サマリー
このエピソードでは、水城真琴による5つのショートショートが朗読されます。記憶を買い取る不思議な店「忘却堂」に通い、やがて感情を失っていく男の物語。新しい弟をカタログから選ぶ少年が、家族の秘密に気づく皮肉な話。完璧な豪邸に忍び込んだベテラン泥棒が、実は防犯システムの実験台だったという顛末。人類を完全に幸福にする装置を発明した博士が、自らその犠牲となる悲劇。そして、一年中夏を過ごせるシステムを手に入れた女性が、周囲から孤立していく様子が描かれています。
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水城真琴のショートショート
忘却堂
N氏は、上司に怒鳴られた日、忘却堂へ行った。
恋人に振られた夜も忘却堂へ行った。
借金の特速場が届いた朝も忘却堂へ行った。
店主はいつも同じ調子で迎えてくれた。
年齢不詳の物腰の柔らかい人物で、
椅子のすがり心地から装置を額に当てる角度まで、
細やかに気を配ってくれる。
痛みはございませんので、ご安心を。
その一言も、いつしかN氏にとって、
心を落ち着かせる呪文のようになっていた。
その度に財布は膨らみ、心は軽くなった。
こんな便利な店、もっと早く知りたかったよ。
N氏はそう言って足しげく通うようになった。
やがて気づく、
嫌な記憶より平凡な記憶の方が実は高く売れるということに、
今日の昼食、電車で見た景色、同僚との雑談、
そんなものにも店主は驚くほどの根を付けた。
ある日など、休日の広下がり、
特に何をするでもなく、
ベランデで過ごした30分を持ち込んだところ、
これまでで最高値がついた。
N氏は首をかしげながらも、
その日以来、意識して何気ない一日を過ごすようになっていった。
なぜです?こんなつまらない記憶に。
N氏が尋ねると、店主は微笑んだ。
お客様、つまらない記憶ほど実は貴重なのですよ。
N氏は納得しなかったが、金になるならそれでいいと思った。
売って、忘れて、また稼ぐ。
そのうち何を売ったのかさえ思い出せなくなったが、
それもまた好都合だった。
忘れたことすら忘れられるのだから。
1年後、N氏はちょっとした思惨感になっていた。
忘却堂に売った記憶の量は、もはや自分でも把握できないほどだった。
周囲は彼を悩みのない穏やかな人と評した。
何を言われても怒らず、何を見ても驚かず、
いつも泣いた顔をしていた。
同僚たちはそんなN氏を人格者と呼び、
部下からの相談ごともいつしか彼のもとに集まるようになっていた。
ある日、後輩がN氏に尋ねた。
Nさんは人生で一番幸せだった思い出は何ですか?
N氏は少し考えて答えた。
さあ、特にないな。
後輩は笑った。謙遜だと思ったのだ。
その夜、忘却堂の奥の部屋では、店主が今日の仕入れを棚に並べていた。
手つきは丁寧で、大切な収穫物を扱うかのようだった。
ラベルには貴重面な字でこう書かれている。
N氏、34歳分、良質。
棚には同じような瓶が何百も並んでいた。
透明な霞のようなものがゆらゆらと揺れている。
店主は瓶の一つを手に取り、愛おしそうに眺めた。
彼らの故郷ではこれほど濃密な感情は取れない。
人間という生き物は、痛みも喜びも惜しみなく差し出してくれる。
しかも対価さえ払えば、自ら進んで。
しかも記憶を差し出すたびに、また新しい記憶をけなげに積み重ねていく。
まさに尽きることのない資源だった。
こんなに効率のいい牧場を彼らは他に知らなかった。
窓の外では、縁氏が今日も静かに歩いていた。
悩みのない穏やかな顔で、空っぽの器のような穏やかな顔で。
弟のカタログ
ケンジは8歳になっても一人っ子だった。
友達の家には当たり前のように兄や姉、弟や妹がいる。
それがケンジにはずっと羨ましかった。
お父さん、僕弟が欲しい。
ある晩ケンジがそう言うと、父はテーブルの引き出しから一冊の分厚いカタログを取り出した。
表紙にはこう書かれている。
ファミリープラス増員カタログ。
え、これで弟が買えるの?
ケンジは思わず声を弾ませた。
買うっていうか、まあそんなようなものだ。
ページを見くると様々な少年の写真が並んでいた。
それぞれに性格、趣味、身長、性能が細かく記されている。
瞳ひりタイプ、スポーツ万能タイプ、甘えん坊タイプ。
迷いに迷ってケンジはページを何度も行ったり来たりした。
父は急かすことなく隣でじっと待っていてくれた。
ケンジは目を輝かせて一番気に入った一体を選んだ。
にっこり笑った優しそうな顔の男の子だった。
一週間後、大きな箱が家に届いた。
中から出てきたのは写真とそっくりの少年だった。
弟は最初からケンジのことをお兄ちゃんと呼んだ。
弟は素晴らしい弟だった。
ケンジの好きなゲームをいつも一緒にやりたかった。
ケンジが疲れているときはそっと寄り添ってくれた。
ケンカなんて一度もしなかった。
夜眠れないときには隣のベッドからそっと手を伸ばしてくれた。
学校で嫌なことがあった日も弟は何も聞かずにただただ黙って隣にいてくれた。
ケンジは満足だった。しばらくは。
だがあるとき近所の家でこんな会話を耳にした。
うちの息子、最近わがままが増えてね。そろそろ交換の時期かしら。
うちもこないだ初期モデルを返品したのよ。倉庫からトラックが来てね。
ケンジは意味がわからず首をかしげた。
交換も初期モデルも大人たちが使う言葉にしてはなんだか妙に事務的だった。
母に聞いてみようとしたが何となく聞いてはいけない気がして結局口をつぐんだ。
ある日曜日ケンジは弟と一緒に公園行く途中大きなトラックとすれ違った。
荷台にはたくさんの空き箱が積まれている。
箱には見覚えのある子供服がぐったりと詰め込まれていた。
お兄ちゃんあれ何?
さあケンジはなんとなくうなさわぎがした。
その夜ケンジは両親の話し声で目が覚めた。
寝室の扉の隙間から声が漏れてくる。
そろそろケンジも9年目の見直し時期じゃないか。
そうね最近口応えが増えたし。
新しいカタログまた届いてたよな。
あら今年のモデルは反抗期がないんですっていいわね。
ケンジは布団の中でじっと動かなかった。
心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
隣では弟がいつもと変わらない寝息を立てていた。
何も知らないその穏やかな寝顔をケンジはしばらく見つめていた。
翌朝ケンジはいつものように起きていつものように朝ごはんを食べた。
弟が隣でニコニコ笑いながらパンをかじっている。
お兄ちゃん今日も一緒に遊ぼうね。
うん。
ケンジは答えながらテーブルの隅に置かれた分厚いカタログをちらりと見た。
表紙には新しいゴーダという示す帯が巻かれている。
今月号好評発売中。
ケンジはそれ以上何も考えないことにした。
考えたところで返品されるまでの日数が変わるわけではないのだから。
窓の外では今日もどこかで大きなトラックが静かに走っていた。
乗客
上客
男はこの道20年のベテランドロボだった。
腕には自信がありこれまで一度も警察の世話になったことはなかった。
下見をした豪邸に忍び込んだ。
塀を越え窓の鍵を外し足音を殺して廊下を進む。
分厚い絨毯が足音をさらに吸い込んでくれる。
長年の勘がこう告げていた。
ここはいい仕事になる。
その予感はいつも大抵当たった。
案の定寝室の奥に金庫があった。
男はダイヤルに手をかけそこで拍子抜けした。
鍵がかかっていなかったのだ。
中にはきれいに束ねられた札束とビロードの箱に納められた宝石が並んでいる。
まるで誰かが陳列してくれたかのように。
妙だな。
長年の勘が今度は別の警報を鳴らした。
だが欲のほうが勝った。
男は袋に次々と品物を詰め込んでいった。
手が震えるほどの常物ばかりでこんな夜はこれまでの二十年でもそう何度もなかった。
ふと金庫の脇に一枚のメモが置かれていることに気づいた。
貴重面な字でこう書かれている。
本日はお越しいただき誠にありがとうございます。
多くのワインセラーもぜひご覧ください。
男は眉を潜めた。
歓迎されている。
薄気味悪さを感じつつも男はワインセラーにも立ち寄った。
案の定一番高級そうなボトルが扇を開けた状態で置かれていた。
まるで味見しやすいように。
試しに一口含んでみるとこれまで飲んだどんな酒よりも芳醇な香りが鼻を抜けた。
結局その夜男はかつてない量の獲物を手に悠々と屋敷を後にした。
警報も鳴らず犬も吠えずパトカーのサイレンすら聞こえなかった。
今夜は本当に当たりの日だったな。
男はほくほくと顔で家路に着いた。
夜風がいつになく心地よかった。
3日後その豪天の持ち主保険会社の重役は社内会議でこう報告していた。
役員たちはモニターに映る映像を身を乗り出すように見つめていた。
例の実証実験完璧に成功しました。
監視カメラには侵入から禁品の選び方、逃走経路まで全てが自然な形で記録されています。
部下の一人が尋ねた。
本物の泥棒を使う必要本当にあったんですか。
役者でもよかったのでは。
素人の演技じゃあの動きは出せませんよ。
プロだからこそ本物の怖さが取れる。
数週間後新しい防犯システムのCMが全国のテレビで流れ始めた。
画面には暗い廊下を進む男のシルエットと金庫を物色する後ろ姿が映し出されている。
緊迫感のある音楽とともにナレーションが不安を煽る。
あなたの家本当に安全ですか。
男はその日たまたまテレビをつけていて自分の背中にビューボーイがあることに気づいた。
心臓がドクンと大きく跳ねた。
まさかと思いながらも画面から目が離せなかった。
もちろん顔は映っていない。声も出ていない。
だがあの独特の忍び足の癖だけは確かに自分のものだった。
長年かけて身につけた誰にも真似できないはずの歩き方だった。
男はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
文句を言うにも警察に相談するわけにもいかない。
結局その日を境に男は忍び込みの仕事をきっぱりとやめた。
20年かけて積み上げてきた技術ももう誰かの宣伝映像に使われているのかと思うと急に虚しくなってしまったのだ。
あの家だけは二度と近づかないと心に決めながら、
せめて物意地で男はテレビを消し静かにカーテンを閉めた。
長年の相棒だった黒い道具袋もその夜静かに押し入れの奥へとしまい込んだ。
幸福発生装置
幸福発生装置
M博士は生涯をかけて一つのことだけを研究していた。
人間を完全に幸福にする方法。
子供の頃貧しさゆえに家族が笑うことの少ない家庭で育ったM博士にとって切実の問いだった。
同僚たちはそんなものは夢物語だと笑った。
だがM博士は諦めなかった。
40年間誰とも結婚せず誰とも遊ばずただ研究室にこもり続けた。
そしてそれはついに完成した。
長い研究生活の末M博士の目は充血しながらも確かな達成感に輝いていた。
装置の名は幸福発生装置。
頭にかぶるヘルメットの機械で脳に微弱な電流を流し、
あらゆる不安、悲しみ、苦しみを取り除き、
代わりにこの上ない多幸感で満たす。
設計図には何度も書き直された跡が無数に残されていた。
M博士は記者会見を開いた。
これで人類からあらゆる不幸が消えます。
会場はどよめきに包まれた。
フラッシュが一斉にたかれ質問が飛び交った。
長年の孤独な研究生活がようやく報われた瞬間だった。
国はすぐに興味を示した。
量産化の話が持ち上がり予算がついた。
世界中のメディアが押し寄せた。
博士、本当に安全なんですか?
記者の一人がそう尋ねた。
会場の空気が一瞬張り詰めた。
M博士は少し考えて、こう答えた。
安全性を証明する一番確実な方法があります。
その夜、M博士は誰もいない研究室で装置を自分の頭にかぶった。
40年間の孤独と苦労に、そろそろ終止符を打ってもいいだろうと思った。
スイッチを入れた瞬間、M博士の顔に見たこともないような穏やかな笑みが広がった。
翌朝、女子たちが研究室に来ると、M博士は椅子に座ったままニコニコと微笑んでいた。
博士、結果はどうでしたか?
M博士は答えなかった。ただ、笑い続けていた。
博士?
何を聞いてもM博士は笑うばかりだった。
食事を運んでも、名前を呼んでも、肩を揺すっても、あの満ち足りた笑顔が崩れることはなかった。
長年苦楽を共にしてきた女子の一人は、その様子を見て思わず涙ぐんだ。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、自分でもわからなかった。
女子たちは慌てて医師を呼んだ。
医師は診察の末、こう告げた。
脳波は極めて安定しています。おそらくこれ以上ないほどの幸福状態です。
では、治るんですか?
治すとはどういう意味でしょう。
人類史上最も幸福な人間なんですよ。
結局、装置の量産計画は中止になった。
安全性に懸念ありという当たり障りのない理由で。
あれほど熱を上げていたメディアも、潮が引くように興味を失っていった。
M博士は療養施設に移され、窓際のベッドで今も静かに微笑み続けている。
見舞いに来る者は年々減っていった。
それでも博士の顔からは一度も笑みが消えることはなかった。
カレンダーがめぐられ、季節がめぐっても、その表情だけはあの夜のまま、時が止まっていた。
数年後、その施設を見学に来た若い研究員が、簡易版の装置を持ち帰った。
効果を弱め、リラックス効果のある安眠グッズとして売り出すと、これが静かにヒットした。
パッケージには穏やかに微笑む人物のイラストが描かれ、店頭では疲れた顔の会社員たちが次々と手に取っていった。
商品にはこんなキャッチコピーが付いていた。
毎日を笑顔で。
開発者の名前はどこにも書かれていなかった。
誰もそれを不思議に思う者はいなかった。
棚に並んだそのパッケージは、今日もどこかのレジで静かに会計を待っていた。
永遠の夏
女は夏が大好きだった。
毎年9月に入ると気がめいった。
蝉の声が途切れ、風が涼しくなるたび、何か大切なものが終わっていくような気がしてならなかった。
半袖が着られなくなる、あの季節の変わり目が女はいつも苦手だった。
コートを着込む人々を横目に、まだ夏を惜しんでいるのは自分だけのような気がしていた。
そんな女が見つけたのが、パーソナル真夏システムという新商品だった。
小型の装置を身につけるだけで、常に体の周囲だけ心地よい真夏の気候を再現してくれるという。
気温はおよそ27度。
真夏の炎天下のような猛暑ではなく、日陰でそよ風が吹いているような過ごしやすい暖かさだった。
紫外線は一切出さない設計らしく、日焼けの心配もない。
耳元には控えめにセミの声が流れる。
これさえあれば一年中夏でいられる。
女は迷わず購入した。
届いた小さな端末をネックレスのように首から下げるだけ。
設定画面には気候をこと細かに調整できる項目が並んでいたが、女が選ぶのはいつも同じ数値だった。
それだけで半径1メートルほどの空間が常にあの心地よい真夏の空気に包まれた。
効果は絶大だった。
真冬でも女の周りだけはふんわりと暖かい空気が漂っている。
会う人ごとに、その格好で寒くないの?と驚かれ、女は誇らしい気持ちになった。
半袖のワンピースにサンダルという格好で雪の街を平然と歩く自分の姿が女はどこか気に入っていた。
だが次第に周囲の反応が変わっていった。
なんか近くにいると変な感じがするんだよね。
同僚たちは女のデスクに近づきたがらなくなった。
理由ははっきりしていた。
女の周辺だけ湿度が上がり、大事な書類が湿気でふにゃりと波打ってしまう。
空調は女のデスク付近だけが機器が悪く、総務からはその一角だけ湿温が異常ですとたびたび注意が入った。
オンライン会議中には控えめなセミの声がマイクに拾われ、
今何か鳴っていませんか?と何度も聞き返された。
会議室では女の隣の席だけがいつも最後まで空いていた。
恋人にも距離を置かれた。
一緒に寝ていると暑くて目が覚めちゃうんだよ。手を繋ぐのも正直ちょっと汗ばむし。
彼はそう言って静かに去っていった。
冬の楽しみだったはずの鍋やこたつでの昼寝も女の周りだけ妙に暖かいせいでどこか味気ないものとなっていた。
付き合っていた頃、女の隣にいるだけでまるで一年中南国にいるようだと最初は喜んでくれていたはずだった。
友人たちも少しずつ離れていった。
冬に写真撮るとあなたの周りだけ服装が浮くからちょっと気まずいんだよね。
みんなで冷えたドリンクを飲んでてもあなたの分だけすぐぬるくなるし。
理由はみんな似たようなものだった。
女は寂しさを覚えなかったわけではない。
だが掃除を外すという選択肢はなぜか一度も頭に浮かばなかった。
数年後、女が勤めていた会社は経営縮小によりオフィスを縮小移転した。
がらんとした旧オフィスに女一人だけが最後まで残っていた。
荷物をまとめる同僚たちは最後まで女に手伝いを頼むことはなかった。
誰もいなくなった部屋の窓際で女はビーチチェを広げ麦わら帽子をかぶり直した。
掃除から流れる蝉の声だけが静かに響いている。
窓の外にはビル風が吹き荒れているはずなのにこの一角だけは変わらず穏やかな夏の空気に満ちていた。
女は目を細め満足げにつぶやいた。
今日もちょうどいい夏日より。
窓の外では粉雪が静かに降り始めていた。
誰に見せるでもない麦わら帽子の下で女は久しぶりに心の底からくつろいでいた。
半袖から伸びた腕はあの頃と変わらず日に焼けることもなく白いままだった。
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