イエスへの告発とピラトの尋問
それでは、朗読します。ヨハネの福音書、18章28節から40節です。
さて、彼らはイエスをカヤバの下から総督官邸に連れて行った。 明け方のことであった。
彼らは過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。
それでピラトは外に出て、彼らのところに来ていった。 この人に対して何を告発するのか。
彼らは答えた。 この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。
そこでピラトは言った。 お前たちがこの人を引き取り、自分たちの律法に従って裁くがよい。
ユダヤ人たちは言った。 私たちは誰も死刑にすることが許されていません。
これはイエスがどのような死に方をするかを示して、言われた言葉が成就するためであった。
そこでピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで行った。
あなたはユダヤ人の王なのか。 イエスは答えられた。
あなたはそのことを自分で言っているのですか。 それとも私のことを他の人々があなたに話したのですか。
ピラトは答えた。 私はユダヤ人なのか。
あなたの同胞と最首長たちがあなたを私に引き渡したのだ。 あなたは何をしたのか。
イエスは答えられた。 私は、私の国はこの世のものではありません。
もしこの世のものであったら、私の下部たちが私をユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。
しかし事実、私の国はこの世のものではありません。
そこでピラトはイエスに言った。 それではあなたは王なのか。 イエスは答えられた。
私が王であることはあなたの言う通りです。
私は真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。
真理に属する者は御名、私の声に聞き従います。
ピラトはイエスに言った。 真理とは何なのか。
こう言ってから再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。
私はあの人に何の罪も認めない。
過越の祭りでは、誰か一人をお前たちのために釈放する習わしがある。
お前たちはユダヤ人の王を釈放することを望むか。
すると彼らは再び大声を上げて、その人ではなくバラバをと言った。
バラバは強盗であった。
以上です。
イエスの国の性質:武力を行使しない平和の君
今日はこのところから、イエスの国と王権と題して見事場からお話をいたします。
皆さんおはようございます。
今日は7月19日で本当に暑い日となりましたね。
まだ関東地方は梅雨が上げていませんけど、大体例年はですね、7月19日頃梅雨明けするということです。
そんな暑い中ですね。
今日は連休中で駅でいっぱい人が待ってて、暑い中どこ行くんだろうなんてね、話したんですけど。
私たちもね、暑い中こうやって教会に集まって本当に幸いな人、お互いだと思っております。
さあ、そんな真夜中はここまでにしまして。
今日はですね、イエス様とピラトのやり取りを中心に見ていきます。
実は今日のところではですね、ピラトとユダヤ人たちのやり取りが最初と最後の部分に出てきます。
そしてそのやり取りからわかることは、イエス様にはですね、ピラトが見るローマの法によって死刑にされるべき罪がないということなんですね。
今日の最後の方の部分ではユダヤ人に対してピラトは、私はあの人に何の罪も認めないと宣言しています。
まあ、別訳ではあの人には有罪とする理由がない。
今日の冒頭の部分では、どんな罪で彼を告白するのかとピラトがユダヤ人に聞いてもですね、
まあ、奇弁を使ってですね、この罪と言わないで、いや罪がなかったらこの男を訴えなかったと言って、誤魔化している。
そのところからイエス様に罪がなかったことがわかるわけです。
ちょっと迷い長くなりますけども、それはそれとしましてですね、
今日のところでですね、イエス様の国という、私の国ということを今日中心に見ていきますが、
彼が言う国とはですね、ギリシャ語のバシデイヤという言葉で、それは国家という領域を表しますけれども、もうちょっと豊かな意味で、
その人が持っている王権ですね、権威、主権というものもこのバシデイヤという言葉に表れています。
だからその両面を考えながら、今日三つの点から見ていきたいと思います。
イエス様の御国はどんなところで、イエス様は王として何をしにこの地に来たのか、そしてそれにどう答えるかってことを見ていきます。
一番最初、イエス様の御国、それは武力行使をしない国だって言うんですね。
18章36節でピラトに答え、イエス様はこう言っています。
イエスは答えられた。私の国はこの世のものではありません。赤いところだけ読んでみましょう。
もしこの世のものであったら、私のしのべたちが私をユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。
しかし事実、私の国はこの世のものではありません。と繰り返しイエス様は言っています。
このようにイエス様はですね、御自分の国とか王権はこの世で一般的に考えられるものとは全く違うと断言しています。
その著しい違いは何かというと、いわゆる武力行使をしないという点ですね。
そしてその最大の証拠として、まさに神の国の王であるイエス様が逮捕されようとしても、
イエス様は天の御使いの軍勢を呼び寄せてですね、逮捕を阻止するということをしなかったわけです。
今ね、毎日のニュース、今朝もやってましたけども、大国の武力行使について話題になっていますよね。
そして国を守るため、あるいは他国を攻撃するための軍備のこともですね、
いろいろな新聞やネットやまたテレビの中でもニュースでもそういう情報が光っておりますね、賛否も含めて。
そんな世の中ですけれども、イエス様はですね、それに反してついこの間見ましたが、
自分を逮捕しに来た人たちを守るために、ペトロはどうしましたか?
脇刺しを抜いて、坂本龍馬を斬ったのは桂早之助だとか言われているかもしれません。
私見たんですよ、その刀ね。
まあそれは別として、ペトロは脇刺しを抜いて、イエス様を逮捕しに来た神殿警察の役人の耳を斬ったわけですよね。
しかしイエス様はそれを制した。
そこにまさにイエス様の御国や法権はこの世のものとは違う。
たとえ自分のいのちが危うくなっても、武力行使はしないということが明らかになっているわけですね。
イエス様に向かって来た人たちはローマの軍勢でしたね。
そして神殿警察隊でした。
先ほども言いましたが、天の軍勢を呼び寄せればですね、そういうものも一掃できたはずですが、イエス様はそんなことしなかった。
このようにイエス様の御国も、イエス様の法権もこの世とは著しく違う。
まさにそのことが、旧約聖書のメシア預言に記されていますね。
一人の緑子、赤子が私たちのために生まれる。
一人の男の子が私たちに与えられる。
ここから最後まで読んでみましょうか。
主権はその方にあり、その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。
この平和の君ですよね。
ヘンデルのメサイアなんかでもね、プリンス・オブ・ピース、サン・ノブ・ガード。
美しいコーラスがありますが、まさに平和の君、プリンス・オブ・ピース、平和の王がイエス様だ。
そしてそのイエス様、ご自身が成し遂げた十字架の技、平和の技についてパウロは後にエペソビトの手紙の中でこう書いています。
2章の14節から15節ですね。読んでみますね。
実にキリストこそ私たちの平和です。
ちょっと長いですが頑張って読んでみましょうか。
キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵を打ち壊し、様々な規定からなる戒めの律法を破棄されました。
少し難しいんですけども、ご自分の肉においてというのは、十字架の死によって隔ての壁である敵を打ち壊した。
そのようなイエス様の十字架がまさにイエス様の平和の君、平和の王としての証だ、御業だということがわかるわけです。
一番最初はイエス様はまさにユダヤ人の王、この世界の王ですけども、武力行使をしない平和の君だということを覚えておきましょう。
イエスの王としての使命:真理を明かす
二番目、そのじゃあイエス様は何のためにこの世に来られたのか?
それは二番目、真理を証しする王、真理を証しする王権だ、それを行使するために来たということですね。
そこでピラトはイエスに言った。
それではあなたは王なのか?
イエスは答えられた。
私が王であることはあなたの言う通りです。
私は真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。
ピラトとイエス様のやり取りというのは、ちょっと許容として言っておきますけど、
ヨハネンの福音書にだけにある珍しい箇所なんです。
また今でもルカにある。
そしてそこでイエス様の王権、王国とは何かということが告げられています。
ちょっと言いませんでしたけど、今日の箇所の難しいところの一つにですね、
ピラトに対してイエス様が、あなたが私のことをユダヤ人の王と言っているのは、
あなたが言ったのか?他の誰かが言ったのか?ということでね、ピラトが。
私はユダヤ人なのか?って怒ったのはなぜかというと、
自分が軽蔑している、私はローマ人だという誇りがあって、
あのようなユダヤ人のようなものではない。
だからあいつらが信じるようには信じないんだということ。
そういう意味で軽蔑した発言としてですね、
俺はユダヤ人なのか?と言っているんですね。
で、じゃあなぜユダヤ人の王だったら、
蔡首長たちがもてはやすのにお前を訴えているのか?
それを知りたくてですね、
ピラトはお前たちの間に一体何があるんだ?ということを今日聞いているんですね。
そういうやりとりの中で、もう一回ヘロでピラトは、
お前は本当にユダヤ人の王なのか?と言った時にイエス様が来た。
こう答えた。
イエス様はこの世に生まれたと自分が言ってですね、
その目的は真理を証しするためだと言うんですね。
最初の点ではですね、
のと違うという否定的な方面から、
イエス様の王権と王国を説明しましたが、
ここではこれだと言って、
肯定的な面から、
イエス様は自分の御国や王権について説明しているんですね。
まさに真理を明らかにするという特別な使いのち、
いわゆるマニフェストはそれだって言うんですね。
よく政治家が立候補すると、
マニフェストとかね、政権公約ってしますよね。
そして、政権を取った暁にはその公約を守るべきだ。
政権という言葉をね、
新明界の時点で調べたら、
政権にはこういう意味があるって言うんですね。
国の政治を行う権力。
政権っていうのは権力なんだ。
それは国の政治を行うための権力なんだ。
話題になってますけどね、日本の。
で、何のためかっていうと、
公約を実現するためであって、
誰のためかと言えば、
それは国民のためなんじゃないかと普通考えるわけですね。
で、そういうイエス様の政権と言いますか、
この力が、王権があります。
でもイエス様がこの地に下られた、
イエス様の王としての公約は何かというと、
神様についての真理を明かすこと。
それがイエス様の政権公約だったんですね。
その目指すところは、
信じる人が救われることだとイエス様はここで言ってるんです。
真理という言葉は、
ヨハネの福音書で特徴的ですよね。
この方に恵みと誠があったの。
誠はですね、真理です。
私は道であり真理でありいのちですの真理もそうです。
ギリシャ語ではアレーセイヤと言いまして、
真理、誠、あるいは真実、
そういうものや状態を表す。
とにかくイエス様は、
目に見えない神様の真理を人々に明らかにするために、
人となって生まれたと仰っています。
一つですね、ここで確認するべきことがあるんですね。
それを知ると、
イエス様の神性を別の点からですね、見ることができます。
何か。
それはですね、
イエス様が人となった神様であるがゆえに、
神の真理を明らかにすることができたということなんです。
そこにイエス様の神性を見て取れるんですね。
つまりもうちょっと言うと、
目に見えない神様の真理を人間が明らかにすることはできないですよね。
まして人間というのは、
時間と空間に縛られた有限な存在です。
そんな有限な存在である人間は、
時空を越えた永遠の存在、
そして全知全能の無限の神様、
天地万物を作られた全能で無限で永遠なる神様の真理を
有限である人間が解き明かすことなどできないわけなんですね。
もうちょっと挫折しますが、
だから今このご時世、
私が救い主だとか、
私こそ神の真理を明らかにするという人が現れたら警戒すべき。
このように有限の人間には無限の神様の真理を明らかにすることができません。
しかし言い換えれば、
誠の神であるイエス様だからこそ、
天地万物をイエス父と一緒にいて作られた神様であったからこそ、
イエス様は神の真理を私たちに明らかにすることができたわけです。
有名なヨハネの1章18節でこのように述べられていますよね。
ちょっとこれ読めるかと読んでみましょうか。
いまだかつて神を見た者はいない。
父の懐におられる独り子の神が神を解き明かされたのである。
まさにイエス様がこのようなお方であったからこそ、
人となってこの世に生まれて、
そしてこの世の王ではなくて、
まことの神の国の王として、
神の真理を明らかにすることができたわけです。
そしてイエス様はまさに、
土器の権力者のピラトの前で怖がることもなく、
堂々と自分はまことの王であるということを宣言したんです。
もし本当にピラトがイエス様をユダヤ人の王だとみなしたら、
死刑になるんです。
ローマへの反逆罪で。
そして最秘長たちユダヤ人たちは、
ピラトにそういう思いを抱かせて、
イエス様をローマへの反逆者として十字架につけたいということが、
この陰謀だったわけなんですね。
そういう恐れがあるにもかかわらず、
イエス様は大胆に、
私はまことにユダヤ人の王なのだということをピラトに証したわけです。
そしてその役割を宣言した。
そこに大きな意味があるわけですね。
このイエス様の大胆さ、
そして真理をまっすぐに解き明かす様子を、
私たち見るわけですけども、
私たちも、いわゆるこの世の権力者とか、
影響のある人に惑わされることなく、
イエス様こそまことの王だと信じて、
そのイエス様が明らかにした神の真理に聞き従っていくお互いでありたいと思います。
真理を受け入れる民と拒む民
最後、3番目。
その真理をイエス様解き証しましたが、
3番目。
真理を受け入れる民ということを見ていきましょう。
18節の37節の後半から、
イエス様はこの世に行ってピラトとやり取りをしています。
私は真理について証しするために生まれ、
そのために世に来ました。
真理に属する者は御名、私の声に聞き従います。
最後の部分だけ読んでみましょうか。
ピラトはイエスに言った。真理とは何なのか。
これは何がここでなされるかと言いますと、
ピラトはイエス様に迫られて、
あなたは真理を信じますかと言われて、
はぐらかしています。真理とは何なのか。
実はイエス様がここで言っているのは、
真理に属する者は、真理に生まれた者は、
神から生まれた者は御名、イエス様の声に聞き従うと言っています。
そしてこれは有名なイエス様が羊飼いであり、
従う者を羊とたとえた十章の言葉と連動しています。
十章の四節五節でイエス様はこのように教えています。
御自分を良い牧者と言っています。
牧者は自分の羊たちをそれぞれ名を呼んで連れ出します。
羊たちは御名外に連れ出すと、牧者はその先頭に立って行き、
羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
その真理から生まれたイエス様の弟子たちは、
このイエス様の声を聞き分けて、この世の権力者でもない、
この世の大衆の声でもなくて、
イエス様の声、誠の神の声を聞き分けて、
言葉を聞き分けて、そのイエス様について行くということです。
ピラトは先ほども言いましたが、直接イエス様とやり取りをして、
イエス様から直接、誠の王、神であるということを聞きました。
そして真理を証しするものだということを目の前で見聞きしていました。
それにもかかわらず、彼はその真理を受け入れなかったわけです。
一方、このイエス様を十字架にかけたユダヤ人たちは、
本来、待ち望んだ王として、メシアとして、
イエス様を受け入れるべきだったのです。
でも、彼らの反応は、ご存知の通りです。
そして、そのことを、
彼らのイエス様を拒んだ人々や、受け入れた人々のことを、
ヨハネの1章11-12でこう表現しています。
この方は、ご自分のところに来られたのに、
ご自分の民は、この方を受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子供となる特権をお与えになった。
このように、真っ先にイエス様を受け入れるべき、
本来の神の民は、イエス様を受け入れませんでした。
しかし、誰であっても、どんな身分の人でも、
そのイエス様の名を信じた人々は、
イエス様の子供となり、神の国の民になれる、
という特権が与えられているわけです。
ピラトは、いろんな理由で拒んだと思うんですけれども、
まずは、人種的な軽蔑がありましたよね。
こんなユダヤ人なんて、そいつのことなんか信じられるか。
そして、ユダヤ人のリーダーである、
今日のこの禅後では、最秘帳たちですね。
彼らは本来なら、神が宿る神殿を司る人たちですから、
まことの神であるイエス様を受け入れてもよかったわけですが、
彼らは、自分たちの特権に目が曇って、
イエス様を拒んだわけです。
そして、民衆はその最秘帳たちに、
サンヘドリンに扇動されて、
本来受け入れるべきだったのに、イエス様を拒んだわけですよね。
ですから、本当なら、目の前でイエス様の言葉を聞いて、
そして、イエス様の奇跡を見聞きして、
イエス様を待ち望むべき人たちが拒んだわけです。
しかし、皆さんどうですか?
私たちイエス様を信じているじゃないですか。
こういう人たちが拒んだことに比べれば、
私たちがイエス様を信じることができているのは、
不思議なことなんですよね。
特権なんですよね。
ですから、自分たちが当たり前のように信じていますけれども、
イエス様を信じることができていること自体が幸いですし、
信じていること自体が、
私たちが皆さんが神様から生まれていたものである証拠でもあるんですね。
と同時に、私たちはこれから日々歩いている中で、
この世の権力者や、大きな影響力を持つ人々によって、
神を見るべき目が曇ることがないように、
イエス様の真理を聞くべき耳が塞がれることがないように、
気をつけていくべきではないかと思うわけですね。
このように、今日はピラトとイエス様のやり取りから、
イエス様の王権や王国について学び、
そしてその真理に従う人々について学びました。
そのようなイエス様に聞き従っていくお互いであり、
教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
祈り
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様とピラトのやり取りから学びました。
この世のセオリーから言うと、
大きな者、力強い武力やまた権力を持った者が、
この世を制して私たちを支配しているように思われますが、
イエス様はその中で武力を行使することなく、
自らを捧げ、私たちのために十字架で御自身を捧げて下さいました。
そして神の真理を私たちに明らかにして下さいました。
どうぞ私たちは今イエス様を信じる者として、
これからもイエス様の恵みによって、
あなたが明らかにして下さる真理を受け入れ続け、
その真理の道に従い続けることができるようにどうか導いて下さい。
またこのような私たちを通し、教会を通し、
また新たにあなたから生まれた子として、
真理に従う者として新たな方々が導かれますように、
どうか私たちは教会を用いて下さい。
この特権、またあなたの導き、あなたの贖いを感謝して、
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。