなってしまったりなんてことも
都市伝説か本とかは置いといて
ありますから、そういうこと
主導権奪われてますよね
33:03
で、神談名をつけて
自分はこういう病気なんだと思い込んで
あとは医者のされるがままという感じ
専門家の
言う通りになってしまう
では続き
トラウマのことで
新たなことに気づくことがあるんですよ
でもこれって
トラウマではないですよね
もちろん
医学的にはですね
トラウマという困難を経験した結果
以前よりも人間的に成長するっていう見方もあるだろうし
まさにこれ物語を書いちゃってるだろうと思うんだけど
だって
あと決めつけてしまうのが問題ですよね
あのトラウマがあってから
成長できたと
でも過去の出来事とそのまま変わらなくても
解釈が変わるってあると思うんですよ
でもこういう結構ポジティブなこともあるんですね
俯瞰してみれることによって
一歩を引いた視点で持てるとか
はありますよね
治療するってこういうことですよ
バラバラに
切り離された過去の記憶が
しっかり過去の出来事として全体像として見れる
これも完全に
さっき言った物語を書いてることにしかならないと思うんですけど
そこに勝手に意味を持たせますからね
勘弾トラウマではなかった
っていうか幻想ですよね
一つの出来事は断片でしかないのに
自分を苦しめているものとしか見えていなかった出来事が
別の角度で見れる
いやいや
過去自分を苦しめてきた人たちに対して
いい評価したって
やっぱり
一つの
トラウマを治す
誰にとってもいい方法なのかもしれないけど
いや結局
解釈を変えてるだけですよね
でもやっぱり出来事は変わらないわけですもんね
だから
苦しかったというのも解釈だけれども
それを変えようとすることでより強い解釈になってしまうんですよ
普通ですよ
事実だけを捉えるっていうのは無理だったと思うんですよ
それなら私も
普通
36:00
隙に行きますよ基本は
自分が苦しめてるわけですからこれを何とかしよう
事実だけを見ようとしたら
プラスに捉えようとしますよ
PTSDの人たちに
物語にしてきれいごとだとしてしまって
何の解決にもならないし
意味付けしてもそれは幻想だと気づいてしまったら
この人たちどうなるかって話ですよ
人ごとみたいな言い方をしましたけど自分は人ごとですよ
そんな過去のトラウマ
バラバラに切り離されてた記憶とか感情
自分という物語の中で
位置づけられたことなんてないですし
それを羨ましい状態だとは思わないし
さっきの話に戻るんですけど
今の状態を受け入れる
アルガママを受け入れるっていうのは
世間ではですね穏やかに流される
アルガママを受け入れるっていうのは
穏やかに流されるっていうのは
柔らかいイメージであると思うんですよ
でも自分は戦闘モードですから
この辛さは絶対に消えないし
状況も良くならない
でもそれを含めてここから先も
このまま状態やってやるっていう思いなんですよ
でもトラウマがあったから
以前とは違う別の次元に自分が進んでる
っていうプラスに捉えるのは
絶対やめた方がいいと思うんですよね
自分への教訓というか理解できないんですよ
何なんだこの捉え方と思うんですよ
でも次スマホをいじってるとですね
眠くならないんですね
で理屈抜きでどうにかなるんではないかって
不安になってくるんですよ
覚醒モードになっちゃってるんですね
違和感しかないんですよ
それが不安に繋がるんですね
あとオーパミンという
報酬物質が出てることにもなるし
ネットを見ること自体もそうだし
ただですね自分は夜間モードにしてるから
ブルーライトなんて出てないわけですよ
よく言われますよねブルーライト出てる
あまり良くないとかどうに良くないとか
まぁ少しとはいえ嫌なんですね
で次の話
15分しか録音できてなかったんですねこの前
いつも通りのはずだし
時間の間隔でおかしいのかなと思ったんですね
いつも通りやってるはずなのに
短いデータにしかなってない
没入しすぎたで進めばいい話だけど
1時間ぐらいに感じるんですね
だから自分はですね
集中極度に集中すると時間の推移を
39:02
見ととれなくなるんですよ
でいつも同じ空間で録音同じような話をしてますし
それによって時間に対する意識が弱まってしまうんでしょうね
で十分録れたって感じがしてしまったんですよ
では次
入試が倍率高かったのに
高校入試ですけど
神経質だったのに不安出なかった
これも疑問なんですよ
もちろん神経がずぶといわけでも無神経なわけでもないんですよね
あまりにも不安すぎて
麻痺していたか
でも学生時代はですね
いつも自分がもう
生まれつきも神経質な性格ですから相当
不安になりやすい性格なんで
いつも映画を見てるような感じ
現実と自分との間にフィルターをかけてるような感じ
ちょっと受け入れ方すぎて
そうなってた
では次
辛くて精神の揺れがある時って
揺れたままで
救いを求めるから
必要以上に何でもできると思ってしまうんですよ
これさえ乗り越えれば全てが変わるという
強い万能感になってしまうんですよ
心の揺れ
を別のエネルギーで
埋め合わせしようとしてるんですよね
精神が揺れてる時に
大きな穴が
開いてるような感覚になってるの
なってるわけですよね
ある一定の
以上の揺れを感じてる時
空虚感や痛みに耐えがたいわけですよ
この救いがあれば
何でも自分はできるみたいな感覚
何ができるってわけじゃないけども
何かわかんないけど
これでも自由だし何でもできるって
感覚になっちゃうんですよ
無力感とか
精神の揺れで何もできないって
自分もそういうことあるんですよ普段
体調が悪いだけなんですけど
それと背中合わせなんですね
だから救いに逃げるって怖いんですよね
でも
自分の場合だと
例えば体調
別に変わらないわけですよ
それでも
そうやって体調が悪いのに
何でもできる気になって
空回りってことをしたことは
記憶上ないですけど
多分あったと思いますね
でも誰でもあるはずだと思うんですよ
無力感で自分は不安定で苦しいという時に
逆に何でもできるって思っちゃうことは
42:00
極端な思考を選んでしまうんですね
次
自分からしてみればですね
みんな切なしに見えてくるんですよ
頭の9割がこの1ヶ月のことしか
考えてないと思うんですよね
この1ヶ月をベースに生きている
ほぼほぼ
さっきのことを考えてないように感じて
自分は同じぐらいの
スペースをですね
1年後だったり
10年後にされてるわけですよ
重みとしては同じわけです
時間的にはまあ
今日1日のことはもちろん考えてますけど
というか目の前のことしか考えないんですよね
普通
でも目の前の行動は
1年後2年後のことを考慮して
の行動がほとんどなんですよ
あと何か始めるとですね
休憩できなくなるんですね
休み休みやらないから
追い込みすぎてるのも
わかってはいるんですけど
休み休みでやるってことは
もう高度な技術にしか見えないんですね
マラソンランナーで言うと
出発してるほうが絶対楽なんですよ
自分としては
まあもちろんそんなんじゃ
完走できないんですけど
もう終わらせるまで止まってはいけないっていう
脅迫関連じめた
というかもう
あと
そういうスイッチになると
没頭してしまうんですね
やりたいことでもやりたくないことでも
だからフォトキャストで英語回撮ってると
休まないんですよ自分は
この前休んでみたら
いかに卒業が楽かってわかりました
筋トレも確かにそうなんですよ
休んでしまうと逆に
自分としては不自分だなと思ってしまうくらい
負荷が減っちゃうんですね
だからいつも思うんですよ
人間にとって一番辛いのって
やっぱり
継続することだなと思うんですよ
ある意味で
まあ終わりが見えない作業を
日常的にやってますからね
この家にいるのもそうだし
いつ出れるかわかんないし
まあそういう身につけてしまったら
悪い癖なのかもしれないし
休んじゃうと
楽を覚えちゃう気がしたんだよな
だから一回没頭し始めたら
そのまま集中した方がいいと思ってしまう
体の摂理というものは
わからないで続けてしまうんですよ
だから連続性を大切にしてしまうんですね
必要以上に
普通は作業モードと休息モードが
グラデーションになってるんですよ
自分はゼロが厄介なんで
休息になると
もう一回できなくなってしまう気がするんです
そういうこと実際あります
元に戻れないこと
ちなみにこの前英語を書いておいてて
いつもやらないことはやらないほうがいいもんですね
45:01
いろいろと問題一つ二つあったんですよ
それで
二度と休憩なんかしないとと思いました
だから休憩するのが
いつも通りになればいいんですけど
それで
小手先のことで生きやすくしよう
っていう感覚はあんまりないんですね
あと小手先のやり方よりも
自然な今までのやり方を重視するんですけど
その一方で
効率化を図って急に変えだしたりもするんですよ
あと
休むことを
怠慢に
感じてしまうんですね
これ宗教時代の脅迫観念ですね
だから
完成させることじゃなくて
その状態を維持させることが
もう目的になってしまうから休めれないんです
では次
自己啓発に
せずえしてるから
役に立つかどうかっていう
判断しないんですね
でも切な的かどうかで言うと
将来につながるかどうかで見てるんですよ
情報を入れたら普通
でですね
では次行きますか
絶望にいると波は強いが
何よりも人にとって
安心できるものだと思うんですよ
こうやって辛いけども
こうやって生きてるんだっていう
自分に酔ったり希望を持ってる
光を見ながら
そうしてるような感じだと思うんですね
だから波の強さがある分
虚無にいる自分なんかよりも
生きてるという手触りがあるんですよ
もがきながら
自分を見つめてるような状態
そんなもがいてる自分をめでてる
希望を重ねて
右往左往してる状態だと思うんですよ
だからいつも言ってるように
絶望してる人って
まだ
まだ余裕があるというか
例えば
絶望の底にいたとしても
まだ取り柄があるんですよ
では次
虚無には人間見に
人間見とは人間らしさがないから
世間の人は震え上がる
だと思うんですね
生きてかこうしなくなると思うんですよ
世間の人にとって
人間らしさっていうのは何かを考え
意味を思い出すっていう
ものとセットになってるんですね
自分で何らかの価値があるとか
明日は今日より良くなる
今日やってることは必ず未来につながるとか
それがなくなってしまうと
自分という存在が
透明化されてしまうわけになるわけですよ
価値が見出せないわけですよね
だから人間らしさっていうのは
感じれなくなるんですよ
自分は人間らしさよりも
壊れないことを
選び続けてるってことですね
選んでる感覚もないですけど
48:02
自分にとっては
生きるイコール虚無にいることなんで
普通虚無に
震えて
震え上がるっていうのは
虚無に耐性がないんですよね
虚無にいる時間なんてほぼないんですよ
たまに怪異的になるだけで
普通は物語に酔ってるんですよね
次
たらればっていうのは
これからのために
使わないということですよ
後悔のループではなくて
未来のシミュレーションとして
使うのであれば
試行実験だし戦略になるし
でも大抵はたらればって
ああすればよかったっていう
出口のない反省になってしまうんですよね
だから過去を未来の
素材にしてしまう
道具にしてしまう
っていうことですね
大事なデータにする
でもそれに悔やむ時間に
かかってしまう
でもああしてたらどうかなとか
そういう試行実験をする
っていうこと
自分は自然としてるかもしれないですね
一つのルートを歩みながら
別のルート
つまりたらればを走らせていく
ってことはあるかもしれないです
では次
精神に対して医学とかスピリチュアルとか
違う興味の持ち方がしてるんですね
自分は
単なる脳の機能という
物理に回収することもなく
自分の脳には
自分の脳の機能が
何かを打ち込んで
補助して
補助させる
っていう
自分が
考えたいこと
ってことは
補助させる
観察をしたいんですね
あと医学やスピリチュアルは人間は幸福であるべきだとか
人間はつくられるべきだという前提を持ってますけど
自分はそんな前提はないわけです
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