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2020-11-11 40:47

【GMV 251】なぜGTDでは気になることをタスクとするか?

仕事は気が済むまでやるものとは思えない
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日気がついたんですけど、気がつけば250回とかを超えてて、
なんか私のことなので、どこかで回答が狂ってるんじゃないかという気もするんですが、
あんまりそこは気にせずやっていきます。
で、なんというのか、こんなことを250回も続けてこられるのもやっぱりですね、
何にも考えずにやってるからっていうのは大きいと思うんですよね。
この辺は人によるんでしょうけれども、
習慣化とかっていうやつもあるじゃないですか。
私もあれをよく、最近出した本の方でも小さな習慣みたいな話書きましたけど、
これ習慣化でやってるというふうにはとても言いがたくて、
自然と報酬があるから、
それこそ学習した効果としてやらないと気持ち悪いとかいうことでは全然ないんですよ。
今8時過ぎなんですが、やらないほうが楽ですね。
どう考えても。
ブログもそうだと思うんですけど、習慣化は多少はやっぱりありますよね。
例えばこれもそうだけど、すっかりポッドキャストのボタンの操作、極めて分かりにくい操作だと思うんですけど、
慣れましたね。
そういう意味では習慣の力がそこここで働くんだけれども、
だからといって習慣化さえすればこういうことを何百回もできるかというと、
そういうもんではないような気がします。
ましてですね、回を数えるとかも昨日気づいたぐらいなので、ほとんどというかしてなくて、
PVに至っては基本見ないんですよ。
見ればですね、やっぱり上下動が絶対あって、
そうすると高くなっている回数の内容に集めたくなるじゃないですか。
それをするとですね、やりたくなくなるはずなんですよね、こういうものって多分。
ブログで経験済みなんですよね。
跳ねたやつからアクセスの多かった方の話へ修練させていくというのはですね、
これすごい微妙な面もあるんですけど、
Good Vibesというところの依頼に応える的な、
でもこれは私何かの依頼に応えている気はあんまりしないんですよ。
で、PVが多い方が多くの人の依頼に応えているような言い方もできなくもないと思うんだけれども、
でも実際にはですね、そのようにすることで、
03:00
自分が例えば見ているブログとかがPVの多い方へと向かう、
そういうことは厳にいくらもいいものでありましたし、
当然あっていいことだと思うんだけど、
例えば私がそういうブログを見ていた場合見なくなったりするんですよ。
で、それはつまり万人の依頼にああいう形で応えるというのは、
とても無理があるということを一つ意味するだろうし、
たくさんのPVがあるということが、
そのPVアクセスをした人たちの依頼であるということはおそらく言えないんだろうと思うんですね。
だから気にはなることはなるんですけれども、
やっぱりそういう指標に向かっていくというのは、
一つのマーケティング的戦略というんですかね、
そういう方法としてありなんだと思うんですが、
これではやらないようにしようと思っています。
そういうのをやるところもあると思うんですけどね。
例えば私だって紙の本を出せば必然的にそういう世界に入っていかざるを得なくて、
そっちではそれなりにいろいろこうそうしたことは少ないですけど、
頑張りますが、ここでそれをやることもないかなというのが今のところの、
だから続くんだろうというのはあります。
これ喋っているときは本当に一人で喋るんですよ。
人に向かっていないんですよね。
それは非常に僕の中では大事なことなんですよ。
一切こう後で喋っていると聞くとどこかしらというのかな、
人に向かっているんだけれども、
今ここで喋っているときはですね、
目の前に人いませんから誰も。
ここが大事なんだと思うんですね。
セミナーでは決して同じモードになることはないです。
無人の中で喋りませんから。
やっぱり人に向かって喋りますよね。
この2つははっきりと違うんですね。
そういうことは200回やってみて分かるようになりました。
いろんなアドバイスもいただいているし、
時々、いろんな手もないか、ちょこちょこいただいたりしていますし、
時々そういうのを気にして、
今なんかも寒いから本当は嫌なんですけど空調を切っているし、
換気扇を切るぐらいのことはしますけれども、
でもやっぱりですね、
それはやる気しないなということは一切やっていないんですね。
それは多分これはですね、
人に向かって喋っていないからなんですね。
少なくとも収録のタイミングではですね。
終わった後はそうではないんですよ。
だから最初に始める前と終わる頃はですね、
人を意識するんですけど、
今喋っているこのときは人を意識していないですね。
自分に向かって喋っているというのとも違うんですけど、
今は目の前でという意味であればですね、
お風呂場に向かって喋っているんですよ。
06:08
どこか人間的でないというのかな、
そういうところがあるということですね。
そういう話とは全く違うんですけれども、
すいさっき、5分ほど前に、
だからこれ始める直前くらいに考えついたことなんですが、
GTDの話を少ししようかなと思いました。
私GTDって実はアメリカで知ったんですよ。
だから原文で知ったんですね。
留学中に知ったんです。
日本でそのとき翻訳本出てたのかもわからないんですけど、
その存在は知らなくてですね、
非常に興味深かったんで原文で読みました。
一番最初からでもですね、
2箇所非常に引っかかるところがあって、
一つがですね、
収集ステップにおけるタスクを洗い出すってやつですね。
気になることを洗い出せって日本語では訳しますよね。
あれ私、なるほどって思って感心したんですが、
英語では確かにMINDって書いてあるんですよね。
MINDって、なんでMINDなんだって思ったんですよ。
MINDって、
宇宙マインドという、アメリカでもあまり聞かない、
非常に独特の敬語のような表現がありますが、
要するに気にしますかって日本人は確かに訳すんですけど、
なんかですね、あれ非常に独特なんですよね。
MINDじゃないですか。
MINDは心ですよね。
気にするって言うところなんだけど、
これがですね、引っかかったんですよね。
MINDなことを集めるんだろうかって思ったんですよ。
タスク管理ってものは。
自分は違うなって思ったんですよね。
つくづくその時。
そのことをね、最近思い出したんですけど、
非常に違和感を感じたんですよ。
気になることを洗い出すのかって思ったんですよ。
違うなって思ったんですよね。
で、そのこととセットのようにして、
一生の早い段階で出てくる。
あそこに来ると日本の場合でも、
日本語訳でも必ず一旦本を閉じちゃうんですけど、
水ものようなというのかな。
鏡のようなとか言うのかな。
要するに禅で言うところのあれ。
明強失推。
なんだっけ。
国語の辞典でもありますよね、日本では。
要するにそういうことなんですけれども。
要は悟ったに近い境地をあれは指していますが、
それはないだろうっていうのがまず強烈に来たんですね。
申し訳ないとは思うんですよ。
うちが寺だからいけないんだと思ったんです。
その時も思ったんですよ。
タスク全部やった程度で悟れるはずないだろうということなんですよ。
僕の中で感じたことはですね。
それで済むなら苦労はないよなっていう話なんですけれども。
09:02
要はその、なんていうのかな。
その時はただ違和感を感じたんですね。
でも当時アメリカであればかなり一部界隈で流行ってて。
文房具屋さんとかに行けた時には。
行けた時にはっていうのは変に聞こえるでしょうけど。
アメリカって広いんですよね。
どこに文具屋があるとか全然わからないわけです。
今と違ってGoogleマップもないんで。
しかも私紙の地図とかも持ってたわけじゃないんで。
なかなか文房具屋さんとか日常製品の専門店みたいなところまで行き着けたことがなかったんですよね。
留学して1年経ってようやくそういうところに車で行けるようになって。
行って43フォルダーズ用の引き出しとかが売ってて。
結構感動して勢いで買ってしまったということがあったんですよ。
だから僕のGTDの入り方ってそういう入り方なんですけど。
あの時も感動して買ったはいいんだけど。
使わなかったわけですが。
なぜかというとあれよりも調整入り方の方が優れていると私は思うんですけどね。
それはいいんですが。
洗い出すことが日本語でいう気になる良い役だと思うんですけど。
気になることを洗い出してそれを全部やるっていうのって。
なんとなくですね。
まずいんじゃないかなって思ったんですね。
それは当時はなんとなくそう思っただけで。
現に私はGTDに近いことを一生懸命やっててはうまくいってなかったわけなんですけれども。
タスクシュートを今私やってますが。
GTDが受け付けなかった理由がですね。
今はなんとなくわかるというか。
今はもうはっきりわかるんですね。
木っていうこの言葉は日本ではよくスピリチュアルとかでも流行ってますし。
中に目を書くところでコメを書くとオーラ感が出る。
ちょっとマガマガしい感じも出る字になるんだけれども。
要は空気の木ですよね。
この木っていろんなことを言い出せそうなので。
絞ってみるとですね。
私が確実に言えそうだなと思うことは2つあって。
基本的には何かしら心の中の状態を意味している木ってのはきっとですね。
空気みたいな言葉もあるんで。
全部じゃないんだけどかなりの部分は心持ちを表している。
気持ちが悪いとかって言いますもんね。
その気持ちの木ですよね。
もう一つは木ってのはどっちかというとポジティブな意味をそれ自体は持っている感じはするんですね。
木だけならば。
なんとなくなんだけど方向性があって。
木という言葉を使うならば気が進む方に向かっている感じってある気がするんですよ。
12:04
散々この気がするとかですね気になるとか言っちゃうんですけどね日本語では。
すごく僕がやっぱりこの言葉面白いよなと思うのが
3歳児ぐらいでも子供にもよるんですが気持ちが悪いっていう言い方は正しく使えるんですよね。
あれ僕非常に不思議なんですよ。
変な言葉じゃないですか。
気持ちが悪いっていうのをよくよく分解してみると何なんだろうって思うんですよね。
木の持ちが悪いのかではないですよね。
気持ちってそもそも何を意味しているのかと。
でも気持ちが悪いで体調の悪くなる兆しを正確に言い当てられるんですよね子供によっては。
うちの子がかなりよくできていてその辺は楽なんですよ。
これが言えるようになるんですね。
言えない時って何が起こるかというと突然吐くわけですよね。
あるいは突然熱が出てくるわけです。
何も喋れないわけですからね。
なんかさっきまで楽しそうに遊んだのにいきなりグエーってなるわけですね。
この手前に気持ちが悪いが入るようになるんですよ。
子供の自覚レベルがやや高い子になってくると
なんか気持ちが悪いって言い方ができるようになるんですよね。
もうさらに少し手前の段階を喋ってるんですよ。
だけどこれ誰が教えるというのともちょっと違うんですよね。
突然それを言えるようになるわけですね。
シックではないじゃないですか。
吐きそうだとかいうのとは違うんですよね。
かなり広範囲にあって気持ちが悪い後に熱が出ることもあれば吐くこともあり
インフルエンザにかかってるということが判明することもあれば
何もないこともあるし、寝不足の場合もあるし
最近わかったんですけど、ブドウ糖不足のケースもあるんですよ。
本当様々なんですね。
若干の酸欠であったり熱中症であるケースもあるんですよ。
本当にすごいんですよね。
全部気持ちが悪いわけですね。
これは人はこれを認識するんですよね。
非常に早い段階で。
気は若干にすると多分ですね、良くないと良くなくて
だから私はですね、昔からよく出てくるじゃないですか。
私は学生の時からあったんですけど
気持ちが悪いを他人の形容に使う人は信用ならなかったんですよ。
これはお前の気持ちだろうって言いたくなるんですよね。
メラニクラインが昔、苛立たせられてるわけじゃないでしょ。
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苛立ってるんでしょうっていう言い方をしたことがあるんですけど
それとよく似ていて
自分の気を外に勝手に投影するなよって言いたくなっちゃうんですよ。
気持ちが悪い、あの人気持ち悪いよねっていう表現は
失礼だというよりもですね
いや、それはあなたの心の気持ちが悪いんでしょうと言いたくなるわけですよね。
気は大体中にあるものを指していると思います。
空気みたいなのがありますけれども
基本的には気が進むとか気が乗らないとか気になるとか気にするとか
全部ですね、気が済まないとかですね
全部自分の心持ちを指すんだと思うんですね。
これを外に投影しないものだと思うんですよ、原則的には。
だから気持ちが悪いのは自分の心の中の問題であって
日々に気持ち悪さが外在しているわけじゃないと自分は思うんですよ。
だから学生時代から気持ち悪いということを他人の表現として使うっていうのは
なんかすごくですね、そこに
何て言えばいいんですかね、手前勝手なものを感じて
要するにある料理を見てまずそうだとうまそうだっていうので
それはその人の気持ちの中の出来事だと思うんだけれども
それがですね、完全に外側にあると信じるっていうのはですね
よっぽどの子供でもしないんですよね。
だって3歳児が気持ちが悪いって言った時には
絶対自分のお腹だったりなんだりを指しているわけであって
誰かその外にいる人のことは指してないわけですよね。
それをやるようになるというのはまさに投影そのものであって
その人を見ると私の気持ちが悪くなるんです。
あの人のせいで私の気持ちが悪くさせられてるんですっていう言い方っておかしいわけですよ。
いやあなたの気持ちが勝手に悪くなった、勝手にっていうのは変ですけれども
でも自発的になったんでしょうと、そういう感じがするんですね。
そこでなんですけれどもGTDでいうところの気になることを収集するっていうのはおかしいと思ったんですよね。
だから洗い出すとか頭の中を空っぽにするという
その内から外へ出すって感じなんだと思うんですけど
それもおかしいと思ったんですよ。
出したところでなくなりはしないじゃないですか。
それができるようになるような錯覚がそこにあるような気がしたんですね。
何が言いたいかというと気ってのはそこまで完全に意のままにならないと思うんですね。
気持ち悪くなったからよし気持ちを良くしようってしますよね。頑張って。
でも難しいんじゃないですか。
トローチを舐めるとかフレッシュなガムを噛むとか
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それこそF分の1の揺らぎの音楽を聴くとか
効果ないとは言いませんけれども僕にあんまりないんですよ。
気持ち悪くなったからといって水風呂に浸かるとかですね。
何て言えばいいんですかね。
うまくいくこともないわけじゃないですけれども
自分の子がそれを言った時にそういうアラリオ児的なことをして誤魔化したいとは思わないんですね。
だからやっぱりこれは意のままにはならない部分が多くを占める気がするんですよ。
そうすると気になることを洗い出したからといってですね。
あるいは紙に書いたからといってそれで気にならなくなっては困っちゃうし
あともう一つが一番それこそ気になるのがですね。
気になることをするべきなんだろうかってことなんですよ。
気が済むっていう言い方あるじゃないですか。
あれ大変日本語の面白さだなと思うんですけれども
ちょっと病理っぽさがあるんですよね。
気が済むようにしなさいとか気が済むまでやったらいいっていうのって
もうすごく突き放してますよね。
この突き放し感って何なんだろうと思うんですけれども
依存っぽいものは何て言うんだろうか。
こっちからどうこうしても無駄だっていうニュアンスが感じられるんですよ。
気が済むまでゲームしなさいみたいなそういう感じなんだけれども
もうどうにもならないからやり尽くしたらいいじゃないですか
っていうようなニュアンスがここにはあるじゃないですか。
ってことはですね、基本的には気持ちが悪くなったり良くなったりっていうのは
戻ってこられるんだけど気が済む済まないっていうのはですね
どっかこう戻ってこられなくなりつつあるっていうニュアンスが感じられるんですよね。
よく漫画とかにあるじゃないですか。
気が済むまで殴ればいい。
なんか相手死んじゃいそうじゃないですか。殴る人によってはですね。
気が済むっていうのってエンドレス感がすごくある気がするんですね。気がするわけですね。
だから気になることを洗い出して気が済むまでタスクを進めるというのはですね
いつまで経っても終わらないような感じがして
終わらせると心が平安に至れるっていうのは
幻想だなと思いますし、しかも結構辛い幻想だなと思うんですよ。
21:00
変にストイックと言いますか
気になることを洗い出すっていうのは人によってすごく気なので
違いますよね。
このガラスの端っこの方にある黒いカビっぽいものが気になります。
気になる人にとってはえらい濃いものが気になりますよね。
気にしない人は全然じゃないですか。
この気にするなって言葉もありますが
気にするってどういう意味なんだろうと思うんですけれどもね。
なんていうか、一つの幻想的な集合体みたいなものを感じます。
気というものになるっていう自分の中でですね。
一つそういうものが出来上がると容易にそれは解きほぐせない。
そんな感じがありますよね。
ガラスをピカピカにするとか
紙に書くと本当にそれが気にならなくなるかなと
私実験してみたわけですよ。気になることを全部書いてみた。
全く少しもすっきりしないわけですね。
実行して初めてすっきりするということなのかもしれないんですけれども
とにかくそれをやると普段気になりもしなかったものがやだら気になるようになって
つまりこの辺なんですよね。
この辺って脅迫症メーター雰囲気があるじゃないですか。
脅迫神経症というのはつまり手を洗うのがやめられないですね。
有名な話で言えば。
それは手に何かが付いているという気がしてきて
それが気になるわけですよね。
それを洗い落とすと。
洗い落とせるはずがないんですね。
なぜならそれは心の中にあるものだから。
手に付いているものじゃないからですね。
だからいくら洗っても、手が血だらけになるまで洗っても
気は済まないわけですよね。
気がそこからなくなってくれないと。
ずっと気になったまんまなわけですね。
だから脅迫神経症と言うんですけど
これ精神病とは言わないんですよね。
神経症と言うんです。
この辺なんですよね。
この気になるというのは神経症レベルなんだけど
すごく重症な、あのどっかで
この2、3回前にしゃべりました。
自身経症というのは正常です。
精神病というのが精神分析では問題とするレベルですね。
だけど脅迫神経症のような
脅迫神経症そのものは境界例じゃないですけど
微妙な線があります。
とても重度の神経症は問題とすることになります。
で、その気になるとか
気持ちが悪いとか
気にしすぎるとか
こういう表現を使うところから
日本語ではですね、全部その神経症のレベルってものが
上がっていく感じなんですけれども
そういう意味でですね
その気になるものを収集するって
24:00
なんかこう、自分を病気に引っ張っていく感じがあって
それが私の気になるところだったわけですね。
で、それを全部やったからといって
悟れるってのはもう
ほんとナンセンスな感じしかしなかったんですけど
それはそれでいいとしまして
気になることをやるのがタスクだとは思えないというのはですね
これってタスクシュートとかの考え方には全然ないものなんですよね。
あるというふうに持ってかれているケースもありまして
気になることを洗い出してタスクシュートに置きましょう
あれは僕の中ではないんですよ、本当は。
今言った通りの理由です。
つまりタスクっていうのは
グッドバイブス的に言えば
人からの依頼をまず置くものであって
タスクシュートの中ではですね、もう一つ
自分がそれを繰り返さないでは済まされないもの
つまり気が済むものじゃなくて
気じゃなくて
本当に、本当に言ってないんですが
済まないもの
これをやらないでは済まないものですね
これをやらないでは気が済まないものじゃないんですよ
その差が大きいと
これと同じことがですね
すごいびっくりしたんですけど
ドイ・タケオさんが甘えの構造の中に
全く同じ話が書いてあって
すごいびっくりしました、正直言って
甘えと何の関係もない話のような気がしましたから
書かれていることを読むと
なるほどこの下地に甘えがあるっていうのは
大した発見だなと思ったんですけれども
気が済まないことじゃないと思うんですよ
仕事というのは何となくなんですが
気が済むまでやるようなものではないと思うんですね
これはもう甘えの構造に全くその通りのことが書いてあるんだけれども
それとは僕は違う入り口から入りましたが
気が済むまで仕事をしている人を見ていると
不安になるんじゃないですか
不安になりませんか
日本人が使う表現ですよね
それでは私の気が済みませんからって言うじゃないですか
あれ聞いていると私は
日本文化も対外にしておこうよと思っちゃうんですよ
いいじゃん、気が済む済まないは問題にしなくてもいいじゃん
というふうに思うんですね
気が済むとか
それでは気が済まないとか
いうのって
私の領域というものを区切った後ですよね
西治が気持ちが悪いと言った時の
その表現が極めて大事なのは
自分の気持ちのことについて言っているからなんですね
自分の気持ちじゃなくて体調なんだけど
それができるようにならないと言葉って使えるようにならないんですよ
27:02
なぜ統合失調症というやつ
昔精神分裂病と言われていたものが大問題になるかというと
自他の領域が区別がつかなくなってしまうからなんですね
気持ちが悪いのは自分の身体の中での出来事なのか
それとも外にそれがあるのかが分からなくなったら
とっても困りますが
多分ゼロ西治には分からないんだと思うんですよね
それは外から持ち込まれたものなのか
自分の中から発生したものなのか分からなくなってしまう
そうするとある意味大変困ったことになるわけです
例えば自分の心の声とかって言うじゃないですか
人の心の中でそれがどう発生しているのか分からないんですけど
私もこうやって喋っているからには
何かが発生してきてそれを喋っているというような感じなんだと思うんですね
これあんまり考え続けると喫音になったりするので
あんまり深刻には考えないんですけど
でもですね外から声とかってするじゃないですか
おじさんの声がしたりするじゃないですか
その声は外から聞こえているって私は意味付けているんですが
それができなくなってしまうと
まるで自分の中からその声が聞こえてきたように
近くですから中なのか外なのかなんて本当のこと分かりませんよね
つまり考えが挿入されたとか
自分の考えが外に飛び出してしまって
人に読み取られているとか言い出すのはそういうことなんですよ
で気持ちが悪いということを
3歳児なり4歳児がはっきり言えるっていうのはすごいことで
それは自分の中から起こっていることなんですっていう
はっきりとした認識があるわけですよね
ところが仕事って外から来るものじゃないですかそもそも
どこかで自分の仕事にするんですけれども
この仕事を今日ここまでやってしまわないと
自分の気が済まないという人って
僕はちょっとした混乱が見られると思うんですよね
なんかこう発生源をどこに置き直したんだろうっていう
いつ置き直しちゃったんだろうっていうものを感じさせられる
気が済むまで仕事をするっていうのって
エンドレスだと思うんですよ一本間違うと
気が済むまで殴ればいいっていうのと同じになっちゃうと思うんですね
相手死んじゃうじゃんって思うんですけれども
気が済むまで仕事してたら自分死んじゃうんじゃないかって
思うんですよね終わりがなくなっちゃうと思うんです
その仕事が済むまでやればいいんだったらば
どこかに絶対エンドがあるわけですよね
相手の依頼が終了するというところまでやればいいわけだから
でも自分の気が済むまで仕事をするということになったら
気が済まない限りはやめられないということになりますよね
私これを意識するときに一つ必ず思い出すことがあって
30:05
アトピーって痒い病気なんですが
体中が痒くなるというそれは一つの症状でしかなくて
全部痒みが
だから痒みを取るっていう発想ってダメだとよく思ってるんですよね
痒みがなくなってもアトピーなくなるわけじゃないんで
アトピー性皮膚炎っていうのは書くんですけど
気が済むまで書いちゃうんですよね
そうすると何が起こるかというと永遠に書くことになるんですよ
エンドレスなんです
あれどこか心身症的なところがあるんですね
痒みが取れればいいんだったら書けばいいことじゃないですか
書いて取れない痒みっていうのはつまり
どこか神経的なものがあるような気がするんです
今河野大臣が何か言ってて話題になってましたけれどもアトピーは
要するにエンドレスになる気が済むまでやるっていうやつは
大体気が済むまで掛け言をするとか
気が済むまでゲームするとか
気が済むまで書くとか
気が済むまで食べるとか
なんかダメな感じがするんですよね
食べるのはお腹いっぱいになるまで食べればいいわけだと思うんですね
気が済むまでじゃなくて
気って何となくそういうものじゃない感じがするんですよ
物理的なものではないですからね
だから気が済むまで仕事をするっていうことになっちゃうと
何となく実際の仕事とはかけ離れたところまで行って
そこまで行っても終わらないというニュアンスがあるんですよね
その先に悟りの境地があるなんて言われるとですね
本当に永遠に終わらないのではないんだろうかっていう
そういうものを感じさせられたので
僕はGTDの第一章読み終わるとそこで本を閉じちゃうんですよ
最後まで読んだんですけれども
そこを乗り越えるのに時間がかかっちゃうんですね
気が済むまで仕事をしているという感じのパターンを見ていると
どうしてもやっぱりそれはバウアウトにつながるよなと思うんですね
これは会社がブラックだとかそういう話じゃなくてですね
気が済むっていうのは主体的なことなので
受動的な部分がなくなってしまう
最初は受動的だと思うんですよ
誰かから仕事を任されるっていうのって受け身じゃないですか
最初はそうだったはずなのに
いつしか気が済まないからやり続けるみたいな
どこかで主体性が異常なほど発揮される
そういう感じがあるんですね
33:02
自分の領域に取り込まれてしまうみたいな
ここが多分気になるんだと思うんです
ライフハックってみんな気が済むためにやってるんですよ
気が済むまで掃除したり気が済むまで整理したり
気が済むまで引き出しをシステム化したり
そういうことじゃないですか
最後に何がやってくるかというと気が済むってことだと思うんですね
だからタスクシュートって
やったことを記録にしていくんですっていう話をした場合に
それで終わらなかったらという話をされてみたり
長期的な自分の目標を割って話をされてみるんだと思うんですね
これは自分がこれを何かに夢中になったり
疲れたようにしてそれを気が済むまでやった先に
自己実現があるというような考えと
マッチしないからだと思うんです
自分がルーティンでやりますと
基本エンドレスでやりますと
毎日それをリピートしますと
で、やったことを記録します
どこにも気が済むまでやれる要素がないわけですよね
私はない方がいいと思うんですけれども
タスクというのは気が済むまでやるものだとは思わないので
だからしないと思うんですけど大抵の人はですね
カジノが今度できたらですね
タスクシュートにカジノって書いても無駄だと思うんですよ
どこそこのルーレットで何分使ったとか
意味ないと思うんですね
気が済むということとタスクが完了するということは
違うことだと思うんです
気が済むまでやるものではないと思うんですね
だからGTDというものがうまくやれる人は
ここの心は多分定欲スルーしてるんじゃないかなという風に思うんです
そうすればうまくいくんではないかと
つまり全て気になることを洗い出すとかいうことをせずにですね
頼まれたことを全部タスクにするだけにしておいて
それが全部なくなるなどということは夢見ずに
それが全部なくなったら明強しすぎに至るとかいう発想は
ましてや取り入れなければですね
多分うまくいくんじゃないかという風に思うんです
それだったら他のと何も変わんないじゃないかと言われると
全くその通りだという気が私はします
気っていうやつは最初に言ったんですけど
36:02
基本前に向いてるもので後ろ向きなものじゃないと思うんですね
ポジティブななんとなくイメージがあるんですよ
それだけにですね済んじゃいけないと思うんですね
済むってことは気が済むってことはですね
なくなるっていうことだとしか思えなくて
なくならないですよね
永遠に再生され続けるじゃないですか
物理的なものじゃないので
だからこの気の病っていう言い方もしますけれども
全く気の病で
気の病っていうのはやっぱり
普通のやり方じゃ治んないわけですよね
気にしなくなるってことができなきゃいけないわけで
そのためにやっぱり出てくるのが
気というのは基本的には自分の領域にあるものだということだと思うんですね
外側にあるものじゃないはずなんですよ
気心が知れるみたいな言い方をすると微妙になりますけど
それも結局物理的なものじゃないですよね
だから私オーラ的な話って信用できない感じがするんですよね
それぞれの中にあるものだという方が
まだしもちょっと違うかもしれませんけれども
まだしもな感じがします
物理的なものだということになると
どうしても波動で相手の動きを止めるみたいな話になってしまうんで
そういうことが全く絶対ないとは思わなくなったんですけれども
でも多くの場合ですね
気は自分の中にあるものだというレベルにあればですね
多分神経症レベルだとしても
結構平穏でいられると思うんですね
やっぱり窓ガラスの何とかが気になるっていうのって
自分の心の中の話ですよね
これを全部に適用し始めると
家中をピカピカにしても気が済まないみたいな話になるじゃないですか
そういう人って結構本当にそれなりの数いるんですよ
GDDでもそうだと思うんですよ
だから一度に全部それをやりきれるはずがないから
いつかやることリストっていうものができるわけじゃないですか
ここにすごくおかしなものがあると思うんですよね
気になることは全部気を済むまでやらなきゃいけないのかっていう話だと思うんですよ
そうはならないはずじゃないですか
気が済むまで全部をやればいいことが起きるとは思えないし
気が済むまで全部をやらなければ
その人は一橋の人になれないとかってことはありえないことだと思うので
39:02
その基準で収集はしないよなと思うんですね自分は
何をもってタスクにするかってことだと思うんだけれども
自分が日頃やってることっていうほうが
つまりそれがタスクシュートなんですけど
だいぶ楽なんではないかと思うんですね
最後に手を洗う系なんですけど
あれマクベス夫人がそうだったじゃないですか
あれは劇ですけどシェイクスピアのね
血が手についてるわけですよね
つまり気になるということと後ろめたさっていうことは
すごく関係があるわけですけど
私がよく思うのはブラック企業というのはですね
仕事をいっぱいさせる企業という意味ではなくて
それもどうこせばそうなんでしょうけれども
その人というか従業員が仕事をしていないという
後ろめたさを持たせようとする組織なんではないかと
日本においては特に思うんですよね
自分のタスクが終わらない限りは
手を洗い続けなければいけないみたいな
そういう気持ちになっちゃったらダメだと思うんですよ
ただここが難しいんですけれども
そんな気は会社の方にさらさらなくても
気が済むまで仕事が辞められませんという
そういう性格とかそういう育てられ方をした人もいるので
企業がブラックなのか
脅迫神経症になりやすい人なのかという問題というのは
ここにはあるとは思うんですけれども
40:47

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