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2020-08-27 35:45

【GMV 213】雑務を押し付けられる?

雑務と罪悪感というキーワード
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日、YouTubeのグッドバイブスの人生相談というものを、倉園恵都さんと町田で収録してきたんですけれども、
その中にですね、かなり非常に頻繁にお目にかかるお悩み相談がありまして、その話をちょっと軽く触れたいんですが、
それ自体のご質問じゃないんですけれども、かなり典型的なものとしてですね、
すごく自分は、組織なり会社なりで、大学とかでも多いんですけど、たくさんの仕事をしていると。
人の2倍も3倍もしていると。
で、そのことがつらいんだけれども、上司とかに掛け合ってもまともに対応してくれないという、
今どき仕事がいっぱいあるのはいいことじゃないかぐらいに言われるという話、よく聞く気がするんですよね。
しかも、おそらく有能な女性からが多い感じがちょっとするんです。
このパターンって馴染みあるなぁっていつも思ってたんですね。
そこはかとなく誇っている感じもあるんですよ。
アイデンティティという言葉をここで持ち出しがちなんですけど、ちょっと違うのかなと昨日思い始めました。
何しても自分の仕事ができるっていうニュアンスができるんだと思うんですよね。
ありまして、でも何か断る要領が悪いみたいな、ちょっと自己卑下するようなところも同時にあって、
大体ですね、介して面白いことにこの種の方は自分に自信がないとおっしゃるんですよね。
でも自分の仕事の能力にはちょっとアピールしている感じもあるんですよね。
2倍も3倍も人より仕事をするということは、逆な言い方をすると周りの人は自分の半分とか3分の1しか仕事を仕上がらないというニュアンスが絶対、ニュアンスじゃないですよね。
そう言っているのと全く同じだと思うんですよ。
でも私はダメな人間ですみたいなそういうところがあって、他の人が羨ましいです。
何がどう羨ましいのか。半分しかしないでも同じ給料をもらえている人が羨ましいのか。
それは羨ましいかもしれないですけどね。
思うというか、こういうパターンの話をよく聞くなと。
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まず僕が最初に感じるのは自己肯定感とかそういう心理学的な、心理学というかあれはポピュラー心理学みたいな話なんですけど、
そういうのがあると仮にしても、この人は自分を肯定しているんだろうか否定しているんだろうかというのをまず気になります。
簡単に言うと多分自信は持ちたいけど、無能なくせに調子に乗っている奴だと思われたくはないみたいな、そういうのが色濃いなとは思うんですね。
昨日倉園さんとお話ししている中でですね、よくgood vibesでは非常に出てくるキーワードですけど、
罪悪感というのが出てきて、私結構面食らったというか、この文脈でそういうのが出るんだというのに驚いて大変興味を持ったんですけど、
聞いているうちになるほどそうだなと思ったんですね。
罪悪感を持っているという話なんだけど、私はそういうことは考えなかったんですよ最初は。
仕事の量におげる不公平感とか理不尽さとか、どんな組織でもまず一般論としてありますよね。
私は野球の話が好きなんですけど、野球って見ているとすぐこの種の理不尽さというものが一般組織にあるのは当然だとわかるわけじゃないですか。
例えば打率ホームランとともに圧倒的に他に引い出ている選手と、明らかにそうでもない選手と、
9人並んでいればいて、打つ人は3、2、3、4って今は野球が変わってきて2番に気を出しておくんですけどね。
1番から9番までバッターが並んでいると、2番目3番目4番目に非常に打つ人がいて、
後ろの方、7、8、9あたりには特に弱小なチームになってくると、7、8、9は打率1割っていうと打つ可能性10%ぐらいになっちゃうんで、
そういうことですよね。
どういうチームでもそうですけど、何を目指すかというと、いかに2、3、4に頑張ってもらうかという感じで、
7、8、9になってきたらいかに2、3、4につないでいくかということを考えると。
全然理不尽な感じしないんですけど、これを会社でやるとすこぶる理不尽な感じがすると思うんですよ。
2、3、4に相当する人にいっぱい仕事が回ってくるんだけど、野球みたいには給料が10倍20倍ってわけにいかないですよね。
数字化する部分がそんなに明快じゃないし、全くみんなが同じルールで仕事してるわけじゃないですからね。
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野球だったら全員同じところに立って、全員同じ道具で、全員同じバットを振るわけですけれども、そうはいかないですよね、仕事ってのは。
だからそんなにフォームランだ、打率だ、打点だで計測する。この野球でさえその評価の仕方がおかしいとかって選手が文句言ったりするんですよね。
今では選手が抱えている弁護士ですけどね。
だからここまではっきりわかってそうなものでも実は査定って簡単じゃないし、結局のところ完璧じゃないので、
組織でそういう感じを抱くのは一般論として当然なんだと思うんですよ。
何らかの理由でできるという人もいれば何らかの理由でできないという人もいるでしょうし、
野球だったら怪我とか病気とかいなくなっちゃったらそれっきりで給料いきなり10分の1とかにもなりますけど、
逆に会社ではそうはならないみたいなところもありますよね。
調子悪くなったらすぐ首切られたりしますけど、そこは査定オンリーの世界はきついと思うんですけれども。
でもこういうことはよぎるけど、罪悪感というのはなかなか考えつかなかったんですね最初。
それで罪悪感かと思ったわけです。
罪悪感って何だろうと思いまして、
罪悪感って結局何て言うんですかね、裁判官が必要ですよね。
ジャッジされなければ罪悪って成り立たないと思うんですよ。
少なくとも法律がありますよね。
法に照らして罪悪ってわけじゃないんだろうけど、
この種の訴え、人の2倍も3倍も働いていて、
なんかですね、プライドが被害者的プライドって言うんですかね。
私はこんなにひどい目にあっているけれども何とかやっているんですっていうPRのやり方があるんだなって思うんですね。
ちょっとこれでですね、耳が痛いとか、なんか責められている気がしたら申し訳ないんですけど、
そういうことはないんですが、どうしてもこの相談刑ってそういう風に聞こえるような言い方を私がしちゃうこともあると思うんですよね。
それは私の未熟さによるところなのでご容赦いただきたいんですよ。
もっと多分いい言い方があると思うんですよ。
別にこれは非難しているわけでもないんですよ。
何かを変えなきゃいけないってこともないと思うんですよね。
人が何かにアピールポイントを持ったりするのはいろんな理由でありますし、
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そのこと自体も何ら問題になるとは思わないんですよ。
どうしても相談なんで、なんとなく修正したほうがいいんじゃないか、
良くないところがあるんじゃないかみたいな何かしら苦悩があるんならば、
どこか何かを変化させる、何かのパターンを変えるっていうようなことは必要になってくるとは思うんですけど、
それも絶対やらないと人生破滅だみたいな話とは違うと思うんですよね。
そういう場合にはやっぱりカウンセラーみたいな人も強く出ると思うんだけど、
これはそういう話ではないと思うんで、
ある種の分析はあんまり考えてこなかっただけに興味深いぐらいに思っていただければ、
私はそういうふうに倉澤さんの話を聞いてたんですよ。
ここで罪悪感って面白いんですよね。
後から聞くと当然そういう文脈だよなって思ったんですけど、
ジャッジなんですよね。
つまり正しさと罪悪感ってセットなんですよね。
法律って正しいことですよ。裁判官も正しく判断するわけですよね。
それができるかどうかとか法が完璧かどうかって話ではなくて、
そういうものとしてジャッジするんじゃなければ誰も受け入れないと思うんですね。
結局この話がなぜ出てきたのかというと、
アピールポイントと理不尽な被害をこむってますが、
なぜ両立するのかと。
私がいつもこの種の話を聞いたときに、
まっすぐに興味を持つのはそれなんですね。
多いんですよ、こういう話は。
大学とかでも雑務は私が全部引き受けさせられている。
そこにですね、まったく理不尽で納得がいかないというのと同時に、
でも私はそれをやり切って見せているんだというのが同時に来るんですよね。
その感じがあるんですよ。
毎週毎日、毎週毎日、
毎月やっていたタスクカフェでも1回は聞く話でしたね。
私のところにそういう半端仕事がどんどん混んできて、
そういうのを毎日やっているんです。
橋立夫さんと2人でやっていたタスクカフェなので、
お疲れ様ですってまずは言って、
なんかこういろいろライフハック的にですね、
雑務をまず果たすのか、自分の仕事を先にやるのか、
そういうものがどんどん舞い込んで来ないようにできる手はないかとか、
一緒に考えていくとかやっていたんですけど、
同時にいつも感じていたのが、
当時はグッドヴァイブスでやっていたわけではないので、
そういうふうに、
流れをタスク的に把握しては、
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自分が理不尽をこむらないようにして、
かつ評価も落とさないようにする方法があって、
評価も落とさないようにする方法を考えるみたいな感じだったんですけど、
同時に私はどうしても感じていたのが、
そこに何かアイデンティティの証明みたいなものがあるとすれば、
それを失ってしまうのもどうかと思うし、
でもやっぱり3倍も4倍も雑務ばっかりさせられるというのが
面白くないというのもそうだろうし、
どの辺とかいう考え方を当時はしていたんですけどね、
落とし所があるんだろうみたいなのを思っていたんですよ。
で、
罪悪感というキーワードが入ってきてみて、
正しさという話を聞いてみる。
罪悪感といえば正しさなんですけど、
考えてみると、要するにあれは、
要するにそれはというのかな、
社会人としての生きる資格証明書みたいなもの、
なのかなと思ったというか、
そういう観点があるんだなという発見がありました。
つまり、
人の3倍も4倍もなのかな、わからないですけど、
例えば雑務は嫌がらずに全部やるとか、
人の2倍も3倍も働いて、
これも結構私なんかがあまり考えもしなかったのに、
常識だろうという感じがあって、面白かったのが、
言いたいこと山々というブログを書いている山本さんが、
お給料は我慢料なんですという話を、
よくされるし、本とかにも書かれるんですね。
そういうふうに言われてきたんだよという話なんですけどね、
お給料は我慢料なのかと、
つまり我慢したものの対価としてもらうもの、
そうすると我慢が苦痛であればあるほど、
2倍も3倍もそれこそ理不尽に耐えてこそ給料がもらえると、
つまり給料をもらうというのは、
言ってみれば我慢証明書みたいなものじゃないですか、
その文脈では。
そういう捉え方をしたときに、逆に言うと、
給料というのはしかし毎月、
少余が特にあるとかない限りは変わらないわけですよね。
そうすると我慢しているという実感、
これって主観的なものなので、
客観的に我慢測定値とかないわけですから、
我慢や苦痛が少ないと、
そこで罪悪感が生まれ得るということになりますよね。
言いたいこと山々のブログでは、
よく罪悪感というのが盛んに登場するんですけど、
なるほどと少し思ったわけですよ。
私は今月あまり苦しくなかった、申し訳ないということかなと。
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こんなに苦しくないのに24万円は普通に入ってきちゃっている。
もうこのまま行くとクビになるかもしれないみたいな、
この間のすごい飛躍があると思うんですけど、
苦痛量だから、我慢量だから我慢が足りなかったということになるわけですよね。
ならないという人はならないと思うんですけど、
なる人にとってはなる。
そうするとここで私がいつもそうかと思っていたそれが出てくるわけですよ。
私はいっぱい我慢されていて、
これが社会人として生きていていいという資格を、許可証みたいなものなわけだから、
そこをアピールするというのは自然な心理なわけですよ。
でもやっていることは我慢なので、理不尽だと感じるわけですよね。
自然な心理なわけですよ。
でもやっていることは我慢なので、理不尽だと感じるわけですよね。
だからとても理不尽でちょっと苦しいんです。
ただ私はこんなに我慢しているんですよというPRと訴えが同時にやってくるわけですね。
そこには我慢してできている私がいるという、
これが私がよくアイデンティティの何かになっている、
この人のアイデンティティの拠り所は我慢できていて、
人の2倍も出てくるわけですよね。
この人の拠り所は我慢できていて、
人の2倍も3倍も理不尽な目に合わされているというものを
何とか乗り越えている私という、そういうアイデンティティ。
これやっぱりアイデンティティというのが自分でなかなか理解できていなかったのはそのせいで、
これはアイデンティティというよりはライセンスみたいな感じだなと思うんですね。
ライセンスに誇りを持つのは自然じゃないですか。
私も取り損ねましたが、スキーインストラクター2級というライセンスを取っていたら、
2級あるんだよってPRしたくなるでしょう。
そういうのと同じで、私は毎月毎月会社で人の2倍も我慢させられております
というライセンスがPRポイントになると。
一方でそれは我慢を人の2倍も3倍もさせられているんだから当然ストレスですよね。
という訴えなんだなと。
そうすると考えると結構見通しが良くなって、
かつこのようなPRがなぜ自己肯定観の肯定を、
この人は自分を肯定しているんだろうか否定しているんだろうかという問題を考えたときに、
結局多分お給料我慢料というような価値観を受け入れられたということは、
そういう教育をどこかでかなり強く受けた可能性があると思うんですよね。
個人に、でも個人にだろうな。
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私そういう考え方って受け入れる気がしないし、
親がそんなことを言わなかったということが大きいと思うんですけど、
やっぱりお前はダメな人間だというようなメッセージが伝わってこないと、
このようなことは受け入れないと私は思うんですよ。
人の2倍も3倍も努力をしろとか、
人並みに生きていくためには、そうこれですよね、
人並みにやっていくということはですね、
みんな我慢しているんだと、我慢が足りないんだよみたいな、
そういうことを何度かは少なくとも言われないとですね、
受け入れる気にならないと思うんですよね。
一見したところ、ちょっと苦しみに耐えている美徳感もあるけど、
私が経営者だったら、お給料我慢料とかいう社員はあんまり欲しくないと思うんですよ。
やっぱり美徳でも何でもないよね。
私とても苦しいんだからお金くださいって言われても、
経営者だったら嫌じゃないですか。
大組織で揺るぎない組織ならそれでもいいのかもしれないけど、
ベンチャーとかだったら成果も何も言わずにまず我慢したことをPRされても結構困りますよね。
私だったらお給料我慢料ですって言われるのはとても困るなと思うんで、
我慢しないでいいから仕事してくださいと言いたくなってしまうと思うんですよ。
仕事は我慢なんですって言われたら、
そういう社員しか取れないんだなって落ち込みそうじゃないですか。
危機としてやって欲しいとまでは言わなくても、
仕事とは我慢なんですっていうのはどうかと思うんですね。
この辺にありまして、
苦痛を人の2つも3つも引き受けるっていうアイデンティティは、
それができるというときにのみ生きていていいよという許可書みたいなものになるんだとすれば、
当然そこには否定的なものがかなり多く含まれざるを得ないと思うんですね。
なぜならば、さっきも言ったけど、途中も言いましたけど、
人の2倍も3倍もということは、周りの連中は私の半分、3分の1しかできない。
死ぬべきだってなりませんか。
生きていていい許可書がそうやってもらえるのであればですね。
罪悪と言いましたけど、罪悪というものは罰をしばしばセットにしますよね。
正しさなんですけど、正しさは罰するってことがあると思うんですよね。
自分はここまでやってやっと罰をのがれている死刑かな。
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だけど他の連中は、大して我慢もしてないのに、苦痛も会社で得てないふうなのに、
能々と生きているっていう視点がありえそうな気がするんですよね。
それがですね、しばしば自分に適応されちゃうと思うんですよ。
気真面目な人だと特にですね。
私は今回は大して悪くなったわけじゃないのに病気で休んじゃってとか、
有給取っちゃって海外に行って我慢もしてないのに給料もらってしまったとか、
全部ですね、世の中の普通の仕組みと若干ずれがあるので、
お給料我慢料というのは多分僕は全世界共通の常識とかではないと思うので、
まずそもそも私がまるで受け入れてない、私は非常識な人間かもしれませんけど、
そうは言っても多分世の中一般の常識じゃないだろうなって感じがするんですね。
そうするとこの苦痛をどれだけ引き受けているかということを
私たちみんなはそこまでみんなで肯定的に捉えている気がしないので、
当然あんまり苦しんでもいないのに給料もらって平気でいる人はいっぱいいると思うんですね。
その人たちと自分を比較したときに2つあると思う。
1つはですね、いやあいつらは死刑だと、生きる資格はない、
なぜなら我慢もせずに給料をもらっているからっていうストレートに考える。
でもね、だいたいお悩み相談される方はこういう感じじゃないんですね。
違う解釈が出てきて、あの我慢もせずに給料をもらっている人たちは容量がいい。
多分我慢もせずにやるべきポイントだけを抑えておいて上手いことをやっている。
私にはそういう能力が欠けているっていう事故、否定があって、
代わりに自分は馬鹿正直に上手いポイントを見出すとかそういうメタ的なことはあって、
一切できずに、ただただ人がやりたくないようなことばかりを引き受けていて、
なんとか人並みのライセンスをもらっているっていうそういう考え方なんじゃないかなと。
だからここの中に容量とか、人当たりの良さとか、
もう人当たりの良さとは違うんですけど、
実はこういう文脈で見ると正しいんですね。
上司に上手いこと言って楽そうな仕事だけをもらっている。
あるいは会社にとって必要だけれどもそれほど苦痛ではない仕事をスパッと見抜いて、
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まずそこを手掛けていると。
あるいはその人たちにとって、
あるいはコミュニケーションとか。
だから容量、人当たりの良さ、コミュニケーション能力、
その他そのライフハックとかが全部同じ文脈で語られるというのは私は不思議だったんですけど、
こういうことなんだろうなと。
楽をしていて、しかも生きる資格を得ている。
そういう道もあるんだと。
ただ私はそれに気づかないから、
人がやりたくもない、会社の役にも必ずしも立たない、
しかも上司は私のことを好きじゃないから、
雑用みたいな仕事をどんどんどんどん押し付けてくるという、
でもそれをやる自分っていうアイデンティティがある一方、
だから生きてていいと。
代わりに3倍も4倍もやらなければならないということなのかなと。
この通りの図式に全員当てはまるという話ではないですよ。
私がいろんな方の話を聞いているうちに総合的に作り出してきた、
これは一つのモデルケースであります。
何人もの顔が思い浮かんでいます。
やっぱり、自分自身が、
何人もの顔が思い浮かんでいます。
こうやっていろいろ喋ってみて思うのは、
やっぱり大きなイリュージョンですよね。
まず第一、ここの話と発達障害が絡むわけですよ。
発達障害の人が容量が良くないとか、
人当たりが良くないとか、コミュニケーション能力が不足しているとか、
全部、この訴えを病名に直したような感じがあって、
だから私はこれが本当に心理学的にコンセンサスの得られる症状と言えるんだろうかと思うことが多いんですよね。
これはむしろ何か、そういうただフィルターを通しているだけなんじゃないかと思わなくもないという感じですね。
容量が悪いとか、容量が悪いというのは大きなイリュージョンだと思うんですよね。
人が嫌う仕事ばかりを自分がやっているというのは本当なんでしょうか。
半分しかしていないような人は、本当に半分しかしていないんでしょうかね。
かつ、その半分しかしていない人は、全体の苦痛は半分であるにも関わらず、
会社にとって必要な仕事を見抜く能力とかが本当にあるからそうできているんですか。
いろいろあるんですよね。気になるところが。
他にも、人当たりが良ければ上司に気に入られて、
君はこの苦痛の少なそうなかつ見入りの多そうな仕事をやってもらおうって、
本当にそういう風に上司の人はそもそもそんなこと可能なんだろうかと。
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私はこういう話をですね、頻繁に実際に聞いていて、
そういうことを訴える人っていうのは実に多いんですよね。
でも、世の中に本当にそういう風な区分って可能なんだろうかと。
それも、そのようなことを可能にすることを、
コミュニケーション能力になるもので実現するものなのでしょうかね。
それは私には非常に不思議な話に聞こえるんですよ。
フリーランスやっていると思うんですけど、
そういうことにこだわっていたら、フリーランスって到底やっていけないと思うんですね。
倉園慶三さんでも、大橋立夫さんでも、その他の方でもあるんですけど、私の仕事の中で。
これは果たして雑用でどうでもいい仕事なのか、
それとも私にとって最終的に大きな見入りをもたらす仕事なのかって、
それをですね、なんか嗅覚とかって言うんですよね、言う人は。
嗅覚で見抜けないと思うんですよ、全然。
そういう風になっている仕事ってないと思うんで、
売れる本と売れない本みたいな言い方、本の話になりますけどね、私の仕事だと。
こういうことですよね、嗅覚がいい人は売れる本に注力して、
売れる本を売ることにエネルギーを注ぐと。
でもですね、これよく話すんですけれども、私の一番売れた本は黄色い本でした。
黄色い本だっていうのは非常に大事なんですよ。
あの時ですね、私は他の要素がいっぱいありましたが、
間違いなく一つ言えることが、なぜか当時その本が並んだその日には青い本が多かったんですよ。
あの当時の流行りだったんです。
青地に白という、夏の空みたいな、そういういい感じじゃないですか。
だけれども、青地に白、白地に青みたいなのがワーッと並んだところに黄色がボンと来る。
大事なんですよ、こういうことは。
だけど、それを嗅覚とかでやれるのかと。
本出る日にちというのが厳密に何ヶ月も前からピンポイントで決めることはできないし、
ましてやですよ、その本が出た時に周りの本の色が青と白で埋め尽くされるという予測ができる。
そんなことできないわけですよ。
他の本もそういうことを考えているから、相対的に決まる部分が大きいですからね。
で、黄色に、黄色い色で印刷してしまったら、もう周りが全部黄色になったって変えられないじゃないですか、急には。
でも黄色い本が出たわけですよね。
当時先送りというテーマがまた、ちょうどエアポケットみたいにですね、先送りというテーマはいつでも売れるんだけど、
ふっとそのテーマじゃないテーマが流行る時があるわけですよね。
みんな流行りを言いますからね、やっぱり。
例えばお金の話が大事な時はお金の方の本が流星を誇るわけですよね。
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で、先送りがなんとなく一瞬なぎみたいになかった時に、黄色い先送りの本が青い本の中ではっと入る。
あらゆる本屋さんではないですよ。
でも私の本が最初に置かれる、例えば秋葉原の書泉とか、
意外と有林堂さんとか渋谷の慶文堂さんとかではっと入った時に、
人非常に目立ったと、私も目にしたんですよ。
なるほど、なんかよくわかんないんだけど、いい感じにやたら目立ったと。
で、みんななんとなく手に取るという現象が起こるんですよね。
私に当時知名度があったわけでもないし、テレビに出てたわけでもないし、
平沖にいっぱいしてくれる書店さんのコネがあったわけでもなんでもないんですよね。
全部偶然なんですよ。
で、ラノベのタイトルみたいに長いタイトルっていうのもちょっと走りだったんですよね。
私今でも思い出せないですよ。
いつも先送りにしてしまう人がすぐやる人になる50の方法みたいなタイトルって多分正確じゃないんですよね。
とにかく50の方法っていう50個なんてやたら多いのも、
当時からない発見はあったんだけれども、やっぱりタイミングは良かったんですよね。
50という数字も多分良かったんでしょうね。
でも、言ってみれば全部イリュージョンですよね。
これを9画でやれとか言っている人は本当は何を言ってるんだろうと思うんですよね。
偶然と偶然と偶然と偶然が4条ぐらいになればいい結果になることはあります。
それはでも要はたまたまルーレットで1にかけてみたら1が出たというのと多分同じことだと思うんですよね。
本の中身をどうするかというのは大事ですよ。
でもそれは人為的な努力じゃないですか。
原則的には偶然と偶然と偶然と偶然が重なって名分をかけますというわけにはいかないんですが、
それがビジネスとして大成功を収めるかどうかとなってくると、
多分偶然の4条みたいな世界がやれることはありますけどね。
プッシュいっぱいするとか、それこそお金さえあれば毎日のように新聞広告と同じ柄のツリカー広告を山手線の全車両に入れるとかすれば
間違いなく少なくとも何もしない本よりは絶対売れるんですけれども、
そういうことは特殊な事情がない限りはできないので、
毎日三谷屋さんに行って喋るとかすればそれは売れますけれども、
それも無理じゃないですか。
そしてやっぱり普通に考えると売れている本の少なくとも相当数は非常に不思議な偶然がいっぱい被ってできるわけですよね。
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話が違う方向にいったのでまた後日にしようと思うんですけど、
要するにという良い仕事をやれる容量の良い人と
コミュニケーション能力と人当たり能力と容量が良くないから雑務ばっかりやらされる人というふうには僕は分かれるはずがないと思うんですね。
そんな能力で言うならば私はその種の容量もコミュニケーション能力も全然ないですね。
だから雑務ばっかりやっていることになるはずなんですけど、
それはまた別の話のような気がするんですよね。
フリーランスなんで雑務は当然ありとあらゆる雑務も全部やらなきゃいけないわけですよね。
そこに自分の中で雑務8対3入りのクリエイティブな仕事2とかそういう風評計算をしても意味ないと思うんですよ。
例えば私の仕事のパートナーである大橋栄総さんは、例えば税理計算とかそういうのが非常に得意なんですね。
好きかどうかは究極的には分からないけど得意ですよね。
あれは雑務なのかクリエイティブな仕事なのかと。
彼はそれをベースにして今は知りませんけれども、
フリーランスの人のために毎日無理なく税理計算するみたいなので、
結構セミナーとかされてましたけど、ああなるとクリエイティブって人は言うじゃないですか。
つまりそれはどっちなんだって話になると思うんですよ。
私はなると思うんですよね。私にとってあれは雑務ですよね、完全に。
別にそれでセミナーとかやる気はないですし、好きでも得意でもないです。
やってはいるけれど。
それは容量が悪いからあれをやらされてるってわけでは決してないんですよ。
フリーランスは人に頼むことができるんでないけれど、
つまり金がいっぱいあるわけじゃないならば、
全部自分でやるしかないわけなんですよね。
この辺もそうで、つまり結局それは容量の問題じゃないような気もするわけです。
というあたりか、その罪悪感からずいぶん遠くまで来ちゃいましたけど、
でもやっぱりこの私は罪悪感というキーワードから、
これは言ってみれば、これも架空の世界ですが、
生きていていいというライセンスみたいなもの、
少なくとも社会人としてそこにいていいライセンスみたいなものとして
捉えられているんだということを知ったという機能ですね。
そんなことがあったわけです。
で、どうしようかって考え中というところです。
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